四章
◆
まるで冗談の様な光景が目の前に繰り広げられていた。呆然と立ち尽くすのは一人ではない、多数の人間である。掛けられる言葉がない。発せられる言葉がない。それは事情を知る者にとって有り得ない事だったから。
藤乃 雛ですら。
御桜 八重ですら。
弘近 久瀬ですら。
美坂 香里ですらも。
目の前の光景が信じ難く、呆然と立ち尽くす。白の絨毯に転がるものが理解出来ぬと無言で語る。見下ろす視線は全て白の上へ。驚愕も、焦燥も、喜悦も、怒りも、一切合切が打ち捨てられたのだ。漸く自らの心理状態を認識した時、香里の中で何かが壊れた。いや、必死に押さえていた防壁が決壊したと言うべきか。
香里の中で、彼女達の立ち回りで荒らされた雪の絨毯にまた一歩跡を付ける。
「………るな」
その場にいた誰もが聞き取れず、小さく呟いた彼女は再度同じ呪詛を吐き出す。はっきりと聞き取れる大量の怨嗟と共に。どす黒い怒りで彼女の視界は真紅に染まった。
「ふざけるなっ!」
雪の上に転がった久瀬の身体を力任せに無理矢理引き上げ、彼女は更なる怒りをぶつける。
「お前はあたしに対して手を抜いているのか、何故あたし如きにお前が倒されるんだ。何の真似だって聞いてんだよ。何か言ってみろよ、この屑め!」
いつもは想像も出来ない口調の香里が、タガの外れた激しい憎悪に突き動かされている事を如実に表している。確かに久瀬は彼女の顔を見て、思わず攻撃の手を緩めてしまっていた。確かに彼の行動は故意ではないとは言え、叱責されるに値するだろう。それ故に彼女が怒るのは当然の事ではある、だがこの怒り方は明らかに尋常なものとは言い難い。彼女の中に理不尽があるのだ。八つ当たりに近い形で久瀬を怒鳴り散らさねば、精神を保てなくなる様な理由が。
だがそんな理由は久瀬には関係ない。故に彼が理不尽をぶつける彼女に怒りを覚えるのは当然の摂理であろう。
「お前はあたしより強いと自惚れていたんだろう、だからあたしに負――」
だが彼女に向かって飛来した反撃の鉄拳は、久瀬のものではなかった。罵倒は強制的に中断を余儀なくされる。彼女の反応速度を遙かに超える兇拳が、香里の頬をまともに捉えたのだ。ぐしゃりと潰れる肉の感触が、拳を打ち込んだ本人に伝わる。香里に無理矢理支えられていた久瀬はたたらを踏み、香里を殴り付けた者を視界に納めた。
「かおりんにどんな事情があるのか俺は知らねェ、知りたくもねェよ。だがな、久瀬に八つ当たりすんな。……殺すぞ」
低く唸る様な、ドスの利いた八重の声が無風状態の周囲に響く。胸の前で右拳に左手を被せている様は、鋭利な視線と相俟って相当な迫力がある。
殴られた香里は立っていられず、雪の地面に転がったまま八重を睨み付けている。どうやら鬼神の如き八重に対し、恐怖だけを抱いている訳でもないらしい事は彼女の瞳を見れば分かる。彼女は口に溜まっていたらしい血を雪の上に吐き出す。本気で打ち込んだらしい彼女の鉄拳で、香里の咥内は血塗れになってしまっていたのだ。
そして彼女はすぐに立とうとして、再度踏み固められた白に尻餅を付く。彼女自身の意志に反し、脚に力が伝わらないのだ。八重と久瀬の拳の質の違いが、香里の意識を留めたまま地面に縫い付けたのである。体重にものを言わせた久瀬の打撃に対し、体重の軽い八重の拳は正確無比に人体の急所を打ち抜く事で相手を戦闘不能にする。剣術を習う過程で囓った事のある程度の久瀬の拳とは、根本的な箇所で決定的な差があるのだ。
「……はい、それまで。……八重も、香里もK−1は本番が終わってからにして頂戴」
未だ立てない程足にきているのか、それとも雛の言葉に耳を傾けているからなのか香里は見上げてその言葉を聞いている。この場にいた全員が自分の言葉を聞いている事を確認してから、彼女は続けた。
「……香里、歯は折れていないわね」
血が飛ぶ事を嫌ってか、彼女は頷く事で肯定を示す。
「……それは良かったわ、でも念の為に今すぐ病院には行く事。……ほら、他の部員も練習に戻りなさい。……久瀬は香里なしで出来る出番の練習ね」
そう雛が指示しただけで何事もない、いつも通りの練習風景が戻った。香里はふらつきつつ立ち上がり、自分の荷物を纏めに掛かる。久瀬は香里に視線を合わせずに自分の台本を取って、確認を取っている(鍛え方が香里とは根本的に違うのか、動きに差し障りはない様である)。雛は部長だけあって本当に忙しいのだろう、慌ただしくこの場から体育館の方へ小走りで離れていく。
「ヒナっち、ちょっと待て!」
呼び止めたのは、未だに一人呆然としていた八重である。
「……何かしら、八重」
「俺は何の咎めもなしかよ、俺ァ香里を殴ったんだぜ」
「……八重は自分が正しいと思ったから殴ったんでしょう」
「ああ、俺は後悔してねェ」
香里の肩が震え、久瀬の視線が台本から雛と八重の二人へと注がれる。払拭されたかと思われた剣呑な雰囲気がまた再来したか、八重は空気が乾いていくのを実感した。
「……なら私から言う事はないわ。……罪悪を感じる様なら、自分で何とかなさい」
「あ、おいヒナっち」
今度こそ、八重の呼び掛けに雛が応ずる事はなかった。荷物を纏め患部に応急処置だけをして、顔も上げずにこの場を去って行く香里が彼女と顔を合わせる筈もなく。増してや自らの行いを信じて疑わぬ八重が、香里にどんな言葉を掛けられるのか。そんな事は雛とて分かり切っている事だろう。故にこそ、この裁定なのだと八重は思う。意地の悪さは久瀬の比ではない。
既に舞踏会まで二週間を切っていた。既に時間はないのだ、雛にとっては幾らあっても足りないと言いたいのだろう。部外者の八重になど、構っている暇がないという位には。主役の香里、主役の次に重要な役回りの久瀬、演劇部の中心を担う雛。八重には何もない、稽古場に居場所がないのだ。
「クソが」
ぽつりと力無く呟いた八重の拳はこれ以上ないという程に、きつく握られていた。
◆
病院の一室に明るく楽しげな笑い声が響く。あまり騒々しいのは「静」の属性を旨とする病院という建物として褒められる事ではないが、元気なのは良い事だと往々にして甘く見られる傾向にある。特にこの病院では重病ともなると尚更その傾向が顕著になる。元気がないよりもある方が良いに決まっているからだ。
「それでですね、祐一さん。冴子さんが目を覚ましたわたしに向かって何て言ったと思いますか? 『またくたばり損なったんだな、栞』ですよ、もうわたしも冴子さんも大笑いでした」
冴子というのはここの病院で栞が一番仲の良い看護婦だとかで、竹を割った様な清々しい性格なんだそうな。学生時代は関東圏にある学校の陸上部に所属していたとかで、彼女によると引き締まった体躯がとても素敵らしいとの事。会った事のない祐一には容姿は想像が付かないが、体育会系の看護婦だという事は何となく分かる。
