五章
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昨日からの吹雪は一日経った今日になっても止まず、いつも通り昼時に学校の裏庭にあるベンチに黙然と座っている祐一を芯から凍えさせる。顎の力を抜くと歯の根が噛み合わずにカチカチと耳障りな音を立てるので、彼は必要以上に首から上が強張っているのが自覚出来た。こんな日は常識のある者ならば外出を控えるが、万が一という事もある。
彼は栞を待っていた。彼が本当に賢明な人間ならば、或いは彼が本当に自己中心的な人間ならばこんな所で待ったりはしない。視界を白く染める吹雪という自分を納得させるに足る理由まであるのだ、わざわざ己を苦境に置く意味があるとは言い難い。人間とは良くも悪くも利己的な性質を持っている事、七年前の悪夢を思い出した彼が知らぬ筈もない。
香里を見て昔を思い出した事が良かったのか悪かったのか、論ずるべくもない。それを良い事だと彼は疑わないのだから。故にこそ昨日香里を挑発して、死闘を繰り広げ彼女に怪我も負わせたがそれでも疑いを差し挟む余地はなかった。こうして人は克己し成長していくのだ、かつて自分の犯した間違いを見て彼はそんな当たり前の事を学んだのだ。
何処まで行っても自分の中に在るのは『我』の一文字なのだろう、祐一は何となくそんな事を思う。こうして吹雪の中で栞を待つ事も、香里と殺し合う事も己の為でしかない。それで良いのだと、それが自然なのだと祐一は強く確信する。他者の都合など所詮付属物でしかない。己の心がざわつくから他者に手を差し伸べる。
「やはり、馬鹿だったか」
目に雪が入らない様に手でひさしを作り、目を細めて白の中を凝視した。風景の中から出でる影が一つ。影は近付くにつれて黒一色から個別な色彩を見せる。胴が妙に膨らんで見えるのはコートの袖を通していない為だろう、肩の盛り上がりは確認出来るが腕には肉の膨らみはない。客観的な感想を言えば、それは変な少女である。
「最近そんな恰好が流行っているのかね、栞」
「そうですね、最新の流行です」
「栞は脳に腫瘍が転移した様だね、馬鹿に磨きが掛かっている。可哀相にな」
「わ、そんな哀れみの視線向けないでください」
吹雪の中でコントを続けていても、誰も気付かない。そんな事を悲しむ祐一ではないが、栞と二人だけである事を強く認識した。彼の目に見える劣悪な視界には辛うじて背景である住宅街と、栞だけしか見えない。まるでそれだけが世界だとでも言う様に、見事に動くものは栞と雪風以外には何もない。
馬鹿な娘が一人、祐一の前に立っているだけだ。病弱につき後約二週間しか生きていられないと言われているにも関わらず、この吹雪の中を歩いてきた少女。それは明らかに身体を蝕む愚行である、命を縮めてまで祐一が外で待っているかどうかも分からない裏庭へ強行軍をする意味は果たしてあるのだろうか。
あったのだろうと、祐一は思う。他人がどう考えようと関係がない、もう栞の時間は残り少ないのだ。やりたい事は山程あるのだろうが、出来る事は限られる。ならばそれこそ彼女自身が思う様に、力の限り濃密な時間を過ごせば良いのだ。彼女自身の為に、自分を利用するのも良いだろう。彼もまた彼女を己の為に利用するだけなのだから。
だが栞はそうやって気を遣われる事を良しとしないだろう。彼女の望みはあくまでも「普通でいる事」にあるのだから。ただ惰性に生きる事を、平坦な道程を歩く事を望み、そんなささやかで慎ましい願いは露と消えつつある。
「馬鹿は死ななければならないと言う」
「そんな事言う人嫌いです」
「だから、だ」
