空は晴れ、柔らかな陽射しが降り注ぐ朝。
冷たく澄んだ空気は心地よく、偶に聞こえる小鳥の囀りが耳を楽しませてくれる。
そんなありふれた冬の朝を楽しみながら、人気の無い住宅街を天野と二人でのんびり歩いていく。
「あの、相沢さん」
特に会話も無いまま歩いて住宅街を抜け、商店街に差し掛かった頃、天野が尋ねてきた。
「ん?」
「いえ、この辺りは商店街みたいですけれど……」
「そうだな」
天野の言葉に頷き、続きを促す。
「目的地というのは、お店なのですか?」
「ああ」
これまた短く肯定の返事を返す。
すると天野は、可愛らしく小首を傾げながら言った。
「こんな朝早くから開いているのですか?」
「ふむ」
現在時刻は午前八時四十分。
確かにこんな時間から開店している店は少ないだろう。
天野の疑問ももっともだと言えた。
「ま、普通は開いてないし、これから行く店もやっぱり開いてないな」
「でしたら、何故こんなに早くから?」
天野が質問を重ねる。
俺はニヤリと笑い答えた。
「何度も言うが、着いてからのお楽しみ……っと、言ってる間に見えてきたな」
「え?」
「ほら、あの店だ」
数百メートル先に見えてきた、落ち着いた感じの店を指差して言う。
「喫茶店、ですか?」
「ああ、喫茶『S.b.M.』。俺の行きつけの店だよ」
喫茶『S.b.M.』、正式な店名は、喫茶『Stand by Me』。
この街で、いや、日本で、いやいや、世界で一番コーヒーが美味い(と、俺は思っている)喫茶店だ。
それが本日の目的地・其の壱の名前だった。
晴れた空に、願いよ届けと
第三話 冬の朝、想いと覚悟を心に刻んで ―――懐かしい声に、背中押されて
「あの、相沢さん……やはりまだ開いていないようですけど」
入り口のドアにぶら下がっている『Closed』のプレートを見た天野が、至極当然の言葉を口にした。
因みにドアの脇にある立て看板には、店名と一緒に『営業時間 10:00 〜 18:00』と刻まれている。
「大丈夫だ、この時間ならもう仕込みをやってるし」
「いえ、そうだとしても開店していないならドアに鍵がかかってるのは?」
またもや至極当然の言葉。
だがその言葉を聞いた俺はニヤリと笑い、おもむろにポケットからあるものを取り出した。
「ふっふっふ、それが大丈夫なのだよ、天野クン。私にはコレがあるからね」
「鍵、ですか……?」
「そう、このドアを開くための鍵だ」
「どうしてそんなものを」
三度、至極当然な言葉。
まあ普通、幾ら行きつけだからといって店の鍵など持っているはずが無い。
「ま、その辺の話はまた後でな。とりあえず中に入ろうぜ?」
「え、あ、はい……」
何時までも店の前に立っていても時間の無駄なので、天野を促して中に入ることにする。
カランカラン。
鍵を開け、ドアを開くとカウベルが小気味の良い音で鳴った。
「うぃーっす、マスター。朝早くからお邪魔します」
仕込みをしているマスターに声をかけながら、天野と二人並んでカウンター席に腰掛ける。
ちらりとこちらを見たマスターが、いつも通り愛想のない口調で答える。
「ん、祐一か。開店前に来るのは久しぶりだな。何かあったか?」
「はは、ま、そんなとこです。あ、とりあえずブレンド二つ、お願いできますか?」
「わかった。モーニングはどうする?」