そして蛮勇と確かな観察眼を兼ね備えているのだろう。患者が何を求めているのかを理解していなければ、患者自身と病院の評判を深く傷付ける事になりかねない。
「だからわたし、冴子さんみたいな看護婦になるのが夢なんです」
白いベッドの上で、文字通り夢見る少女を地で行く栞に祐一は水を差す。
「病院勤務は精神的にも肉体的にもなかなか大変だと聞く。栞では無理だろう」
「そんな事ないですよ、わたしだってやれば出来る筈です」
明らかに華奢な自分の胸をとん、と叩いて栞は笑顔を見せる。
「モグラ叩きのスコア一桁がそんな大言壮語吐いて良いものかね」
「そんな事言う人嫌いです」
彼女はそんなお決まりの台詞を口にしてから、はたと気が付く。祐一の表情に殆ど違いがない事はいつも通りである。では精神的な面はどうであろうか。
「モグラ叩きと看護婦の仕事は全然関連性がないですよ、祐一さん」
「何も変わりなく元気で、私も安心だ。栞はいつも通り脳味噌の回転が遅い」
やはりからかっていたらしい事に気が付いた栞は、反射的に口を吐いて出そうになった言葉をすんでの所で呑み込む。同じ事を繰り返していては底意地の悪い祐一の事である、今度は単細胞だと言いかねないと思ったのだ。彼女はこんな偏屈な祐一と友達をやっているあゆに対し、改めて畏敬の念を抱いた。
「祐一さんの口の悪さも、意地の悪さも変わりありませんね」
「全くだ」
「否定しないんですか」
「栞と違って、私には自覚症状があるのでね。別に直そうとも思わないが」
祐一はそう言って、ライターと煙草を取り出してから自分の行動に気付きそれらを仕舞う。煙草の代わりなのか、彼は自分の鞄の中からチョコレート菓子を取り出して頬張った(食品量販店でたまに見掛ける、ス○ッカーズという名のチョコレートが掛かったスナックに中にアーモンド混じりのキャラメルが入った棒状の菓子である)。栞の方にも一本放る辺り、彼なりに見舞いの品とでも思っているのだろう。
「アイスクリームではないが、それで我慢しておけ」
「残念ですけど、我慢します」
退院したら絶対に食べますけど、と但し書きを付ける辺りは流石栞といった所か。ベッドの上にカスを零さない様、丁寧に包み紙を剥く仕草は小動物を連想させる。口の大きさも当然彼女の身体に合わせたものになるので、益々小動物である。動物に例えるなら栞はリスだろう、と祐一は適当な事を思った。
そんな彼の視線に気が付いた栞は怪訝な顔をする。何しろ彼女の入院する部屋には、栞と祐一しかいないのだ。彼女の言によれば別にこの部屋は個室ではないそうだが、他に入院者がいない為に彼女が一人で仕えるのだという。そんな訳で栞の注意すべきは祐一だけで、反対に祐一の注意すべきは栞だけとなる。お互いの細かな動きが目に入るのも当然といえば当然である。
「祐一さん、わたしの顔に食べ滓でも付いているんですか」
「いや。本当に栞は元気なのだなと思ってな」
リスみたいだと言うのが何となく気恥ずかしくて、彼は咄嗟に嘘を吐く。
「わたしは元気ですよ」
「入院してる様に見えるのは私の気のせいか」
「わたし、別に病気に罹っている訳でも怪我をしてる訳でもありませんよ」
栞は改めて笑顔を作る。祐一は何度か彼女と顔を突き合わせていて分かった事がある。この栞という少女は本当に辛かったり苦しかったりした時、笑顔を作るのだと。だから彼女の笑顔はこれ程までに痛々しいのだ、祐一はここに来て漸く悟った。
「去年までは本当に病気でしたけどね」
笑顔のまま、栞は告白を続ける。世間話をする様な気安さで、凄惨な昔語りが彼女の口を吐いて出るのだ。外の風景に白いものが混じり始めている。笑顔とは裏腹な彼女自身を映すが如く、徐々に雪の塊を大きくして風が二重構造の窓を叩く。室内に入り損ねた風の怨嗟が、病室に木霊した。
「癌だったんですよ、わたし」
具体的な説明はしなかったが、彼女が生まれてから現在に至るまで病院での生活がかなりの割合を占めていたのだと語った。入院し、腫瘍部分を切除して退院し、再発して入院して。栞の人生はそんなイタチごっこの様な人生だったらしい。「祐一さんは知ってましたか、癌って凄く痛いんですよ」、そんな他人語りが出来るまでどれ程の時間と諦観があっただろうか。大病を患った経験がない祐一には想像すら出来ない事である。
「子供の頃のわたしは馬鹿でしたから、奇跡を願いました。いつかこの地獄が終わる日が来るって、お姉ちゃんと一緒に学校に行ける日が来るんだって」
あはは、と無邪気な笑い声が栞の口より漏れる。
「神様を呪ったりもしましたね、何でわたしだけがこんなに辛い目に遭わなきゃならないんだって。わたし馬鹿ですよね、本当に。神様なんて現実には存在しないのに。でも祐一さん、奇跡は起こるんですよ」
奇妙な話である。神を信じぬ栞は奇跡を信じるのだという。奇跡を確率と割り切ってしまっているのなら、確かに奇跡は起こり得るものだ。だが数学に支配された奇跡とは、何と味気ない事か。
「去年、医師も家族もわたし自身すらも諦めていた癌の根治が成功したんです。奇跡ですよね」
「ならば今栞が入院する必要がないだろう」
「そうですね、わたしも入院したくありませんし。でも、根治した筈の癌の痛みがわたしの身体に残っていたんです」
「そんな珍事が起こるなんて奇跡的な確率ですよね」、笑顔のまま続けられた彼女の皮肉は諦観に彩られていた。恐ろしい程の重さを持った言葉に、祐一には乾いた笑いすら出てこない。いつも通りの鉄面皮を少しだけ強張らせるだけだ。
催眠を掛けた人間に「これは熱した鉄の棒だ」と言って木の棒を押し付けると患部に火傷の跡が残る、そんな話を栞は披露した。祐一も知っている位に有名な、思い込みと物理的な効果を調べた実験である。他にも対人地雷で足を失った兵士が、失った筈の足が痛いと医師に訴えた例もある。結論として栞の「癌による痛み」も、同じ幻痛の類であるという診断がされたのだと彼女は語った。
「家族も医師も、殆どパニックでしたよ。物理的な原因がないのに患者であるわたしが痛がるのですから。医者の一部には、わたしの狂言だと疑う人間までいた位です」
癌の痛みが残留するなんて前例のない事でしたから、そう彼女は気楽に語るが実際はどうだったのだろうか。有り得ないと思われる事が現実となる、それが奇跡であるならば彼女の身に起こった事は間違いなくそれであろう。現象に善悪などある訳がない、時として救いになりまたある時は災厄にもなる。
「でもわたしは本当に痛いんです。分かってくれる人なんて誰一人いませんでしたけど、今でも痛くなるんですよ」
一端言葉を切り、栞は今までの病院で起きた出来事に思いを馳せる。病院としては彼女の様な長期で入退院をする患者を快く思っていない。彼女が幼かった頃は分からなかったが、これだけ長い間病院と関わっていると見えてくるものがあるのだという。患者を実験動物として扱う医者、患者の立場で医療をしていこうとする医者、効率を最優先にする看護婦、患者一人一人に時間を掛けて接してくれる看護婦。彼女の本当の意味での味方は決して多くはなかった。
