二章
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「予告通り、来ちゃいました」
調理パンを頬張る祐一に声を掛けたのは、ストールを羽織った小柄な少女である。祐一は咥内に残った食べ物を飲み下すまでの間――脳内で人物検索掛けた数秒の時間を掛けて目の前の人物を思い出した。
「栞か」
「返事が遅いです。声掛けてから人違いだったらどうしよう、って思っちゃいました」
祐一を非難する栞だったが、彼女の笑顔に非難の色は見られない。彼女は祐一の腰掛けているベンチの横に座って、コンビニの袋を足下に置いた。座ってから彼女は顔をしかめ、今度こそ祐一に非難の視線を浴びせかけた。もう一度立ち上がり自分が座った場所に目を向け、両手はスカートへ。
「濡れちゃったじゃないですか、祐一さんの責任問題ですよ」
「他に人がいないとはいえ、殆ど初対面の男に対してそんな科白を吐く栞は変態だな。この痴女めが」
「えぅ、意味が違いますよぅ」
スカートを押さえて顔を真っ赤にして反論しているところを見ると、一応知識としては頭に入っているらしい。見た目通りの子供という訳でない事に、祐一は内心ほっとしていた。子供の相手は色々な面で疲れるのだ。
「取り敢えず、栞の脳内が桃色をしている事は確認出来た」
「そんな事言う人嫌いですっ」
抑揚を変えずに揚げ足を取り続ける祐一に、栞はそっぽを向いてしまう。本気で怒っている訳ではないのは、彼女の顔を見れば分かろう。怒っているというポーズを取っている割に、口は分かり易く笑顔の形に歪んでいるのだ。栞の方も、これが彼独特のユーモアである事を二、三回と会う内に分かってきていた。
彼女は祐一を限りなく本物の刃物に似せて作られたペーパーナイフみたいな人だ、と評価する。切れるけど、斬れない。確かに紙は切れるし、使い方次第では人を傷付ける事も可能である。だが本物の刃物と違い、刃を押し付けただけで斬られる事はない。見た目は普通の刃物と代わりがないから、他人から避けられる。だけれど少し内実を知ると、そんな恐い人間ではないと悟る事が出来るのだ。
「これで我慢しとけ」
栞が振り向くと、祐一は彼女の座る場所にハンカチを広げていた。膝の上に水を吸ったポケットティッシュが数枚丸められている所を見るに、水気をちゃんと拭いてからハンカチを広げたらしい。女の子にも容赦がない割にマメな彼の行動が少し可笑しかったが、彼女は素直に厚意に甘える事にした。視線をあさっての方向なのは、もしかすると恥ずかしいからなのかも知れない。そんな考えが掠めると、栞は祐一に対し妙に親近感が湧いた。
「言動の割に、祐一さんは女の子に優しいんですね」
「騒がれると面倒なだけだ、サボりと違って昼休みという時間制限があるからな」
サボり、その言葉に栞の胸は少しだけ痛んだ。理由は分かっているし、我慢出来ない痛みでもない。まして折角出来た遠慮のない間柄なのだ、彼にこの事は絶対に悟られたくないと彼女は己に言い聞かせて笑顔を振る舞った。
「風邪が長引いてるだけです」
「患者が真冬に出歩けば、長引きもするだろうよ」
調理パンを食べ終わると、祐一は自分の横に置いた鞄から小さな箱を取り出して口に銜えた。彼の片手にはいつの間にかライターが握られている。
「学校は禁煙ですよ、祐一さん」
先程から攻勢を受けていた栞は、祐一に反撃出来て上機嫌となった。唇に人差し指を当てる、まるで教育番組に出てくるお姉さんを思わせる態度と彼女の容姿が驚異的に似合わない事にまでは考えが及んでいない様である。滑稽ですらあるが、ここは彼女の方が言い分は正しい。彼は滅多に人が来ない冬の裏庭とは言え、ここが学校の敷地内である事を失念していたのだ。別に学校で真面目な生徒たろうと行動しているつもりも、これからするつもりも彼にはない。だがわざわざ目を付けられる様な真似をするのも馬鹿らしい。