祐一はベンチから立ち上がり、まるで幼子にする様に栞の頭を撫でる。
「馬鹿筆頭の栞が死ぬ事は有り得ないという事だ」
栞の心が一瞬だけ止まる。彼女は自分の死を確定事項だと思っていた為に、思いもしない祐一の科白に目を瞬かせる。彼が何を言ったのかすら理解出来ない状態が続き、数秒を要して漸く栞は再起動を果たした。
「喜んで良いのかどうか複雑な気分です」
「素直に喜んでおけ、栞は馬鹿大王なのだから」
「やっぱり嬉しくな……っくしゅ」
彼女が今どの辺りに住んでいるのか祐一は知らなかったが、普通病人が吹雪の中強行軍で来る距離ではない事位は想像が付いた。普通の病人は吹雪の中出歩かないが、そこはそれとして。
栞は凍える手先でポケットティッシュを取り出し、不器用に洟をかむ。
「校舎の中に入ろう。流石に寒い」
「でもわたし、休学中です」
「私の知った事ではないな、寒いのは私なのだから」
「わ、祐一さん物凄く自分勝手です」
「今頃知ったか、やはり馬鹿な娘だな。そんな事より私に続け、さっさと屋内に入るぞ」
自分を馬鹿呼ばわりされ祐一に抗議したくなってはいたが、栞の側を離れてさっさと裏庭の出入り口に歩き出してしまった彼の所まで届く声を出したくはなかった。そんな事をすれば口を開いた瞬間に雪が入り込む。雪は好きだが、栞は別に雪を食べる趣味など持ち合わせていない。例えガムシロップを手に持っていたとしても、吹雪の中でかき氷を作って食べる気概はないのだ(子供の頃夢想した位ならあったが、白く綺麗に見える雪の結晶が実は工場や自動車の排気ガスにまみれている事実を知ってはその気も失せるというものだ)。それに不本意ではあるが、このまま外に立っていたら凍えてしまうのもまた事実であった。
祐一は後ろを付いてくる栞に目もくれず金属製の重い扉を開く。蝶番が軋む甲高い音が内外に響き、寒暖差で起こった風が彼らを歓迎した。
「暖かいですね」
「内外の気温差が二十度以上あるからな」
コートの中から両手を取り出して、息を吹きかけている栞を見ずに祐一は答える。彼の視線の先はたった今潜った扉へと向けられている。雪を従えた風が、分厚い金属扉越しに唸り声を上げている。栞の帰る時間になる頃――学校の休み時間終了のチャイムまでには大人しくなるなどという、希望的観測を言うのも憚られる天候である。
取り敢えず祐一は短時間の内に吹き付けられた雪や、融けてから再度固まった頭上の氷を払い落とす。栞も彼に習い、コートの前を開けて手を出して同じ様に払う。同じ作業をするだけだが、彼女の方が祐一よりも髪が長いので再結晶化した氷の総量が多く苦戦している。見かねた祐一が彼女を手伝うのに、時間は掛からなかった。彼は自分の行動を猿の蚤取りの様だと思わないでもなかったが、寒さで硬直化した口を動かすのを面倒臭がった為に無言で作業を行う。
「えぅ、ありがとうございます」
祐一に髪を触れられて栞は多少顔が赤くなったが、激しい寒気に曝された時に起こる生理反応に紛れて彼にはそれと気付かれていない事に内心ほっとすると同時に残念に思う。彼が何を思っていたのかは、知らぬが仏である。
「そんな事よりも、栞の手に持っているものは何だ」
コートに半ば隠れていたというのに、と栞は彼の注意力に驚かされつつ質問に答えた。コートを着てきた理由の一つは、このスケッチブックが濡れない様にという配慮に由来する。もう一つの理由はコートの中でしっかりと掴んでいないと、彼女のお気に入りのチェック柄のストールがずり落ちるからなのであるが、彼には関係のない事か。
「これですか、スケッチブックです」