「わたしを気に掛けてくれたのは、最終的には看護婦の冴子さんだけになりました」
心因的な原因で起こる栞の痛みに対し、現代医療は無力だった。元々原因を探り病巣を摘出するのが現代医療、いや西洋医学の原点なのだ。彼女の症状に対して現代日本の医療が出来る事は多くない。彼女が感じる痛みを和らげる薬を処方するか、睡眠薬で意識そのものを落とす様にするか。後は彼女の精神に対して外部から働きかける位しか方法自体がないのが現状である。
極論を言えば彼女の脳そのものを外科手術措置によって変えてしまえば良いのだろうが、ロボトミー手術は現代医療に於いて禁じ手となっている。そもそも彼女を人形にする措置など、彼女の家族が許す筈がない。
「自殺も考えました。祐一さんと初めて会った時、わたしは自殺用のカッターを買って帰る途中でした。必要のない雑貨まで買い込んでしまっていた事に気が付いて、結局わたしは本気で自殺する意気地もない事を証明してしまったのですよ」
そんなに日数は経っていないのに何年も昔の出来事みたいです、栞はそう付け加える。懐かしむ様に、或いは名残惜しむ様に彼女はゆっくりと目を細めて微笑んだ。
「いつの間にかあれだけ仲の良かったお姉ちゃんも、お父さんもお母さんもよそよそしくなってしまってわたしとまともに会話しようとすらしません。この理由については、わたしもつい最近知ったんですけど」
笑顔のまま。笑顔のまま、栞の瞳から涙が溢れ出た。大粒の涙を流しながら、彼女は言葉を続ける。
「わたしの身体は大量の薬を使い続けたせいで、もうボロボロなんだそうです。最悪後二週間位でわたし、死んじゃうんだって冴子さんから聞きました。それでお姉ちゃんも、お父さんもお母さんもよそよそしかったんだって悟りましたよ。……遅すぎですよね」
彼女はシーツを握り締める。
「折角祐一さんとも知り合えたのに、もうわたしは生きられないんだそうです。わたし、いつも、行動が、遅いんです、よ」
笑顔がぐしゃぐしゃに歪む。栞は歯を食いしばり、目をきつく瞑ったが涙は止まらない。それどころか涙はいよいよ奔流になって彼女の頬を幾筋も濡らしていく。顎を伝い塩分を含んだ水がシーツに一滴、二滴と染みを作った。
「わたし、こんな奇跡欲しくなかった」
◆
香里は雛に病院へ行けと言われたが、生憎と彼らの住む街には大きな病院はない。彼女は仕方なく隣町にある病院まで行く事になったのだが、その道程は自身の予想通り、彼女にとって気楽とは言い難いものとなった。いつもならば少し時間が掛かるだけでそんな苦にもならないが、今の彼女は「いつも」の状態にないのだ。まず八重に殴られた頬が今になってヒリヒリと痛み出している。そしてこの前久瀬に殴られた右目が酷く痒い。片目で歩いている為、平衡感覚と距離感覚が危うい。そして益々強くなる風雪が寒いを通り越して、痛い。
そして何より、香里は自分に対する周囲の視線が辛かった。隣町に行く為にはJRを使用しなければならないのだが、彼女は乗客の視線を一手に引き受ける羽目に陥っていたのだ。右に眼帯、性質の悪い風邪に罹った時に使用するマスクを付けているので人相が酷く悪いのである。まるで何処かの国のテロリストだと彼女自身も思うが、マスクと眼帯を取ると今度はかなり凄惨な顔になるのだ(四谷怪談のお岩さんを連想すれば分かり易いだろう)。それでなくとも患部に雑菌が入れば炎症を起こしかねないので、彼女は雛から眼帯やマスクは付けている様にきつく言われている。お陰で彼女は改札出口で足止めされ、職務質問までされてしまっていた。
しかし今はJRを降り、そんな奇異なる視線から解放されている。急速に強くなりつつある風雪の前に、彼女の異様さに一瞥をくれる程余裕のある他人はいない。皆下を向き、目に雪が入らない様に歩いている。香里はこんな時、自分で一人である事を強く感じるのだ。街があり、ヒトの営みがあり、地方とは言えそれなりに大きな都市であるにも拘わらず、彼女は独り。
香里には他人が分からない。
――御桜さん、本気で怒ってたわね。
稽古中に手を抜いた久瀬に対して、頭が沸騰した香里を彼女は見事に打倒した。すぐには立ち上がれぬ程の衝撃を、香里と大して体重の変わらぬ筈の八重は叩き出したのだ。技術的にも、筋力的にも、反射速度的にも八重と香里では天と地程の差がある。だが彼女の持つ拳の重みはそれだけではあるまい、実際に殴られた香里には分かるのだ。
香里が理不尽な怒りをぶつけた相手が他ならぬ久瀬だから、八重はあんなに強いのだと思う。二人の関係が本当の所どんなものなのか、彼女は知らない。恋人同士なのか、ただの友達同士なのか、それは部外者である彼女の立ち入る事ではない。ただ八重は久瀬がどんな状況に追い込まれようと、彼の味方であり続けるであろう事位は推測が付く。それだけ信頼出来る相手がいる事は香里には何とも羨ましく思う。
香里にもかつてはそんな相手がいたからこそ、尚更羨ましいのだ。彼の地なのか、人を小馬鹿にした様な態度を取る久瀬が八重の側にいる事が。切れ長の瞳の生徒会長は外見からか陰険そうに見えるものの、実は典型的日本人らしいお人好しな男である。攻撃の直前、彼は香里の眼帯を見て一瞬手を止めてしまったのだ。事故とはいえ自らが起こした傷害を見て罪悪感が再燃したのか、それとも怪我人に対して手を上げる事を躊躇ったのか。
久瀬の脳裏に走った一瞬の躊躇が、覆らない筈の勝敗を覆してしまったのだ。香里は彼を打ち負かしてやろうといつも思い木剣を、拳を繰り出していた。だが実際に勝者の側に立って彼を見下ろしても、達成感がない。代わりに湧き上がってくるのは沸々と煮え滾るマグマの如き、どす黒い怒りだった。彼女は別に手を抜いて勝たせて貰いたかった訳ではない。より正確に彼女の言を示すならば、香里は久瀬に勝ちたかった訳でもない。
彼女は、香里は他人に認めて貰いたかったのだ。学年主席と言われ、周囲の彼女に対する評価は一様に同じものとなっていた。香里ならば出来て当たり前、「学年主席だから」、他人が彼女を評価する時にそんな枕詞が付く様になったのはいつからだったか。
演劇では素人の久瀬だったが、こと剣術に関して言えば立場が逆転していた。いつもは見下ろさなければならない所で、彼女は逆に見下ろされていた。稽古の終わりに此処が良かった、悪かったと彼は忌憚なく意見を述べる。そして彼や八重の助言を念頭に更に自己鍛錬を繰り返す日々が続いた。上達が肌で感じられる事が、稽古の終わりに誰かに褒められる事が嬉しかったのだ。子供の様に夢中になって木剣を振るい、いつしか彼女は久瀬や八重に「強くなった」そう言われる事を目標に頑張っていた。
