序章
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四〜五十キロの物体が重力と勢いに任せて突撃してきたら、人はどうするだろうか。全くの不意打ちであるならば、訓練を積んだ人間でもたたらを踏んでしまうに違いない。ましてや普段筋力トレーニングなどをしない一般人ならば来ると分かっていても数歩後退ってしまうだろう。ましてや彼が立っているのは新雪で覆われている極めて足場の悪い場所である、受け止められる筈がない。
そこまで正確に判断しての行動か、それは彼にも分からない。ともかく彼は身体を半身にし、彼に突撃して危害を加えようとする物体の通り道を作ってやった。
結果。
物体は彼の後ろにあった街路樹に激突、木を揺らしてその上の雪をもろに被って埋まる事となった。
「大丈夫か」
一応、社交辞令的だろうが何だろうが声を掛ける必要性を感じた彼は物体の一部(背負っている物の一部が雪からはみ出ている)に声を掛けた。するとどうだろうか、物体はその全身像を雪の中から掘り起こして彼に元気に抗議した。
「大丈夫じゃないもんっ」
「よし、大丈夫そうだな」
人の話を全く聞かずに安心する彼に抗議する形で再度同じ言葉を繰り返した。確かに彼の言い分通り、大丈夫そうではある。
「大丈夫じゃないもんっ、感動の再会シーンが今ので台無しだよっ!」
「人に危害を加えようと突撃してくる、あゆの故郷風の感動の再会など願い下げだ」
「突撃じゃないもん、ドラマでも良くある光景だよ」
「知らぬな」
全くつれない彼に、物体――あゆは益々眉間に皺を寄せる。彼の口の悪さは彼女(女性的な凹凸は皆無だが四肢の細さ、声の高さ、名前などは女性のそれである。実際にあゆは性別的には女性に属する)にとって閉口ものだが、それも何だか懐かしい。彼と会わなくなって七年、それだけの年月が降り積もった雪の如くあゆの心を満たしていく。
「でもボク、祐一君のその口の悪さも良いかなって思うんだ」
「あゆは変態だったのか」
「違うよ、昔から祐一君ってこんな風だったような気がしてるの」
彼――祐一はあゆの答えを聞いて口を噤んだ。七年前に彼はこの街にいた、それは彼も知っている。だがその事実が彼の中で、実体的な重みとなってこない。どう言う訳か、彼はこの街にいた記憶が酷く曖昧なので実感がないのだ。何となく嫌な空気が幽かに残る記憶の残滓から来るだけで、彼は昔の自分に言及されても返す言葉を持たない。
「残念だが、私は全く憶えていない」
「うぐぅ、残念」
「ところであゆ、ぶちまけた戦利品を回収しなくて良いのか」
彼は雪の上に転がるポテトチップスの袋を拾い上げる。他にも見渡せば色々な物が転がっている事が確認出来る。
「ボクのじゃないよ」
「そうか、窃盗はたいやきだけか」
「祐一君、言い方が人聞き悪いよ」
「あの」
「事実だろう、食い逃げ犯のうぐぅ」
「ボクうぐぅじゃないもん」
「あのっ」
「食い逃げ犯のあゆ」
「言い直さなくていいよっ」
「あのっ!」
互いに感情を高めて熾烈化しつつあった言い合いは第三者の声により、中断される。そう、あゆでも祐一でもない第三者の声だ。二人は顔を見合わせ、声の方向へと顔を向けた。
声の主は小柄な女の子である。どの位小柄かというと女性らしさのまるでないあゆよりも一回り小さい位だろうか、ただしあゆとは違い正に女の子と呼ぶに相応しい体格と体型である。彼女はその控え目な印象と小柄な体躯、更に羽織っているストールの相乗効果も相俟ってあゆより別の意味で幼い印象を受ける。件の彼女は二人の視線の直撃を受け幾分気圧されているものの、おずおずと主張を明らかにした。視線は恥ずかしいのか、それともあゆと祐一のどちらに向けていいのか分からないのか中途半端に二人の間を彷徨っている。
「それ、わたしのです……」
それ。彼女の言う『それ』とは何か。一瞬の思考の後、二人の視線が祐一の手に集約する。ポテトチップスの袋である。
「済まない、他人の物に不用意に手を付けるべきではなかったな」
そう言って彼は女の子にポテトチップスの袋を手渡す。しかし当の彼女は怪訝そうな視線を祐一から外さない。彼の言動、及び彼女に対する行動には問題はない。
「祐一君、何でボクを横目で睨むの」
そんなあゆの疑問を祐一は無視し(あゆが果たして視線の皮肉を理解しているのかどうか、彼は確かめる事すら面倒なのだ)、彼は周囲を見渡す。まだ彼女が買った物と思われる品物は雪の上に散乱している。特に自分達の後ろの方には手が出せなかった様で、その辺りが彼女が二人に声を掛けた理由であろう。
「分からないなら一生そのままで良い。それはともかく恐らく悪いのはあゆだろう、故に拾うの手伝おう」
「なんでボクが悪いんだよ」
「その節穴の目を見開け、この子の頭に積もった雪があるだろう。これは恐らくあゆが木に激突した振動で落ちてきた雪のとばっちりだ」
