三章



 久々の商店街だったが、香里は素直に楽しいと思えないでいた。余り面識のない人間からするといつもの無表情にしか見えないだろうが、付き合いの長い名雪は彼女の些細な違いが分かるらしく心配そうな表情を崩さない。他の人間でも今の香里を見ればぎょっとする事は間違いない。何しろ右目が眼帯で覆われているのだから。

 二人がいる場所は商店街にある喫茶店兼甘味処の『百花屋』である。最初は二人で商店街をぶらついていただけなのだが、香里の眼帯姿は色々人目を引くらしく行く人来る人様々な注目を集める為、場所の移動を余儀なくされたのだ。

「不覚を取ったわ」

 不満げな感情の色を残る左目に宿し、香里は半ば独り言の様に呟いた。実戦形式の稽古を始めて半年、ここに来て彼女は完璧な敗北を味わわされたのだ。確かに加速を威力に加える戦法がこれ以上ない形で顕れ、その後の戦術も自他共にかなり高評価である。だが力の発揮は逆に久瀬の余裕をなくさせる結果を引き起こしてしまった。余裕をなくした久瀬は「拳を正確に合わせるだけ」というルールを一瞬忘れてしまったのだろう、迎撃の左拳が彼女の右目をまともに直撃しあまつさえ彼は振り抜いてしまったらしい。万が一の為にグローブを嵌めていなければ、最低でも目が潰れていただろうとの事だ。

 ただしカウンターの一撃を喰らった香里は、その辺りの事を正確に覚えていない。一秒以下の世界の出来事で、しかも彼女は気絶させられてしまったのだから。最悪一生目覚めない可能性だってあった訳で、瞼が腫れ上がるだけで済んだのは有り難いと言うべきなのだろう。骨折すらしていないのは、最早僥倖としか言い様がない。部長の雛も、久瀬も、八重も、他の部員達も相当にショックを受けていた。意識を取り戻してみれば精神的ショックが一番少なかったのは、手加減なしの拳打を喰らった自分だという、何とも滑稽な状況が出来上がっていたのだ。

「わたし、香里の事心配だよ」

 壮絶な事になっている香里の顔面に気後れしているのか、大した身長差もないのに幾分上目遣い気味に顔色を窺いつつ名雪が言う。他人に対して鈍い方の名雪でさえ自分の怪我を心配しているのが、彼女にとって心的な痛みと言えば痛みである。友達同士だという事を除外しても、やはり稽古中に気絶は心配を掛ける事柄なのだと香里は改めて実感する。

 立場が逆であればどうかと考えても、やはり心配するだろう。名雪が陸上の練習中に倒れたと聞けば、もしかしたら香里は最悪錯乱するかも知れない。そう思うと己の身に降り掛かった事故(香里が強硬に「これはあたしの不注意で起こった事故で、自分以外の誰も悪くない」と主張したので、大した問題にはならなかったのだ)が恐くなる。自分が傷付く分には我慢が利くが、そのせいで親しく近しい者に被害が及んだ時はその限りではない。

 決して博愛主義を気取るつもりはないが、己以外の者の苦痛に慣れていない香里であった。

「ごめんなさいね、名雪」

 名雪の立場を想うと、香里には謝罪の言葉しか思い付かない。

「あたしも今度から注意するから」

「うん、気を付けてね」

 部外者で保健室に担ぎ込まれた香里の下に駆け付けた名雪の取り乱しようは、彼女も雛や八重から聞いている(久瀬は異性という事で、保健室を追い出された。何処で情報を聞いたのか、後から駆け付けたクラスメイトの北川もこの時追い出されている)。名雪の動揺は、即ち二人の心的距離だ。どれだけ大切に想っているかなど知識量と応用力、両方の意味で頭の良い香里には容易に推し量れようものである。

「強いて言うならば、目が痒いわね」

 眼帯の上から瞼を撫でると、名雪は血相を変える。

「わ、駄目だよ。痒いのは治ってる証拠で、掻いたら痕残っちゃうよ」

 わたしも転んで擦り剥いた時に掻いて後悔した事あるんだから、と幾分トーンを抑えて名雪は過去にやってしまった己の失敗を告白する。実際に体育の着替えでその傷跡を目撃している香里からすれば、名雪の膝の色は左右で確かに違うのだが言われなければ分からないという他ない。顔と膝では価値基準そのものが違うので一概には言えないが、大した事はなさそうだというのが香里の見解である。

 ――だからといって瞼の厚みが左右で変わるのは嫌だから掻かないけどね。

 掻こうとしたポーズは実の所、名雪の表情の変化を見たいが為という意味合いが大きい。

「お待たせしました、御注文のレギュラーコーヒーとイチゴサンデーです」

 ウェイトレスがお盆に注文の品を載せてやって来た。コースター付きで目の前に置かれたイチゴサンデー(要するにイチゴをあしらったハプェである)に先程の深刻さは何処へやら、名雪は目を輝かせている。子供の様な無邪気さを多分に残した友達に、香里は苦笑する。彼女は平和な事、平凡である事を誰にともなく感謝した。

「名雪は本当にイチゴが好きね」

「うん、わたしイチゴ大好きだよ」

 聞き様によっては片言の日本語にも取れそうな、名雪との会話は香里の日常の拠り所となっている。演劇という非日常、歯車の掛けた家族との会話、ある程度感情を抑えて過ごす学校での日々。多かれ少なかれそれぞれにストレスがあるのだが、名雪と二人でいる時彼女は殆どそれを感じないで済んでいる。