だからこそ彼女を見上げる久瀬が、香里には笑っている様に見えたのだ。勿論そんなものは妄想だと今は分かるが、視野狭窄に陥っていたあの状況では彼女は嘲笑されていると思った。お前は所詮相手に手を抜いて貰わねば勝つ事すら出来ない、そう言われた気がして。
彼女は久瀬に対して言ってはならない暴言を吐いてしまった。言った直後は微塵も思わなかったが、一人になって少し時間を置いて考えると香里は物凄い自己嫌悪に襲われた。
嗚呼、すれ違いは何と悲しい事か。
今回の演目『ラヒスカ=グリフ』も、そんな人と人のすれ違いが主題となっている。主人公ラヒスカ=グリフと、彼の親友であり一軍の統率者ツォーニ=ウィザリとのすれ違い。主人公グリフの治めるヴァルトゥン帝国は結局、他者の裏切りによって滅亡してしまう。ウィザリが北方で精強なランテ軍と戦っている最中、ヴァルトゥンの東方を護っていたルグル人傭兵部隊『アプルフーケ』が突如ランテ帝国側について、首都スキィリネに向かって侵攻を開始するのだ。軍のほぼ全力をランテ軍との戦いに投入していたヴァルトゥンはウィザリを助けようにも、余力がない。
これに対しグリフは仕方なしに未完成の魔法兵器『ハープラド』をヴァルトゥン市民に持たせ防衛戦力とした。ヴァルトゥンでは本来戦争は職業軍人と傭兵、それに奴隷階級が担う責務だったのでグリフに対する不満が噴出する。ランテ人の血が流れているという噂のあるウィザリを、そして彼を重用するグリフをも失脚させようと一部の臣下が画策した罠だとも知らずに、グリフは不満の対処に追われる。
『ハープラド』は巨大な曲刀の形をした魔法兵器である。魔法を使用しない者が使う為に制作されたものなので使い方は「柄を握るだけ」と極めて簡単に出来ており、周辺諸国に名を轟かす傭兵集団『アプルフーケ』相手にも戦果を挙げる事が出来ていた。しかしこの兵器は未完成だけあって、問題があったのだ。
『ハープラド』を使用すると常人を遙かに超える運動能力を獲得する反面、本能に殺戮衝動を刷り込まれ元の人間に戻らなくなる事。栄養源を得る為に敵味方問わずに屍肉を貪り喰らい、お伽噺の悪鬼の如く血を啜る事。最終的には異常に強化された運動能力に身体が耐え切れずに死に至る事。
『ハープラド』が如何なる物なのかを理解しだした臣民達はヴァルトゥンの臣民は敵を倒す為にモンスターを創り出してしまった、と恐怖に怯える。そんな恐慌が暴動に発展するのは何時の時代も何処の世界も変わらない、矛先はすぐに『ハープラド』の投入を決めたグリフに向く事となった。
混乱するヴァルトゥンの首都スキィリネにツォーニ=ウィザリ将軍戦死の報がグリフの下へ届く。戦局が急速に悪化してゆく中で、親友の死を前にして悲嘆に暮れる時間さえ与えられず遂に暴徒がグリフを取り囲む。そして暴徒の一人が告げるのだ、今回の暴動は彼の信頼していた臣下の一人が敵軍のスパイと共に起こしたものである事を。
親友だったウィザリとはすれ違いのまま別離し、信頼していた臣下には裏切られ、どんな事をしても護ると決めた筈の臣民からは悪魔と罵られる。彼は失意のまま自害し、劇は幕を閉じる。
香里は自分の状況と、ラヒスカ=グリフを重ね合わせる。すれ違いを重ねて、自分もまた大切な者と死に別れてしまうのか。彼女に与えられた時間は余りに短い。だがグリフよりはマシな筈である、たがそれでも彼女は自分が恵まれているとは思えなかった。『ラヒスカ=グリフ』は架空の話なのであるから当然と言えば当然だが、彼女の考えていたのは物事の虚実ではない。
期限が区切られていた方が幸せなのか、知らされぬ方が幸せなのか。つまりはそういう事である。グリフは不意打ち的に全てを知り、死んでいった。だが彼女は、既に己の死期を知ってしまったらしい。彼女と年が近く、仲の良い看護婦の冴子さんが本人に伝えたのだ。
弱い癖に。
脆い癖に。
告げられた彼女は楽しそうに笑い出したそうだ。わたしもそんな気がしてました、そう言って彼女は大笑いしたと聞く。何故弱さを見せようとしないのか、無様に泣けば良いのに。恥も外聞もかなぐり捨てて、何故彼女は人を頼ろうとしないのか。そんな考えが頭を過ぎる様になった時、香里は以前にも増して彼女を避ける様になっていた。血を分けた、大切な妹だというのに。
香里は顔を上げ、雪避けに手でひさしを作り目の前の建物を見上げた。考え事をしながら歩いている内に、目的の病院についた様だ。そう言えば昨日、この病院に妹が担ぎ込まれたと部活から帰ったと同時に親から聞かされていた事を思い出す。恐らくはまだいるだろうが、香里は顔を合わせようとは思わなかった。
顔を合わせた所で何を言えばいいのか、香里には思い付かないからだ。どんな言葉を並べ立てた所で、彼女が妹を避けていた事実が変わる筈もない。最悪で彼女の命は約二週間しかない、貴重な時間を姉妹喧嘩で浪費させるなど言語道断である。妹の顔を見られなくなった今でも、香里は彼女の事が好きだと自信を持って言える。だからこそ死期が近いにも拘わらず気丈に振る舞う彼女を見るのが辛い、だからこそ香里は自分の為に彼女を避けるのだ。そう、彼女が支えを必要としている事を知っている事すら知っていながら。
――最低ね。最低は久瀬君じゃなく、あたし。
「お姉ちゃん!」
自嘲の溜め息は、少女の掛け声に掻き消される。
◆
ジュースを買おうと一階ロビーまで降りてきた栞は何気なく玄関の方へ視線を移し、硬直した。怪訝に思った祐一が彼女に声を掛けても何の反応もない、それよりも遙かに強い衝撃が彼女にあるらしい。程なくして彼女は弾丸の様な全力疾走で、風雪吹き荒ぶ外の世界へ飛び出した。
そんな栞を祐一は追い掛けようと思ったが、すぐに慎重になる。恐らくは彼女が会いに行ったのは、栞にとって大事な人間であろう。彼が行っても全く意味がないどころか、逆に邪魔になる可能性だってある。二人は祐一が立っている場所から少し離れている為、件の人物の容姿は分からない。そんな遠距離から良く人物の特定が出来たものだ、と彼は栞に感心する。それだけ会いに行った人物の事が大事だという証左か。祐一はロビーの壁に寄り掛かり、栞が帰ってくるのを待つ事にした。
するとどうした事だろうか、二人は手を繋いだまま病院内に戻ってきた。そこで栞が手を引いていた人物が漸く誰なのか、祐一にも分かった。
「香里か」
栞が手を引いてきた人物、それは彼のクラスメイトの美坂 香里であった。言われた彼女は祐一から顔を背けるが、それが彼の興味を逆に惹き付ける。彼女が眼帯を付けて登校してきた時も驚いたが、今回は更に強力なインパクトがあるのだ。口裂け女が使う様なマスクに、以前から付けている眼帯。顔の三分の二が隠れる事によって、そこにいるだけで異様な雰囲気がある。
「それにしても栞、よくこんな扮装した不審人物を遠距離から確認出来たな。今の天気は吹雪だぞ」
「だって、わたしの大切なお姉ちゃんですから」
