12月23日(木曜日)
今日という日を、こんな形で迎えてしまったのは皮肉だと思う。
いや、だからこその今日なのかもしれない。
今日は12月23日。
名雪の誕生日だ。
「ったく、石橋もどこか抜けてるよな」
講堂からの帰り道で北川が呆れたように言った。
それに香里が相槌を打つ。
「まったくねえ。普通終業式だって連絡すること忘れるかしら」
実は今日は2学期の終業式だった。
校長の話を体育館で聞いて、後は通知表を受け取れば昼で解散という日である。
なのだが、石橋が前日のホームルームで連絡を忘れていたために我がクラスの半数が通常授業と思っていたわけだ。
そりゃ呆れもする。
「授業熱心でいいことじゃないか」
と、心にも無いことを言っておいた。
まあ、どうせ明日一日の休みを置いたら受験組は直前特訓をやるわけで、冬休みという感覚が麻痺している。
石橋もそんな俺達に付き合っていたせいか冬休みのことを完全に失念していたようだ。
「明日から冬休みか〜」
北川がそう言って嬉しそうに伸びをする。
「北川君…あなたも受験生でしょう?」
「冗談だって」
香里にジト目で睨まれて慌てて手を振り否定する北川。
不謹慎な奴だ。
神経質な受験生が聞いてたら殴られるぞ。
「でもまあ、明日くらい冬休み気分に浸ったっていいだろ?」
「決めたわ」
北川のその発言を聞いて香里が真剣な顔になる。
……これはどう見ても怒ってるな。
「北川君、クリスマスイブに一人は寂しいでしょう?」
「ん、まあ」
「あたしと二人っきりで過ごさない?」
「え……それって」
北川の顔が青ざめていく。
「文句は無いわね。女の子の誘いを断るなんて失礼でしょ?」
「は、はい」
声が震えている北川を見て何となく状況を理解した。
北川のやつ一体どんな個人指導をされたんだ?
尋常じゃない怯え方だったが……
香里の個人指導は相当スパルタが入っているものと思われる。
……受けずにすんでよかった。
もとい、真面目にコツコツやっててよかった。
北川に続いて教室に入ろうとした香里が、立ち止まって振り返る。
そして、俺の顔をしげしげと見つめた。
「何だよ」
「なんだかすっきりした顔になってるわね」
「覚悟が出来て開き直ってるだけだ」
体育館で校長の話を聞いている間中この後のことを考えていた。
その考えがまとまった今、残るのは実行に移すことだけ。
今日、半日で学校が終わるということは、そんな俺を学校が応援してくれているように感じられて勇気づけられた。
「そう、じゃああたしからも」
「なんだ、キスでもしてくれるのか?」
「……して欲しいの?」
「冗談だからそんなかわいそうなモノでも見るような目で見るのはやめてくれ」
香里といい栞といい、たかが冗談言っただけでなんでこんな敗北感を味あわされなきゃならないんだ。
やっぱこいつら苦手だ。
「今朝のテレビの星座占いによると、相沢君の今日の運勢は最高よ」
「って、何で俺の星座を香里が知ってるんだ」
さすがにこの歳になってまで誕生日がいつだなどと喜んで人に触れ回るようなことはしていない。
香里には言った覚えがないのだが……
そう思っていると香里が悪戯っぽく微笑んで言った。
「聞きもしていないのに名雪が喋ってたわよ」
「……あいつ」
香里は俺の決意の意味に気付いていたのだろう。
名雪をお願いね。
そう一言付け加えて教室へ入っていった。
名雪……
お前は本当に幸せ者だな。
でもな、眠ったままじゃそれに気付けないぞ。
もう少し待っててくれ。
俺が絶対に気付かせてやるから。
家に帰った後、秋子さんに少し質問をして自分の部屋に戻る。
そして手に取ったのは、ここに来た時に名雪から貸してもらったあの目覚まし。
カチッ
『朝〜、朝だよ〜』
『朝ご飯食べて学校行くよ〜』
わざと針を回して目覚ましを作動させる。
『朝〜、朝だよ〜』
『朝ご飯食べて学校行くよ〜』
まったく……
こんなのんびりした目覚ましでよく目を覚ませたもんだな。
自分で自分を褒めてやりたい。
『朝〜、朝だよ〜』
『朝ご飯食べて……』
カチッ
鳴り続けていた目覚ましを止める。
名雪が俺にこの目覚ましを渡したこと。
それは名雪のメッセージだったんじゃないだろうか?