 名雪は小洒落た百花屋のスプーンで生クリームを掬い、一口。

「香里も食べてみない?」

「あたしは遠慮しておくわ」

 パフェが嫌いな訳ではないが、香里は己が高カロリー食品と相性が良くない事を知っているのだ。幾ら甘い物を食べても一向に体型の変わる気配のない(その何割かは陸上部に属する事によって必然的に多くなる運動量が関わっているのだろうが、彼女の甘い物好きは限度を超していると香里は思っていた)名雪とは残念ながら違う、世界は徹底的に平等を嫌うという事である。体形が崩れては部活にも支障が出てしまうので、ここは忍耐なのだ。

「美味しいのに」

 心底残念そうに、名雪は糖分の塊を口に運ぶ。少し可哀相な気もするが、香里にとってもこれは譲れない一線である。なお肉親に度を超したアイスクリーム好きがいる事も、彼女の忍耐を強化する一因にもなっている。一日最低一度はバニラ臭を嗅がせられれば、食欲など簡単に飽きが来るというものだ。吐き気が来る所まで重傷化していないのが救いか。

「あたしは名雪と違ってカロリーが体型に出やすいの、勘弁して頂戴」

「それは聞いてるけど、一口だけなら大丈夫だよ」

「悪いけど、それでも駄目よ。甘いものを食べない事に願掛けしてるから」

 香里の言葉に名雪は目を丸くして驚く。大方名雪は彼女の事を「科学万能、迷信なんて一切信じない」という様な人間だとでも思っていたのだろう。口から出任せだろうがなかろうが、願掛けなどという非科学を彼女は興味がないと切って捨てる映像が名雪の脳裏にあったに違いない。いつも冷静さを失ったりしない香里を見ていると、そんな名雪の妄想もあながち穿った見方とも言えないのだが。

 常日頃から無知を恥とする香里なればこそである。

「何よ、あたしが占いの類を信じたら悪い?」

「そんな事ないけど」

「似合わないとでも思ったんでしょう」

 う、と名雪がイチゴサンデーにスプーンを刺したまま呻く。どうやら図星らしい。

「似合わないとは自分でも思っているわよ、でも科学一辺倒じゃ」

 香里は言葉を切って、一秒と少しだけ目を瞑る。

「科学一辺倒じゃ、余りに寂しいでしょう」

 言い直した理由は名雪には皆目見当も付かないが、それなりに付き合いの長い彼女はそれが香里の優しさだと気が付いている。何に対しての優しさなのか、具体的には後になってから分かる事が多い。何かに配慮した結果が彼女の言葉なのだ。香里には烈火の様な荒々しい力強さはない。彼女はどちらかというと炬燵の様な、柔らかな暖かさが長所なのだと名雪は思っている。一見して氷の様に冷たいと思われがちだが、それは外見だけだ。表面上の取っ付き難さを乗り切れば、本当の香里が見える。

 そんな捻くれ具合は自分の従兄弟の祐一に似ている、そう名雪は考えている。流石にそれぞれを本人達に言った事はないが。

「ふぁいと、だよ」

「何を応援されているのか全然話が見えないけど……あたしはあたしなりに頑張るつもりよ。それと溶けて垂れそうよ、それ」

「わ、わっ。勿体ないよっ」

 香里の指摘に名雪は初めて己の獲物が危機的状況に陥っている事に気が付いた。名雪本人が突き刺したスプーンを使うとアイスクリームの構成部分が本格的に崩れてきそうなので、彼女は仕方なしに倒壊しそうなアイスクリームの塔に直接口を付けて抉り取る。中の方まで囓った事が祟ったのか、名雪の咥内は局所的なブリザードに見舞われた様である。

「ひゃふ、ふめはい」

「飲み込んでから喋りなさい」

 乳白色に染まった唾が飛んできそうだったので、香里は顔をしかめつつ注意する。子供かという程幼稚な注意だったが、彼女は時々物凄く子供っぽいのでその度に香里は幼児に対するそれを行っていた。呆れ顔でコーヒーを飲む香里と、パフェを食べて説教される名雪。二人は同学年の同級生同士だったが、端から見れば仲の良い姉妹に映っただろう。

 己の体温で溶かし咥内の残留物を嚥下して、名雪は改めて思った事を口にした。

「イチゴサンデーのアイスがとっても冷たい事、忘れてたよ」

「直接パフェを囓って口の周りがベトベトだという事も、忘れないの」

 香里は身を乗り出してコースターから取った紙ナプキンで、名雪の口の周りを丁寧に拭いてやる。

「香里、お母さんみたい」

「バカ」

 香里の視線を逸らす仕草で、今度は名雪が苦笑する。こうして悪態を吐いて視線を逸らすのは、彼女が照れている時だけなのだ。いつも澄まし顔が基本となっている彼女が照れると、いつもとの落差で妙に可愛らしさが滲み出てくる。こういった仕草を上手く使えば男が幾らでも堕ちるのではと名雪は思うのだが、本人は果たしてどう思っているのか。ちなみに名雪の知る限りで、香里が男女交際をしているという噂は聞かない。勿体ないと思わないでもないが、結局は本人の問題なので友達といえど流石に口には出さないのだ。

 言ったら言ったで「あんたはどうなのよ」と切り替えされると想像出来ない辺りは、流石は天然ボケの名雪といった所だろう。

「あ、そうだ。祐一が聞きたがってた事なんだけど、香里ちょっと良いかな」

 パフェの山を崩れる心配のない所まで腹の中に納めた辺りで、名雪は手を叩いた。

「何」

「香里って、妹いたの?」

 言葉通りの意味だろう、と言うより普通はそれ以外の意味には取れそうにない。何でもない質問だったが、香里にとってそれは不意打ちに等しい。香里の顔は色をなくし、一瞬だけ瞳には敵意と警戒が宿る。彼女と親しくない者ならば気が付けない様な些細な彼女の表情の変化だったが、名雪はそんな大多数から外れるくらいには彼女と親しい仲である。友達の明らかな異変に、名雪は表情を曇らせた。