祐一にマスクと眼帯の自分を不審人物呼ばわりされて彼女は不機嫌になるが、そんな表情を見られないで済むのは怪我の功名か。たまに昼休みに学校に来ていた栞が祐一と会っていた事は知っていたが(栞はあんなに大っぴらに中庭にやって来て、ばれないとでも思っていたのだろうか)、それよりも香里にとって彼がこの場にいる事は全く考えてもいなかった事だ。
また祐一にとっても、香里が病院を訪れたのは想定外の出来事であった。名雪の報告によると香里は妹などいないと言ったらしいが、彼はその発言を余り信じていない。名雪を信じていないのではなく、香里の発言を信じていないのだ。栞によれば、彼女と仲の良かった姉も自分の死期が近付くにつれて彼女を避ける様になっていったのだという。正直に答えない事など、彼女らの状況を鑑みれば充分予見出来る事だ。
「お姉ちゃん大丈夫ですか」
酷い怪我をした姉を心配する妹に対し、姉の方はにべもない。
「ごめんなさい、腫れてるから触れないで」
彼女の手を香里は退けて病院の受付で急患を告げ、診察カードを見せる。香里が栞に会いに来たのではなく、本当に自分の怪我で病院に来た事を祐一は実感する。栞が親しくしても、香里は一言二言で会話を終わらせてしまうのだ。段々彼女も会話を切り出しにくくなり、香里が診察から戻ってくる頃には栞は曖昧な笑顔を浮かべるだけとなっていた。辛い時、苦しい時に敢えて見せるあの笑顔だ。
「じゃあね、栞」
別れの言葉すら、顔も見せずに彼女は歩き出した。そんな彼女の背中が栞と同じく辛そうに見えたのは果たして祐一の気のせいだろうか。
「香里」
祐一の問い掛けに対しても、一瞬歩行速度を緩めただけで止まろうとすらしない。誰を――そんな事は分かり切っている、栞を、である。病室で聞いた栞の話から、香里が彼女と顔を合わせ辛いのだろうという事は祐一でなくとも想像が付く話だ。そして彼だからこそ、それ以上の事が推し量れた。彼もまた、昔香里と同じ様な状況に陥っていたから。
祐一は今すぐ香里を追い掛けたい。だが栞を置いていくのもまた、憚られる。二者択一の答えを出しあぐねる彼に、対して栞が彼の背中を後押しした。
「祐一さん、お姉ちゃんの所に行ってください」
栞は笑顔で祐一を後押しする。それは飛び切りの、微塵も辛さを感じさせぬ最高の笑顔。つくづく損な性格だと、栞は自分でも思う。今ここで彼に泣きつけば彼を引き留める事など容易いと、あまり頭の回転速度の速くない栞ですら分かる事だ。祐一は彼自身が思う程冷酷な男ではない事位、彼と少しでも付き合った人間なら分かる。いつも悪態を吐きながら、彼は目の前の小犬を見捨てる事が出来ぬ人間だ。
だからこそ、優しい祐一には姉の所に行って欲しいのだ。栞にははっきりと香里の悲鳴が聞こえていた、今助けが必要なのは自分ではないのだと確信している。
「祐一さん、お姉ちゃんの事を頼みます」
ぺこりと頭を下げ、栞は自分の病室に駆け足で戻る。これで選択肢は一つに絞られた。
「栞、すまない」
この場にいない彼女に礼を言って病院玄関をくぐり、祐一は風雪の中に身を躍らせる。
◆
香里は栞の、妹の辛そうな笑顔を見る度に酷く胸が痛んでいた。それでも栞に対し、まともな受け答えしなかった自分が間違っているとは彼女は考えていない。妹と親しげに話す資格など既に自分にはないのだ、そんな思考が妹との関係を修復したいと思う心を強固に縛っている。一度は自分には妹などいないと思ってしまった自分がどうして許されようか。栞は彼女自身が謝れば、笑って許してくれるだろう。彼女にはそんな確信がある。
だからこそ。故にこそ、彼女は自分が許せないと思っていた。そうして誘惑に負けてしまえば、彼女は己の強さが全て壊れてしまうと思っていた。そんな彼女の思いは信仰に近い、自己崩壊を恐怖する強迫観念すらある。せめて二週間、この二週間は今まで通り張り詰めていたいのだ。強い姉でいたいのだ、最愛の妹を突き放してでも。
病院で代えて貰った眼帯とマスクに付いた新品の匂いが、少し彼女を引き締める。
――明日、どう謝ろう。
彼女は今回の演劇の主役である、部活に顔を出さない訳にもいくまい。彼らの輪に加わって稽古を再開するならば、謝罪は必須だ。久瀬には酷い事を言ってしまったし、久瀬を想って彼を庇った八重にも香里はあれから一言も口を利いていない。彼女自身が折れない限りは八方塞がりの袋小路である。
自分が折れる事は、己が弱い事を証明する行いである。だが仕方があるまい、弱いから強く在らねばならない。強くなる為の弱さなら素直に受け入れなければどうにもならないのだから。
「香里」
不意に聞こえた己の名前に振り返ると、そこに祐一が立っていた。香里と同じく、激しさを増す横殴りの雪風に白色の斑点が付いている。彼の顔からは相変わらず表情が読み取れないが、香里には彼の心境が読み取れていた。恐らく、逆の立場なら彼女も祐一と同じ行動を取っているだろうという根拠のない確信がある。
それでも香里は祐一に問うた。
「何かしら」
白々しい問い掛けだと彼女自身も思っている。それでも彼女は問い掛けずにはおれなかった。
「香里は、栞の姉だな」
「そうよ」
一瞬以下の時間に香里は迷ったが、正直に答える。恐らくは祐一がこんな問い掛けを下理由は、先の名雪との話を聞いている為だろうと推測は付いている。名雪の事だからちゃんと彼に話していない可能性もないではないが、それでも彼の真意は変わらないだろう。つまり仲が良い筈の自分の妹を、何故突き放すのかという一点。栞の持つ事実の重みを実体的に知らぬ者が正義を振りかざすには充分すぎる理由だ。
「何故栞を突き放すのか、その理由を聞きたくてな」
そら来た、彼女はそんな諦めにも似た溜め息が氷点下の気温に白く消える。知らぬ者はいつも同じ事を言うのだと、白い闇が周囲を被う中で香里は暗澹たる気分になった。彼女にこんな問い掛けをした他人は彼だけではない。妹の栞に幻痛が起こったと知らされた時、彼女の精神はショックで一時的に不安定になっていた。そんな香里に対し、彼と同じ問い掛けをしたのは心理カウンセラーだった。
結論を言うと、心理カウンセラーは殆ど役に立たなかった。彼らは患者である香里に問い掛け、話を聞き、場合によっては医師や薬剤師と共に薬を処方するだけだ。薬のおかげか頭の中の靄を少しでも話したからか、幾分か気分が楽になったが根本的な解決には全く関わっていない。カウンセラーとの話し合って得た一番大きいものといえば、結局頼れるものは自分だけだという「現実」を再確認出来た事か。
そもそも本当に医師やカウンセラーが必要なのは香里ではなく、妹の栞なのだから本末転倒も良い所だ。
「大体の事は栞から聞いているでしょう? あたしから言う事なんてないわよ」
