「遥か遠い明日になっても」



翡翠色の煌めき?

ふわふわと、ふわふわと、仄かな明かりが漂い燈る。夜の帳の眼下には、淡く光る碧蛍の海。

其はまさに夏の夜の夢とも形容できる幻想的な光景。

役者は二人。青年と少女。

役者は二人きり。観客はいない。

否。無言で見下ろすは、静謐無音たる悠久の星空。

無数に浮かぶ碧に映える少女の肌は、繊細な硝子細工のような透き通るほどの白みを帯び、その双眸は真紅に凝結した紅玉の輝き。

さらさらと夜風に揺れる、驚くほど色素の薄い、灰色とも白銀ともとれるボブカット状の綺麗に整った髪。

少女の名は月代彩。

既に涙の粒が溜まった赤い瞳を青年に向け、彼女は唇を開いた。

そこから紡がれるは、落ち着いた、しかし暖かみのある声。

それがほんの数日前までは冷たく凍りついていたと誰が信じるであろうか。

「――思い出してください……真さんを待っている人がいることを」

「……!」

青年――丘野真の脳裏に、ハーモニカを手にした幼馴染みの姿が浮かぶ。

それはいつの日か交わした、約束という名の想い。

遠く離れていても、風に乗って、どこまでも届く――――

「……残念だけど、いくらそれが彩ちゃんの望みだとしても、聞くことはできない」

しかし、それが彼の答だった。

脳裏にある存在を振り切って、否定の意思をもって、首を左右に振る。

少女――彩の両目が驚きに見開かれた。

これは、わがままだ。そう、月代彩のわがままに対する、丘野真自身のわがままだ。

この三日間、結局何も出来なかった。彩を救うと決めたのに、万策も尽かせずに、この瞬間を迎えてしまった自身への怠惰と憤り。

例えば、歩きなれた道がある。幼い頃からずっと通ってきた路がある。

しかし、一度も足を踏み入れなかったところも沢山ある。

例えば細い脇道。例えば通学路から離れた幾つもの角。数え上げればきりがない。

どこからだって、物語が始まったかも知れないではないか。

つまりはそうだ。

独りぼっちで千年を生きてきた彼女を救うために、もっともっと色々と方法を探せた筈だ。調べられた筈だ。いくらだって足掻けた筈なのだ。

だが、三日という時間の中で得たものはたったひとつ。

それは、自分が本当に彩のことを好きになったという心の確信。

その想いを言葉にするならば、それは――――恋心。

「俺は彩ちゃんをずっと待ち続ける……それが、俺のわがままだ」

「真さん……」

彩はそれ以上、言葉を発せられなかった。否定も、肯定も口に出来ないほど、眼前の青年の、鳶色の双眸は強い意志の光を湛えていたからだ。

すうっと閉じた少女の瞳から、透明な涙の雫が頬を伝う。

真は優しく両手を彩の肩に置くと、そっと顔を近づけて、唇と唇を重ね合わせた。

ただ触れ合うだけの、純粋な口付け。

それでも、胸の奥底まで、心の脈動が伝わるような気がした。涙雨に濡れた彩の表情は緩やかな微笑みに変わる。

ざあっと、風が通り抜けた。

碧蛍の海に包まれた身体が淡白く発光を始め、

次の瞬間――少女は光の粒子となって真の前から消えた。

「…………っ」

ひとりきりとなった役者の絶叫が夜空に哀しく溶けた――――


窓から漏れる僅かな星の煌めきだけが、薄暗い室内を照らし出す。

ソファに腰を埋めて、放心したように青年は俯いていた。

ひそかな息づかい。ソファの後ろから漏れる、品のいい香水のような清涼とした香り。

幼馴染みの少女の腕が、青年――真の首に優しく絡められる。肩にかかるツインテールの片割れ。

そう、鳴風みなも――約束の少女だ。

「……でも、わたしだって、ずっとまこちゃんのことを想ってたんだよ・・・・・・まこちゃんのことが好きなんだよ?」

眼を伏せたまま、深く、静かに、そう告げる。腕を通じて伝わる少女の真摯な気持ち。

だからこそ、中途半端な心で返すわけにはいかない。

すっくとソファから立ち上がると、真は真剣な眼差しを向ける。

「まこちゃん……?」

若干、きょとんとしながら、みなもも上体を起こす。視線はベストな位置で交錯した。

「悪いけど、俺は、彩ちゃんを待ち続けるって決めたんだ」

搾るような声音で、しかし少女をしっかりと見据えて、そう言った。

愕然とした感の、みなもの唇から息を飲む気配が聞こえた。

静寂。

刻さえ凍り付きそうな空気が室内を支配する。

やがて、じんわりと汗の珠が額に結び始めたころ、みなもの声が凍り付いた空気を溶かして、振動を通じて真の耳に流れ込んできた。

「彩ちゃんが戻ってくるって確証はどこにもないんだよ……ううん、戻ってこない可能性の方がずっと高いと思う。それでも、待つの?」

――それでも?

みなもの言うとおり、ひどく薄い可能性。

たとえるなら、雲の階段を歩くようなものだろう。

みなもの想いを受け止めるべきなのかも知れない。

その方が間違いなく未来に向けて歩き出せることだろう。

それは彩の望みでもあるはずなのだから。

それでも、待ち続けるのか?

――それでも?