 だがそれも一瞬の事、香里はすぐに元の表情に戻る。

「いないわ」

「でも香里、今」

「名雪、あたしは一人っ子よ。姉妹なんていないわ」

 いつも通りの穏やかな口調だったが、それだけではない。有無を言わせない静かな迫力を帯びた彼女は、親しい筈の名雪すら怖気を誘う雰囲気を身に纏っているのだ。まるで外見だけが香里で、中身が全くの別人に入れ替わってしまったかの様な錯覚すら彼女は覚える。言い掛けた言葉を呑み込み、名雪は身震いした。

「イチゴサンデー食べたからかな、寒い」

「確かに真冬に食べるものじゃないわね」

 震えた本当の理由は勿論違うが、何とか誤魔化せた事に名雪は内心安堵する。

「今度から冬はイチゴフロート頼む事にするよ」

「それも氷菓ね。あんまり冷たい物ばかり食べてると、あんた子供産めなくなるわよ」

「それは困るかも」

「冗談よ」

 たわいのない話をして、少し名雪の心と身体がほぐれてきた。香里は相変わらずだったが、ひとまず自分の冷静さを取り戻せた事が大きいか。ともかく分かった事は香里に家族関係が禁句だという事である。更に彼女は自分が恐い思いをする原因を作った祐一に、今度百花屋で何か奢らせようと心に決めた。香里の事は彼女も気になったが、友達だからこそ敢えて触れてない優しさもあるだろうと名雪は自分を納得させる。

 決して香里が恐かったからという理由ではない、と名雪は良い訳も忘れずに心に留めておく。視線を外に泳がせる香里は、何とも哀しそうだった。

「でも氷菓子じゃないイチゴデザートって何だろうね」

 冗談と香里は言ったが、現実になっては彼女も流石に笑えない。かといって、イチゴのない生活は彼女には考えられない。考えたくもないのだ。

 何でも良かったのだが、呟きすら聞き逃さない高性能な耳を持っている返答を期待した香里の言葉が紡がれない。それどころか彼女は百花屋の外に視線を向けたまま身動きさえしない。

「香里?」

 名雪の再度の問い掛けも、右から左へ流される。彼女は香里からの返答を諦め、自分も彼女の視線の先を追う。

「祐一……だよね、あれ」

 二人の視線の先にいるのは三人、一人の青年と二人の少女だった。



 時間は香里と名雪が百花屋に入る少し前まで遡る。

 この雪深い街に祐一が引っ越してから、既にそれなりの時間が経っていた。かといって彼の地元でもないので細かい地理はともかくとして、学校から水瀬家までの間に何があるか位は彼も把握出来る様になっている。引っ越してきて一日二日の時の様に、あまり横道に逸れなければ迷う事もない。比較的大きな本屋、CD屋(何故か普通のオフィスビルと思しき建物の二階にあった。看板も掲げられていない)、比較的流行っているゲームセンター、最近店舗を増やしつつあるファーストフード店『月討日征』。彼が生活していく上でこれだけ知っていれば何の支障もない。何の部活にも入っていない彼は、真っ直ぐ水瀬家に帰らない時は駅前か商店街で暇を潰している。

 彼の様に学校帰りが多いのだろう、昼から夕刻に差し掛かりつつある時間は男女問わず学生服が増える。祐一はそれら自分の同類達を視界からフィルタに掛け、視線を商店街の左右へと走らせた。目に入るのは携帯電話の契約店に、大型家電小売店の空きスペースを使用した露天の様な八百屋。目標は見付からない。

「もっと場所を限定するべきだったな」

 何しろ双方とも携帯電話やPHSの様な、便利な連絡手段を持っていない。待ち合わせ場所を「商店街」とだけ指定した事にながら後悔が募る。

「何がなの、祐一君」

 祐一が振り向くと、漸く人に突撃しない事を憶えたあゆが彼を見上げていた。こうして近くに立たれると、彼女は本当に同じ年齢かと疑いたくなる程に幼い。こうして途方に暮れていると、彼は意味もなく羽根付きリュックという正気を疑いたくなる彼女のファッションセンスが憎くなった。八つ当たりと言い換えても良いか。

「あゆ、お前の羽根を毟らせろ」

「いきなり祐一君何を言って……わわ、酷いよっ」

 本当にリュックの羽根を引っ張ってみたが、思ったよりしっかりとリュックに留められていたので毟る事は出来なかった。その代わりにあゆは気を悪くした様だったが、その程度で悪びれる祐一でもない。嫌がる彼女の身体を左手で固定し、もう一度白い羽根を引っ張る。

「ふむ、取れないな」

「うぐぅ、不良品じゃないんだからそんな簡単に取れないよっ」

 別にセクハラした訳でもあるまいに(いや、一応これもセクハラになるのか?)、あゆは彼の拘束を自分の身体を抱き締めて祐一から一歩後退る。そんな魅力的な身体でもないだろうと彼は言いたいが、自分が一方的に悪い事が明白で且つ正直に言った所であゆならば騒ぎ立てるに決まっている。それは余り目立つ事を好まない彼としても、望む結果ではない。あゆとは一緒にいるだけで騒ぎになるので、ある程度は不可抗力と見るにしても。

 ともかく立ち止まっていては人目を惹くだけなので、祐一は歩を進める。それに合わせて、あゆも歩き出した。歩幅が違うので、あゆの方は少しだけ早足の様である。

「しかしあゆとは商店街でよく会うものだな」

「うん。ボク、捜し物してるから」

「この前会った時もそんな話をしていたな」

「ボクの捜し物、って一体何なんだろうね」

「私に聞かれても、な」

 何でもあゆはとても大切なものを落としたんだとか言っていたが、それが何なのかは今を以て分からないらしい。それを聞いた祐一は「まず思い出す所から始めろ」と助言したのだが、彼女からしたら何もせずに考える時間すら惜しいらしく聞き入れられなかった。瞳に涙すら溜めた真剣な顔をされては、流石に祐一とて茶化す事も出来なかったのだ。その後彼も遺失物捜索に協力したのだが、その時は結局落とし物が何なのかすら分からずに日が落ちると共に捜索を断念してしまった。

