終章



 駅から徒歩で数分もしない内に、香里の肌は早くもうっすらと汗を滲ませる。温暖化の影響か、今年は夏日を観測する日も多いらしい。春と夏の中間に位置するこの季節、様々な服装の人間が入り乱れて冷静さを心掛ける彼女ですら多少浮ついた気分になってしまう。六月中旬、関東圏からすれば遅い初夏が北の街にも到来していた。

 当然ながら、冬場あれだけ猛威を振るった雪など影も形もない。

 飲食店、本屋、理容店、消費者金融、居酒屋、喫茶店にファーストフード店。駅には色とりどり、千差万別の店が集う。人通りは休日だけあって、いつもよりも三割り増しで多い。だが地方都市である此処が首都圏程の賑わいを見せる筈もなく、人波を縫って歩くと言う程の労力は掛からない。

 時間は十時五分、既に待ち合わせ場所に五分の遅刻である。彼女の目的地はここから徒歩で更に十分は行った所にあった。香里は屋台の様な店でクレープを三つ買って待ち合わせに遅刻した事に対する詫びとする事にした。彼らがクレープを嗜好するかどうかは知らないが、文句は言わないだろうと思う。マロン、アーモンドチョコレート、イチゴクリーム、と彼女としては変な品目が多い中で比較的まともなものを選んだつもりだ(マグロバナナなどという正体不明ものや、イカスミマーブルとかいう洒落としか思えないもの、時価のまじかるクレープなるものまであった)。

 遅刻、遅刻と髪を振り乱して走るのも馬鹿らしいので、香りはいつも通りの歩幅でいつも通り歩いている。待ち合わせている者達が十分二十分の遅刻で気を悪くする様な連中でない事は分かり切っていた。だからといってそれに依存する事は良くないが、彼女は最近少し位ならと思う様になっていた。

 今年の冬以降から香里は他人から明るくなったとか、大らかになったという評価を受ける事が良くある。彼女の印象を引き締めていた、張り詰めた糸の様な緊張感が緩んだのが大きい。前年度最後の演目『ラヒスカ=グリフ』が終わってから、彼女は正式に演劇部を引退したのだ。

 演劇部では一年から二年に上がる際に引継が行われる。その時、旧二年は一つの選択を迫られるのだ。つまり引退し受験の事を考えて勉学に励むか、それとも部に残り後輩の指導や裏方に回るか。香里は前者を選択し、今となっては元部長の雛は後者を選択してスカウト業に精を出している。

 香里の引退は部員達から惜しまれたが、彼女の意思は変わらなかった。元々が身体一つで妹の栞を楽しませる為の技術が欲しくて演劇部に入部している。いつの間にか目的と手段がすり替わり、妹の存在を忘れる為に部活動に打ち込んでいる自分がいた事に彼女は気が付いてしまったのだ。そして栞の為という題目が消え失せた今となっては、昔の情熱は帰ってこなかった。

 それに大学の事もある。現在彼女は推薦ではなく、敢えて自分の力で有名大学を目指しているのだ。学年主席だの、秀才だの言われてきた彼女だったが、そんなものは張りぼてでしかない事は香里自身が一番良く分かっている。妹の事を頭の中から追い出す為に勉強していたら、そんな成績になってしまっていただけだ。何をするにも栞、栞と、彼女の人生には妹の影が付いて回っていた。

 だからこそ今度は自分の力だけで何かやってみたい、香里は心からそう思う様になっていったのだ。身体を思い切り動かしたい時は、八重の紹介で顔見知りになった空手部の高須磨 塚也の所で腕を振るえば良い。香里の申し出に空手部員は嫌な顔一つしないので、彼女としても気兼ねなく通う事が出来るのだ。身体を動かす事の楽しさを教えてくれた事、彼女は久瀬と八重に感謝しきりであった。

 部活動以外で知り合った友達との関係も未だ良好である。名雪は何も考えていない様に見えて実は推薦枠を狙っている事が判明し、祐一は勉強をやっていない様に見えて名雪よりもずっと良い成績を引っ提げていたり。

 余談になるが、彼が前に話した彼の過去に後日談があったらしい事を香里は最近知った。彼が結末まで言わなかったから、彼女は木から落ちた子供がそのまま還らぬ人になったのだとばかり思っていたが違ったらしい。彼がこの街に移ってきて数日後に、再会を果たしたのだそうな。「何故それを言わないの」と香里は祐一に食って掛かったが、「結末を言う必要はなかったからな」とまるで柳に風である。

 香里はそんな祐一の事を思い出し、嘆息した。

「やっぱり相沢君はとんだ食わせ者よね」

 あそこで結末を言わなかったら、誰だって誤解する。「その子は死んだのか」なんて、気まずくて聞ける訳がない。そんな事頭の回る祐一が分からない筈がない、確信犯だと彼女は思っていた。

 考え事をしながら歩いていたら、もう既に目的地は近い事に多少の驚きを感じつつ香里は敷地に入る。此処は少々大きい事を除けば都市部に一つはありそうな、特筆すべき箇所も見当たらない公園である。ここから数分歩を進めたら、栞が入退院を繰り返していた病院がある。そして彼女が今歩いている辺りで、香里と祐一は互いの凶器を交えて戦ったのだ。

 何の変哲もない道が、彼女にとって特別な場所となる。目的地が見えてきた、噴水の前に男女二人組が座っている。この場所は妹の、栞の好きな場所だった。水が流れる様を見るのが好きなんだと、姉の香里に語った事がある。春のまだ冷たい水飛沫を感じるのが、夏の色とりどりのイルミネーションに照らされた水の色が、秋の夕焼けに染まった水の輝きが好きなのだそうだ。事実彼女のスケッチブックには何枚か噴水の絵が描かれてある(もっとも、彼女は栞に指摘されて描写されている物体が噴水である事に気付いたのだが)。

 妹が好きな場所でも、香里自身が好きな訳ではなかった。幾ら栞が彼女にとって最愛の妹でも、幾ら二人が姉妹だとしても思考の差は現れるのだ。それでも。

 それでも、幾度か此処で待ち合わせする内に香里もこの場が好きになりそうだった。

「おーーーーいっ!」

 思い切り声を張り上げて、クレープを持っていない方の手を振って二人に己の存在をアピールする。初夏は、休日は、まだ始まったばかりだ。

END