コートを二十年前の刑事ドラマよろしく肩に引っ掛けたまま、片手で栞は祐一の前に何の飾り気もない紙の束を手渡した。彼は裏表紙を見たり留め金の部分までしげしげと観察するが、特に変わった所はない。表紙には控え目な文字で、『美坂 栞』とだけ署名がある。
「中を見ても良いか」
「良いですよ……笑わないでくださいね」
何を言っているのか、そんな事を祐一は思う。考えてみれば栞の様に病院と家を梯子する生活をしている者は、常人よりも自由に使える時間が多い為何かしら暇を潰す術を見出すものだ。絵を描くとか写真を撮るなどはその代表例であり、別に彼女が趣味として嗜んでいても何ら不思議な事ではない。では何故彼女は釘を差すのか、彼は当然ながらそこもすぐに思い至った。
要するに彼女は自分の絵を他者に見せるという行為に慣れていないのだ。微妙に視線を外し、頬を赤らめる栞の仕草はそのせいだと決め付けて祐一はスケッチブックを開いた。
「……成る程」
内面はともかくとして、外面を崩す事が殆どない祐一をして思わず感嘆の言葉を漏らさずにはおれない出来の代物が平面上に描かれていた。栞のその作風は良く言えば独創的で個性的、悪く言えば――阿鼻叫喚。
最近特に使われる表現に「斜め上」という言葉がある。個々人の想像の限界、更にその埒外に属する出来事や物事を指す言葉がそれなのだ。個人差はあるにしろ、多くの人間の「斜め上」がスケッチブックの上に展開されていた。ヒトが創り出しうる魔境の一つのカタチ、そう評する事すら可能かも知れない。
「どうですか」
上目遣いに聞く栞の顔は期待と不安に彩られている。臆病なリスの様な、餌を前にお預けを喰らった犬の様な彼女に何と言ったら良いのか。祐一ですら躊躇ってしまっていたが、意を決して彼は自分の言うべき言葉を固めた。何しろ彼は褒める事が得意ではないが、貶す事も得意とは言い難い(挑発は得意かも知れない)。結局の所正直な感想を言うしかないのだ。
「栞は絵の描き方を習った事はあるか」
「ありませんよ、ただ暇潰しに描いてるだけですし」
予想した答えが返ってきた事に、祐一は内心胸を撫で下ろした。習ってこれだと言われたならば、習う以前はどうだったのかが聞けなくなっていた所である。……恐ろしくて。
「呪術や魔術、占星術に風水等々。要するにオカルトに被れた事はあるかね」
「ありません」
ふむ、と彼は曲げた人差し指を唇の下に添えて唸る。予想された事だったが、祐一の中で結論は一番単純で無難な所に落ち着いた様であった。
「私は呪術か何かの儀式に使う似顔絵だと思ったのだが、違った様だ」
「祐一さん、今までこれ見せた人の中で一番酷い事言いましたよ」
祐一が何を言わんとしているのか栞も悟ったらしく、期待と不安の視線から一転して半眼で彼を睨み付ける。もっとも栞に睨まれたからといって祐一が動じる様な人間でない事は、彼女とて短い付き合いながら分かっているつもりだ。ただ具体的な圧力として機能しなくとも、彼に自分の意思を伝える位は必要だと思うからこその表情である訳で。
眉を顰めたまま表情の動かない祐一は、そんな栞の思惑に気付いているのかいないのか。
「描かれたからと言って魂を抜かれる事はないのだな」
「ありません」
「描かれた人間が数日後に変死する事もないのだな」
「ありません」
「栞が死神ではないと分かって、私は何よりだ」
「そんな事言う人嫌いです!」
お決まりの科白で感情を爆発させた栞を尻目に、祐一は次々とページを捲る。最初から十ページ程で作風が栞のオンリーワンである事を除いた、特筆すべき点がある事に気が付いた。その理由は何となく彼も想像出来る、いや彼自身がたった今口に出した事そのものだろうと彼は当たりを付けた。