「あはは、そうだよね」

 弱々しい笑顔であゆは答えるが、心境は如何ばかりか。何なのかは祐一には分からないが、あゆの真剣さを慮ればそれが彼女にとってどの様な品なのかは想像が付く。唯一無二の物、金では買えない物。つまりは誰か大切な人物との、思い出の品なのだろう。

「あゆは今日も捜索の日々か」

「今日はお休み。学校が終わった位の時間に商店街に行けば祐一君に会えるかな、って」

「私はあゆにストーキングされていたのか」

「祐一君、人聞き悪いよ」

「気にするな、誇張された事実だ」

「誇張しないでよぉっ」

 こうしてあゆをからかっていると、祐一は自分の中のマイナス思考が大分緩和されていくのが実感出来る。だからといって何の解決にもなっていないのもまた事実であるが、自分の失敗を延々と悔いているよりはずっと良い。彼は最悪を含むあらゆる可能性を考えられるだけの冷静さを持っているが、それは逆にすぐに先程の様なマイナス思考に囚われてしまう欠点があると言い換える事も出来る。何をするにしても大抵プラス思考のあゆと彼は相性が良いのかも知れない。

「そんな事はどうでも良いとして、あゆは私に用事でもあったのか」

「どうでも良くないけど……特に用事はないよ。ボクは祐一君と色んな話をしてるだけで楽しいから」

 先程までの不満顔から一転して、あゆはいつもの笑顔に戻った。その仕草は尻尾を振って擦り寄ってくる小型犬の様で、愛らしくすらある。そんな事で理性のタガが外れる程に祐一は飢えた生活はしていないが、彼の頭の中に不意に己の従姉妹の姿が浮かんだ。可愛らしいものにとにかく目がない彼の従姉妹――名雪があゆを見たら何を想うだろうか。

 彼女ならば己の感情の赴くまま、あゆを縊り殺さんばかりに抱き締めるのではないか。その予想を抱いたまま、祐一はあゆに再び視線を戻す。

「……祐一君?」

 顔にハテナマークを浮かべたあゆが正気をなくした名雪の万力で締め上げられる姿も、その後視線を自分の方に向けて助けを求めるのも、祐一は容易に想像出来た。腹の奥底から込み上げてくる笑いを必死に噛み殺しつつ、彼は平静を装った。多少視線が泳いでいるが、仕方のない事だろう。

「すまない、考え事していたのだ」

 嘘はない。

「そうなんだ」

 彼女は三割程しか真実を言っていない彼の言葉を簡単に信じた。単純なのは扱い易くて良い事だ、と祐一はあゆを見て再確認する。彼女の様な者の為に「嘘も方便」という言葉が存在するのだろう。

「ともかく私は今人捜しの最中なのだ」

「ボクの知ってる人かな」

「知っていると言えば知っているな。一度会っている……と言ってる側から目標発見」

 クレープ屋の前で俯く少女、背が低く彼女自身は没個性すぎて全体に埋没してしまうだろう。それでも彼女は少し気を配ればすぐに発見出来るのだ。彼が目標に駆け寄ると、少女もまた顔を上げ彼に微笑みかける。

「待ったか、栞」

「祐一さん」

 何しろ、真冬を歩くには場違いな程の軽装なのだから。この北国の冬で、春か秋の装備をして出歩いている人間など数える程しかいない。その一人がチェック柄のストールを羽織った少女――美坂 栞である。風邪による長期欠席で暇だから外に出歩くという、矛盾の塊の様な少女こそ数少ない少数派の一人なのだ。彼女は何か言い掛けたが、何を思ったのか眉を寄せて口を尖らせる。

「わたし、二時間も待ってたんですよ」

「そうか」

 栞は自らの発言に全く驚かない祐一に対し、逆に目を見開いて驚いてしまった。冷静に考えて二時間も前から待っている筈はない事位、彼ならば分かってくれるだろうと思っていたので尚更である。何度か会ってみて、彼女は祐一に対して知的なイメージを抱いていた事も驚愕の一因を担っている。

「冗談ですよ、祐一さん」

「冗談だったのか」

「もしかして、本気にしちゃいました?」

「二度目にあった時、栞には朝から昼に至るまで学校の裏庭に突っ立っていた前科があるからな」

 う、と栞は言葉に詰まる。それは確かに前科と言えば前科だ、「有り得ない事もない」と思わせるだけの説得力があった。しかもその「前科」自体が自業自得なので、弁解の余地もない。そもそも病気の癖に自宅を抜け出してくる時点で、信用度として欠けるものがあるのかもしれないと彼女は己を顧みる。しかし――

 ――そんなわたしを信用して、祐一さんは商店街に来てくれたんですよね。

 そう考えると、何だか嬉しくなってくるのだから栞も現金である。待ち合わせ場所を「商店街」としか言っていなかったのに探し出してくれるなんて、彼女はドラマの様だと思ってしまう(そもそも彼女が場所の指定を明確にしなかった事が面倒の始まりだとか、引っ越してきたばかりの頃ならばいざ知らず商店街自体が割と狭い事などは、当然の如く彼女の思考の外である)。

「栞」

「……っ、は、はいっ!」

 本物の祐一の声に現実に引き戻され、栞は必要以上に大声を発してしまう。周囲を見渡すと当然、何事かと注目する視線が散見される。彼女は耳まで赤くなり、俯いて己の失態を恥じた。自分の出力系が上手くいっていないといった感じだ。

