第一章



 時刻は午後の六時、日はとうの昔に落ちて夕闇が辺りを支配しようかという時間である。この街は東京や大阪の様な大都市ではなくそれなりの規模の地方都市、犯罪の件数も人口に比例してか全国規模で見ると少ない方だ。外国人犯罪が連日新聞を賑わす様になって久しい昨今、昔に比べて随分物騒になったのは確かである。部活の顧問も暗くなるまで練習した場合は、なるべく集団で帰る様にと声を掛けている。だからと言う訳ではないが、部活を終えた彼女は学校の下駄箱の前で友人を待っていた。

 手に持った印刷物らしき物を一心不乱に読み込んでいるらしく、顔は険しい。業者に頼んでのちゃんとした製本ではなく如何にも手作り感漂うそれは、雑誌とか本だとか呼ぶべき代物ではない。表紙は素っ気なく且つあまり上質な紙を使っていない事が遠目に見ても分かる、恐らくは中身も表紙に準じた作りになっている事は想像に難くない。それもその筈、彼女が手にしている印刷物は商業ベースで作られた物ではない。

 表紙に『ラヒスカ=グリフ』とだけ書かれてあるそれは、今度彼女が活躍する演劇の台本である。何事も生真面目にこなす彼女だったが、今回はいつもよりも特に気合いが入っている。何しろ彼女は今回主役級なのだ、脇役の多かった彼女にとってはとっておきの晴れ舞台なのである。

 彼女の在籍するのは演劇部、それも割とのんびりとした校風のこの学校にしてはかなり力の入れている部活である。特に生徒会も今回の演目にはかなり気を遣っている事を考えても、彼女はその責任の観点から言っても絶対に失敗の許されない立場にあるのだ。何しろこの学校の生徒会は市議がバックに付いているかなり強力な存在なのである、潤沢な資金と強力な組織力で学校の自治を任されている。

 卒業生の中にはこの演劇部から芸能界入りを果たした人間がいるとかいないとか。とにかく伝統と格式があるなのだそうである。現生徒会会長になってから、その「伝統と格式」とやらを一層うるさく言う様になっていた。本番でヘマをしようものなら、生徒会からどんな嫌味を言われる事になるのやら。

「『だがなウィザリ、私は我がヴァルトゥンが盤石だとは思っていないのだ。深淵な魔法の闇を知れば知る程、ヴァルトゥンがむしろ嵐の中の小舟だと思い知らされるんだよ。可笑しいかったら笑って欲しい、こんなに弱気な最高司祭の私を』」

 小さく自分の担当の科白を声に出してみるが、どうも己の中のイメージに重ならない。それもその筈で、元々は商業ベースの小説を題材にした演劇の科白なのだ。彼女はその中でも特に重要な、主人公ラヒスカ=グリフの役を任されている。

 原作は『アホ毛促販員』という冗談みたいな名前の著者が作った、架空歴史小説である。ローマ・カルタゴの地中海の覇権争いである、ポエニ戦争をモチーフにして作成したらしい。彼女も演劇の主役をやるにあたり原作を読んでみたクチだが、外交や裏切りを描いた非常にややこしい作品だったという印象が強い。

 はっきり言って演劇向けではないと言わざるを得ない。世に出回るファンタジー小説の大本にして最高の古典である、指輪物語を演劇にするのと同じ位無茶だと彼女は思う。ただし部長もその辺は分かっているのか、かなり大胆に内容を削っている。

 演劇には当の原作者も見に来るのだというが、かなり心配になってくる。そもそも原作者がこの学校の卒業生だったからこそこんな話が持ち上がった訳で、彼女は改めて部長を問い詰めたくなった。「何故無難なロミオとジュリエット何かを選ばなかった、目新しくないとは言えこれはないだろう」と。去年の夏に演劇の内容を決めた時、彼女自身が学校を少し長い間欠席していた事が仇となったのだ。

 今でも納得はいっていない、だがこの選択は民主主義の結果でもあるのだ。真っ先に部長に食って掛かった時、公平な多数決によってこの演目に決まったのだと聞かされている。演劇部全体が何を考えているのか、彼女はそう思って目眩がした。

 だが何を言っても会議に参加しなかった彼女にも非があるのは確かであり、幾ら文句を言った所で決定は覆せない。聞き分けの良い彼女は早々に諦めて衆愚政治に身を伏した。

「『ウィザリを信用していない訳ではないが、君も人間なんだよ。限界はある、私も現人神などと呼ばれているが同じく限界があるのだ』」

 読み込まれ折り目が付き、注釈で余白の埋まった台本を目で追いながら一言一句を確認する。内容を大胆に削ってあるとは言え、なかなかどうして魅せる場面が多いのが救いだろうか。部長の脚本家の腕と、原作者に感謝せねばなるまい(部長と原作者は知り合いなのだ、と彼女は最近その事実を知った)。成功したならば、という但し書きが必要なのは致し方あるまい。

