偽薬効果(プラシーボ)



 暦を見れば未だ一月、今日は春の気配遠い雪の舞い降りる冬の一日。雪国を生活の場とする者にとって、それは珍しく無い日常の一部である。天然の白粉によって装いを変えようと、そこが住み慣れた街である事に変わりなど無く建物の立地事情が激変する筈も無い。

 雪が降ろうが雨が降ろうが六角ボルトが降ろうが、行きつけの店の場所が変化する事などまず有り得無いのだが、彼の場合は少し事情が違った。

「全然分からん」

 途方に暮れる青年が一人、商店街の往来で途方に暮れていた。彼にはこの二日間で商店街周辺は全て調べたという自負がある。だがそれらしい看板すら見付けられなかった。いとこの家に居候させて貰って二週間弱の彼がこの街の地理に明るく無い事を差し引いて尚、目的の所在地は分かり難かった。

 目的地はこの街にあると言うCD屋である。何処の街にもある、何の変哲も無い場所の筈である。何処の誰にでも分かる筈の場所にあるのが常識とされる店が、彼には二日間掛けても見付けられないでいた。

 ――分かり難い場所にあるんだよ。

 分かり難いどころの話では無い、まだ街の地理に明るくない彼には全く分からなかった。いとこ――名雪の言質から察するに、CD屋が存在するのは確かだろう。だが彼に見付けられる様な場所には無いらしい。つまり今の彼には無いと同義であった。

 一つ、溜息を吐く。幸せは一つ逃げただろうか。全くどうでも良い迷信ではあったが、そんな考えが脳裏を過ぎった。

 立ち止まっても雪は彼の肩に、頭にと舞い降りて体温を奪う。寒さに対する耐性が街本来の住民よりも低い為か、彼の体感温度は実際の気温よりも低く感じられた。コートの中にまで染み入る気温は彼には耐え難い。

「帰るか」

 体温の流出を避けるかの如く身を竦め、彼は呟いた。踵を返し、目下自宅となっている家へと歩を進める。歩き出した正にその時、彼は足音を聞いた。聞こえてくる音の間隔から、走っているだろう事が推測出来る。聞き覚えと身に覚えのあるシチュエーションに、彼は振り返らずに左に避けた。

 べしゃ、と適当に柔らかくて重い物が中途半端に溶けてみぞれ状の雪の塊に軟着陸する音を聞く。自分の予想が的中した事に満足し、彼は振り返る。

「無様」

「誰のせいだよっ」

 襲撃者は顔見知りだった。いかにも子供っぽい(と言うより、そのものである)口調は、そのまま容姿に反映されている。平均より低い背、幼さを助長させる服装、単純な思考。馬鹿か白痴――恐らくは前者の少女が彼を睨む。ただいつもと異なるのは、何故かダッフルコートに付属するフードを目深に被っていると言う一点である。

「誰のせいだと思っているのだ」

「それは」

 少女が反論する前に言葉を重ねる。

「歩いて近付いて、声を掛けて自分の存在を示そうと言う思考にいい加減思い至れ。いちいち襲い掛かるな、馬鹿めが」

 少女は尚も言いたそうにしていたが、反論の根拠が見つからないのか口を噤んだ。どの道、彼に口喧嘩で勝てた試しは無い。

「で、あゆ。何の用だ」

 彼の見下すが如き不遜な態度に変わりは無い。かと言って、彼が怒っている訳でも蔑んでいる訳でも無いのは少女――あゆも知っている。誤解の元にもなりかねない彼の態度は理不尽な差別感から来るのでは無く、ただの口の悪さから来るのだ。

「あのね、祐一君。ボク困ってるの」

「その風体から察するに、ついに指名手配されたか」

「うぐ、からかわないでっ」

 相変わらずフードに顔の大半を隠しているあゆの表情は、いつものそれと違い読み取り難い。いつもなら考えている事がすぐに顔に出るので、話がしやすいだけあってあゆのフードが彼――祐一には余計邪魔に感じた。

「からかわれたくないならば、フードを取って話せ」

 言うが早いか、祐一はあゆの表情の大半を覆うフードを取ってしまった。運動性能と体格、腕力その他諸々において二人には差がある。その上不意打ちであるならば、彼女に防衛手段は無い。仮に防御が間に合ったとしても、腕尽くで何とかされればどちらにしろ結果は同じであったが。

 フードが外れたその瞬間、二人が凍り付いた。あゆは望まぬ時と場所で秘密を見られたから、そして祐一は有り得ない物を視たから。時間の経過はコートの上で溶ける雪が教えてくれたが、二人は動けなかった。