「まあ良い、改めて自己紹介だ。あゆも、栞も正面切って自己紹介した訳ではないだろうからな」

 現状把握が出来ていない栞は祐一に訳も分からず背中を押され、転びそうになるがたたらを踏んだ所を抱き留められる。彼女自身を押した祐一は横にいる為彼でない事は栞にも分かったが、ならば誰だろうか。そう思って彼女が顔を上げると、カチューシャをした女の子が自分を支えていた。

 何というか、目の前の女の子は周囲から幼い幼いと言われている栞の目から見ても幼く見えた。

「えと、この前はごめんなさい」

 先制はあゆの方からだった。ぺこりと頭を下げる彼女に、栞は頭が真っ白になった。自分はこの女の子に謝られる様な事をされたのだろうか、と。たった今抱き留めてくれた事を、自分が感謝するならば間違いはないだろう。自慢にならないが彼女は記憶力に自信がない。事実にない事が記憶の中にある、そんな異様な事が確認される様になって彼女は自分の記憶をあまり信用しなくなっていた。

 怪訝な顔付きを崩さない栞を見て、祐一はフォローに入る。

「あゆは私と栞が初めて会った時、一緒にいた人間」

 そう彼に紹介され、栞の記憶が喚起される。確かにそんな人物がいた、そう思える様になるまで数秒。その時自分は彼女の名前も聞いた筈だ、確か――

「あゆさんでしたよね」

「うん、ボクは月宮 あゆ。よろしくね」

「美坂 栞です」

 あゆの方から差し出された手を、栞は一瞬躊躇った。手を差し出した彼女の意図が栞に分からない筈がない、だがそれでも栞の視線は泳ぐ。彼女に悪意などない、栞はそう言い聞かせて改めて握手に応じる。あゆのそれはミトン型の手袋越しにも分かる、温かい手だった。

 有り得ない妄想に栞の背筋が総毛立ったが、それをあゆに伝えないだけの義務感が自分に残っていた事が幸いする。己を御する事に必死になっている栞が、祐一の観察する様な冷たい視線に気が付かないのは当然である。彼の視線の不自然は特段の努力をしていないあゆの方も気付いていない。こちらは単に鈍いだけかもしれないが、どうでも良い事である。

「ねえ栞ちゃん、随分軽装だけど寒くないの」

「寒いですよ」

 やはりストールだけでは寒いらしい。どちらともなく歩き出した二人は、情報の共有をせんと会話に花を咲かせる。身長的にも体格的にもそうだが、端から見て二人とも私服なので学校帰りの小学生同士に見える事に本人達は気付いていない(栞の方も何が入っているのか、手に小さな鞄を持っている)。同じ位の体格であるという事でいつもより心理的に気安いのだろう、あゆの方は少し饒舌である。

「コート、着ないの」

「このストールはわたしのお気に入りですから」

「そうなんだ」

 あゆは己の無神経さを呪う。わざわざ真冬にこんな軽装で歩く以上何らかの意味があってもおかしくない、少し考えてみれば分かる事である。それに幾ら何でも寒さが厳しくなれば幾ら栞が鈍感でも自発的に防寒を考えるだろう。

「ボクもこのカチューシャ、お気に入りなんだ」

 頭の三日月に手を当て、あゆは話題を変える。栞に関する事柄に地雷が含まれるのならば自分の事柄に関する話題で盛り上がれば良い、彼女なりに考えた機転である。そのカチューシャが自分を幼く見せる要因の一つだと気付いているのかいないのか。

「誰かに貰った大切な品、ですか」

「うん、ボクの宝物」

 でも貰ったのが七年も前だから実はこのカチューシャは六代目なんだ、とあゆは付け加える。自分で似た様な色のカチューシャを探して着け続けているのだという。それを聞いた栞は感嘆の溜息を漏らす。

「素敵ですね」

「そ、そうかな」

「素敵ですよ。それは子供の頃からずっと一人の想い人を慕ってる、という事でしょう。ドラマみたいで、憧れちゃいます」

 褒めちぎる栞はうっとりと目を半分閉じて歩行速度を落とした。その姿はそのまま夢見る少女のそれである、彼女の脳内でどんなドラマが展開されているのかと思うとあゆは己の体温の上昇を感じた。嬉しい事は嬉しいのだが、彼女としてはそれ以上にとてもこそばゆくて恥ずかしい。

 栞は脳内の妄想を一段落させ、溜息を吐いた。

「わたしも素敵な恋人が欲しいです」

「ボクのは恋人なんかじゃ」

「照れなくても良いですよ、あゆさん。年少者の恋ってなんかこう、ぐっとくるじゃないですか」

「う、うぐぅ、そうかなぁ」

 いつの間にか恋に焦がれる(故意に焦がれる、だろうか?)乙女になってしまった栞に、主導権を奪われてしまったあゆは気圧されてしまう。先程の遠慮がちな態度が嘘の様である。

 ――栞ちゃんって耳年増なのかなぁ。

「うぐっ」

「ひゃっ」

 なかなか失礼な事を考えていたあゆの頬と、再び自分の世界に入っていた栞の頬に熱が襲う。二人がそれぞれの頬に押し付けられた物の正体を探ろうと首を回すと、そこにはいつの間にか会話に参加しなくなっていた祐一がいた。二人の間から割って現れた彼の両手にはクレープが三つ握られている。