「香里、お待たせ」

 彼女は自分を呼ぶ声に、台本から頭を上げた。台本を鞄の中に仕舞う。

「部長は大変ね、名雪」

「大変はお互い様、だよ」

 部長とは言ったものの、名雪は無茶を押し通した演劇部の部長ではなく陸上部である。朝が異様に弱く普段から授業中も睡眠を欲して終始眠たそうにしている事を考えると、やはり陸上部は似合わないと彼女――香里は思う。しかしずっと辞めずに、更に部長になる所から推察するに名雪は走る事が好きなのだろうと香里は思う。

 弾んだ呼吸から、下駄箱の前まで来る時も走ってきたのだろうと香里は当たりを付けた。

「劇の主役でしょ、香里は。すごいなぁ、わたしにはできないよ」

 息が弾んでいようとも、名雪の話す速度は遅い。思考速度に準じているのか、それとも思考速度に話す速度が追い付いていないだけなのか。いずれにしろのんびり屋の彼女との会話は根気がなければ続かない。余り騒がしいのが好きではない香里には丁度良いが、実の所彼女の性格は好き嫌いの別れるタイプであった。周囲に目が行かず妙に自分勝手な行動を取ってしまう反面、他人が普通嫌がる仕事を率先して行う。

 実は彼女が陸上部で就いている部長職も、押し付けられた物だという噂もある位だ。真偽は確かめていないので信憑性は今一だが、火のない所に煙は立たないとも言う。

「そんな事ないわ、人間やる気になれば大抵の事は出来るのよ」

「わたしはそのやる気が問題なんだよ、わたしはあんまり持ってないもん」

 そんな事ないわよ、と香里がフォローを入れる。「人間やる気になれば大抵の事は出来る」、これは彼女が本当に思っている信念だ。強固な意思を持つ事は容易ではないが、人間誰しも先天的に備わった能力である。自分の可能性を信じたいから、そう言った理由が彼女を部活に駆り立てているという見方も出来なくはない。

 下駄箱から取り出した外靴に履き替え、二人は校舎の外に出た。

「じゃあ、香里もまた明日ね」

 元気に手を振って自宅の方向へ走って別れる名雪に、香里も小さく手を振って答える。自宅の方向が根本的に違うので、二人はいつも校門で別れる事になる。なのに何故下駄箱で待ち合わせをしているかというと、やはり二人が友達同士だからという以外の理由はあるまい。二人とも部活で帰りが遅くなる生活なので、帰路に着く時間も近いので暗黙の了解みたいにいつの間にかこの下校形態が定着してしまったのだ。

 一人になり、香里は改めて外の気温を実感して身震いした。今日は気温が高い方とはいえ、それは雪国であるこの地域の基準である。生まれも育ちも地元育ちの彼女でも、辺り一面の銀世界に一桁の気温は寒い。制服のみでコートを着てこなかったのは失敗だったか、と今更の後悔しながら彼女は歩を進めた。

 ただ香里の気が重くなる理由は何も気温だけの事ではない、むしろ別の割合の方が遙かに高いと言わなければなるまい。

 家に帰れば家族と顔を突き合わせなければならない、その一心が香里の心を重くする。平凡な父親と母親、それは良い。彼女と同じ面影を残しつつも、何処か儚げで弱々しい笑顔が彼女の脳裏に過ぎる。それは何処までも気丈に、健気に彼女は香里に素顔を見せまいと振る舞う。それが、それこそが香里の心を酷く苛立たせる。

 弱い癖に。

 脆い癖に。

 何故強く在ろうとするのか。その理由が分かっているからこそ、香里の心象は荒れに荒れる。身内にすら仮面を外して接しようとしない彼女に、憎悪の炎を向けようとしてしまう。香里を見る者の中には、彼女を美人だと褒めちぎる者もいる。だが内面は何と醜い事か、心の安定から何と遠い事か。

 精神は踏み締められる雪の如く。空と冬の申し子たる真白は地上に降り立ち、解け残った結晶は堆積する。人によって靴底型に、車によってタイヤの形に固められた雪はもう取り返しが付かない。汚れが即座に白さの奥深くに染み渡り、煌びやかな結晶体は踏み固められて形を砕かれる。それは怒りの業火で焼き尽くしてしまった己の内面にある地平に重なる。二年前ならば、今よりもマシだったと断言出来る。今よりも確実に状況が悪かった事は確実だが、それでもあの日々に生きていた香里の中には確実に結晶体があった。誰もが羨む、汚れを知らぬ純粋な結晶が。