俺がこれからやろうとしていることを前にふとそう思う。
きっとそうだったのだろう。
『本当のわたしを目覚めさせて』という。
遅くなってごめんな。
今、届けにいくから。
少し時間を置いて、身支度をした俺はあの目覚ましを持って名雪の部屋に入った。
そして、それを名雪の枕元に置く。
「…名雪」
返事はない。
しかし、かすかにベッドの軋む音がした。
「俺は、今からあの場所に行く」
今度は布団の擦れる音がした。
名雪に俺の言葉は届いている。
そう思った。
「俺は最低なやつだけど、約束だけは守りたいんだ」
それも出来なかったら、俺は正真正銘のクズに成り下がる。
だから、目を覚ましてくれ名雪!
「まだ、待っててくれてるよな?」
やっぱり返事は無い。
だが、名雪の顔が少しこちらに動いたような気がする。
「遠すぎて道に迷ってしまうかもしれないから……」
今から俺が行くのは、7年という長くて険しい道のり。
一人で辿りつける自信はない。
だから、お前の助けが必要なんだ。
「出来たら早いうちに迎えに来て欲しい」
そう言って、名雪から一歩下がり、背を向ける。
「じゃあな、名雪」
一人ぼっちの寂しい少女に別れを告げて俺は部屋を出た。
用が済むまで戻らない旨を秋子さんたちに告げて家を後にする。
雪が降っていた。
あの日、名雪が俺を探していた日のように。
風が強い。
横殴りの雪が吹き込み、視界を真っ白に染める。
傘は持ってこなかったが、正解だった。
こんな状態じゃかえって邪魔だ。
ほどなくしてその場所に到着する。
7年前の、約束の場所。
雪を避けて、人通りのなくなったその場所に、俺はひとりで立っていた。
半分以上雪に隠れたベンチ。
雪を払って、そして座る。
「寒……今度こそ俺も死ぬかな」
凍死しそうなところで待つのはこれで3回目。
皮肉にも1回目と同じ場所だった。
タフさだけは人一倍あるのかもしれない。
「罰だな」
名雪の7年間に比べたら、ここに24時間座っていても苦痛のうちに入らないだろう。
激しく傷つき、朽ちていくだけの心で現実を生きる。
それがどれほどの苦痛なのか俺には想像もつかない。
この身を切る寒さよりも耐え難い苦しみ。
それを名雪はあの日からずっと背負わされてきた。
普通の人間にはとうてい耐えられるとは思えない心の虚。
本来俺が背負うべきだったものまであいつに背負わせてしまったんだよな、俺は。
「頼むぜ、名雪。目……覚ましてくれよ」
お前に伝えなきゃならないことがある。
言わなきゃいけない言葉があるんだ。
時計を見てみると午後2時。
短い日と深い雪雲のため、あたりは既に薄暗い。
この悪天候で電車も麻痺しているのだろうか?
人の姿もほとんどまばらだった。
恐ろしいくらいに全てが静まり返っている。
大量に舞い散る雪のせいで、自分が吹雪の大雪原の中に一人で取り残されているような錯覚を覚える。
あの目覚ましが鳴るのは6時過ぎ。
秋子さんから訊いた。
それが、名雪の生まれた時間なのだそうだ。
街灯の照明が、ベンチの上を照らしていた。
陽は落ちて、辺りが闇に包まれても、雪はまだ、降り続いていた。
舞うような螺旋の雪が、青白い照明に照らされて、どこか幻想的な光景だった。
何度目になるかもう分からないが、頭や体に積もった雪を払う。
払い落とした雪が俺の周りで真っ白な小山を作り上げていた。
あの日とはまったく逆の光景。
こんもり盛り上がったその真っ白な雪は雪遊びをするにはぴったりのふわふわした感触だろう。
あえて見ようとしなかった駅前の時計を見上げてみる。
23時55分。
もうすぐ、今日という日が終わる。
やっぱり甘かったのだろうか?
あんな程度で名雪を救えるなんて。
いや、諦めない。
秋子さんにあの時計を一時間おきに何回も鳴らしてもらうように頼んでおいた。
俺が倒れるまで……ここを動くものか。
これは俺が犯した過ちへの報いなのだから。
そして…。
時計の針が、真上を指して…。
静かに、今日が終わった。
別に構わないさ。
まだ、俺は動ける。
だからまだ座っていられる。
失望感がこみ上げてきているはずなのに、何か悟りに近い不思議な気持ちだった。
そう思って空を見上げると、照明に浮かび上がる雪が小降りになって来ているのに気付く。
来る時に吹いていた強い風も止んでいる。
ただ、静かに雪だけがしんしんと天から降り注いでいた。
「……きれいだな」
思わず一言そう漏らす。
闇の中街灯の照明に照らされて空に浮かび上がる真っ白な雪達。
不思議と神秘的に感じる光景だった。
クリスマスイブの幕が静かに開いていく…そんな感じ。
って、何乙女チックなことを考えているんだ、俺は。
かぶりを振って、白い息を吐く。
風がなくなった分ましになったとはいえ、寒いのにかわりはない。
身を固めて体温を逃がさないようにしないと……
えっ!?