「二人で仲良くなるのは結構な事だが、私を忘れるな」

「あははは……」

 あゆは取り敢えず笑って誤魔化そうとしたが、当然そんな使い古しの手で誤魔化される祐一ではない。彼はクレープをあゆと栞に渡し、一言。

「よもや私の存在自体を忘れていた訳ではあるまいな」

「そんな事ありませんよ」

 笑って戦線離脱したあゆと違いギリギリの線でポーカーフェイスを崩さなかった栞は、分が悪い賭けであるとであると自覚しつつも祐一に対して自分達の薄情さを否定する。

「栞、頬にクリームが付いてる」

 栞は「何処ですか」と言ってクレープを保持していない左手で左右の頬を撫でてから、漸く己の状況に気が付く。祐一から渡されたクレープをまだ誰も食べていないと言う事実と、自分の反射との矛盾。祐一の罠に嵌められた事を自覚し、彼女は羞恥で耳まで赤くなった。

「栞は嘘付けないタイプだろう」

 祐一が意地悪そうに口を歪ませ、とどめの一言を吐く。

「そんな事言う人嫌いですっ」

 嬉々とからかう祐一を見て、あゆは内心栞に謝罪する。付き合う様になって日が浅い栞と違い、彼女は多少なりとも祐一がどの様な人物なのかを心得ているのだ。基本性能面ではともかく、対祐一性能面で言えばあゆの方が一日の長があるという訳だ。化かし合いや言い合いで勝った試しがないので、あゆは基本的に祐一と言い合いをしたりしない理由の一端は正にそこにあると言えた。

 それでも祐一と二人きりの時は攻撃の照準を合わせられる事もあるが、今彼の目の前には栞という別の攻撃目標がある。反撃してくるという、元々白旗を上げているあゆよりも遙かに面白いオプションを備えた目標が。といってもそのまま栞がからかわれ続けるのは忍びなかったので、彼女は助け船を出す事にした。

「ねえ祐一君、今日は栞ちゃんと何処に行く気だったの」

 良くも悪くも単純な思考で動くあゆの言動には深い意味はないだろう。祐一もそんな彼女の事を把握しているが、何を想像しているのか当の栞は頬を赤くして一心不乱にクレープに喰い付いている。恐らくは近くにいるのだからその必要もないだろうに、耳をそばだてているに違いない。

 ――想像力逞しい事だ。

 それ自体は悪い事ではないが、彼は特別な事をする気は全くない。ロマンチストなどという絹で包んだ名詞よりも、彼女は妄想狂と言った方が良いのかもしれないと彼は心に留める。彼の、栞に対する人物像にまた一つ変なパーソナルデータが加わった事など本人は当然露程も知らない。

「色々考えたが、私もこの街に引っ越してきたばかりで名所など分からぬ。故に無難な所でゲーセンにしようと思ってる」

「ボク、デートにしては夢がないと思うんだけど」

「デートですらないだろう」
 
 クレープに食い付きながら耳を研ぎ澄ましていた彼女の頬に浮いた赤味が失せる。彼の発言を安心と取ったか、落胆と取ったのかは傍目には分からない。分かった所で方針を変える祐一ではないが、気になる事は気になる。あゆの方は彼よりも更に気になるのか、自分のクレープにぱくつきながら栞へとちらちら視線を移していた。

 会話が途切れると自然に足早になるのは人の常だろうか、彼らは祐一の予測を少し上回る形で早く目的地に到着した。学生に人気の喫茶店兼甘味処『百花屋』の向かい側にある、比較的大きなゲームセンターだ。こちらも百花屋と同じく、学校を終え放課後を満喫する暇人学生の巣窟である。両者の客層を比較した場合ゲームセンターは男子学生が多く、百花屋は女子学生が多い。

「ここが、げーせんですか?」

「そうだ」

「げーせん、ってゲームセンターの事ですよね」

 知識としては頭に入っているものの、実際に入るのは初めてな様である。そんな当たり前の質問をする栞を祐一はまるで異世界人を見る様な目つきで眺める。あゆはというと最早彼ら二人を興味の対象に外し、UFOキャッチャーの景品に執心していた。協調性の欠片もないが、あゆらしいとも言えるだろう。

「栞は風俗だとでも思ったのか」

「どういう事です?」

「ゲイ専門の酒場。略してゲイ専」

「そんなものがあるんですか」

 彼女は感心しきりだが、祐一の視線は冷たい。栞自身がそこに気が付いていないのが救いか。

「あるにはあるが、私にそんな場所へ行く趣味はない。ついでにそういう店の事は普通ゲイバーと呼ぶ。十八歳未満お断りの世界だな」

「祐一さん、もしかして騙しました?」

「気付くのが遅い」

「そんな事言う人嫌いです」

 頬を膨らませ、彼女お決まりの台詞を炸裂させる。世間知らずを曝け出した後では、冗談にもならないが流石にその辺りは彼女も分かっていよう。数秒後には彼女の表情は元に戻っていた。いつも通りの澄まし顔も、祐一の目には輝いて見える。これでも彼女なりに浮かれているのだろう、と彼は見当を付ける。

「さて、栞は何で遊びたいのだ」

 そう彼女に意見を聞くが、「えと、えと」と接続詞を繰り返すだけでまともな答えが返ってこない(やりたいものがないのではなく、やりたいものがありすぎて迷っているのだ)。本当にゲームセンターを利用した事がないらしいと再確認した祐一は溜め息を一つ吐き、UFOキャッチャーの台に張り付いていたあゆに声を掛けた。

「何、祐一君」

 台から引き剥がす際に多少名残惜しそうな目をしたが、すぐにあゆは彼の方に向き直る。

「あゆがよく遊ぶゲームは何だ」

 お呼びが掛かった事が嬉しいのか、それとも自分が役に立てる時が来た事が嬉しいのか、彼女は「まかせて!」と元気に頷いて二人を建物の中へ先導した。祐一がよく利用するビデオゲームコーナーではなく、体感ゲームコーナーであゆは止まる。目の前のゲームは年代物の、とても古いものだった。