「――――それでも、だ」

そう。

「俺は彩ちゃんが好きだから。だから……みなもの気持ちには応えることができない」

はっきりと、自分の想いを言葉に乗せた。

それは言葉として口に出さなければ伝わらない事だから。

「……っ! ひどいよ……ひどいよ、まこちゃん……わたし、ずっとまこちゃんのこと待ってたのに、ずっと想い続けてきたのに……それなのに、そんな、ひどいよっ!」

震える声で心情を吐露するみなも。堰を切った涙が、ぽたぽたと零れ落ちる。

激しい慟哭と嗚咽を交えながら、みなもの両手は青年の胸倉にかかる。

真はただ、両目を閉じて、きたるべき衝撃を待った。

だが、数瞬経って届いたのは、頬に来る痛みではなく、唇に触れる温かい感触であった。

驚きのあまり真が目を開いたときには、ぬくもりは遠ざかっていた。

「……」

無言で何かを訴え掛けるように視線を合わせたみなもだったが、ぐっと唇を噛み締めると、踵を返して駆け去っていった。

急激にひっそりと静まり返った薄闇の中で立ち尽くす真。その表情はよく分からない。

「みなも……」

ただひとことの呟きが、虚しく闇に吸い込まれていった――




じんわりと肌に届く夏の日差しの下、真の姿は例の神社にあった。

大木の前でぼんやりと佇む。

「あれから、もう一年か……」

彩が消えてから、一年が経過した。

力という存在が無くなり、永い夢から覚めた街。何事もなく平穏に過ぎていく日々。

しかし、真の時間はあの日から停止したままだった。

現実に止まっているわけではない。言うなれば、心の時間だ。

皆が明日に向けて歩み続けているのに、彼の時間だけはあの日に置き去りになったまま。

僅か一年の刻の止場が、これだけ辛いということを、実感した。

そして、あの少女は千年という途方も無いそれを過ごしてきたのだ。

「あんなに決意しておいて、たった一年でこれだ……このままじゃ俺は彩ちゃんのこと忘れるかもしれないぞ……心配じゃないのか?」

空を見上げ、誰にともなく呟いたときだった。

「大丈夫ですよ――真さんは優しい人ですから」

「……」

それは、あまりにも、拍子抜けするくらい、突然で唐突だった。

そしてそれは、凍った時間を溶かす響き。

今すぐにでも振り向きたい気持ちを堪え、真は平淡と返す。

「こんなこと言うのも何だけど、一年後に邂逅なんて、ちょっとご都合主義が過ぎるんじゃないか?」

「そうかもしれませんね。もっと遅い方がよかったですか?」

「いや、情けないことにもう限界」

平静を装う声も、高鳴る動悸によって浸食されていく。

「ご都合主義ついでにもうひとつ。どうして助かったのか、教えてくれないかな」

「この一年間で『風』は大きく成長しました。私の存在が不要となるくらいに――」

「つまり、要らなくなったから捨てられたと」

「……真さん、少し、意地悪ですね」

さっき「優しい人」と言ったばかりの声は不愉快そうだが、怒りの色は燈っていなかった。

いつの間にか辺りは碧蛍の海に覆われていた。

「じゃあ、彩ちゃんの不老の楔も解き放たれたってことで理解してもいいわけだ」

「そうですね。でも正確には、私の壊れた時計の針は、あなたが私の想いに応えてくれたあのときから、既に動き始めていたんですよ?」

最早、我慢することはできなかった。いや、その必要もなかった。

振り向いた真の視線の先、夢でも幻でもなく、ずっと待ち続けていた少女の姿が、今そこにあった。

「おかえり」

「ただいま」