スケッチブックの大半に描かれているのは人物ではなく、風景なのだ。病室の窓から描かれたと思しき作品が数枚、病室そのものを描いた作品がこれまた数枚、学校の絵が数枚、その他街の公園と思しき場所の絵が一枚。人物画は一、二ページ目だけだ。
「一枚目が香里で、二枚目が栞と仲の良い看護婦なのだと推測するが」
「当たりです」
「では重ねて聞くが、それ以降に人物画がないのは何故なのだ」
実の所、祐一は見当が付いている。むしろこれこそが真相だろうという確信すらある。それでもあくまで栞本人の言を聞き出そうとする姿勢は、彼の慎重で臆病な性格故か。
「何ででしょうね、何故かお姉ちゃんも看護婦の冴子さんも最初の一回だけでそれ以降モデルになってくれないんです。他にわたしと仲の良い患者さんに頼んでも、曖昧な笑顔でやんわり断られますし」
思案顔でそんな事をさらりと言ってのける栞に祐一は目眩を起こしそうになったが、このおかしな所で天然が入っている彼女だからこそかと思い直す。彼女の仕草や口調から別に陥れようという魂胆はないらしい、とひとまず彼は安心する。これで単に猫を被っているだけならば、彼に安い挑発をされただけで激昂した香里と違い大した役者である。
「私の推測で良ければ聞かせるが」
「お願いします、祐一さん」
あくまで微笑を崩さない栞に対し祐一は己の中にある蚊程に儚い良心が痛んだが、彼は栞の為だと心を悪鬼に変えて(彼は普段の自分をいつも鬼だと思っているのだ)包み隠さず自分の考えを口にした。
「皆、下手な似顔絵描かれたくないのだろう」
「えうぅ、酷いです」
そう言って栞は祐一を非難してみるものの、彼女自身も心当たりがあるらしい。「じゃああの時、208号室のひばりちゃんの笑顔が引き攣ったのも……」などと、祐一の目の前で独り言を呟いているので分かり易い。どうやら彼女の周りには善い人しかいなかったらしい、哀れと言えば良いのかそれとも恵まれていたと言えば良いのか。天然が入っている彼女にしても、人間関係はままならないものの様である。
「確かにわたし絵が上手という訳ではないですけど、そんなに避けなくても良いと思いませんか」
「いや、私に同意を求められてもな」
何しろ彼をして既に栞の絵を「阿鼻叫喚」だの、「斜め上」だのと思っている以上は同意しても詮無い事である。だからといって絵を一刀両断にする評価を下した祐一を非難しようにも、自分の絵が一般基準で下手だと思われている事実を変える事にはならない。
「強引に良い方向に考える事も出来るが、聞いてみるかね」
「……どんな考えですか」
絵の評価という点において敵対関係にある祐一に対し、多少の警戒を残しながら栞は彼に耳を傾けた。彼にはよく言葉尻を掴まれてからかわれているので、会話の罠に掛からぬ様彼女は慎重に言葉を選んだ。
「栞にもっと絵の腕が上達してから描いて貰いたいのだ、そう考えれば良い」
そんな当たり前の考え方に、栞は幾分か落胆した様だった。彼女の事だから、物凄い発想の転換を祐一に期待したに違いない。言葉を利用した詐術は確かに彼の得意とする所ではあるが、彼にも出来る事と出来ない事はあるのだ。だがあからさまな表情を見せる栞に対し、彼は怒った様子も焦った様子もない。
「まぁ、聞け。絵の上達など一朝一夕で出来るものではないだろう」
「そうですよね」
彼の発言は、「お前は絵が下手なのだ」と言っているに等しい。故に栞は少し拗ねてしまったらしい、それとも己の無力が哀しいのか。
「つまり栞は絵を上達し彼らの似顔絵を描くまで生きていなくてはならない、言い換えればそういう事だ」