祐一は屋外という事で条件反射的に銜えた煙草を箱の中に戻す。
「未成年は煙草禁止、とは言わないのだな」
「わたし、サボりですし」
「全くだ」
フォローくらいして下さいよ、と言う彼女の声音に非難は見られない。祐一に虚飾は無意味だともう気が付いているのか、栞は彼の合いの手に全く頓着せずに言葉を繋いだ。
「でも昼休みに裏庭で煙草吸ってたら、流石にばれると思います。まだ生徒も先生も人数多いですし」
「見付からなければどうという事はない、のですよ。祐一さん」と、言う栞の顔が祐一には嬉しそうに映る。彼女は悪事に憧れる世代らしい。恐らくは彼女自身が行っている、内緒で学校に来ているという行為に関しても似た様な感覚なのだろう。彼の方も栞と年齢的に大した差などないが、祐一の方は悪事をしているという感覚は希薄だ。彼の場合、ただ当然の事を当然の様に行っているだけである。
祐一はいつから煙草を吸う様になったか、自分でも憶えていない。気が付くと吸っていた、と言っても小学生の時分から喫煙癖があった訳でもあるまい。となると中学から高校二年の今に至るまでの、比較的最近という事になる。高校に上がった時には、彼はもう喫煙に抵抗はなかった。それでも意識下に上らないのは煙を嫌がる友人達の手前、あまり煙草を吹さないくらいの意識も我慢もあったからだろうか。
本当に気が向いた時、彼は煙草に手を伸ばすのだ。
「でも煙草を銜える仕草、とっても様になってました。映画みたいです」
その容姿も相俟ってか、目を輝かせる栞が祐一の目には実年齢以上に幼く見えた。彼の目の錯覚か、現実の穢れを知らぬ純粋培養の幼さが彼女には垣間見えるのだ。それは世間の煤に汚れ切ってしまった自分とは対照的な、天空より舞い降りる粉雪の白さか。
「だがその替わり身体にも悪く、金も掛かるがな」
「なら、祐一さんは何で煙草なんて吸ってるんですか」
もっともな意見であるが、彼にも明確な回答は出せない。煙草を吸い出した発端が曖昧なのだから、意味なんて分かろう筈がないのだ。敢えて今理由を付けるとすれば、「惰性」だけだろう。そう、元々深い意味などないのかも知れない。
「何故だろうな」
間を置いて、栞は言葉を続けた。
「人間って理由なんて些細な事、忘れてしまうものですからね」
「忘れると言えば、栞は昼飯を食べないのか。コンビニの袋、持ってきてただろう」
「そう言えばそうでした」
「これ、食前に飲むお薬です」と聞いてもいない事を説明し、コンビニの袋から取り出した数錠のカプセル錠剤を水もなしに飲み下す。そして栞は己の横に置いたコンビニの袋から、今度こそ自分の昼食を取り出した。蓋を開けて備え付けのプラスティック製のスプーンを使い、内容物を満足げに食べ出す。そんな彼女を暫し呆気に取られ見ていた祐一だったが、たっぷり数秒の時間を置いて再起動を果たした。
「実は馬鹿だろう、栞」
「わたし馬鹿じゃないですよ」
スプーンを口に運ぶ作業を一端止め、彼女は当然の様に否定した。自分の何が批判されているのか、理解出来てすらいない様子である。
「病欠者が、真冬に、屋外で、アイスクリームを、昼食として食うのは何処からどう考えても愚か者の所行だ。奇人だ。馬鹿や奇人でなければ白痴だな」
祐一は栞にそう言って身震いする。彼女が寒い場所でアイスクリームを食った事で、彼の体感外気温が下がったらしい。
「はくち、って何ですか」
「脳味噌の発育が可哀相な者の事だ」
今度は栞が硬直する(本当に言葉自体を知らなかったらしい)。彼女は合点がいくと同時に眉間に皺を寄せ、祐一に抗議した。