 だが香里は知ってしまったのだ、悪夢の終焉が更なる悪夢の始まりなのだと。「知る事は汚れる事だ」その真理に到達した時、彼女は既に遅かった。遅すぎた、さながら知恵の実を食べて楽園を追放されたアダムとイヴの如く。

 香里は絶望を知った。故にそれと戦う為に武器を欲した。残虐にして容赦のない苛烈な攻撃に耐える為に鎧を欲した。より傷を負わずに勝利する為に戦術を欲した。より楽園へと近付く為、自らが楽園を建設する為に明確な戦略を欲した。

 だが自ら武装し戦う事は、他者を傷付ける事に他ならない。本人の意思のあるなしを問わずに、香里は自らに刃を向ける者達を迎撃し続けた。時には自衛の為に敵陣に切り込み、相手を粉砕する事すらしてきた。相変わらず最悪な女だ、と彼女は自嘲する。彼女は自分が人間らしい事の自覚がある。己の今を壊すものを絶対に許さない自分が、この上もなく人間らしいと。

 己に利益のあるものしか興味が向かない香里だったが、最近興味が湧く対象を見付けていた。相沢 祐一、名雪の従兄弟の青年である。まだ会ってから日が浅い為はっきりとした確信がある訳ではないが、恐らくは間違いないだろう。彼女は祐一に同類の臭いを感じていたのだ。何かに怯えた者の臭い、自他の領域を明確に分けようとする冷たい雰囲気、瞳の奥にある肚の中を探る様な遠慮のない視線。一言で彼を表そうとすれば『拒絶』に尽きるだろう、そんな青年であると彼女は思っていた。

 洞察通りだとするならば、香里は舌打ちするだろう。何て近さだ、何て嫌な存在だ、と。己を映す鏡の様な存在が、しかして自意識を持って独自に思考し行動する。同じ様で違う、違う様で同じ。そのズレは彼女にとって堪らなく不快なものであり、存在の近しさは堪らなく憎悪を掻き立てる。悪感情を感じない為には、それこそ徹底的に彼を避ける他ない。

 ――同級生で、名雪の従兄弟である彼を?

 余りの有り得なさに目眩がした。健康体で世間的には何一つ不自由のない彼女は、精神状態に己の肉体が左右される事実が許せない。叱咤する意味で、或いは身体に主の怒りを伝える為に左腕を制服の上から思い切り抓った。痛い。正しい感覚に、彼女は一端満足した。大丈夫、私は平気だ、彼女は何度も自分にそう言い聞かせる。

 思考の海に意識を半分沈めつつ足を動かしていた為、随分時間が掛かった様な気がする。ようやく、いや「もう」と表現すべきか。既に自宅へ着いてしまっていた。

 また、香里の長い一日が始まる。



「おい相沢」

 授業中声を潜めて祐一に声を掛けるのは、彼の近くの席にいる北川 潤である。下らない事ならば自他共に定評がある、とか彼に自己紹介をした――何処にでもいそうな高校生である。祐一は面倒そうに横目を北川へと移し、やはり億劫さが滲み出る声で返答した。

「何だ」

 トーンを落としてあるその問い掛けは、祐一の性格を反映し簡潔極まる。だが授業中の私語だけあって、北川の方も礼節など気にしてはいない。彼は元々そんなものを気にする性質ではないが、今は尚更実用重視だ。

「窓を見ろよ、女の子が一人いるだろ」

 祐一は彼の言われるままに視線を窓の外に移す、そこには彼の指摘通り校庭に人影が見えた。それだけではない、遠目にも小柄だと判別出来る体躯にショートヘア。何より特徴的すぎる特徴が、彼に人物の特定を容易にした。

「あの子、朝からずっといるんだぜ。何やってんだろうな」

「そうだな」

 北川に祐一は適当な相槌を付く。今は三時間目、朝と言うからには女の子は一時間目からいるのだろう。何をやっているのか、確かに気にはなる。だが彼にとって、件の女の子について気になる事は彼女の奇怪な行動ではない。偶然か、必然か。特徴的すぎる程に特徴的なストールを羽織った彼女は、確かに昨日雪の小道で出会った女の子だった。