踵を返し、香里は帰りを急ぐ。地方都市で、しかもここは雪の公園内なので幸い人通りはない。徒歩でJRの駅から病院を往復せねばならない場合、公園内を突っ切るのが近道だから二人はこの様な場所にいる訳だがこんな暗い話題をするのには別の意味でうってつけである。それに彼女の心は栞に出会った事で今ささくれている、祐一を殴り倒すのにも人通りの少ないこの場はうってつけであると言えた。
「いや」
祐一の口から出たのは、否定の一語だった。心理の専門家でもない癖に、カウンセラーと同じ言葉を重ねる彼に香里の心に怒りが灯る。
「栞に、私は香里の事を頼まれたのだからな。栞は泣いていたぞ、姉である君が分からぬと。どうすれば姉妹の仲を修復出来るのかと」
「そうね、これはあたしと栞の問題。尚更、部外者の相沢君には関係ないわ」
あくまで関係を断ち切ろうとする香里を、あろう事か祐一は引き攣る様に声を押し殺して嗤う。彼女は足を止め、祐一を睨め付けた。そんな表情を、この嫌な笑い声を何度も何度も彼女は見た事があったのだ。癌に冒されていた栞を励ましている香里に対して、酷いものになると栞本人に対して。その嗤いの意味する所は一つしかない、嘲笑だ。
「何の真似よ」
歩を止め、香里は振り返って視線で祐一を射抜く。彼女は自ら妹の手を払っているとはいえ、未だに栞を大切に想う心を持っている。些かも色褪せていないどころか、彼女は妹に冷たく当たる程に引き裂かれる様な苦痛を押し殺していた。妹を嗤う者が許せないのは、今も昔も変わらない。
「失礼、君が滑稽でね」
「口が過ぎると言われた事はないかしら、相沢君」
「腐る程言われるよ、その類の叱責ならね。だが正直なのは私の性分でね、可笑しくて仕方がないのだから嗤いも漏れるのだよ」
余りといえばあまりの言動に、香里は視界が狭くなった気がした。怒りが目の前の薄ら笑いを浮かべた男――相沢 祐一を捉えて離さない。ここまで他人を侮辱する事の出来る人間は、彼女の人生経験上存在しなかった。強いて誰が近いかと言うならば、香里自身がそれか。
崩壊寸前の理性が、視界が歪む程に暴走する彼女の怒りを繋ぎ止める。
「……黙りなさい」
「香里は思い違いをしているのだよ。君が大事だと思うのは栞ではなく」
「聞きたくないわ」
そんな香里の言葉など、祐一に届く筈もなく。
「栞を良い様に利用して、辛うじて保っている香里自身の矜持だろう」
繋ぎ止めていた香里の感情が、理性の手綱を引き千切った。
「黙れっ!」
香里は怒りに任せて、暴言を吐き散らし続ける祐一に殴り掛かった。一刻も早く黙らせたい一心で、拳を握り彼に肉薄する。だが怒りの炎で瞳を曇らせていた事が、彼女にとって仇となった。
拳が祐一の顔面に届く前に、香里は左太股に感じた激痛に失速を余儀なくされる。その正体を知ろうとして彼女は視線を痛みの中心に目を移すと、今度は後頭部に硬質の衝撃が降りてくる。無防備を晒した香里の後頭部に、彼の打ち下ろしが直撃したのだ。手加減など微塵もない一撃に対し、彼女は肩と膝を付けて雪まみれのアスファルトに口付けだけは避ける。
香里は顔を挙げる前にもう一撃が来る事を覚悟して歯を食いしばったが、代わりに聞こえてきたのは靴底が擦れて遠ざかる音だった。思い切り殴られた後頭部もそうだが、それ以上に左の太股が鋭く痛む。改めて確認すると、そこには金属の光沢を持った針が刺さっていた。頭に血が上っていた彼女には見えなかったが、この金属針を祐一が投げ付けた様だ。それ程重量がない分深く刺さっていなかった事が幸いしたのか、比較的容易に引き抜く事が出来た。
香里は己の血で濡れた凶器をアスファルトの地面に棄てる。
「それが相沢君の武器なのね」
「そういう事だ」
バックステップで香里から遠ざかった彼の両手には一本ずつ、彼女の左太股に刺さっていたのと同じ金属針が保持されていた。何処から取り出したのか、それはこの際問題ではない。問題は対峙する彼女にとって、彼の凶器がどの程度の脅威と成り得るのかの一点に尽きる。
「上等よ」
彼女は殴り掛かる際に取り落としたバッグから、演技用の木剣を取り出す。稽古の途中だった事が幸いしたといえるが、これは本物の真剣ではないのだ。だが武器に出来ないかというと、そうでもない。確かに嘘臭い塗装がされている分玩具の様な印象が目立つが、本質的にはかなり堅い木で作られてある立派な鈍器だ。それに彼女も半年間の稽古で、この木剣の扱いには慣れているつもりである。
「今度こそ、その減らず口を二度と聞けない様にしてやるわ」
「実行してから言ったらどうかね、負け犬の香里君」
祐一の挑発を極力耳に入れない様にして、香里は姿勢を低くして再度突貫する。だが殺意を込めた一撃が彼を打ち据える前に、彼女の右肩に先程と同じ金属針が突き立った。そこで彼女は祐一が何をしているのかを悟った。彼は単純に金属針を投げ付けているだけなのだ、ただしダーツと言うには余りに殺意の籠もった速度がただの針を危険な凶器としている。
そして祐一が空いた左手首を上下すると、既にそこには同じ金属針が存在した。香里が驚愕に目を見開いている内に、彼女の身体は身の危険に即応して左に跳躍した。彼の左右の手が独立した生き物の様に動き、時間差で針が撃ち出される。一瞬前まで彼女がいた場所に針が二本突き刺さった。地面に刺さっていたのは一瞬だったが、踏み固められた雪上に突き立つ金属針がどれ程の威力を持つ物なのかが窺い知れる。少なくとも、相手を戦闘不能にするのに充分すぎる殺傷能力はあるらしい。
右肩に刺さった針を引き抜くと、血の代わりにヒトの油で汚れていた。血はコートとその下の衣服に染み込まれているのだろう、香里は刺さった箇所にチリチリと熱を感じる。だがそんな痒みにも似た感触すら、脳内に分泌されるアドレナリンが闘志に変える。
栞の話から祐一がダーツを武器とする可能性を視野に入れなかった事を、香里は悔いる。彼女の妹が病院に倒れたと聞いて、気乗りはしなかったものの彼女も見舞いに行っているのだ。その時栞は最近知り合った男の話を嬉しそうにしていた。一見とても意地悪で取っ付き難そうだけど、立ち振る舞いがとても格好良くてダーツが上手いのだと。
そして今日、栞と一緒にいたのは祐一だった。イコールで結ぶ事は、そう難しい作業ではなかった筈だ。こんな暗器使いであるとは想像が付かなくとも、注意を促す位はやっておくべきだったらしい。
香里はコートの中、針が突き刺さった右肩に指先を触れ流れ出す血を唇に塗り付ける。それは彼女の覚悟であり、不退転の決意であり――
「死に化粧か」
祐一が香里を見て、呟く。
再度の彼女の突撃に対し、祐一は再び香里を近付けまいと左手の金属針を撃ち出す。その軌道を彼女は突進しながら右へ躱してやり過ごす。此処までは祐一のシナリオ通り、彼はどちらかに避け慣性の為にこれ以上の軌道変更が出来なくなる事を踏んでいたのだ。だがその状況を望んでいたのは香里も同じ。
――今っ!