ゆきのかなたとも、可能性の粒子ともとれる、淡く輝く碧蛍の海の中、真と彩は強く抱き合った――――




季節は紅葉の映える秋へと流れた。風音市の片隅に、ひとつの小さな雑貨屋が物憂げに咲き誇る。

その季節に最も相応しき「九月堂」という名の花が。

育て主は「丘野真」と「月代彩」に他ならない。

そして、変わらずシックで落ち着いた内装の店内に訪れた少女の姿を映して、彩の「いらっしゃいませ」のアクセントが僅かに崩れた。

「こんにちは。まこちゃん、彩ちゃん」

爽やかな笑顔を風に乗せて現われたのは鳴風みなもであった。

「みなも……」

「……みなもさん」

真と彩の微妙にテンポのずれたハーモニーが店内を彩った。それはまるで不協和音のように。

ぽつねんと流れる時間。再び刻の止場が巡りくるか。

しかしそれは一瞬だった。

止場の根絶。

それを選んだのは鳴風みなも。

それを望んだのも鳴風みなも。

風は動の性質をもつもの。なにものにも捕われることなく、そこを通り過ぎてゆくもの。

それは彼女だから、彼女であればこその清爽。

みなもの耀けるふたつの翡翠は、笑みを湛えて、彩の澄み渡るふたつの紅玉と重なり合った。

「彩ちゃん。まこちゃんのこと、頼んだよ」

「……」

笑顔のみなも。

無表情の彩。

そして――

「……ありがとう、ございます」

その声に強い風の想いを乗せて、彩は首肯した。

はい、ではなく、ありがとう。

月代彩という少女の、精一杯の言葉。精一杯の笑顔。

「うん。それとね、もうひとつ」

みなもが背後からそっと、両の手を彩の首に這わせる。

少しくすぐったいように頬を染める彩。次の瞬間、それは悲鳴へと変わった。

「えいえいえいえいえいえいえいえいえいえいえいっ!」

「うぐ!? み、みなもさ……うぐぐーーーーーっ!!」

みなものチョークスリーパーが綺麗に炸裂。

突然のことに彩は「ギブ! ギブ!」と白目を剥きながら助けを求めるが、ガッチリ決まった裸絞めはどんなに暴れても外れなかった。

「お、おいおい」

すっかり放置状態だった真が、ハッとして止めに入る。するとみなもはアッサリと手を離して真に向き直った。

解放された彩は「ゴホゴホッ」と咳込んで壁にもたれかかる。

「気にしないで。ただの強襲だよ♪」

「強襲って……たこやきじゃないんだからな」

「彩ちゃんと幸せにならなかったら、本当に強襲だからね」

「えっ」

不意を突かれ、面食らう真。見上げるみなもの表情は、怒っているようであり、哀しんでいるようであり、笑っているようにも見えた。

「ああ」

少しバツが悪そうに、それでも真は強い意志を言葉に篭めて頷いた。

その眼前に、細い小指が浮かび上がる。

「約束、しよ?」

「……いや、俺は」

自らのエゴでみなもとの約束を破った自分に、再び約束を交わせる道理などあるはずがない。

だがそんな真の気持ちは見抜かれていたようだ。

みなもは「彩ちゃんも」と言って、一息ついていた少女の手を掴んで引っ張り寄せた。

自然と小さなトライアングルが出来上がることになる。

「三人でなら、大丈夫だよ」

真が呆気にとられたように息を飲んだ。彩は感心したように微笑を添えた。

「それじゃ、遥か遠い明日になってもこの約束が守られるように――」

差し出される小指。探しつづけてきた、傷ついても壊れないもの。

――――いま、みっつの小指はひとつに絡まった。


ゆっくりと、穏やかに進み始める時間。

それぞれの未来へ――



(了)