 ――本当に、一体何をやっているのだか。

 呆れ半分、興味半分で彼は溜息一つ。視線を黒板へと戻したが、どうにも集中力は北川に声を掛けられる以前の水準まで回復しない。胸の奥がちりつく様な、むず痒い感覚に襲われる。祐一は自分の領域を掻き乱される事を酷く嫌う傾向にあった。自分の領域内で分からない事があるのが許せない、傲慢とすら表現出来る神経質さが彼の性格の大部分を形成しているのだ。

 彼は己の心に小波を起こす存在を決して許さない。普段は必要な事以外は決してしない癖に、己が関係した騒乱は持てる手段を全て使用してでも収拾しようとする。その過程でどれだけ自分が傷付こうが、他人に迷惑が掛かろうが一顧だにしない。

 自分でも嫌になる程厄介な性格だったがこればかりは祐一自身でもどうしようもない事である、そう割り切って今まで彼は生きてきたのだ。

 こうして思案に暮れていても彼の疼痛は治まらない、彼はチャイムと同時に席を立った。何処まで行っても彼はただ、己の為だけに。

「相沢?」

 怪訝な声を出して彼の行動に疑問を投げ掛ける北川に、祐一は短く答えた。

「確かめてくる」

 北川が止める間もなく、祐一は教室から消える。


 北川の言い分には実の所、穴がある。彼女はずっとこの場にいた訳ではない、定期的にこの場に訪れているだけなのである。空は澄み渡る程の蒼天で、陽光を遮る厚い雲などない。太陽の光が直接届くという事実は、そのまま温められた空気が容易く上空へ逃げてしまう事を意味する。気温で言えば曇天よりも寒暖の変化が激しく、長時間外気に触れて良い環境とは言い難い。

 寒くなれば彼女は近くにある本屋やコンビニに退避し、時間を見てまた学校の中庭へと向かうのだ。

 だが幾ら対策を練ってあったとしても、冬の冷気が厳しい事に何ら代わりはない。増して彼女の服装は北国の冬にそぐわない、軽装なのだ。チェック柄のストールが完全に寒さを遮断してくれる訳ではない。

「っくしゅ」

 小さなくしゃみを一つして、左右に交差した手でストールを一層自分の方に引き寄せる。彼女は地元生まれの地元育ちだったが、それでも寒いものは寒い。こんな日はいつもコートを着てくれば良かった、と後悔するのが彼女の日課である。それでも半ば意地になって防寒具をストール一枚で済まそうとする自分が馬鹿の見本みたいで、嫌になる事もある。それでもこの防寒具にすがるのは、やはり愛着の差という他あるまい。

 彼女は改めて目の前の建物、学校を見る。通いたかった場所、通えなかった場所、通う筈だった場所。そのどれでもあり、またどれでもない。寂寥感が改めて彼女の心を凍えさせる。あそこには茫洋とした暖かさがあるのだろうと思うと、身体の奥に人恋しさが生まれた。

そんな漠然とした想いに反応してか、彼女の胸に針を突き刺すが如き痛みが走った。眉目を歪めて、痛みに耐える。それはいつもの事、慣れてしまえば良いと思う事、慣れる筈などないと知りながら何度も彼女は己に語り掛ける。いや、語り掛けるなどという生易しいレベルはとうの昔に超えてしまっていたか。それは最早呪詛にも等しい生々しさで、彼女の唇から吐いて出てくる。

「大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈……」

 ――大丈夫、わたしは何ともない。

 いつもなら耳で己の身体に聞かせ、強く思う事で痛みは退散するのだが今回は存外しつこい。寒さのせいか、朝から碌に栄養らしい栄養を口にしていなかった事が祟ったのか。

 或いは彼女が佇む場所故か。

 彼女は膝から雪の絨毯にくずおれる。左手はストールを強く握り締め、右手は胸の上に置かれる。呼吸は既に荒いが、周囲に助けてくれる人物などいない。悪寒が脊髄を通して全身に駆け巡り、気温が零下近いというのに汗が吹き出る。吐き気を緩和する為、彼女は雪の上に座って注意深く呼吸を緩くした。嘔吐は苦しいので、出来れば回避したいのだ。

 一回、二回、三回。十回も繰り返す頃には、大分症状はマシになっていた。漸く首を動かし、視線の先を雪の地面から正面へと移す。裏口の金属扉に人が寄り掛かって自分の事を見ていると、余裕が出来て初めて彼女は認識する。ここの学校の制服を着た彼はもしかしなくともここの生徒であろう、と彼女にも察しが付いていた。