祐一が金属針を撃つ零コンマ数秒前に、香里は彼の射撃タイミングを読んで持っていた木剣を彼の右腕へ渾身の力を込めて投擲した。祐一の腕が跳ね上がり、彼の持っていた針は中空へと投げ出される。左は服の袖に隠し持っているのであろう予備の金属針を取り出していない。完全に体勢を崩した祐一の顎に、香里の左拳が直撃した。
顎への打撃は脳を直接揺さ振る。その威力は香里が久瀬から常日頃から味わってきた通り、絶大なものである。まともに入ったのなら余程の体格差がない限り立つ事すらままならなくなる、これは彼女が久瀬から聞いた話だったか。
祐一もまた例外ではないのだろう、腰からくずおれる様を見て香里は一息付く。
だがそれがいけなかった。
腰から砕けながらも、祐一は左拳を振るっていた。既に戦闘態勢を解いてしまった香里は、反応が遅れてしまう。彼との戦闘で危険なのは打撃そのものではない、気を付けるべきは彼の武器である金属製の針だ。握られた拳から生える、危険な金属光沢が見えたのは一瞬の出来事だった。
「――――っ!」
右腕に稲妻の様な痛みが走ったと思ったのも束の間、一撃を受けた箇所が右肩とは比べ物にならない程の熱量と痛みに見舞われた。それが出血だと頭が認識するまでに数瞬を要する程に、今度の怪我は危険を孕んでいたのだ。喉が悲鳴を挙げようとしても、身体を支配する驚愕がそれを許さない。彼女の口から漏れるのは、浅く早い呼吸音である。
一秒以下の加速した世界にいた二人の耳に届くのは、先程祐一が取り落とした金属針の甲高い悲鳴。その音が合図だったとでもいう様に、香里の身体は一斉に痛みを思い出した。右肩、左太股、そして右腕。それぞれが鋭い痛みと熱量を主張し、身体の主を翻弄する。
――拙い、反撃が来る、今度こそ致命的な、早く、早く、早く、早く早く早く早くはやくはやくはやくやはくハヤクハヤクハヤクハヤク!
猛烈な勢いで回転する危機感とは裏腹に、鉛の様に重くなった身体は香里の指令を全く聞き入れない。辛うじて動いた首と眼球が、敵である祐一の姿を捉える。脳を揺さ振られてまともに立てずに尻餅を付きながら、彼は視線だけは香里を見据えていた。
脳を揺さ振っても、疲労や怪我と違い数秒から数十秒後には復調する。そして彼の武器は手首のしなりを利用して撃ち出す飛び道具なので、体勢も距離もこの際関係ない。対する香里は、生死の絡む初めての実戦だった事もあり身体に力が入らない状況である。腰の入った一撃など、今の彼女には最早打てまい。
香里の完敗である。彼女自身もそれを悟り、右腕に浅く刺さった針を引き抜いて目を閉じた。
「あたしの負けよ、好きにしなさい」
横殴りに吹き付ける風が、所構わず張り付く雪が今の香里には心地良い。死を受け入れるという事が、彼女はここに来て初めて分かった気がした。やけに静かで、平坦で、自分でも心配になる程穏やかな気分である。そんな彼女の顔に、柔らかい物が当たった。何事かと目を開け、彼女は地面に落ちたそれを拾う。新品と思しき、包装が破られていないガーゼである。
「香里、これも使え」
祐一は自分の鞄から医療用のテープと、包帯(二つあった)を取り出して立て続けに彼女に放る。理解出来ないのか、香里は祐一と渡された物品を交互に見た。彼女は傷付けた本人からこんな物を渡されるとは思ってもみなかったのだ。
「理解出来ないという顔だと推測するが、別に私は香里を殺そうとしていた訳ではないのだよ。だから早くその辺の茂みで応急処置してこい」
一瞬罠かもと香里は訝ったが、それならば彼女は敗北を認めた時に目を閉じている。罠を掛ける必然性がまるでない。つまり彼は本当に、善意で(彼女に武器を向け、傷付けた時点で善意という言葉はどうかと香里自身も思ったが)この様な品を渡しているのだ。恐らく彼はどんな形であれ、勝ったらその後始末をする積もりだったのだろう。変に律儀な性格である。
肩にはコートと衣服を脱いでからガーゼを当て、テープで固定。太股と右腕にはガーゼを当ててから包帯を巻き、衣服の乱れを直す。その真意を聞く為に再び香里は彼の前に歩み出た。
「なら聞くわ。何故あたしを怒らせる様な真似をしたのかしら」
「香里の視野を広くする為だ」
言われた意味が理解しかねて、香里は押し黙る。そんな彼女を知ってか知らずか、祐一は説明を続けた。
「私と殺し合う前の香里は何を言っても、何も聞こうとしない状態だった。故に私は君を殴り付け、私に注意を向かせたのだ」
「あたしは別に英語やスペイン語しか理解出来ない外国人じゃないわ、ちゃんと日本語で言えば理解するわよ」
「甘い、カルト宗教の信仰者と話が通じるものか。言葉が通じても理解が通じない事など、幾らでもあるのだよ。その手合いは往々にして『自分は理性的だ』、そう思っているから尚更質が悪い。かく言う私も昔、身に覚えがあってね」
「相沢君はあたしがその手合いだって言うのね」
「そういう事だ、一つの答えに固執し周りを見ない。見渡せば答えは他にもあるというのに」
祐一は話しながら、彼女の周りをうろつきながら自分の使用した金属針をコンビニのビニール袋に入れて回収していく。油や血をよく拭いて再利用するのか、それとも纏めて棄てるのかまでは香里にも分からない。彼女が投擲してそのまま雪の地面に転がっていた木剣も、祐一が拾って香里に放る。手にした木剣は外気の寒さを存分に染み込ませ、氷の如く冷たくなっていた。
「詳しい話は最寄りのファーストフード店にしよう。それともその前に病院に戻るかね」
本気とも冗談とも付かない声色で、祐一は香里に聞く。彼女は頭を左右に振って、それを拒絶する。彼の問いが本気でも、冗談でもどっちでも良いのだ。
「あたしをこれだけ穴だらけにしたのだから、奢って貰うわよ」
「その位ならな。しかし穴だらけとは、このエロ姉妹め」
「あはは、何それ」
「似た様な発言を栞もしているのだよ」
にやり、と祐一は不敵に顔を歪ませる。香里は稽古に殺し合いと来て疲労困憊の筈が、久々に身体が軽く感じていた。心から笑えた事に、彼女自身驚きを禁じ得ないのだ。彼女は肩の荷が降りるとは正にこの事だったのかと実感している。夕刻の河原で、夕焼けを背景に殴り合って友情を確かめ合う八十年代の青春ドラマでもあるまいに。真冬の吹雪の中で、凶器を交えた殺し合いで芽生える親近感とは何とも滑稽なものだ。
「駅の近くに『月討日征』があるわ、そこにしましょう」
「私は持ち合わせが少ない故、自重を期待する」
「そうね、善処するわ」