「もしかして祐一さん、わたしの事馬鹿にしてます?」
「すぐに気付け」
「そんな事言う人嫌いです」
栞は祐一から顔を背け、澄まし顔を作った。一連の遣り取りもそうだが、彼女は容姿もそれに見合った幼さが残されている。まるで年齢だけが取り残された様な、つくづく不思議な雰囲気の少女だと彼は思う。年齢詐称の可能性も彼は考えたが、そんな事をして生まれる利益が思い当たらなかった。ならば何故彼女は病欠の身で学校に来るのか、そんな思索が祐一の頭の中で生まれては消える。
栞はそんな祐一の心の裡など露知らず、昼食らしいアイスクリームを頬張っている。そして、身震い。
「寒いです」
「当たり前だ」
栞はもう一度震え、食べていたアイスクリームを膝に置いてから改めて己の身に巻いてあるストールの裾を引っ張った。そうやって彼女がストールの左右を掴むと、黒と茶のチェック柄と肌の文字通り病的な白さが対称的に浮かび上がる。やはり病気の身で、屋外でしかもアイスクリームは無理があるのかも知れない。
「でも、でも大丈夫です」
「無理をするな」
「大丈夫、ですよ。祐一さん」
もう一度念を押す様に区切って言う栞に、今度は祐一も口を噤む。健常者が真冬に屋外でアイスクリームを食べた所で、精々が風邪を引く程度の事で済むだろう。だが彼女なら、既に風邪に罹っているらしい彼女ならば、そう彼が心配してしまうのも無理からぬ事であろう。そんな心配を抱いてしまう程に、薄く血管が見えてしまう程に彼女の肌は白い。
残りのアイスクリームを口に運び、栞は祐一に笑顔を見せる。
「わたしは元気ですから。風邪引いてますけど」
微妙に矛盾した言い分だったが、故にこそ栞を端的に表していると言えた。
病欠の癖に学校へ来る。真冬にアイスクリーム。上品なのに下品。病気の健常者だ、彼女は自らをそう評する。全く信用しようとしない彼に栞は腕を曲げ、力瘤を作って健康を示そうとしたが瘤らしい瘤が出来なかった為に失敗。絵に描いた様な非力振りが、祐一には可笑しかった。
「えぅ、笑わないで下さいよ」
「私は今、笑っていたのか」
可笑しかったのは事実だが、表情にまで出した記憶は祐一にはない。感情を表に出さない鉄面皮である事は自他共に認める事実なのだ、彼女と話しているこの場でもそれを崩す気はなかった。
それでも栞は、祐一が笑っていたと言う。
「気が付いていなかったんですか」
彼と会って日が浅い栞は、唇に人差し指を当てて疑問を呈する。
「表情が変わらないとよく言われるからな。私自身もそう思う」
「お姉ちゃんも表情が変わりにくいタイプですから、気付いたんだと思います」
「栞には姉がいたのか」
「香里っていう名前の、わたしの自慢のお姉ちゃんですよ」
栞は嬉しそうに姉を持ち上げるが、彼の頭には別の思考が存在していた。つまりカオリ、そう祐一が聞いて思い浮かぶ人物は一人しかいないという事だ。だがすぐにイコールで結ぶ程彼は性急な人間でもない。だが聞いてみるくらいの価値はありそうだと彼は判断する。
「栞の名字は何なのだ」
「前に言った気もしますけど、美坂ですよ。美坂 栞」
美坂、美坂 栞。彼の知る「香里」は、確か美坂 香里だった。これは偶然か、必然か。同名に比べ、同姓となると祐一と栞の思い描く人物の同一性はぐっと跳ね上がる。彼とは方向性こそ違うものの、確かに無愛想という面では似たり寄ったりかも知れない。何にしろ今度あった時に聞いてみようと言う気持ちが彼の中に生まれた。
「ふむ」
「ところで祐一さん、時間は大丈夫ですか。もうそろそろ昼休み終わっちゃいますけど」