「こ、こんにちは」

 自分自身泣きたくなる程の意味不明さ加減が、彼女は恨めしい。制服の彼はというと、無表情を崩していない。どう反応して良いのか困っているのか、それとも呆れているのか。

「学校に何の用だ」

 意味不明だったので、聞かなかった事にしたらしい。彼女としては多少哀しくもあるが、意思疎通の可能性を相手の方から投げ掛けてきた事は有り難い。まだ胸の奥が痛んだが、努めて表情に出ない様に笑顔を作る。

「特に、意味はありませんよ」

「……電波受信中だったか」

「電波なんて受信してません」

 そんな独特な言い回しで、漸く彼女は目の前の青年の正体に気が付いた。昨日小道で出会った人物の一人である。確か名は祐一と言ったか。

「人を待ってたんです」

 その言葉に間違いはない。正確でもないが、そんな事は説明する必要がないだろう。

「学校をサボって人待ちか」

「サボってなんていませんよ」

「君は自己申告によると何処かの学校の一年生なのだろう」

「はい、ここの学校の一年生ですよ」

「何故私服でこんな所に立っているのだ」

「病気で休んでいるからです」

 間。

「駄目だろう、それはそれで」

「そう言えばそうですね」

 そんな事は彼女にも分かり切っている。それでも彼女は学校を見ておきたかったのだ、実を言えば人待ちなどただの口実でしかない。仮に待っていた人物に出会ってしまっても、彼女は何と言って声を掛けたら良いのか思い付かない。余りにも遠すぎて。余りにも近すぎて。避けられれば近くとも遠くなるのは道理だろう、遠ざけたのは他ならぬ彼女自身だとしても。

「でも大丈夫ですよ、ただの風邪ですから」

「尚更しっかり休んで治したらどうだ」

「えぅ、この風邪しつこいんですよ。もう風邪になってから一週間経ちます、暇ですよ。暇、暇」

「君の事情など知らぬな、早く家に帰って寝ろ。菌をばらまくな」

 彼の言動は一々心に突き刺さるものばかりである事に、彼女は多少の憤りを憶えた。容赦とか情けなんかの人間的情緒が欠如しているのではないか、彼女にはそうとすら思えてしまう。昨日彼と一緒にいた女の子が彼の言動一つ一つに反発していたのも、当事者として矢面に立たされた今ならば少し理解出来る。言い方自体は悪いが、正論である為に本当に反論の余地はない所が更に反発心を煽る。

「そんな事言う人嫌いです」

「私も君に好かれようと思っている訳ではない、だから早く帰ってちゃんと休め」

 彼は自分の事を心配しているのだろうか、一瞬そう考えたものの彼女は可能性を自ら打ち消した。身内ですら無関心になれる、表層だけの関係になれるのだ。昨日会ったばかりの彼がどうして心配などしてくれようか。

 そうやって他人による良心の可能性を打ち消したら、彼女の心が幾分か楽になった。彼女は改めて笑顔を作って、痛みが和らいだ事を彼に示す。

「分かりました、では二つお願いしても良いですか」

「願いによる」

 何処までも真剣で何処までも容赦のない彼が少し可笑しかったが、声に出しての笑いは何とか留める事に成功。これが彼の地なのだという事は、人並みの感性しか持たない彼女にも何となく分かる。

「一つ目、名前聞かせて貰えませんか」

「相沢 祐一」

 即答で来た事に少なからず驚きながら、彼女も応対する。

「わたしは美坂 栞です」

「君の名前の方は聞いていないが」

 本当に彼――祐一は容赦とか情けという単語を知らないらしい。彼は言葉を絹で包むとか、お世辞といった婉曲的な言い回しが好きな日本人らしからぬ人間の様だった。そんな余裕も何もない彼の剛性な言い回しに、栞は抜き身の刃物の如き危うさを感じ取った。儚さすら漂いそうな、彼はある意味病弱な自分よりも脆いのではないか。そんな妄想すら彼女は思索した。

「デリカシーって知ってますか、祐一さん」

「サボりが使って良い言葉でない事くらいは知っている」

 本当に、容赦しない人だと栞は内心嘆息する。そんなお世辞のない言葉は、彼女にはむしろ清々しく感じられた。

「そんな事言う人嫌いです」

「どうでも良い、もう一つは何なのだ」

 問い掛けを急かす祐一を見て、彼女――栞は新鮮な匂いを感じ取った。顔色を窺う事なく、自分と対等な立場でものを言う人間。それは彼女の対人関係の中で、出会った事のない人種だった。彼の発言は気遣いも、中傷も、何もかも直球である。風邪に罹り始めの時、医者は彼女に対して腫れ物に触る様に扱った。両親も何を想ってか、普通に見えて何処か余所余所しさが拭えない。