「あ、ウチで食ってきたんで、今日はいらないです」
「そうか。ちょっと待ってろ」
そう言ってマスターは、手際よくコーヒーを淹れる。
一切無駄の無いスマートな動きは、何度見ても驚嘆させられるものだ。
天野はまるで、よく出来た手品でも見ているかのような顔でマスターの作業を見つめている。
「ほら、待たせたな」
そんな言葉と共に無造作に差し出されるコーヒー。
コーヒーのいい香りが鼻腔をくすぐる。
「どもです」
「ありがとうございます」
「熱いうちに飲めよ」
それだけ言って仕込みに戻るマスター。
あまりにいつも通りなその様子に苦笑しながら、ゆっくりとコーヒーを含む。
「熱ッ!」
「天野? 大丈夫か?」
緊張していたのか、どうやら慌てて口をつけてしまったらしい。
天野は少し涙目になって、口の所を押さえていた。
「マス……」
「ほれ」
マスターを呼ぼうとした所で、小さめの氷が入ったグラスを差し出された。
「口に含め。それで楽になるだろう。全く、熱いうちに飲めとはいったが、慌てる奴があるか」
「俺は初対面の相手にあんな言い方するマスターが悪いと思うけど?」
「五月蠅い、小僧」
バツが悪かったのか、顔を背けたまま吐き捨てるように言うマスター。
「くくっ」
珍しい表情を見れた俺は、笑いを堪えるのに必死だった。
「ちっ」
結局マスターは舌打ちを一つしただけで、仕込みに戻っていった。
これ以上追及してしっぺ返しを喰らうのも嫌だったので、天野の様子を見ることにする。
「さて、天野。改めて聞くが大丈夫か?」
「は、はい。とりあえず、落ち着きました」
「ん、そりゃ良かった。慌てずにゆっくり味わって飲むべきだよ、ここのコーヒーはな」
「……はい」
そう言って一口、またコーヒーを飲む。
やはり美味い。
マスターに教わって、俺のコーヒーを淹れる腕も随分上がったつもりではいるが、それでもまだまだ及ばない。
「……美味しい。それに、凄くいい香りです」
今度は天野も落ち着いて、ゆっくりと味を楽しんでいるようだ。
どうやら天野も気に入ったらしい。
口元にはうっすらと笑みも浮かんでいる。
そんな天野を見ながらコーヒーを楽しんでいると、天野がふと顔を上げてこちらを向いた。
「あの、相沢さん、この味は……?」
「ああ、やっぱりわかるか。一応、マスターは俺のコーヒーと料理の師匠だからな」
「そうなんですか?」
「おう」
「不肖の弟子だがな」
頷いた所に降りかかるマスターの辛辣な言葉。
にゃろう、さっきの仕返しのつもりかよ。
全く、大人気ない……まぁ、俺も人のことは言えないが。
「すいませんね、出来が悪くて」
「全くだ。南空(みそら)の方がまだ覚えが早いぞ?」
「ち、この親馬鹿が」
「ふ、なんとでも言え」
流石に年の功は伊達ではなく、舌戦では明らかに俺のほうが分が悪い。
こんなじゃれあいはしょっちゅうだが、俺が勝つことなんて滅多に無いのだ。
「さ、て。それじゃ話を聞こうか?」
そうこうしている内に俺も天野もコーヒーを飲み終える。
ちょうどマスターも仕込みを終えたのか、カップに自分の分のコーヒーを注ぎながらカウンターの内側のスツールに腰掛けた。
「ほれ、お代わりは自分で注ぎな」
「うぃ、天野もいるよな?」
「あ、はい。頂きます」