「長い様で短い付き合いだったな、あゆ」

「うぐぅ、何言ってるの祐一君」

「猫耳を付けて街に出る神経を持った猛者など、知り合いにいない方が良いと思ってな」

 耳だけでは飽き足らず、あゆが尻尾や肉球グローブまで嵌めてしまっては遅いのだ。そこまで行ってしまえば、最早無し崩し的に口癖も「うぐぅ」から「にょ」に変わってしまうに違い無い。恐ろしい未来予想図である。

「ボクだって好きでこんなの付けてる訳じゃ無いよぉ。だからフード付けてるの」

 猫耳を隠す為に、再びフードを目深に被り直す。確かにその行動にには一理ある。あゆの精神に激変が訪れたとすれば、フードなど必要としないだろう。指名手配犯の如く顔を隠す事はせずに、むしろ誇らしげに街を練り歩く筈である。馬鹿のレヴェルを超越して、逆に信者が付きかねない。

「ふむ。私も猫耳を付けた変人と一緒にいるとは思われたくは無いからな」

「ボク、変人じゃないもん」

「私に『キ』から始まる放送禁止用語を言わせたいのか? そもそも頭頂に耳を生やす前から背中に羽を生やしている者の言う言葉とは思えぬが」

「うぐぅ、これはファッションだもん。流行の最先端だよ」

「奇人変人大集合に応募してやろう。恐らくは一発合格出来る」

「ボクは普通だよ! 祐一君こそとっても意地悪だから合格しちゃうもん」

 祐一はあゆに自分の特異性を認識していないからこそ、奇人変人なのだと言ってやりたかった。狂信者は自らの信仰の矛盾を認識出来ないからこそ、狂信者と呼ばれるのだ。認識出来るならば『狂』の一字は消えてしまうだろう。

「取り敢えず怪人うぐぅの異常性はひとまず保留しておくとして、だ」

「うぐぅぅぅ」

「うぐぅ語では無く、私に理解出来る言語を話せ。ともかく、今はその耳だ」

 あゆが自分の耳――獣の様な方の耳をフードの上から押さえ、心配と期待半々と言った眼差しで祐一を見詰めた。彼とてあゆの期待に答えられる程画期的な策を思い付いた訳では無い。彼としてはこの意味不明な現象を何とかする為に、あらゆる情報を留め置こうとしているだけなのだから。どちらにしろ、彼の手でどうにか出来る可能性はほぼ皆無だったが。

「あゆの家はここから遠いのか」

「歩いて二十分くらい、かな」

「ならばバーガーショップ『月討日征』だな。そこで猫耳が付いた前後の事を細大漏らさず全て話せ」


 最寄りのファーストフード店で、この不可思議な猫耳問題を検分する事となった。日本発のファーストフード店で随一の規模を誇る『月討日征』は人こそ多いものの、個々人に対する注目度は薄い。自分達に注意を向ける者などいないだろうとの打算が働いたのである。

 あゆの頭頂に生えた耳は、何処までも不思議なものだった。いや厳密には耳とは言えまい。何しろ、耳としての要を成していないのだ。耳として機能するならば当然ある筈の空洞が無く、ただ形を模倣した物に過ぎないのである。彼女本来の、人間の耳は顔の両脇にちゃんと付いたままだった。

 故に何かの冗談にしか見えない。

「引っ張っても、取れる訳で無し」

「うぐ、痛いよ祐一君」

 だがどんなに冗談に見えようが顔を近づけても、接着剤か何かで無理矢理接着した跡は確認出来無い。自然に頭皮から生えている、祐一にはそう解釈するしかなかった。触り心地はと言うと猫や犬など他の生き物のそれを触っている様で、人間のものとは思えない。人間に無理矢理犬猫の耳を移植した様な、この言い回しが一番しっくり来るのだった。

「で、あゆはこの不思議物体がいつ・どこで形成されたのか全く心当たりが無い訳だ」

 祐一は百年後バーガー(そう言う商品名なのだ)を咀嚼し、嚥下した。あゆの方は杏仁豆腐(『月討日征』の目玉商品らしい。消費者には高い、と不評の様だったが)をつついている。

「うん、朝起きたらこんなのが頭に付いてたの」

「このクソうぐぅ、もう少しマシな事を話せ」

「これ以上無いよぉ!」

 半ば泣き喚くが如く(と言うか、彼女の目尻には事実として涙が溜まっていた)あゆを尻目に、祐一は視線を落とした。余り正解であって欲しく無い仮説が彼の頭を掠める。無論彼とて自分の考えが素人判断である事は重々承知の上であり、この考えが選択肢の一つでしかない事は分かっている。