 そんな飾らない祐一が、栞には少し眩しく映った。

「わたし、これからここに来ても良いでしょうか」

「それは私の決める事ではない、好きにすれば良い」

「じゃあ、来ちゃいますよ?」

「勝手にしろ、私も君を暇潰しに利用させて貰うだけだ」

 面倒見が良いのだか、悪いのだか。冷血で容赦のない利己的なだけの性格かと思いきや、存外そうでもないらしい。栞は彼の立場を知らない。だがそれは逆もまた真なのだ、彼女はただ遠慮のない関係が続けば良いと思っているだけなのだが、果たしてそうなるだろうか。

「ギブ・アンド・テイクですね」

 次に祐一が開口する番は回ってこなかった。裏庭へ続く重量級の鉄戸が軋みながら開いたのだ。開いた人物に、二人の視線が自然と集まる。

「祐一、ホームルーム終わらないから教室に来て」

 恨みがましい声を出しながら、祐一の従姉妹でありクラスメイトでもある名雪が彼を非難した。




 地を蹴り、手に持った木剣で相手を全力で叩き伏せる。全ての行動はただそれだけの為に在った。注意すべきは相手の手にある武器(香里の持つ木剣と同じ物が握られている)ではない。肘や膝、爪先だ。相手の予備動作が分かれば対応すべき行動の迅速さが目に見えて違ってくるからだ、彼らにそう教わって半年。香里にも漸く言わんとしている事の意味が身体で分かってきた所だ。

 相手の爪先に力が入り、彼が迎撃体制に入った事を香里は確認する。この木剣は竹刀の様にリーチがある訳ではないのだ、竹刀のつもりで振り回すと絶対に目測を誤る。それは流石に彼も分かっているのだろう。腰を落とし、右手で得物を持っている。いつも通り木剣で受けて左拳で打ち据える戦術か。

 だがそうそう何度も何度も通用させてたまるものか、と香里は想う。両者の射程距離の二倍あたりで歩幅を小さく、姿勢をより低くした体勢で彼に肉薄する。竹刀ならば上段から得物を振り下ろされるだろうが、今両者の得物は両手で扱う長物ではない。目標に向かって彼女の殺意を具現化させた刃が彼目掛けて殺到した。迎撃の刃は――来ない。

 勝った、そう確信した香里の額に正面から拳がぶつかり彼女は壮絶な転倒を余儀なくされた。香里が得たのは勝利の美酒の代わりに、猛烈な吐き気と敗北の激痛である。全力の短距離機動に拳を合わせられたのだ。

「……っ、……!」

 顔面が陥没したかの様な痛みと、鼻を潰された事による出血で香里は悲鳴どころではない。顔の形が変わってしまうかもしれない、そんな当初の心配が現実味を帯びてきた。雪の地面に転がった事で髪やら衣服やらが汚れているが、今はそんなマイナスは些末すぎて気にする事すら馬鹿馬鹿しい。彼女は立会人の一人に助け起こされ、鼻にポケットティッシュを宛われた。

「久瀬よォ、もっと手加減出来ないかよ」

「これ以上八重は僕にどう手加減しろと言うんですか」

 呆れた口調で咎めているのが御桜 八重、諦めきったうんざり口調が弘近 久瀬である。

「かおりんは女の子だぜ、鼻血はヒデェだろ」

 八重は右腕で香里を助け起こし、左手で彼女の鼻にティッシュを押し当てている。香里は二人の会話に対して、自分の意見を言いたかったが後から後から零れる血で呼吸が苦しいので聞くだけに留まっていた。故に八重の力強さを再確認してしまう。体格的に彼女は香里と大差ないが筋肉量が明らかに違う、安定感が明らかに違う。戦闘用の体付きをしているのは香里ではなく、間違いなく八重なのだ。

「実戦のつもりで相手をし手加減もせよ、何て最初から無理があるんです。妥協して拳を的確に当てるだけ、と言う事になっている筈でしょう」

「だけどよ、顔は女の命だぜ」

「……なら八重さん、貴方が対案を出してくれるかしら」

 なおも食い下がる八重に低い声で言うのは、久瀬ではなく今回の事の発端を作った人物である。演劇部部長・藤乃 雛。黒く艶やかな長髪に、白磁を思わせる肌に、整った顔立ちに、知性を漂わせる切れ長の瞳。彼女はおよそ同性が羨む要素を幾つも持っていながら、しかし美人であるという風評が立たない。理由は一つではなく複数だが、その方向性はある一点に収束されている。