はっと栞は祐一の瞳を見詰めた。彼が幾ら言を費やそうと、彼女にまつわる事実は何も変わっていない。それでも変わっていると思えるのは何故だろうか、その答えを聞きたくて栞は彼の瞳を覗き込む。彼はよく人を真顔でからかうし、それを喜んでいる節もある。その上筋金入りの鉄面皮で、いつも表情の変わらないポーカーフェイスの持ち主だ。
それでも今彼の科白が嘘でも冗談でもない事が、栞に伝わった。子供騙しの詐術ではあるが、祐一自身はそれを大真面目に言っている。
「栞が死ねば、彼らは君の上達を見る事はなくなる。絵の評価は『下手』で固定されるのだ、それに栞は耐えられるのか」
彼女を有形無形に支えてきた友人や家族達である、例えどんなものが来ようと嘲笑で栞を迎える事はすまい。だがそれでも彼女自身の好悪を超えた所にある、彼女の絵の評価は動かないだろう。お茶を濁す様な真似をするという事はつまり、そういう事なのだから。
「えうぅ、見返したいです」
「そうだろうな、ならば生を自ら勝ち取る事だ」
「でもわたしの身体はもう、長く保ちません」
厳然とそびえ立つ事実が、彼女を断絶させようとしている。こうして立っている事すら奇跡であるかの如く、彼女の命は儚い。癌と薬と幻痛に苛まれた栞の身体は既に弱り切っている事、それは祐一も知っている。身体の事はどんなに医師が処方箋を作り支えようとも、結局の所本人である彼女にしか抜本的な問題解決は出来ないのだ。病魔は最早彼女の体内にないのだから、現代医学は無力を晒す。
「わたし、どうしたら良いですか」
そんな茫洋とした問い掛けの後、栞は瞼をきつく結んで歯を食いしばった。幻痛が再び彼女を苛んでいるのだと気付けない程、祐一も愚かではない。だが愚かでなくとも、どうしようもないのだ。七年前、人形の様に動かなくなったあゆの下から逃げ出したあの日と全く変わらない状況に祐一は気が狂いそうになる。それでも最終防衛ラインから逃げなかったのは、栞が見ていたからに他ならない。
あの日のあゆと栞の顔が重なる。
「弱い、それでは弱いのだ。私に聞くな、栞が踏み出さなければ意味がない。価値がない」
腕に抱いた少女の驚くべき軽さを感じている余裕など、今の彼にはない。他人である祐一に出来る事はそう多くない。これは完全に栞の心理の問題である為に、道を指し示す事すら出来ないのだ。
「わたしに、出来ますか」
「栞にしか出来ない事だ。私にも、香里にも君の代わりにはなれない」
「それは、困り、ました。……眠いんです、よ、祐一、さん」
弱く微笑む栞の顔は、蒼白を通り越して雪の様に白い。薄い瞼が彼の見ている前で、閉じられていく。吹雪の中強行軍をしてきたのが祟ったのか、それとも久々にはしゃいでしまったからか、或いは。
或いは、もう既に命の灯が尽きつつあるのか。
「祐一さん、わたしの事、好きですか?」
祐一の返答を聞く前に、栞の瞳は閉じられた。
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この時期の演劇部は、今年最初の本番を前にして何とも言えぬ独特な雰囲気を纏っている。演劇部の晴れ舞台は大きく分けては三つ、新入生歓迎の演劇、文化祭の演劇、そしてダンスパーティの演劇である。その中でも今回の、生徒会主導のダンスパーティで行われる演劇は特別な意味があるのだ。大学進学や就職が決まった三年生にとって、高校最後の舞台であると同時に次代の部長誕生の瞬間が見られる場なのであるのだから。
特別な場であるのは、現二年生も同じ事だ。辣腕を振るった現部長の藤乃 雛政権も、今期で終わりを告げる。彼女や香里、二年生は裏方に回るか受験一本に絞る為に引退を余儀なくされるのだ。次代の演劇部員に道を譲る為、自分の将来の為に。