「成る程」

 祐一は感心しきりであると同時に、自らの作戦が成功裏に終わりそうな事を喜ぶ。

「これなら確かにあゆでも出来るな」

「うぐぅ、祐一君それどう言う意味」

 言葉通りなのだが、半眼で彼を睨むあゆに喚かれると面倒なので祐一は答えない。目の前にあるのは塗装が所々剥げ落ち、年季漂うモグラ叩きだった。

「金を入れるとモグラが穴から出てくる仕組みになっている。それを付属のハンマーで叩き点数を競うというゲームだ。あゆに出来るのだから、栞にも出来る筈だ」

「祐一君、さらりと酷い事言わないでっ」

「大変そうですね」

「あゆでも出来るのだから、栞に出来ない道理はない。それより金は持っているか?」

 ありますよ、と彼女は胸から財布を取り出す。色々とカードが入る機能性重視の物ではなく、蝦蟇口が付いている昔ながらのタイプだ。因みに人並みに膨らんでいた胸の嵩の何割かは財布の厚みだったらしく、今は見る影もなく見事に萎んでいる。冗談みたいな光景だっが、祐一が幾ら自分の目を擦っても目の前の幻覚は去ってくれない。

 祐一は衝撃的な光景に目を奪われて気が付かなかった様だが、あゆの方は栞を見て何故か胸を撫で下ろしている。

「祐一さん、目がえっちです」

 祐一の視線に気付いたらしい栞が、己の胸を抱いて頬を赤くする。

「女装している男であるという新事実は発覚しまいな」

「本気で怒りますよ」

「流石に冗談だ、本音は栞の見事な人体改造術に感心しただけだ。それと百円持っているか」

「……ありますよ」

 祐一の失礼な発言に対し反論したい気持ちが満載だったが、自分の幼い体型に言及される可能性を考えた末、栞は彼の発言を不問とした。底意地の悪い彼の事だから、絶対に年齢と体型の齟齬について突いてくるに違いない。付き合いは浅いが、幸か不幸か彼の思考回路が栞にも大分把握出来てきたらしい。

 栞は口の減らない祐一を捨て置き、筐体に百円を入れて据え付けられたハンマーを握り締める。

 ――穴から出てきたモグラを、このハンマーで叩くんですよね。

 そんな事を思っていると、早速モグラが穴から飛び出す。一匹だけかと思って叩こうとしたら、時間差で次が出てくる。

「栞ちゃん、右っ」

「左奥」

「手前だよ、あ、右のモグラ行っちゃうっ」

「右奥」

「左だよ早くっ」

 左右からステレオ仕様で矢継ぎ早に出される指令に、常日頃から運動能力が低い栞が対応出来る筈がなく。彼女の頭の中は次々に書き換えられる二人の命令に混線する。目が回るとはこういう事か、と彼女は心の隅で思う。

「え、えうぅぅ」

 結局彼女の叩き出したスコアは一桁に終わり、筐体に笑われる始末。

「凄いな一桁」

「うん、悪いけどボクも初めて見た」

「そんな事言う人達大っ嫌いですっ」

 目一杯眉間に皺を寄せ、心ない発言をする二人を栞は非難する。出会ってから全く遠慮のない発言を繰り返す祐一はともかくとして、あゆにすらはっきりと言われたのが彼女の琴線に触れたらしい。悔しいが挽回する為に百円を入れリベンジをしても、彼女は二人を感心させるスコアを出せる自信はない。ゲームシステムを把握した今ならばこの無惨なスコアよりは上に行けるだろうが、恐らく自分に対するギャラリーの意識は変わるまい。少なくとも祐一の、対栞意識は微塵も揺らぎそうにない。彼の冷たい視線が、いつもにも増して彼女には痛かった。

「えうぅぅ」

 己の能力故に、彼女には唸るぐらいしか抗議行動が取れないのだ。

「じゃあ、ボクが栞ちゃんにお手本見せるよ」

 意気揚々と歩み出たのは、栞並に運動能力の低そうなあゆである。彼女曰く、それなりに回数こなしている様だからそれなりの数字は叩き出せるのだろうと祐一は考える。精神年齢的にも、肉体年齢的にも彼女にはモグラ叩きがお似合いなのだと彼は思う。

 顔に出ていた訳でもあるまいに(実は彼が知らないだけで、表情に出ていたのかも知れないのだが)、あゆは振り返り祐一を睨む。

「祐一君、何か失礼な事考えてない?」

「御託は良いから、さっさと失礼な事を考えていると思われる私を実力で黙らせてみろ」

「望む所だよっ」

 彼女の出したスコアは、栞のそれに毛の生えた程度だった。実数は……多く語る必要はあるまい。滅多に笑わない祐一が吹き出した位の数字だったと言えば、推し量る事が出来るだろう。


「今度は祐一君が恥を掻く番だね」

「残念ながら私は恥を掻くつもりなどない」

「祐一さん、自信は崩れる為にあるんですよ」

 他人の不幸を心待ちにする二人とは対称的に祐一は冷静になっていた。努めて心象を穏やかに保ち、あまつさえ呼吸を整えすらしている。このゲームに筋力は必要ない。反射神経も同様に必要ない。如何に己を御する能力があるのか、ただその一点に尽きる。目標はただ一つ。武器は本数に限りがあるので、慎重を期さねばならない。幾ら彼にとって得意中の得意なゲームとは言え、集中力を欠けば何もならないのだ。

 右手のみで武器を保持し、肘を折り曲げた状態で固定する。的を見据え、下腕の力と手首のスナップを利かせて祐一は武器を放る。

 それは狙い違わず、軽い音を立てて的の中心に突き立った。自分の狙った場所に命中した事に、ひとまず祐一は小さく溜息を吐く。残りは四本。

「うぐぅ、悔しいけど凄いよ……」

「本当ですね、あゆさん」

 不幸を願っていた彼女達にとって、この展開は歓迎されざるものなのだろう。まさか本当に彼が得意なものだった事が余程悔しいのだろう、落胆を隠さずに呟く。まして二人がやったゲームはモグラ叩きで、祐一の選択したゲームはダーツなのだ。傍目から見てもグレードが違いすぎる。