 和風幽霊、彼女を表すならばその一言に尽きる。低く呟く様な喋り方に、身体からどす黒いガスが出そうな程に陰気な雰囲気、存在感の薄さ、殆ど足音のしない歩行方法、行動も何を考えているのだか分からない部分が多い。時々予言めいた発言もするのだか、最早神秘的で片付けて良いものかどうか。

「……これは実戦の空気を養う為の訓練と説明した筈よ。……今回の演劇最大の見せ場がチンケだったら、全てが台無しだわ」

 口から出る言葉は論理的で、付け入る隙がない。その上、容赦がない。異性にすら躊躇せずに殴打出来る久瀬に通ずる所があるが、違いと言えば気の長さだろうか。冷静に見えて実は短気で直情的な久瀬と違って、雛は犠牲を犠牲と割り切ってしまえている。戦場における司令官向きな人物、そう言えば伝わるか。

「……本番まで後一ヶ月弱、それまでには何とか形になって貰わねば困るのよ」

 切れ長の黒瞳は揺らぎもしない。それは己を信じて疑わない瞳、酷く目障りな女を想起させる。善意も悪意も都合良く使い分ける、『最悪』の令嬢――倉田 佐祐裡と同じだ。善人面してない分だけ雛の方がまだマシと言えたが、どちらも八重の嫌いなタイプには変わりない。

 反論が見付からず、八重は雛の視線から目を逸らした。

「御桜さん、もう良いわよ。心配してくれてありがとうね」

「かおりん」

「無茶だとは分かっていたわ、でも了承したのはあたし。ならここからはあたしの問題だわ」

 出血が収まってきたのだろう、香里は右手でティッシュを押さえつつ左手で器用に詰め物を作って鼻に蓋をした。美人が台無しの、恐ろしく不格好な顔になってしまったが仕方があるまい。まだまだ香里本人にやる気がある事に安心したのか、雛は不敵に笑って自分のジャケットを彼女の肩に掛けた。

「……それでこそ我が部のエース、と言いたい所だけど大事を取って十分程休憩を取って頂戴。……台本でも読んで、気を落ち着かせる事ね」

 雛は香里にそう告げ、他の部員の所へ歩いていった。彼女は部長なので、香里だけに構っている訳にはいかないのだ。他の役者達とも台本を持って何か喋っている。演技指導しているのか、木剣を振ったり立ち位置を変えたりとなかなか忙しい。その内校舎の方へ行ってしまった。小道具係に注文を付けに行くのだろう、と香里は適当に決め付ける。

「ごめんなさいね、御桜さん。藤乃も悪気はないのよ」

「そりゃ分かってはいるけどよ、俺ヒナっちの事嫌いだ」

 臍を曲げる八重が、香里には微笑ましく映る。自分の心情を直接吐露出来る素直さは称賛に値するものだ。自分を偽る様になってから、香里は何年経つだろうか。昔に失った物を保持する八重が、彼女には羨ましい。そんな事本人に言えば驚かれるだろうか、呆れられるだろうか。取り留めのない事を考えていると、少し気が楽になっていた。

「八重はもう少し藤乃さんの気持ちを汲んであげた方が良いと思いますよ」

 味方になると思っていた人物からの苦言に、八重は眉間に皺を寄せる。台本を片手に、久瀬は言葉を続けた。

「敢えて憎まれ役を買って出てるんですよ、藤乃さんは。八重も生徒会で目の敵にされた事くらい、あるでしょう」

 そう言われて彼女は呻き声を上げて押し黙った。久瀬は演劇部で今度主役の一人をやる事になってはいるものの、彼と八重は本来生徒会に所属している人間である。生徒会は当然ながら生徒の集団で構成されており、また権力を持った組織でもある。いわば大人の世界の縮小版であり、駆け引きの場なのだ。

 生徒会長である久瀬と、会計の八重は生徒会の中で決して大勢力とは言い難い地位にある。特に久瀬の場合家柄と成績で当初こそ歓迎されもしたが、彼の思い描く生徒の自治と生徒会多数派の描く自治には隔たりがあった。彼を例えて言うならば、議会と仲の良くない大統領といった所だろう。

 この学校は生徒会の権限は強い。年中行事に対する参画は勿論の事、部活動の予算配分、教師の授業方法への干渉から果ては不良生徒の生殺与奪まで。それもこれも生徒会の背後に市議会が付いているからなのだが、反面八重の様な庶民出自の者に対する風当たりは大きくなる。彼女は隠然と社会に影響力を持っている様な家系でも、強力な資本を動かす大会社社長の娘でもない。彼女にあるのは、幼稚園から途切れずに続く久瀬との腐れ縁だけだ。