見ていたかの様にすらすらと答える祐一に、あゆではなく女の子方が目を見開いて驚いた。あゆの方は抗議のタイミングを逸してしまい、不満そうだったが誰も取り合わない。
「正解です、見てたんですか」
「いや、口から出任せだ」
祐一はそんな軽口を叩きながらも、手を休めない。テキパキと散乱した物品を回収していく。女の子が買った品物は雑多の一言に尽きる。ポテトチップス、菓子パン、ガムにバニラアイス、日記帳、スケッチブック、色鉛筆、それに何故か洗剤と風邪薬。彼が拾ったのはこの内の三割、一割はあゆが、他は女の子本人が拾っている。
「まだカッターが残ってるね」
何の気なしにあゆが雪の上に散乱した最後の品物であるカッターに手を伸ばそうとした時、女の子から小さな悲鳴が上がった。まるで知られる事を拒否する様な、己の弱点を突かれた小動物を連想する声に祐一とあゆ、二人の視線が女の子に集中する。
「……いえカッターですから、刃が出ていたら大変だと思いまして」
「ボク、手袋してるよ」
「あゆ」
う、と女の子は言葉に詰まった女の子に祐一はあゆを静止して助け船とした。彼には拒否の悲鳴と聞こえたのが本人の言による所の理由であるとは思えない。だがそこを指摘する事が良い事だとは思えなかったのだ、彼女に何某かの後ろ暗い事があるのはその悲鳴の色合いや取って付けた様な理由から想像が付く。しかしそれは彼ら部外者が介入して良いものではない筈なのだ、それが彼には良く分かる。
祐一自身も後ろ暗い所を隠して生きる者の一人だから。故に彼は傷だとか、闇だとかに対して人よりずっと敏感である。人と等距離を保つ術、人を避ける術はそんな心の傷に敏感だからこそ身に付いた彼の処世術であると言えよう。
「つくづく済まないな、君も。あゆは頭が悪いのだ、許して欲しい」
「ごめんね」
本当は自分を馬鹿にする祐一に力一杯抗議したいのだが、それをぐっと堪えてあゆは女の子に謝罪する。謝罪の意味は分かっていないのかもしれないが、それでも空気くらいは彼女にも読めるらしい。
「いえ」
何というか、彼女はこれ以上ない位に簡潔に返答した。これ以上自分の言動や行動からボロが出る事を警戒しているのだ、無理もない事である。自分の意思に関わらぬ所で己の秘密が暴かれるのは、決して気持ちの良い事だとは言い難い。心の中身を見透かされるのは、気心の知れた仲同士ですら不愉快なのだから。まして会ったばかりの他人ともなると、その衝撃は比ではあるまい。
「ところで君、見た所私と歳が近い様に見受けられるが何年生なのだ?」
祐一は強引に話題を切り替える。重い雰囲気は彼の望む所ではなかったし、何より女の子の傷口に触っている様で気分の良いものではなかったのだ。冷血だとよく言われる彼だったが、人の苦痛を見て歓喜する精神性は持ち合わせていない。
「えと、一年生です」
「という事はボクの一つ下だね」
祐一が反応するよりも早く、あゆが口を挟む。彼は高校二年で、目の前の女の子はその一つ下だという。それは問題ない、驚愕は彼女ではない。彼の視線は女の子からあゆへと移行する。彼の瞳に映るのはまるで現在世界に繁栄する人類とは全く別種の、系統を異にする生き物を見る色だ。
「あゆ、お前は私と同い年だったのか」
「祐一君も二年生なんだ」
「その通りだ。私はあゆの事をてっきり」
「てっきり、何かな」
あゆは笑顔だ、一片の曇りもない程に完璧な笑顔である。声も如何にも平静を装った、何て事のない響きで問題はない。だがその身に纏うオーラというか、彼女の発する雰囲気は正対に位置する種類のものであった。そしてあゆの言わんとしている事を解せない程、祐一は鈍感でも頭の回転も悪くない。だがそんな彼女の感情に配慮する程、彼はお人好しではなかった。
「あゆとは学年どころか学校が違うと思っていた。精々中学生であろう、と」
思惑に反しはっきりと思う所を告げられた事にあゆは顔を赤く、或いは青くする。祐一はそんな彼女の様を信号機みたいで面白いと思っていたが、本人はそれどころではない。
「酷いよ祐一君っ、ボク気にしてるんだよ」
「気にしていたのか、それで。私は芸風だと思っていたのだが」
「うぐぅ、芸風じゃないもんっ」
そんな漫才にも似た二人の遣り取りを女の子は興味深く見ていたのだが、やがて潮時と思ったのだろう。にぺこり、と女の子はお辞儀をする。
「わたしはもう行きますので、拾ってくださってありがとうございました」
「うん、困った時はお互い様だよっ」
元気を取り戻したあゆが、ミトンの手袋をぶんぶん振って答える。女の子はそんな子供みたいなあゆに苦笑し、街路樹の小道を進んでいった。そうやって女の子が視界から消えるまで祐一とあゆは見送る。彼は言おう言おうと思っていたが、ついつい言いそびれた事をあゆに聞いてみた。
「ところであゆは現在位置が何処なのか分かるか」
「分かんない」
「この街に来たばかりで、私も分からぬのだ」
先程の女の子に道を聞いておけば良かったと思っても後の祭りである、謎の小道で途方に暮れる二人であった。