栞に促され彼女の持っていた懐中時計に目をやると、確かにもう昼休みの時間は余り残されていない。夢中になると時間が早く過ぎるとよく言われるが、本当にそうだと彼は実感する。転校してから約一週間、友人らしい友人など殆ど作ろうとしない彼にとって学校の中で流れる時間は遅いのだ。従姉妹の名雪は寝ているか部活に忙しく、香里も何かの部活に精を出しているらしく余裕が見当たらない。北川は情報収集だとか言って、いつも忙しそうだ。
「そうだな、私も教室に戻る。栞も、早く風邪を治して学校に来い」
「善処しますよ」
政治家の様な物言いの栞に対して、しかし祐一は努めて無表情を貫く。
「そうでなくとも、ここに来れば話し相手くらいはしてやる」
「絶対、ですよ」
笑顔。紛れもなく笑顔の筈なのだが、祐一は何故か彼女の表情に痛々しさを感じた。
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「『グリフは楽観的すぎる』」
久瀬の声が体育館の壇上から全体へと伝わる。反響が少ない分あまり大きな声には聞こえないかも知れないが、その実は違う。彼の側に寄ったならば実感出来るだろう、彼がどれ程の音量を出しているか。威厳と大音声の両立が如何に難しいのかを分かる人間ならば、感嘆を上げるであろう。増して彼は演劇の素人である、ここまで形を成しているのはひとえに半年に渡る練習の成果という他あるまい。
そして一朝一夕で身に付く物ではない彼の武器である威厳と声量を両立させた『声』は、彼が生徒会長として学校の広報活動に勤しむからこその芸当である。
彼の視線の先は一人、彼の相方である美坂 香里。後方には大道具係に小道具係、照明に監督兼ナレーションの演劇部部長・藤乃 雛、二人の遣り取りを心配そうに見詰める腐れ縁にして生徒会の数少ない仲間である御桜 八重。逃げ場などないのだ、そんな背水の心構えがより一層彼を勇壮に見せていた。
「『人は善意だけで抱いて生きていない事、グリフも分かっているだろう』」
台本は持っていないがいい加減何度も何度も読み返し、繰り返し練習して演劇の全てが彼の頭の中に入っていた。それは恐らくは彼の目の前の香里も、他の全部員も同じ事だろう。彼らの仕事は如何に役になりきるか、の一点に尽きるのだ。部員の視線に、体育館で練習する運動部の生徒の視線が彼らの身体に突き刺さる。
「『人は誰だって死にたくないのだ。ランテとヴァルトゥン、両国が衝突すればどちらも損害を受ける。十年前の戦いで、ランテは懲りたのだよ。戦争の鍵を握るのはやはり魔法、そして十年やそこらで魔法は進歩しない。ランテとヴァルトゥンの魔法を比較した場合、分があるのは明らかに我らヴァルトゥンだ。それは魔法に携わる私自身が身を以て感じている事』」
香里演じるラヒスカ=グリフの抑揚をつけた言葉が、意識的に低く抑えた声音で吐き出される。優秀だったが故に世間知らずな魔法使い、最高の魔法使いだったが故に抜擢された最高司祭の重責に耐えなければならない。それがラヒスカ=グリフの本質だと彼女は解釈している。魔法使いとしては優秀でも、政治家としては二流。彼の考え方は人としては好感が持てるかも知れないが、政治の世界ではただの弱点に成り下がる。
「『魔法の力など全くないとは言わないが、勝負を決する力ではないよ。大勢を決めるのは古今東西変わりなく、人の力だ。数の力だよ、俺もグリフも出来る事はそれを手助けするだけだ』」
久瀬演じるツォーニ=ウィザリも自説を曲げない。ただし香里演じるラヒスカ=グリフと根本的に違うのは、彼が冷徹な現実主義者だという所か。彼――ウィザリはヴァルトゥン帝国北方を護る将軍であり、直接戦争を経験した人間である。軍人として酸いも甘いも噛み分けてきている彼がよりシビアな考え方になるのは自然な事であった。