「そんなとこね。確かに藤乃は取っ付きにくくて言葉足らずな所があって、部内でも評判は良くないわ。でも演劇部の事を想っているのは本当なのよ」

 鼻に詰め物をした香里の言葉は多少聞き取りにくかったが、そんな事で彼女が言わんとしている事まで分からなくなる程八重は物分かりが悪くはない。八重本人は自分の事を「頭が悪い」と評する(特に数学が壊滅的だったりする)が、勉学の事を抜かせばそんな事はないのだ。

「ヒナっちにも考えがあるのは前から久瀬に聞いてたけどよ、やっぱ俺ヒナっち嫌いだわ」

 八重は二人から視線を逸らしてしまう。こうなってしまったら、八重はテコでも動かない事を知っている久瀬は嘆息した。

「八重の頑固さも困ったものですね」

 素っ気ない久瀬を見て、香里はクスリと笑い視線を八重へと向け直す。

「思い込んだら一途だものね、御桜さんは」

「なんだよかおりん、気持ち悪ィな。はっきり言えよ」

「言葉通りよ、説明する必要ないもの」

 微笑む香里に八重は勝手にしろと吐いて立ち上がり、懐からココアシガレットを取り出し銜えた。元々この駄菓子は彼女の好物であり、久瀬が食べる様になったのも彼女の影響である。何処かでまとめ買いしているのか、八重はいつも携帯していた。鞄から紙束を取り出し、電灯に寄り掛かって流し読む。

 彼女の本来の仕事である、部活動予算配分の印刷物である。来年度の予算を作るに当たって、予算の増額を要求する部活動は多いのだ。適正ならば増額し、不適正ならば明確な理由を文書にして送る。面倒だが会計の仕事の一環である。当初は自分の嫌いな数学の分野だと嘆いたものだが、基本的に四則計算しか出てこないので彼女でも何とかやっていけているのだ。

「大変ね、御桜さんも。こんな所でも生徒会の仕事なんて」

「僕達は生徒会の中でも少数派ですからね。本来なら生徒会全体での共同作業となる所でも、八重や僕に対する負担が多くなるんですよ。僕も演劇部に顔を出していない時は書類と顔付き合わせてますしね」

 一応僕は生徒会長ですし、と久瀬は自嘲気味に付け加えた。本当に大変な話だ、香里はそう思う。

 大変と言えば、彼女の脳裏には雛の事も思い浮かぶ。アクションシーン以外の稽古は基本的に体育館の一角を使って行っている。本当は冬真っ盛りのこの時期、屋内での練習が望ましいのだがそれは運動部も一緒である。毎年毎年運動部と衝突しながら場所を確保するのは、幾ら演劇部が生徒会とパイプを持っているからといっても(演劇はPTAの評判も良く文化レベルが高いとかで、年中行事の度に引っ張り出される吹奏楽部の次に優遇されているのだ)ストレスが溜まる作業だろう。部長の雛に対して頭が上がらない理由の一端は、まさにそこにある。

 僻み半分の陰口もあるらしいと、香里は陸上部の部長をやっている友達の名雪からそんな話題を聞いた事がある。

「今回の演劇は僕のイメージアップも兼ねてます。どう言う訳か、僕には神経質で陰湿なイメージが付いていますからね」

 更に生徒の為の生徒会のアピールをして、少しでも生徒会を自分の理想に近付けたいのだと久瀬は語った。

「そうそう、久瀬は陰湿と言うより短気で直情的と言った方が真実に近いのにな。十年以上久瀬と一緒にいる俺が言うんだから間違いないぜ」

「八重」

「ほらな、かおりん」

 我が言葉の裏を得たり、と八重は爆笑する。

「……もう疲れは取れたかしら、お二方」

 いつの間にか雛が戻ってきた事で、三人は意識を切り替える。雪を踏む足音すら聞こえない彼女に当初は驚いていた久瀬と八重だったが、慣れとは恐ろしいもので。今では「そういう物なのだ」と納得してしまっている。

「……シーン十四、ラヒスカ=グリフとツォーニ=ウィザリの言い争いから始めるわ。……香里はもう鼻血の方、大丈夫ね?」

「問題ありません」

 今まで存在を忘れていた詰め物を目の前で外し、万全を示す。今までの自分が多少不細工だった事に頬が赤くなっているのは愛嬌の範疇だろう。未使用のティッシュに用心深く包み、後でちゃんと捨てようと心に誓いながらポケットに入れた。木剣を腰に差し、台本を鞄の上へ。本番まで約一ヶ月、内容も台詞も頭に入っている。彼女の肩に引っ掛けてあった雛のジャケットは本人へと返す。

 彼女の戦いが、再開される。