季節は流れて春。
 雪国のここはまだまだ寒いはずなのだが、今日は珍しく暖かい。
 まあ、秋子さんの話だと明日は冷え込むらしいが。
 まさに三寒四温だな、と思う。


 水瀬家の朝は早い。
 まず家を出るのは名雪。
 大学まで電車で1時間かかるので、高校の時から都合30分は早く家を出なくてはならないのだ。
「名雪、時間ないわよ。早く食べなさい」
「えっ!? もうそんな時間?」
 急いでトーストを口に突っ込み、コーヒーを飲み干す名雪。
 そして厨房から出てきた秋子さんから手ぬぐいを受け取り、口を拭う。
 目覚めて以来、睡眠時間は人並みになった名雪だが、朝に弱いのは変わっていない。
 本人曰く、昼寝をすれば大丈夫なのだそうだが、講義中に寝るわけにもいかず朝はかなり我慢をしているらしい。
 それでも今は目覚まし一個で起きられるのだから大したものだ。
 まあ、朝が苦手なのは俺も同じか。
「祐一君、のんびりしてる場合じゃないよ。ボクたちも」
「へいへい」
 トーストをのんびりかじってる俺を真新しい制服に身を包んだあゆがせかす。
 あゆは俺達の卒業した高校を見事合格し、晴れて女子高生となっていた。
 もっとも、どうひいき目に見ても中学生がいいところなのだが。
 18歳なのに……。
 もっとも、その外見のおかげでクラスメートと何の問題もなく馴染めているらしい。
 むしろクラスのマスコットになっているとかで、俺としては素直に喜んでいいのか考え物である。
「あ、お母さん」
「何かしら?」
「うん、今日陸上部で新入生の歓迎パーティーがあるんだけど行ってもいいかな?」
 名雪と秋子さんの関係は今までと特に変わってはいない。
「いいわよ。そのかわり、遅くなるならちゃんとどこに行くか連絡すること」
「うんっ」
 でも、以前よりお互いに踏み込んだ会話をするようになった気がする。
 時々意見が合わず言い合いをするのも見かけるようになったし……
 きっと、これがこの二人の本当の親子らしさなのだろう。
「それじゃ、行ってきます」
「はい、気をつけてね」
 名雪は椅子の傍に置いていたショルダーを肩にかけてダイニングを出ていった。
「ほら、祐一君も」
「分かってるよ」
 あゆがせかすのでトーストをくわえたまま立ち上がる。
「うぐぅ、行儀悪い」
「なんだと、日本漫画の伝統的朝の1シーンを愚弄する気か!?」
「そ、そんなこと言っても、行儀が悪いのは悪いよっ」
 俺に凄まれてあたふたと慌てるあゆ。
 ぷぷぷ、愉快な奴。

 パシッ

 そう思っていると喋るために一旦右手に持ったトーストがそんな音と共に消えた。
 ……感じる。
 右に何か触れてはならない氣の流れが起こりつつあるのを……
「…祐一さん、馬鹿なことを言ってないであゆちゃんの言う通りにしたらどうですか?」
「は、はい!」
 秋子さんに凄まれた俺は慌てて自分の席の傍に置いてあった学生鞄を取り、回れ右をする。
 初めて会ったときの秋子さんのあの威圧感は……絶対俺の中でトラウマになっていると思う。
「あ、あゆちゃん」
「何?」
 二人で名雪の後を追おうとしたところを秋子さんに呼び止められる。
「注文してた物だけど、今日届くそうよ」
「えっ、ほんと?」
「ええ、お昼に一旦帰って玄関に置いておくわね」
「ありがとう、秋子さん」
 あゆはそう言って嬉しそうに飛び跳ねた。
 今日届くのか。
 それでお別れなんだな。
 まあいいか、あゆの決めたことだし。
 それに、それがあゆらしい思い付きだと俺も思う。
「と、名雪待たしちゃまずいな。行くぞあゆ」
「あっ、うん」
 二人で顔を見合わせ、頷きあって秋子さんに『行ってきます』と言う。
「はい、行ってらっしゃい」
 秋子さんは笑顔で俺達を見送ってくれた。