雪が切れ、視線を上から下に戻そうとした先……
つまり俺の目の前に見えたものに驚愕する。
俺の目の前に、あの日の名雪が立っていたのだ。
いや、違う。
目の前に立っていたのは……
頭に雪うさぎを乗せて、ちょっと恥ずかしそうな顔をした今の名雪だった。
しかし、真っ先に目に入ったその真っ白な雪うさぎのせいであの日の名雪と重なって見える。
「…やっと見つけた」
始まりの言葉もあの日の名雪と同じ。
そうか、これはあの日のやり直し……
「ずっと…ずっとずっと捜してたんだよ…」
「7年間…だっけか?」
「もうすぐ8年だよ」
「そう…だったな。……待たせてごめんな」
「ううん、約束守ってくれたから…嬉しいよ」
待ってた人が来てくれることが一番嬉しい。
ここで待っていた少女がかつて俺に言った言葉。
……本当に、その通りだ。
「あのね、わたし祐一に見せたいものがあるんだ」
名雪が雪うさぎを胸元に大事そうに抱える。
「ほら…これって、雪うさぎって言うんだよ…」
「知ってる。昔一緒に作ったじゃないか」
「うん、でも…わたしはヘタだった」
「よく…出来てると思うぞ」
「だって、一生懸命作ったんだもん」
時間はかかっちゃったけどね、と名雪が恥ずかしそうに微笑む。
あの日と同じ赤い木の実の目を持った真っ白な雪うさぎ。
それは記憶にあるあの日の雪うさぎと瓜二つだった。
そうか、あの雪うさぎってこんなによく出来てたんだな……
12月初めに俺が即席で作ったやつよりはるかにうまい。
何より、気持ちのこもった雪うさぎだった。
「…あのね…祐一…」
「…これ…受け取ってもらえるかな…?」
「わたし…ずっと言えなかったけど…」
「祐一のこと…」
「ずっと…」
緊張のせいか名雪の声が震えている。
名雪は一言ごとに大きく息を吸ってたどたどしく言葉を告げ、
最後に胸元の雪うさぎを俺の前に差し出した。
「好きだったよ」
お互いに呼吸を止めて相手の目を見詰め合う。
その沈黙の時間は何分にも、何時間にも感じられた。
でも、俺の答えは決まっていた。
名雪も…分かっているのかもしれない。
その澄んだ目を見ているとそんな気がした。
「ごめん…名雪。それは受け取れない」
「うん」
名雪が静かに頷く。
「好きな人がいるんだ」
「うん、知ってるよ」
名雪は目に涙を浮かべながらも、また大きく頷いた。
そして、その涙を拭い大きく息を吸って息を整える名雪。
「お母さんからちゃんと教えてもらったよ、あの日の事」
「そっか」
「うん、それといっぱいお母さんとお話したの」
「どんなことを?」
「お父さんのこととか、お母さんのこととか……色々だよ」
秋子さん……
真っ先に教えてくれたんですね。
俺が名雪に伝えたかったことを。
よく見ると数日間ずっと眠っていたのに顔色もよく、長い髪もきれいに整えられている。
そうか、秋子さんは……
告白に向かう娘のおしゃれを手伝ってあげたんだな。
「ごめんな……名雪。守ってやるって言ったのに」
名雪に謝罪する。
言葉だけでとても済むようなものじゃないけれど……
それでも謝らずにはいられなかった。
次に何を言おうか迷っていると、名雪がゆっくりと首を横に振る。
そして、目に涙を浮かべながら笑ってみせた。
「イチゴサンデー7つ……ううん、8つ」
「え?」
「それで、許してあげるよ」
名雪の目はまっすぐ俺を見ている。
それが名雪の嘘偽りのない気持ちだということがわかる。
本当に、そんなのでいいのか?
俺がお前にやったことの真相を聞いても……。
それでも、それだけで許せるのか?