「……祐一君?」

 彼の突然の沈黙に不安げな声を掛けるあゆ。

「あゆは黴や茸に関して詳しい知識はあるか」

「無いけど」

「人間に生える新種の菌類、と言う結論はどうだ?」

 一応の説明は付くが、根拠などまるで無い。無論人間の頭皮で繁殖する菌類の話など、祐一は聞いた事が無かった。彼は大きくない代わりに値段の安い百年後バーガーの残りを口の中に放り込み、仮説――と言うよりホラ話を真に受けるあゆの反応に気を良くする。いつもなら笑い話で済まされる所だが、脳回路が単純に出来ているらしい彼女はその場のノリに見事に流されていた。

「そんなの嫌だよ!」

「生きた人間の肺に付着して繁殖する菌類の話をしてやろう」

「聞きたくないってば!」

 あゆは自分の耳を両手で塞ぎ、拒絶を露わにする。彼女もまた同年代の少女の例に漏れず、この手の話が苦手らしい。ここで彼女がまだ余裕がありそうならば、女性にだけ生える茸の話に発展させようかとも思っていたのだが、流石の彼もそれは躊躇われた。

「何にせよ変な病気の類である事は間違い無かろう、さっさと医者に診て貰え」

「うん」

 喜怒哀楽が激しいあゆにしては浮かない返事だ、と祐一は訝った。彼が余り手酷くからかった為に、元気を無くしたのかとも思える。だがそれはいつもの子供っぽい彼女のそれとはかけ離れた、紛れも無く憂いを含む女の表情だった。

 祐一の胸の奥が静かに、しかし強く高鳴った。

「祐一君」

「何だ」

 思い詰めた瞳に射抜かれ、居心地の悪さを感じて祐一は視線を逸らす。

「ボクね、お財布忘れてきちゃったみたいなの」

 一瞬の、永遠を思わせる沈黙が二人の間を支配する。その間にあゆは杏仁豆腐の残りを自分の胃に収めていく。

「消えろ、食い逃げ指名手配犯」

「酷いよぉ!」


後日。

「避けたぁ! 祐一君が避けたぁ!」

「当たり前だ、馬鹿め」

 商店街で日常になりつつあるやりとりが交わされる。どうと言う事は無い、双方に特別が失せただけである。


どう言う訳か、祐一が後日あゆと会う時には既に猫耳は痕跡すら確認出来無かった。まるで先の騒動が嘘だったと言わんばかりに、元に戻っていたのだ。本人を問い質してみても、要領を得た答えは返ってこない。生えた時と同じくいつの間にか失せていた、と返答するのみである。

「いつまでも行動が進歩しないのは、脳内に菌糸が張ってあるからでは無いのか」

「違うもん」

「では、素で馬鹿なのだな」

「祐一君、意地悪だよ」

「今頃気が付いたのか、馬鹿め」

 馬鹿と言う単語に彼女が反応し、祐一に食って掛かる。軽くいなす彼に対し、益々機嫌を悪くするあゆ。どうでも良い事と何気無い日常に、異質は埋もれて行く。名探偵でも無い彼が微かな違和感を真実に結びつけられる筈も無く、刻は過ぎ行く。

 彼が真実に到達するのは、今暫く後の話。






オーガスト・グループ

近年成長著しい新興グループで、日本に本社を置いている。『月討日征』はオーガスト・グループのファーストフード部門を担う存在。藤枝 保奈美率いるチームが商品開発を、天ヶ崎 祐介が経営を任されている。尚メニューに杏仁豆腐が入っているのは祐介の姉である天ヶ崎 美琴(商品開発チーム副主任)の強硬な主張があった為。他部門にはコーヒー・ショップ『バイタリティ・ポッド』と、バー『千屋一矢』が存在。『月討日征』と『バイタリティ・ポッド』の企画は連動し合っていて、どちらか一方のゴールドカード(スタンプ50個で交換。500円1スタンプ)をもう一方の店でも使えたりと両方の常連となると特典が多い。『月討日征』の出店コンセプトが「物量」に対し、『バイタリティ・ポッド』が「少数精鋭」。2店の店舗比率は5対1程度。『千屋一矢』だけが他の2店とは異質で、チェーン店では無い。落ち着いた大人の雰囲気とバーテンダーの腕が売り物で、一件のみの半独立店舗となっている(他2店のゴールドカードを持っているならば、様々な特典が使用可能。この店のみゴールドカードが異質で、他2店で使用不可となっている。未成年が特典目当てに年齢を偽ってアルコールを摂取しない様に、との配慮から。スタンプ50個でゴールドカードと交換、1000円1スタンプ)。林檎を使用した料理や飲物が評判な為、ファンからは『りんご亭』と呼称される事も

 店名の意味
 『月討日征』……日の元を征服し月をも討ち果たさん事を
 『バイタリティ・ポッド』……無尽蔵の耐久力で笑顔を店内から絶やさん事を
 『千屋一矢』……千の店舗をも覆す一条の矢とならん事を