全員にコーヒーが行き渡った所で、皆揃ってコーヒーを含み一息つく。
「先ずはその子の紹介をしてくれるか?」
「そうですね、コイツの名前は天野 美汐。俺の高校の後輩です」
「初めまして、天野 美汐です」
「ん、なかなか礼儀正しいお嬢さんだな」
「で、天野。この人はこの店のマスターで星観 敬司さん。さっきも言ったが、俺の料理の師匠でもある」
「ま、気軽にマスターとでも呼んでくれればいい」
「あ、はい。よろしくお願いします」
「こちらこそよろしく」
「で? とりあえずこうして連れてきたってことは、天野君がらみの厄介ごとであろうとだけは想像がつくが」
「はい、実はですね……」
そうしてマスターに、昨夜のことをかいつまんで話す。
「ふむ……卒業したら即結婚、か。難儀なことで」
「……」
天野は無言で俯く。
「それで?」
「ええ、とにかく天野は納得してないみたいですし、遠い所からわざわざ俺を頼って来たんですから」
「何とかしてやりたい、か?」
「はい」
マスターの問いかけに即答する。
「やれやれ、だな。祐一、お前は何様のつもりだ?」
「なっ……!」
「静かにしろ。今何時だと思ってる」
「……っ!!」
マスターに窘められ、唇を噛み締めるようにして口を閉ざす。
「ふん、何か言いたそうな顔だな?」
「当たり前でしょう……!」
「ま、力になってやりたいって気持ちは解らんでもない」
「だったらっ!」
「落ち着け、大声を出すな。それに話はまだ途中だ、黙って聞け」
「……」
苛立つ気持ちを、コーヒーを飲むことで無理やり落ち着けようとする。
俺好みのはずのブレンド味が、まるで泥水のように感じられた。
天野は俺の隣で、不安げな眼差しを見せている。
「それじゃ、続けるがな。そもそも、だ。幾ら彼女自身が納得していないとは言え、お前にその結婚を否定する権利はあるのか?」
「……っ、それは」
「大体、その結婚は不幸になると決まっているのか? 見合い結婚でも幸せになっている夫婦なんぞ腐るほど居るだろう。
それに会ってみれば、意気投合できるかもしれない。見合い相手はこれ以上ない位の好青年かもしれないんだぞ?」
正論だ。
嫌になる位、当たり前のこと。
確かに、天野の家族でもなんでもない、ただの先輩に過ぎない俺が口を挟むような問題じゃないんだ。
そんなことは解っている。
認めたくはなかったけれど、頭では理解しているんだ。
「お前の行動の結果、彼女が幸せになれる可能性が消えてしまうかもしれない。違うか?」
「違い……ません」
悔しい。
悔しいが、言い返すことが出来ない。
「それに、もしもその縁談を潰したとして、お前は失われた可能性以上に彼女を幸せにしてやることが出来るのか? それを保証できるか?」
「……」
黙って唇をかみ締める。
そんなもの、保証できるはずもない。
俺は何の力も持っていない、ただの学生だ。
「解ってる様だが、あえて言うぞ?
お前はただの大学生だ。バイトで自分の生活費を稼いでるとは言え、学費は親の脛をかじっているんだろう?
独り立ちも出来ていないお前に、何が出来る?」
マスターの言葉が、重く心に圧し掛かる。
解りきったことを改めて指摘されて、反論の一つも言うことが出来ずに、ただ反発だけを覚える。
「そして、何より。お前は、お前の行動が引き起こす結果に責任をもてるのか?