「祐一とあゆちゃんだから、特別サービスだよ」
ずっと前に名雪が言った。
『祐一とあゆちゃんは特別だと思うよ』
と。
名雪の言葉どおりだったのだ。
昨日あゆから最後のお願いをされた時、思った。
俺にはあゆしかいない。
あゆ以外好きになんかなれるものか……と。
名雪は、それにずっと前から気付いていたのだ。
なんだよ……
お前とあゆだって、十分特別な二人じゃないか。
特別な人がいて、立派な母親と親友がいて……
そんな名雪がなんだか羨ましかった。
だから何となくひねくれてみたくなる。
「もしあゆと別れたら?」
でも、そんな俺の性格も、そんなこと出来るはずないことも名雪はよく知っているわけで……
「…ダメだよ。絶対に許さないから」
名雪は涙を浮かべた満面の笑顔でそう言ってみせた。
夢。
長かった夢がようやく終わりを迎える。
8年の夢が。
今。
やっと。
その幕を閉じた。
最後に全てを思い出に帰して。
すべてを暖かな思い出へと変えて。
「さてと、名雪に許してもらったところで……」
しばらく名雪と見つめ合った後、俺はそう軽口を叩いて近くの雪を丸める。
「祐一…やめといた方が…」
名雪が言いにくそうに俺を止めるが、本気で止める気はないようだ。
名雪も気付いていたんだろう。
「そこで何をしてる!」
丸めた雪玉を近くの植え込みに思いっきり投げつける。
「うぐぅっ!?」
意外にも、植え込みから鼻を押さえて顔を出したのはあゆだった。
弾けた雪玉のかけらが顔や髪に張り付いていて、かなり間抜けな顔になっている。
「…だから止めたのに」
「こら名雪、そういう事は先に言え。栞だと思ったのに」
「呼びましたか?」
するとあゆの後ろから栞がすくっと立ち上がった
やっぱりいたかこいつ。
「栞ちゃんでも雪をぶつけていいとは思わないよ」
名雪が呆れ顔で漏らす。
途中から誰かに覗かれているような視線を感じていたのだ。
こんなシーンを見たがる奴なんていったら栞くらいしか思いつかなかったのだが……
まさかあゆだったとは。
いや、あゆならあゆで理由はわかるのだが。
おおかた顛末がどうなるか心配で心配で、いてもたってもいられず名雪の後をつけてきたのだろう。
と、栞の後ろから誰かがまた立ち上がる。
げっ!
「へえ、あたしの妹を狙ってあんなに勢いよく投げたの」
腕組して眉毛をピクピクさせている香里だった。
やばい、マジで怒ってる。
「……だから止めといた方がいいって言ったのに」
こら、名雪。
お前香里がいることまでは予想してなかっただろ!
目が泳いでるので、予想外の人物に動揺しているのがよく分かる。
「オレもいるが」
そして、香里の後ろから北川が立ち上がった。
何でこんなに大勢……
「おい、あゆ。どういうことか説明しろ」
おそらく並んだ順が覗き参加者の参加順なのだろう。
俺に凄まれたあゆは、鼻を押さえたまま弁解をはじめた。
「うぐぅ、ごめんなさい。二人のことが気になって仕方なくって」
「心配してくれたのは嬉しいが、何でこんなオプションが付いてきてるんだ」
そう言ってオプション3名を見回す。
「あゆさんが夜に一人で出歩くのは怖いということでしたので」
「女の子二人の夜歩きは危険でしょ」
「女の子三人でも危険は同じだからって、美坂に寝てるところを叩き起こされた」
つまり、あゆで栞が釣れて、栞で香里が釣れて、香里で北川が釣れたわけか。
まったく、いつもいつも雰囲気をいい意味でぶち壊してくれるやつだ。
「うちのトラブルメーカーが迷惑かけて悪かったな」
「……ごめんなさい」
あゆの頭に手を置いて無理矢理全員に頭を下げさせる。
あゆもこんな時間に全員を呼び出したことに悪気を感じていたのか、素直に頭を下げた。
「いいんだよ、あゆちゃん。みんなを呼んでくれて嬉しいよ」
そっと、あゆに近づき頭を撫でる名雪。
その光景は、かわいい妹を自慢に思っている姉のものだった。
ああ、これが7年後の成長した本当の名雪だったんだな。
一見前と変わっていないように見えて、どことなく落ち着いた雰囲気を纏っている。
まるで秋子さんのような安心するそんな優しさを。
「さ、積もる話は帰ってからにしましょうか。秋子さんも待ってるし」
「そうですね、これ以上外にいたら祐一さん風邪ひいちゃいます」
香里が手を二回叩いて全員に宣言する。
それに栞が相槌を打った。
たしかに、寒いところでずっと座り続けていたせいか手足の感覚がほとんどない。