気楽に。殺し合った後だとは思えぬ程気楽に、二人は肩を並べて歩き出していた。
終戦の証に、香里の目の前に紅茶が運ばれる。デザートの方が好みなのではないかと祐一は聞いていた(何とこの『月討日征』にはファーストフード店であるにも関わらず、何故か杏仁豆腐がメニューにある)が、香里はその申し出を「甘いものを食べない事に、願を掛けてあるから」と断った。彼の方には豆から淹れたのかインスタントなのか定かならぬレギュラーコーヒーが運ばれてくる。顔を突き合わせ、どちらともなく目の前の液体に口を付けて会話が再開された。
「一つ聞きたかったのだけど、相沢君はどうしてあたしにまで干渉してくるのかしら」
それは少しでも頭を働かせればすぐに思い付く、至極真っ当な疑問である。栞と何らかの繋がりを持っているとはいえ、別個の人間である香里の考えに異を唱えようというのは傲慢極まりない。仮に「栞の為に」香里を変えようというのなら、過干渉も良い所である。そう推測したから彼女は祐一に敵対行動を取ったのだ。偉そうな事を言いながら事故を恐れてしまっていた演劇部の面々に対するストレスも理由の一端ではあるが、本質からは逸れる。
「下らない理由だ、何しろ香里に吹っ掛けたのは自分の為なのだからな」
そう言って祐一はカップを傾け、液体を咥内に入れる。舌触りが明らかに安物や古いもののそれは、酸味が強すぎて彼の舌には酷く不味く感じられた。それは本格的な喫茶店ではないファーストフード店故に許される、安さ最重要視の味だ。
「どういう事かしら」
紅茶というより、紅茶の味をした色水といった趣の液体で一服した香里が続きを促す。
「七年前の話だ。私はこの街に遊びに来て、現地で友達を作った」
静かに、殆ど己というものを語らぬ祐一の口から過去が展開される。恐らくそれは彼の傷そのものなのだろう、香里にもそんな想像は付いていた。
「木登りが得意な子でな、よくこの街で一番大きな樹に上って風を感じていた」
深く緩やかな溜め息を吐いて、祐一は視線を落とす。
「危ないから降りろ、そんな事をその子に私は何度も言っていた気がする。だがその子は笑って大丈夫だ、というだけだった。確かに木登りの技術は上手かったし、その子は姿勢制御の方法も心得ていた。だが樹の方は違ったのだ」
「確か枝が折れてその子、滑落したんだったわね。当時地元のテレビ局で何度も放送していたから、あたしも覚えているわ」
「そう。いきなりの出来事で、そしてかなり高い所まで上っていたから、身体の何処から着地したら良いのかなど思い付かなかったのだろうな。その子は人体の中で最も重い頭から、半ば凍結している硬い地面に激突した」
話している内に当時の光景でも思い出してしまったのだろう、祐一は左手で口を押さえる。居間で母親が見ていたワイドショーを眺めていた香里と違い、彼は当事者だったのだ。事実の前では幾千、幾万の同情も何の価値もない。それどころかテレビ局は視聴者の興味を惹く為に、被害者である筈の人権を蹂躙する。俗に人権屋と揶揄される、市民団体も彼らを助けない。それは彼女も身に染みて分かっている事だ。
「香里は知っていたか、人間は高い所から落ちても跳ねないのだ。叩き付けられると簡単に潰れ、歪み、中身を垂れ流す。血が流れ出た分だけヒトが、モノになっていく。動かない、只の肉塊になっていくのだよ」
吐き気を催す程に重い祐一の言葉が、香里には実体験として伝わる。伊達に何年も病院との付き合いがある訳ではないのだ、昨日まで元気だった者が翌朝冷たくなっているといった現場に彼女は鉢合わせた経験があった。栞の事を孫の様に接していた入院歴の長い老人だったり、まだ小学校に上がる前の子供だったり。死の感触は彼女にとって馴染みのものなのだ。
だが香里は初めて死に立ち会った時の記憶が、脳裏に焼き付いて離れない。最初に「死」が何かを教えられたのは、祖母の葬式の日だった。祖母の死と病弱な妹を重ね合わせてしまった幼い自分を、彼女は今でも呪い続けている。具体的に栞に対し何を言ったのかまでは香里は覚えていない。だが思った事を妹に告げた後、栞が泣き出した事は昨日の事の様に思い出せる。その事で両親に叱られ彼女自身泣き出してしまった事も、同様だ。
「当時の私には何の力も、知恵もなかった。私は赤い染みを広げ続ける友達に恐怖し、必死になってその場を離れた。走って大人に助けを求めた。滑稽だろう、私は己が助かりたくて助けを求めたのだ。本当に助けなければならぬのは私ではないのに、だ」
祐一の肩が震えているのが、香里の目から見てもはっきりと見て取れた。それが罪悪感からなのか、それとも当時の恐怖が現在になって蘇っているのか、或いは両方か。そこにはいつも冷静さを崩さない彼はいない、年相応の反応を示す青年がいるだけだった。
「その後私は長期休暇が切れ、実家へと戻らなければならなかった。己が犯した罪も、記憶も、結末もこの街に置き去りにして私は逃げ出したのだ」
祐一が顔を上げる。
「香里も、私と同じ間違いを犯すというのか。まだ栞は生きているというのに、最初からいなかったと決め付け私と同じ道を辿るというのか」
漸く香里は合点がいった。何故、祐一が自分と同じ匂いがするのか。逃避という一点において、二人は同族だったのだ。そして先達である祐一は彼女にこちら側へ来るなと言う。まだ間に合う、引き返せる。日数は少なくとも、香里も栞も相手を大切に思っているのは事実なのだ。いくらでもやり直しは利く、彼はそう言いたいのだ。
嗚呼。
二の轍を踏ませぬと身体を張って諭す者がいるのは、何と有り難い事か。祐一の言葉が、香里の凍て付いた心に染み渡る。
「確かに、相沢君は優しいわね」
「何の話だ」
「昨日お見舞いを言った時、栞が相沢君の事をそう評したのよ。格好良くて優しい、って」
彼は視線をずらし、すっかり冷めたコーヒーを飲み干す。
「買い被りすぎだな、私は自分が傷付きたくないだけだ。己の目の前でかつて犯した失敗を再現されると無性に腹が立つ、それだけだよ」
「もしかして、相沢君は照れてるのかしら」
「私にそんな感傷を期待するな」
「そういう事にしておいてあげる、優しい優しい相沢君」
そう言って香里は席を立った。祐一は彼女を追わずにもう一杯カップにコーヒーを追加してもらい、暫し一人を楽しむ様である。香里はもっと彼と話してみたい気もしたが、傷口に血小板がガーゼを巻き込みつつ固まって痒くなってきている。早く新しいものに取り替えたくて、彼女は未だ止まない吹雪の中に身を躍らせた。