責任を取るだけの覚悟があるのか?」
言いたいことは言い切ったのか、それきりマスターは口を閉ざす。
辺りを重苦しい静寂が包む。
「あの、相沢さん。もう、結構で……」
「解っては、います。頭では、理解しているんです」
沈黙に耐え切れなくなったのか、諦めの表情を浮かべながら口を開いた天野の言葉を遮り、言う。
「……相沢さん」
「マスターの言ってる事は、正論です。認めたくなんかないけど、それは解ってるんです。それでも」
「それでも心は、感情では割り切れない、か?」
「はい」
「ま、そりゃそうだろうな。頭で正しいと理解してるだけで話が済むなら、そもそも悩んでないだろう」
「……はい」
「だが、それでどうする。解っているが認めたくない。それだけじゃあ駄々っ子と何も変わらんぞ?」
一度、天野の顔を見る。
目を瞑り、深呼吸を一つ。
俺は、どうするべきなのか。
どうしたいのか。
自分の心に問いかける。
―――リン。
澄んだ鈴の音が、聞こえた気がした。
懐かしい誰かに、発破をかけられた気がした。
そうして、俺は、俺なりの答えを見つけた気がした。
いや、そうじゃない。
“アイツ”に教えてもらったんだ。
答えなんて初めから決まってるんだろうって。
だったら後は、それを言葉にするだけでいい。
この場で言葉にすることで、その決意を宣誓する。
誰がなんと言おうが知ったことか。
俺は、大切な友人達のために、出来ることをやるだけだ。
「俺は……」
「お前は?」
「俺は……俺は、幸せを保証するとか、結果に責任をとるとか……そんな大それたことは、何一つ言えません。
マスターが言った様に、何の力も持ってない、ただの大学生ですから。
何もかも駄目にしてしまうかもしれない。上手く行こうが行くまいが、多くの人にきっと迷惑をかけてしまう。
でも。それでも、このまま何もしないなんて、無理です。そんなことは、出来ません。
何もしないまま、後悔はしたくないです。何も出来ないまま終わって、ただ無様に嘆くのなんて嫌です。
己の無力を免罪符に、諦めるのは絶対にゴメンです」
ゆっくりと、想いを言葉にする。
そうだ、あんな絶望感なんてもう味わいたくない。
たとえエゴだと言われようと、この意志を貫く。
顔を上げ、マスターの目を正面から睨みつけるように見つめる。
「それで?」
「だから、やれるだけのことを、やろうと思う。天野が笑っていられるように、全力を尽くす。
けっして途中で投げ出さず、どんな結末になろうと、最後まで天野の味方でいることを誓う。
その結果、俺自身がどんな不利益を被ろうと構わない。
誰かに迷惑をかけたなら、誠心誠意謝る。誰かを傷付けたなら、全力で償う。
それが、それだけが、今の俺に出来る覚悟だ」
それに、途中で投げ出したりしたら“アイツ”にあわせる顔が無いしな。
言葉には出さず、そう胸の内で呟く。
「やれやれ、ガキの理屈だな」
「解ってますよ。自分がどれだけ無茶で馬鹿なことを言ってるかくらいは」
「だが、何を言っても考えを変えるつもりは無いんだろう?」
「勿論」
「全く、やれやれ……だな」
マスターは苦笑して、肩をすくめる。
正に処置なし、といった雰囲気か。
「さて、それなら今度は肝心の天野君の気持ちを確かめるとしようか」
「え、あの……?」
「ああ、そんなに身構えなくてもいい。別に問い詰める気も必要もないからな」
「は、はい……」
返事をしたものの、俺が散々やり込められているのを見ていたためか、天野は完全に萎縮してしまっている。
マスターはまたも苦笑しながら、天野の目を見ながらゆっくりと話し始めた。
「さて、祐一がどうするつもりか、足りてないコイツは具体的なことは何一つ言いはしなかったが、とりあえず行動指針めいたものは出したわけだ」
「はい……」
「足りてないは余計だ」
マスターの言葉に小声で文句を言う。
「黙ってろ。今はお前が口を挟む場面じゃない」
「……」
どうやら聞こえていたらしい。
この地獄耳【デビルイヤー】め。
今度は心の中で呟いたが、思いっきり睨まれた。
アンタはエスパーか。
「ったく、余計な茶々がはいったが、改めて聞こう。祐一が言ったガキの理屈を聞いた上で、君はこれからどうしたいと思う?」