早く帰って風呂に入ったほうがいいだろう。
「って、香里も来るのか?」
「当たり前じゃない」
香里は腕を組んで何を今更といった顔をする。
「親友として名雪の誕生パーティーに参加するのは当たり前だわ」
「パーティーって今からか?」
「はい、家では秋子さんと月宮さんがイチゴのショートケーキを用意して待ってますよ」
そっか、誕生パーティーは大事なことだよな。
今日からはじめる親子。
今日からはじめる親友。
今日からはじまる色々なこと。
それを皆で、仲間達で祝う。
きっと、今日という日の夜明けは美しいに違いない。
「ひょっとして、それでオレも呼んでくれたのか?」
「ふふ、それはどうかしらね」
「お姉ちゃん、意地悪ですね。素直にそうだって言ってあげればいいのに」
北川をからかった香里が栞にたしなめられている。
たしなめられた香里が栞をはたこうとする。
きゃあきゃあ言いながらあゆを盾にする栞。
香里を止めようとして後ろから近づいた北川が、タイミング悪く振り上げられた手の甲を顔面にくらってのぞける。
鼻を押さえてうずくまる北川に慌てて駆け寄るあゆ。
そんな光景を見て名雪はおかしそうに微笑んでいた。
いや、全員が笑っていた。
「じゃあ、帰るか」
騒ぎが一段落したところでそう言った。
「前に、祐一のことを王子様って言ったよね」
「ああ」
全員で水瀬家に帰る途中、名雪が話し掛けてきた。
他の全員は気を使ってか少し前を歩いている。
「あれ、今でも変わってないよ」
名雪は遠い目をして前を歩いているあゆを見つめる。
「王子様はとっても優しくて、お母さんをなくして泣いていた村の女の子を助けてあげたの。守ってあげるって約束したお姫様を放って置いてね」
「ひどい王子がいたもんだな」
思わず苦笑いする。
「王子様はその子と一緒にいてあげるうちに、その子の純朴さに惹かれていった」
「そして、村の女の子はその王子様のおかげで持ち前の元気を取り戻したの」
そこで少し話を切って、寂しげな顔をする。
「お姫様はそんなお似合いの二人を見ているのが辛かった」
「お姫様にはそこまで分かり合える人はいなかったから」
そして、にこっと笑顔。
「でもね、お姫様は村の女の子を放っておけない王子様のそんな優しいところが大好きだったんだよ」
「王子様と王子様の助けた村の女の子は、お姫様の周りを変えていって」
「お城の中で一人ぼっちだと思っていたお姫様に、一人ぼっちじゃないってことを教えてあげた」
「お姫様は王子様も好きだったけど、その村の女の子のことも好きになっちゃったんだよ」
「…だから二人に幸せになって欲しいってお姫様は願ったの」
名雪はそこで言葉を切って俺をじっと見つめた。
「祐一、わたしはもう大丈夫だよ」
だから……
と名雪が言葉を続ける。
「今度はあゆちゃんをずっと守ってあげてね」
何の迷いもない、そんな心からの笑顔で名雪はそう言った。
そんな名雪に俺は……
「名雪、俺もあゆもお前より頼りないけど……」
羽をパタパタさせながら前を小走りに歩いているあゆの背中をふたりで見つめる。
「力になれることがあるなら力になりたい」
本当に強い人間なんていない。
誰だって一人じゃどこか弱くて脆いんだ。
だけど、いや、それだから俺達は誰かを好きになれるんだろう。
いつかの栞の言葉……
誰かに分けてあげられる強さ。
俺も名雪も色々な人からもらい、色々な人に分け与えてきたのだろう。
そして、これからも。
そうやって俺達は生きていく。
名雪もわかっていたに違いない。
だから、こう答えたのだろう。
「おたがいさま…だよ」
と。
「そうだな、おたがいさまだな」
真夜中の住宅街で、一際暖かな光を放つ俺達の水瀬家が見えてきた。
ただいま、はメリークリスマスで。
そして……誕生日おめでとう、名雪。
『名雪……聞こえてるか?』
『約束やぶってごめんな』
『守ってやるって言ったのに……』
『ほんとにごめんな』
『でもな、名雪……』
『気付いてないのか?』
『お前はもう一人ぼっちじゃないだろ?』
『いや、ほんとは気付いてるだろ?』
『俺のせいで…信じられなくしちまったけど』
『お前はもう一人ぼっちじゃないんだ』
『香里っていう親友がいる』
『秋子さんっていうお母さんがいる』
『それに……』
『あゆだっているんだ』
『だから、目を覚ましてくれ』
『目を開けて、今一度信じて欲しい』
『もう朝は来ているんだぞ』