そんないつもの雰囲気とは、少しだけ違っていた。主演俳優の久瀬、彼のマネージャーを自称する八重、「成功に犠牲は付き物」が座右の銘と言って憚らない雛。特に部長の雛が落ち着いていないのだから、部員全体に不安が広がっているのだ。時折視線が泳ぐだけなのだが、彼女にとってそれは信じ難い挙動不審さである。いつもなら黒く切れ長の瞳は何処を見ているのか分からない位視線が動かないので、置物か何かと勘違いする生徒が年に一人はいるらしい(雛の自己申告なので、真相は部員の知る所ではない)。故に何かを探す様な目の動きは明らかに異常事態であった。
ちらちらとそんな彼女を盗み見る様な部員の視線も全く気にならないらしい、雛の目は腕を組んだまま体育館の出入り口から自分の足下を往復するだけであった。いつも練習の場にしている裏庭が吹雪の為使えないからとか、大道具の完成が遅れているとか、そんな些細な(?)問題ではない。
問題は美坂 香里、主役の暴発にある。香里が本気で久瀬に詰め寄ったのが昨日の今日である、それも問題の根元にあるのは彼女自身のプライドだ。雛にはお世辞にも一朝一夕で片付く様には、いやこの一週間で復調する様な問題には思えなかった。幾ら周りが不調の香里のフォローを利かせた所で、彼女が立ち直るかどうかは別である。更に言えば不調だからと言って彼女は今回の劇の主役ラヒスカ=グリフだ、代役を立てるにも最早遅すぎる。
問題発生当初は話を余計こじらせる結果を招いた八重の軽率を責めたい気持ちも雛の中にあったが、八重を責めた所で何の益もない事を思い出して今に至る。頭を冷やして当時の状況を分析してみると、あの場で彼女を叱責していれば最悪演劇部の空中分解も有り得たという結論を雛は出している。救いといえば動揺していても流石は生徒会長と言うべきか、久瀬が冷静さを崩さなかった事だろうか。
雛はその相変わらず暗い表情の中で、何とか原状回復の術を探っていた。何だかんだと言っても彼女は演劇が好きだから、必死になっているのである。そしてどう考えても香里の問題に突き当たってしまい、思索をリセットしている。そんな彼女の思考が視線の往復に現れているなどと、部員すら知らない事実ではあった。
そんな彼女の視界に、異物が混入した事で雛は再起動した。体育館に入ってきたのは、保健室でガーゼや包帯で痛々しい武装を施している――
「かおりん!」
顔を上げて香里の下へと駆け出したのは、柱に寄り掛かりながら生徒会の書類仕事と格闘していた八重であった。彼女は正義感が強い反面、逆鱗に触れれば烈火の如く激昂する傾向にある。そして人並みに恥じ入る事も心得ている彼女は、自責の念で押し潰されそうだったのだろう。自分が香里を傷付けた、と。
そして香里の姿も碌に見ずに駆け寄った八重は、彼女の姿に言葉を失った。久瀬の拳が入った右目の腫れはもう影を潜めたのだろう、眼帯はない。まともに八重の拳が直撃した頬にはまだガーゼが張ってある、だがそれは彼女もまた予想していた事だ。彼女を硬直させたのは、香里の腕と、脚である。
言葉を失った八重に、香里はいつもと変わらぬ声音で語り掛けた。体育館にいた演劇部員の視線が香里に集中する。
「ごめんなさい」
その一言と共に、香里は八重に向かって頭を下げた。彼女の予想外の行動に、八重の予定に無数の狂いが生じる。「何故」ただその一言が八重の全身を支配し、身体の支配権を奪った。八重の予定だと、香里は本気で殴り付けてしまった自分に対して怒りを抱いている筈だったのだ。彼女は香里の頬を殴打した事自体を間違った行為だとは、今でも思っていない。だがあの後彼女は久瀬に叱責を受け、頭を冷やして考えた結果自分の理不尽さが見えてきたのである。己の過失責任を自覚してからというもの、腹の奥がざらつく様な嫌な感触が消えない。一刻も早く謝りたかった、だから香里の下へ駆け付けたのだ。