「私は……今は、とにかく落ち着いて考えたいです。そして、それが出来る環境と、時間が欲しいです」
「つまり、現時点では帰る気は無い、と?」
「……はい」
「成る程、ね」
「我侭だと思います。けれど、例え結婚することになっても、せめて気持ちの整理をつけて納得した上で、そうでなければ嫌です。
私も、相沢さんが仰ったように、何もしないままただ流されて、後悔するのは嫌ですから」
天野が言い切った。
不安は決して拭い去れていないが、それでも強い意思を込めた瞳でマスターを見る。
「……時に天野君、君は料理は出来るかい?」
「え? あ、はい、それなりにできるとは思いますけれど……」
しばらくの沈黙の後、大きく息を吐いたマスターが唐突にそんな事を尋ねた。
どうやらマスターも協力してくれる気になったらしい。
「実は最近、店の人手が足りなくなってきてね。娘が居るときなら手伝ってくれてるんだが、昼間は学校だ。
ランチタイムなんかは正直手が回りきらなくなってきてる。まぁ、嬉しい悲鳴という奴だ」
「はぁ……」
どうやら天野はまだ状況を掴めていないらしい。
「そういう訳で、住み込みのバイトを募集している。もし料理が出来るのなら、雇われてみないか?」
「……え、ええっ!?」
結論まで聞いて、ようやく何を言われているか理解したらしい天野が驚きの声を上げる。
「え、あの、その、お誘いは嬉しいですけど、私なんかで宜しいんですか!?」
「もともと祐一が君をここに連れてきたのも、これからの相談よりもバイト募集のことを覚えていたからだろうからな」
「その通りです」
「あの、でも、住み込みというのは……?」
「ああ、さっきも少し話に出したが、ウチには中学二年になる娘が一人居てね。
私の家内は、年中忙しくあちらこちらを飛び回っているし、私も夜は翌日分の仕込みや事務仕事があるからあまり構ってやれない。
それに情けない話だが、娘の話についていけないこともしばしばある。
そこで、部屋も余っていることだし、娘の相手もしてくれる住み込みのバイトが欲しいと思っていたんだ。
君の人柄に関しては、祐一が可愛がっているようだし、先程の話でもある程度わかった。
天野君さえよければ、ここで働いてみないか?」
「宜しいのですか……?」
「ああ、生憎給料はそう沢山は出せないが、少なくとも衣食住は保証できる。悪い話ではないと思うが」
そこまで言ってマスターは口を閉じ、天野の返事を待つ。
「相沢さん……」
「お前次第だよ、天野。好きに決めるといい。ま、最悪ここを蹴ったって住む場所なら遊風さんの所にって手もあるしな。
……まぁ、天野が着せ替え人形にされる危険性が無きにしも非ずだが」
「……それは、流石に嫌です」
今朝方のことを思い出したのか、少し顔を青ざめさせる天野。
「ま、マスターが言ってるみたいに、悪い条件じゃないと思うぞ。
マスターの娘さん、南空ちゃんっていうんだが、あの娘も気さくな子だしな。
すぐに打ち解けられると思うし」
「……」
俺の言葉を聞いて、天野は少しだけ迷う素振りを見せたものの、すぐに顔を上げてマスターに言った。
「それでは、お言葉に甘えさせて頂こうかと思います。
短い間になると思いますけれど、精一杯頑張りますのでどうぞご指導ご鞭撻の程、お願いいたします」
「決まり、だな。それじゃ明日から頼むよ」
「明日から、ですか?」
「ああ、今日は仕込みも終わってるしな。とりあえず今晩、最低限のことを教える。で、明日は朝の仕込みから働いてもらうさ」
「はいっ」
マスターに元気よく返事をする天野。
とりあえず一段落、といった所か。
「さて、仕事と住処も決まったことだし、次の目的地に行くとするか」
「次の目的地、ですか?」
「ああ、着替えやら日用品やら、買わなきゃ駄目だろ? だからショッピングモールで買出しだよ」
「解りました」
「それと、マスター。何か買って来る物ありますか?」
「ん、何がだ?」
「いや、今日から天野もここに住むわけですし、食材なんか足りないんじゃないですか?」
「ああ、そうか……そうだな。それじゃあ天野君の料理の腕も見たいし、晩御飯の用意をお願いしてもいいかな?」