 的の中心から矢を引き抜き、祐一は自分のスコアボードに書き込んで奥の座席に収まる。

「まだまだ、まだまだ悔しがるのはまだ早いぞ反射神経鈍重シスターズ」

「変な名前付けないでください」

「そうだよぉ、祐一君酷いよ」

 彼の付けた適当な名称に反射神経鈍重シスターズ(仮)はそれぞれに不満の声を漏らす。彼としては取り合わなくても全く問題ないのだが、臍を曲げられてはゲーム的にも面白くない。それぞれ一投終わってから、投法について教えてやろうと彼は心に決めた。何も教えていない状況でどれだけ出来るのか、そこも祐一の興味の対象となっているのだ。

「いいから投げてみろ。案外出来るかも知れぬぞ」

「そうかな」

 祐一の無責任な言葉に半信半疑のあゆと、彼の言葉を全く信じていない栞。ただ彼の言葉の何割かは真実が含まれている。少なくとも乗せられて上手くいく人種にとっては真実であろう。何となく彼にはあゆがそんな人種に見えていた。彼は腕を組んで彼女達の投法を後ろから眺める。

「祐一君のうそつきぃ」

 結果はあゆが的にすら当たらず、栞の方は辛うじて的の端に突き立つというものだった。あゆが乗せられやすいタイプでも、能力的な面が追い付かねば成果は出ないかと心中苦笑混じりに彼は思い直す事にする。どっちにしろ、この結果は彼の予想の範囲内を出るものではない。マグレ当たりが出るかも、とは祐一も期待したが何でも最初から上手くいくとは考えていない。というよりも、そんな簡単にダーツを習得されては彼の立つ瀬がなくなる。

「さて栞、ダーツで上手く投げるコツだが」

「あ、はい」

「うぐぅ、祐一君ボクにも教えてよ」

 座席から立ち栞にレクチャーしようとした祐一に対し、あゆは恨みがましい声を上げる。ボクの方が先だよ、とでも言いたげな目で(実際言いたいのだろう)あゆは彼を上目遣いで見上げる。

「あゆは嘘吐きの私に教わる事などないのだろう」

「祐一君、いじわるだよぉ」

 彼女のお決まりの抗議などでは、最早彼の心は微塵の動揺も起こす事が出来なくなっていた。全く変化のない氷刃の如き彼の視線があゆを切り刻み、続く言葉が封ぜられる。

「分かっているなら、いい加減私の性格を考慮して発言してみろ」

「それは難しい注文だよぉ」

 虐めすぎたのか、あゆの瞳が潤んでくる。祐一にとってこの事態は彼女の自業自得なのだが、それでも自分が悪い事をしている様な気がしてくるのは彼も男だからだろう。自分にも他人にも厳しい事を売りに生きてきた彼だったが、少しばかりの同情心はあるらしい。もう少し彼女で遊びたかったが、ここら辺が潮時だと祐一は悟る。

「……あゆにも投げ方教えてやるから、その情けない面をどうにかしろ」

 あくまでも弱さを見せる事を良しとしない、それどころか彼には優しさを見せる事すら忌避する傾向にある。優しさを優しさとして相手に認識させる事を酷く嫌う彼は良く言えばクール、悪く言えば意地っ張りで子供っぽい。栞の身近にはそんな肉親がいたので、それが良く分かっていた。彼女はそれを口にしようとは思わない。口にすれば最後、自分まで祐一の意地悪の標的にされる事は火を見るより明らかだからだ。

 そんな微笑ましい祐一とあゆを見て栞が小さく笑ったら、彼に気付かれてしまった。

「いえ二人は仲が良いんだなぁ、って思いまして」

「あゆはいじり甲斐があるから、そう見えるのだろうな」

「うぐぅ」

 なおも不満が残るらしいあゆはともかくとして、祐一も栞もこんな雰囲気を楽しんでいるのは明白であった。あゆとて彼にいじめられながらも、心の何処かで楽しんでいた。故に、栞はこの場を壊したくなかったのだ。自分の胸に今、痛みが襲っているなどと告白してしまえば遊んでなどいられなくなるに違いない。薬はポケットに入っているが、取り出して良いものかすら彼女は迷う。

 楽しいから。栞にとって今この瞬間がどうしようもなく、楽しいから。

 彼女はクレープを頬張った辺りからずっと痛かったが、痛みが強大化したのはついさっきの話だ。意識すら栞から遠ざける。彼女の身体が傾ぎ、祐一の身体へと寄り掛かった事で他の二人は栞の異常に初めて気が付く。栞の目にも二人が自分の呼び掛けているのは認識出来ていたが、肝心の声が聞こえていない。何を言っているのか分からない、分かるだけの思考能力が彼女には残されていないのだ。

 当然スカートのポケットに入っている鎮痛剤を服用するだけの力は、栞には残っていない。

 ――大丈夫ですよ。

 辛うじて動く唇で祐一やあゆに自分の状態を伝えようとしても、声が出ない。いや声は出ているのかも知れないが、自分の耳に届かない。ゲームセンターの店員と慌ただしく話し合い電話を借りる祐一と、長椅子に寝かせられた栞を心配そうに見詰めるあゆ。彼女は自分の為に全力を尽くす二人を申し訳なく思った。

 ――落ち着いてください、祐一さん。

 やはり自分の耳にすら声は届かない。栞は己の無力を痛感しながら、どうにもならない我が身を恨む。