それに彼は手を抜く事も、高い地位を利用しての不正も許されない立場にある。彼の血筋は元々ヴァルトゥンのものではなく、敵対国のランテに属するものなのだ。常に疑惑を向けられ、少しでもおかしな行動を取れば寝首を掻かれる彼の立場は相当に危ういものがあるのだ。そんな彼が将軍という地位にいられるのは、彼が最高司祭ラヒスカ=グリフの個人的友人であり、また戦上手の名将だからという理由の他はない。
「『だがやはり、人は死にたくない筈だ。二度同じ失敗を繰り返す程人は愚かでは無い筈ではないか』」
香里も彼が――グリフが甘いと考える(女の香里が演じているが、ラヒスカ=グリフは三十代後半の男である。因みにツォーニ=ウィザリは四十前後の男だ)。人は同じ過ちを繰り返す生き物である。何度も、何度も繰り返して生きる。彼らが生きる世界よりもずっと平和な筈の現実ですら、復讐を考える者は多いのだ。平和を唱え人間の理性を信じて戦争がなくなるなら、今頃我々の世界ではとっくに千年王国が築かれているだろうと思う。
そして彼らの国であるヴァルトゥンと相手の国ランテでは、何もかも違いすぎるのだ。噛み合わない正義は、どちらかが滅びるしかない。
「『死にたくないから戦う、ではなく生きたいから戦う、そうグリフはそう考えられないか』」
そう、ヴァルトゥンとランテでは余りに価値観が違いすぎるのだ。
「『ランテでは他の国と違い、傭兵を使わないんだよ。ランテは臣民皆兵だ』」
「『そんな馬鹿な事があるものか、臣民を兵に使ったら国の運営はどうするのだ』」
グリフの世界観は哀しい事に、あまりに狭い。実際に刃を交えるウィザリ、外交役を一手に引き受けるヘッケ=ペリニと比べると殆ど「外」との交流などないに等しいと言えるだろう。グリフは最高権力者として彼ら実務者の首をすげ替える事は出来る。だが彼が直接政治に参加する道は閉ざされていると言って良いのが現状である。彼の居住空間であり仕事場でもある神殿を気軽に抜け出す事すら許されない。限られた人間以外には顔を見せる事すら許されていない。実を言えばウィザリと会う事自体、相当異常な行為なのだ。一将軍の分際で最高司祭に顔を突き合わせるとは何と畏れ多い事か、そんな事を彼が言われているという噂は当のグリフにも届いている。
確かにヴァルトゥンでは最高司祭は神の使いであり、絶大な権力を有している。だがそれに付随する神性に、彼ら歴代最高司祭達は縛られていた。頻繁に人前に出てくる様では神秘が薄れてしまう故に、ヴァルトゥンでは基本的に政治は実務者任せである。神託という形で最高司祭は己の意向を伝えるが、他の権力者達の思惑を避けて通れる筈もない。
「『運営は皇帝と帝立議会が、決定事項を臣民がやるのさ。ああ、そう言えば軍の一般兵の事を正確に言えば臣民になる為にランテは戦っている連中になるから、正確には臣民じゃないな』」
久瀬の言葉に全く淀みがない事に、香里は少なからぬ驚きを覚えていた。生徒会長として常に理想主義者と相対してきた現実主義者の重みとでもいうのか、彼から何とも言えぬ威厳が滲み出ている様に見えるのだ。彼――ウィザリに比べると、自分の演ずるグリフは随分ひ弱である。まるでそれが弱い自分自身と、強い久瀬との距離であるとすら思えてくる。
「『奴らはな、グリフの考えている以上に強いぞ。何しろ戦いに勝てばどんな爪弾き者だったとしても、ランテ帝国臣民になれるんだからな。死に物狂いのランテ兵と、戦況が悪化すれば逃げ出す我がヴァルトゥンの傭兵。国としての危機意識も、兵の質も歴然だよ』」
「『国の改善を促す為に、私は『神託』を出した。国軍の養成は十年前、ランテを下した時から始まっているだろう』」
「『やっぱりグリフは甘いよ。あんなのはな――ただの、ただのママゴトだ。依然として奴隷を奴隷としか扱えないヴァルトゥンの根本にある意識そのものを変えない事にはな』」