「あ、はい。解りました」
「よし、それじゃあ天野君。手を出して」
「? こうですか?」
天野が差し出した手に、マスターが財布から取り出した一万円札を三枚乗せる。
「一万円は食材費。とりあえず今晩の分と明日の朝の分を適当に買ってきてくれ。レシートは忘れないように。
それから、残りの二万円はとりあえずの給料の先払いだ。それで必要な物を買うといい。
ああ、食材費の残りは買出しの手間賃としてやるから、返す必要はないぞ」
「え、そんな、受け取れませんっ」
「気にするな。大人の気遣いは受け取っとくもんだぞ。まぁ、昼飯代にでもするといい」
「ですがっ」
「天野。何言っても無駄だよ。ああ見えてマスターはかなり頑固だから」
「祐一、一言多いぞ」
「はいはい」
「……有難う御座います」
「それでいい」
そう言ってマスターが微笑む。
「さ、それじゃ行こうか。マスター、お勘定……」
「いらん」
「へ?」
「コーヒーが不味くなる様な話をしてしまったしな。今日は俺の奢りにしといてやる」
「わお、さんきゅ、マスター」
「ああ、外に出るついでに、ドアのプレートひっくり返しといてくれ。ちと早いがまあいいだろう」
「あいよー」
スツールから立ち上がり、店の外へ。
プレートを裏返し、『OPEN』の文字を表へ向ける。
ちらりと時計を見ると、時刻は九時五十分になろうとしている所だった。
やれやれ、一時間近くも話してたのか。
道理で体が強張ってるような感じがするわけだ。
カランカラン。
ドアを開け外に出る。
「くぁーっ!!」
陽射しの下で、思いっきり背伸びを一つ。
「さて、行くぞ天野!」
「ショッピングモールまではどれくらいかかるんですか?」
「んー、バスで十五分くらいだからちょうどいい時間に着くだろう。
とりあえず軽くてかさばらないものを先に買って、それから昼飯。
食後に残りの買い物と食材の買出しでどうだ?」
「はい、それでいいと思います」
「よし、それじゃあとりあえず、バス停まで歩くか」
「はい!」
そして俺は天野と二人、歩き出す。
正直行き当たりばったりが過ぎるのはわかっているが、それでも出来ることからやっていくしかないんだ。
とにかく“アイツ”との最後の約束を守るためにも、やれるだけのことをやろうと心に決める。
―――リン!
―――頑張んなさいよぅ! 美汐を泣かせたりしたら、承知しないんだからねっ!!
晴れた空の下で、鈴の音と懐かしい奴の怒鳴り声が聞こえた気がした。
後書き
どうも、本当にお久しぶりに御座います。駄文書きの葬月です。
なにやら投稿SS更新希望なる投票企画で、拙作に票を入れてくださった方もいらっしゃる様で……感謝の極みに御座います。
あ、ネタ投票してる輩どもには感謝なぞしませぬ。ええ、しませんとも。
さて、今回は内容に関して補足を一つ。や、捕捉というか言い訳に等しいのですが。
今回、マスターの人物像、及び祐一とマスター会話において、モデルになったといって過言ではないSSが存在しています。
会話に関しては態と似せたつもりはありません。
ですが、この話に関しては、モデルになったSSと似たような状況になってしまっています。
勿論、これから先の展開は全く別物ですし、祐一とヒロイン(本作では美汐)の関係も一部近い所があるというだけで、同じではありません。
ですので、モデルの作品が解った方は、生暖かい目で見逃してやってくれると幸いです。
解らなかった方は、そういうものがあるんだ、位に思っていただけると良いかと思ってます。
以上、長々と言い訳を書いてしまい、お目汚し失礼致しました。
最後に文章構成を手伝ってくれた某Hさんと某Nさん、どうもありがとう御座いました。この場を借りてお礼申し上げます。
そして某Kさん。許可を貰ってからはや幾ヶ月。ようやく出すことができました。こんな私に許可を出してくれてどうもありがとう御座います。
それからここまでお付き合いして下さりました読者の皆様、誠に有難う御座いました。
次回は某オフ会での罰ゲームSSを兼ねた外伝の更新になると思います。
もし宜しければ、そちらも読んでいただければ幸いです。
二○○五年 八月某日 禍津夜 葬月