「あたし、御桜さんや久瀬君の事全然考えてなかったわ。藤乃や他のみんなにも心配掛けたわね」
「……ええ、香里が無事でなによりよ」
雛も彼女なりに現状を驚いているのだろう、多少声が上擦っていた。
「かおりん、謝るのは俺の方だぜ。頬、痛かっただろ」
香里が別に怒っていない様だと八重がほっとしたのは事実だったが、彼女の中の罪悪感が消えた訳ではない。何もかも吐き出さなければ、彼女の気は収まらないのだ。是が非でも謝ろうという気構えである、普通は逆だがこれが御桜 八重という人間であった。竹を割った様な性格だ、と彼女を知る者からはよく言われている。
「ええ、とても痛かったわね」
悪びれもなく肯定する香里に、八重は呻いた。
「でも八重の本気を受けられた事自体は、悪くなかったわ。八重の気持ちが伝わってきたから、本当に久瀬君の事大切に想っているんだって分かったから」
「か、からかうなよ」
言われた意味を理解して赤くなった八重を微笑ましく思いながら、香里は続ける。
「この痛みから、あたしは人を想う事の強さを再確認出来た気がするの。だから御桜さん、ありがとうね」
「俺を買い被りすぎだぜ、かおりんはよォ」
ちっ、と舌打ちして八重は香里から視線を外す。彼女からの思わぬ賛辞に、八重はむず痒い様な気恥ずかしさを感じた。何せ終始久瀬にからかわれ続けてきた八重だ、褒められる事に慣れていない彼女はどうも調子が狂ってしまう。口笛でも吹いて誤魔化したい所だが、生憎彼女は不器用なのか性格的な問題からか口笛は吹けない。そんな彼女の頭を押さえつけ、強引に頭を下げさせる者がいた。
二人が話し込んでいる間に近付いていた久瀬である。
「すまないね、美坂さん。僕も、八重も頭を下げるから許して欲しい」
「痛ェよ久瀬、離せ畜生!」
そう言って久瀬は香里に対して本当に頭を下げた(頭を押さえ付けられた八重は強制的に、である。押さえ付けている彼の手を退けようと八重は己の頭上で格闘するも、戦況は芳しくない)。こういう律儀さは彼の良い所ではあったが、今の香里にとっては当惑が強い。彼女が八重に感謝しているのは紛れもない事実であったし、迷惑を掛けたと思っているのも本当である。
彼が謝るのは筋が通っているが、香里は異を唱えたい。理屈ではなく心情的に、である。自分の中で決着を付けたものが掘り起こされている様で何となく落ち着かないのだ。
「八重は記憶力が弱いから、持論をよく忘れてしまうんだよ」
彼の手を退けようとしていた八重の動きが止まる。痛い所を突かれたらしい。
「前に美坂さんに八重が言った科白、覚えているかい。『顔は女の命だぜ』、と」
「確かに言ったわね」
「それなのに八重は美坂さんの顔を思い切り殴打した、だから今謝らせているのです。さっぱり謝る気配がないですしね」
久瀬の言葉が八重にぐさりぐさりと突き刺さっている様である、彼女は先程より明らかに元気がない。彼に言わせれば八重は元気がない位が丁度良いとの事だが、香里の目には彼女が少し可哀相だと映る。付き合いが長い分だけ流石に久瀬は加減を心得ているのだろう、手を彼女の頭から離した。
「かおりん、ホントすまねェ」
「八重、誠意が感じられない謝罪は止めなさい」
漫才の様な二人の掛け合いが、香里には可笑しくて仕方がなかった。本当に信頼し合っている久瀬と八重が、羨ましくて仕方がなかった。
「それと聞きたかったんだけどよ、その脚と腕の怪我はどうしたんだ。俺、そんな所まで一撃喰らわした記憶ねェんだけどな」