 朝は俺、名雪、あゆの三人で一緒に家を出る。
 名雪は途中で駅に向かう道で別れるのだが、あゆが名雪と一緒に出たいというので付き合うことにしている。
 あゆは以前のように名雪に遠慮しているとかじゃなくて、本当に名雪と一緒に登校したいだけなのだろう。
 あゆはひょっとしたら俺より名雪の方が好きなんじゃなかろうか。
 それは、この朝の時間を喜んでいる名雪もそうなのだが。
 仲良く話をしている二人を見ているとなんか妬ける。
 どっちも一年生で、のんびりしていられる立場なのが余計にそう思わせるのかもしれない。


 そう、卒業したはずの俺が学生服であゆと学生鞄を持って一緒に登校している訳は言うまでもない。
 ……見事に大学に落ちた。
 それで浪人生用に自習室を開放してくれている我が母校にお世話になっているというわけである。
 石橋には『お前は真面目にやってれば来年は大丈夫だ』と太鼓判押されているものの、やっぱり辛い。
 ていうか、あの北川ですら都心の中堅大学に、合格率20%の奇跡を達成して受かってるのに……
 合格率80%で落ちた俺の立場って一体何なんだ。
 まだ来年が遠すぎるのと、記憶に新しすぎるせいで考えれば考えるほど鬱になる。
 でもまあ、あゆは思いがけず俺と一緒に学校に通えるようになったことに喜んでいたし……
 とりあえずは良しとしておこう。
 ていうか、そう思ってないとやっていけない。


 名雪と別れた分かれ道でしばらく待っていると、見慣れた仲の良い二人がやってくる。
 最近ますます活発になっていく妹は手におえない。
 げんなりした顔でそう俺に漏らす姉は、それでもどこか嬉しそうだった。
 その後ろで、問題の妹はいつものように親友をからかってはしゃいでいる。
 なるほど確かに手におえないな、と思わず苦笑いした。












 放課後。
 朝に約束をしていた通り、あゆと一緒に帰宅した。
 玄関には朝に秋子さんが言ったとおり、あゆの注文の品が届けられている。
 あゆはそれを見ると、部屋に駆け上がり、かねてから用意していたものを持って戻ってきた。
「なあ、本当にいいのか? 宝物だろ?」
 いざお別れかと思うと少し躊躇いを感じる。
「うん、いいんだよ」
「まあ、お前の物だし、お前がいいって言うなら構わないけどな」
 そう言って改めてあゆの注文したものを見上げる。
 天井を突き破らんくらいの力強さで浮いている大きな赤い球体。
 そう、それは風船だった。
 それも丈夫なゴムで作られたヘリウム入りの特注品。
 試しにそこについているヒモを引いてみる。
 風呂に桶を逆さまにして押し込むのと同じような凄まじい浮力だった。
 小さなのぼりくらいなら余裕で空に上げられる商用のものだけある。
 そして、今からこいつのヒモにつけられる物は……
 綺麗なジャムの空瓶に詰められたあの天使の人形と手紙だった。
「よいしょっと、これで落ちないよね」
 雑誌を縛る要領で瓶を縛りつけてつるす。
 特に傾きも見られないし大丈夫だろう。
「落ちたら色んな意味でまずいな」
 瓶が割れると手紙と人形がばらばらになってしまうし、何より人に当たるとまずい。
 こんなものが空から落ちてきた日には、下を歩いている人間はたまったもんじゃないだろう。
 翌日の朝刊に『風船爆弾の恐怖!!』とか書かれていたら洒落にならない。
 激しく振って無事を確認する。
「念のために側面を強力接着剤で固めとくか」
「そうだね」
 この日のためを考えて購入しておいた瞬間接着剤でヒモがずれないように固めておく。
 これで大丈夫だろう。
 ゆっくり着水すれば水には浮くようにしてあるから海や川に落ちても問題ない。
「じゃ、飛ばすか」
「うん」
 あゆが頷いたのを確認して玄関を開ける。
 そして瓶をつるした風船を二人で持って外に。
 手を放すと風船は吸い込まれるように青い空へと上っていった。
 俺達のたくさんの想いを乗せて……









































 この人形は、三つのお願いをかなえる人形です。
 でも、その願いをかなえるのはあなた自身。
 だから、この人形を拾ったら、あなたの大切な人に贈ってあげて下さい。
 だけどもし、あなたとその大切な人が二人で同じことを真剣に願うなら
 この人形があなたたちに素敵な奇跡をプレゼントしてくれるかもしれません。
 そして奇跡が起きたなら
 あなたもこの人形をまた別の誰かのために贈ってくれると嬉しいです。






あなたに奇跡を!


















【Kanon Trilogy 完】





画像はイベントで一ノ瀬香さんにいただいた物です(多謝)




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