香里は腰に差してある木剣を勢いの付きすぎで身体が泳がない様にと細心の注意を払いながら、勢い良く引き抜き久瀬と距離を取った。刀身を引き抜く際の鞘鳴りが心地良い(小道具係に感謝である)、場面としては激昂しなければならない筈だが香里の心は急速に冷えていく。この先は嫌と言う程訓練に訓練を重ねた箇所だと思うと、身が締まり軽い興奮が彼女に訪れた。
腰を低く落とし右手で木剣の柄を握り、左手を柄の先端へ添える。目標は、数メートル先にいる久瀬。彼もまた、腰に差している剣を引き抜き構えた。それを確認して、香里は次の台詞を口にした。
「『そのママゴトを習って強くなった私が、ウィザリを倒したらどうする』」
「『その時は俺が直々にママゴト鍛錬に参加して、グリフが正しかった事を宣伝してやるさ。……掛かって来いよ、最高司祭殿』」
言い終わると同時に香里は体育館の床板を思い切り蹴り付け、久瀬へと迫る。最初の一歩から全力疾走出来る走法は八重直伝で、武器の取扱いについては久瀬に教わった。空気抵抗を可能な限り避ける為に低空を滑る様に走り、出来れば可能な限り歩行時に生ずる上下動をなくす。
これまでにない一体感と全能感が香里を支配する。教わった事が過不足なく噛み合っていると実感出来る。
――殺す気で、全力で、ありったけ殺意を込めて彼に武器を振るいなさい。
瞬間、彼女の脳裏に浮かんだのは演劇部部長の藤乃 雛が発した言葉だ。曰く、香里では彼にはどう足掻いても彼に勝ち目はないのだから、迫真の演技を身に付けるよりも本当に殺そうとした方が早いのだという。ふざけた話だ、なら本当に肋の一本や二本持って行ってやろうじゃないかと稽古前は思ったものだ。
今なら、それが出来る。自信が彼女の中でこの瞬間、確信に変わった。
だが仮にも香里に剣を教えた人間である久瀬は一筋縄で行く相手ではない。彼女の剣の切っ先に自分の木剣を押し当て、強引に軌道を逸らしたのだ。彼女の勢いを殺す訳ではないので、思わず身体が泳いでしまう香里。そこに一体何処が手加減しているのかという程の速度で彼の木剣が横殴りに迫る。
香里は歯を食いしばり、身体を捻ってたたらを踏もうとする身体を強引に沈めてやり過ごす。筋肉が捻れて背中が激痛の悲鳴を上げたが、構っている暇は彼女にはない。彼女は刻一刻と移り変わる状況の分析で手一杯なのだ。
――確かにかおりんは久瀬に比べて体重が軽いから、勢いをつけて攻撃した方が良いに決まってるな。だけどそこを補う為の武器だぜ、しっかり腰を据えて打ち込めば幾らかおりんが女の子でもかなりの打撃になるんだよ。
――振りは小さく、何処を狙うのか的を絞るとより良い動きが出来ますよ。
前者は八重の、後者は久瀬の言葉だ。そんな助言をくれた人間が、彼女の前に立ちはだかっている。そう考えると香里の中で理不尽な怒りが湧き上がった。
彼の方も攻撃が空振りに終わり次に繋がらないが、それは攻撃を躱す為に屈んでしまった香里も同じだ。腰が入らなければ武器攻撃も拳による殴打も攻撃力不足になり、彼を倒す力とは成り得ない。だがこの瞬間が攻撃の機会だという事くらい彼女でも理解出来た。故に、彼女は攻撃に出る。
「…………っ!」
久瀬は視界のブレと同時に、驚愕を味わう。顎に硬い感触と衝撃、香里が久瀬の顎に頭突きを敢行したのだ。今まで一度も来なかった攻撃に、動揺と軽い脳震盪が彼の判断を鈍らせた。
決定的な隙を見逃す程香里もお人好しではない。今度こそ殺意の刃を彼の脇腹へと向けて走らせる。そして自分の視界に現れた黒い物体が何なのか分析する暇すら与えられず――彼女の右目に着弾する。その身に起きた事が何なのかを彼女自身が認識する前に、香里の意識は闇に呑まれた。