漸く久瀬が八重の頭を解放したので、彼女は己の頭をさすりながら聞きたかった質問をぶつけた。何せ包帯である、ガーゼである。当たり前だが怪我なのでガーゼ越しにうっすらと血が滲んですらいる。香里が露出している腕と太股の他に右肩にも包帯を巻いた事を告げると、二人は目を丸くして驚愕を深くした。
「病院帰りに、ちょっと知り合いと喧嘩してしまったのよ」
流石に相手が金属製のダーツという殺傷能力のある武器を使っていた事は言えないが、嘘は言っていない。何しろ彼女を殺す意思がなかった、と香里自身が祐一の告白を聞いている。証拠は戦いが終わった後負けた香里を殺さなかった事もそうだが、何より決定的な事実が一つある。
香里の左拳が彼の顎に直撃し、彼女が勝利を確信した直後の反撃だ。結局彼の手に握られていた金属針は香里の腕を貫通していない事こそが証明になる。不殺の誓いがないならば、あの戦いの中で左袖から取り出した金属針をわざわざ貫通しない長さに握り直したりしないだろう。あの場では気付かなかったが、家に帰るまでの時間で彼の戦闘方法を改めて思い描き、彼女は気付いたのだ。
針の長さと、彼女の腕に刺さっていた長さが不自然だった事。
香里は万が一の時、祐一の事を殺しても良いと思っていたが彼は違ったのだ。結局手加減して貰って漸く善戦出来る様な実力しか持っていなかった、香里は今度こそ自覚せざるを得なかった。己の弱さ、未熟さ、卑小さ。比べる対象を祐一としても久瀬としても八重としても、それは嗤いが零れる程に絶望的な差である。精神的にも技術的にも一朝一夕で埋まらないだろう。
「喧嘩出来るなら大丈夫だよな。かおりんは思ったより元気で俺も安心だぜ」
「八重がそれ言いますか」
「そうだった、悪ィなかおりん」
片手で合掌の形を取りながら、照れ笑いを浮かべて謝罪する八重の頭を再度押さえ付けようとする。だが彼女も反射能力的に見れば彼に劣っている訳ではない、彼女は軽いフットワークを利用した体重移動で頭上から襲い来る掌を躱して勝ち誇る。
「へっ、俺も二度同じ手を喰う程馬鹿じゃないぜ」
「良く言いました、この際ですからきっちり決着を付けましょう。……美坂さん、少々待っていて下さい。僕が八重にしっかりと謝らせますから」
「面白ェ、吐いた唾呑ませてやるぜ」
恐らく本気でやっているのであろう久瀬と八重を見て、香里は腹の奥底から湧き上がる衝動を抑えきれずに笑う。小鳥の囀りを連想させる控え目な笑い方で、彼女によく似合っていた。それは戦闘態勢に移行しようとしていた二人が、思わず振り返ってしまう程に透明な笑顔である。
顔の筋肉が抑えきれない中、香里の心は不思議と澄み切っていた。敢えて言うならば精神疲労から生まれ、溜まっていた膿が排出された様なと言えば良いだろうか。
「いえ久瀬君、御桜さんの誠意はちゃんとあたしに伝わったわ」
今日、家に帰れば恐らくドレスが届いているだろう。特注の、妹の――栞の為だけに作られたドレスが。それを片手に、香里は彼女に招待状を差し出すのだ。姉として、家族として。最愛の妹に、最高の思い出を贈る為に。
全ての手筈を揃えるのだ。
「さてそろそろ練習に入りましょう、本番まで本当に時間がないわ。あたしも頑張るから、久瀬君もお願いね」
「分かりました」
「……最初から最後まで通して行うわよ、久瀬と八重もコントは後で。……全員、台本は頭に入っているでしょうね?」
香里を含めた、演劇部全員の声が唱和する。部員の気合いの乗りに雛は不敵に笑う。ここからは辣腕監督・藤乃 雛の本領発揮である。
昼休み、学校に来た救急車の意味を知る事もなく香里は静かに気炎を上げていた。