灯かりをつけ、名雪の部屋に入る。
 外で雪が降っている音が聞こえるくらいに静かだ。
 そして、寒い。
 静かに近寄って名雪に話し掛けた。
「名雪…ごめんな」
 ぴくっ
 その言葉に反応したのか名雪の体がわずかに動く。
「名雪、本当にごめんな」
 念のためにもう一度呼びかけてみた。
 すると……
 今度は名雪の顔がこちらに向かって倒れた。
 間違いない、俺の謝罪の言葉に反応している。
 やっぱり、俺が原因だったのか。
 心のどこかで無関係であってくれと願っていた気がする。
 あの時の俺の行動が一人の女の子の心を滅茶苦茶にしてしまった。
 自覚すればするほどその罪の意識が重くのしかかる。
「名雪、俺は……」
 名雪に話し掛けようとしたところで言葉が止まった。


 なんてことだ。
 こんなところでこんなことに気づくなんて。
「俺は……」
 そうなのだ。
 名雪になんと言葉をかければいいのか分からないのだ。
 謝罪しか思い浮かばない。
 好きだと言ってやればいいんだろうか?
 あの日の裏切りをかき消すために。
「名雪、俺はお前のことが……」
「ゆ…う…い…ち……?」
 名雪が俺の言葉に反応してうなされるように小声で呟く。
 言ってしまえば終わる。
「お前のことが……」
 駄目だ!
 またそうやって裏切るのか?
 いいや、名雪だけじゃない。
 名雪を裏切って、おまけにあゆまで裏切って……
 俺はそれで誰に顔向けすればいいんだ?
「くそっ」
 自分の狡猾さにほとほと嫌気がさす。
 あの時、俺の心が名雪のように強かったら……
 あの時、俺にあゆを助ける力があったなら……
 こんなことにはならなかったのに。
 今も昔も変わっていない自分の無力さが恨めしい。


「悪い、名雪。もう少しだけ待っててくれ」
 逃げの言葉だった。
 今の俺には名雪をどうすれば救えるのか分からない。
 もう一度心の中で『ごめん』と謝り俺は名雪の部屋から逃げ出した。
 俺は……どうすればいいんだろう?













 自分の部屋のベッドに身を投げ出し、天井を眺めて何時間が経っただろう。
 名雪に何を言ってやればいいのか分からない。
 考えても考えても答えが遠のいていく気がする。
 嘘でもいいからあいつを好きだと言って目覚めさせて後で謝るか?
 いや、それは絶対駄目だ。
 そんな裏切りをしたら名雪は今度こそいなくなってしまうかもしれない。
 あいつに残った最後の命の灯火を消してしまうだろう。
 そもそも名雪にそんな偽りの気持ちのこもっていない言葉が届くのだろうか?
 じゃあ、どうすればいいんだ?
 あゆに謝る?
 あゆとの関係をなかったことにして名雪の気持ちに応える。
 それしか…ないのか?
 なんともやりきれない気持ちに瞼が重くなってくる。
 俺も、名雪のように夢の中にいたい。
 そうすれば、こんな辛い現実に目を向けなくて済むのに……
 もういい。
 次に目を覚ましてから考えよう。
 そう思って意識が闇に落ちていくのとほぼ同時だった。


 コンコン


 突然部屋の扉がノックされた。
 まるで自分の心の中に閉じこもろうとした俺の胸の奥まで届くかのようなノック。
 俺は瞬間的にベットから飛び起きた。
「誰だ?」
「ボクだよ、秋子さんじゃなくてごめんね」
 さっきまで暗くなってたっていうのに思わず軽く吹き出してしまった。
 あいつなりの冗談のつもりなんだろうか?
 いや、本気で言ってるんだろうな。
「別にあゆで構わないから入ってこい」
「……うん」
 遠慮がちにドアが開き、パジャマ姿のあゆが部屋の中に入ってきた。
「栞はどうしたんだ?」
「もう寝てるよ」
 そう言われて時計に目をやると既に夜中の1時。
 こんな時間になってたのか……
「どうしたんだ、トイレか?」
 まったく、仕方ないやつだな。
 そう思っているとあゆは静かに首を振った。
「ううん、別の事。ついていってくれるなら嬉しいけど」
「そっか、じゃ先にトイレ済ませとくか」
「うん」
 あゆが静かに真面目な顔をする時は何か大事な話がある時だ。
 口下手なのか伝えたいことが多すぎるせいか、その前は緊張してそんな顔になってしまうらしい。
 なんてことが分かってしまうあたりこいつとも付き合いが長くなってきたんだな、と思う。



「それで、どうしたんだ?」
 あゆをベッドに座らせ、俺は勉強机の椅子に座ってそう切り出した。
「うん……あのね」
 どことなく言いよどんでいる感じのあゆ。
 言葉にならなくて困っているという感じではない。
 あゆにしてはかなり珍しい態度だ。
「ボクほんとはずっと前から気付いてたんだ」
「気付いてたって、何に?」
「名雪さんが祐一君を好きだってこと」
「え?」
「初めて会ったときからそんな気がしてたんだよ」
 なんだか凄く意外だった。
 そんなことにはとんと疎そうなあゆが気付いていただなんて。
「名雪さんが祐一君を頼りにしてるってこともね」
「何で分かったんだ?」
「わかるよ。だって、名雪さんボクとよく似た目で祐一君を見てたんだもん」
 そう言って寂しそうに微笑むあゆ。
 なんだ?
 こいつってこんなに大人っぽかったのか?
 何故か、いつもの軽快で元気いっぱいな雰囲気のあゆじゃない。
 この人を包み込むような優しい雰囲気は……
 いや、前にどこかで見た気がする。
 いつだっただろう?
「前に言ったよね。登校の時間は名雪さんの時間だって」
「ん、ああ、そんなこと言ってたっけ」
「あれね……名雪さんから祐一君を取りたくなかったんだ」
 はあ?
 一体あゆは何を言いたいんだろう?
 俺の知らないところで名雪と俺の取り合いでもやってたと言うんだろうか?
「なんでだか分からないんだけど、名雪さんから祐一君を取っちゃいけないって思ったんだよ」
 そう言ってあゆが顔を伏せる。
「名雪さん、なんだかずっと祐一君に助けを求めているような気がして」
「いつからだ?」
「はじめてこの家に来た時からだよ」
 そんな前から気付いていたのか?
 名雪が心の奥底でずっと泣いていたことに。
 俺が驚いているとあゆは少し照れ笑いを見せた。
「だって、ボクも昔はそうだったから」
 7年前祐一君に初めて会ったときのことだよ、と付け足すあゆ。
「言葉では言えないけど、ボクは名雪さんの気持ちをいつも感じてた」
 あゆはそこで言葉を止めて再び下を向く。
 何か後ろめたいことがあるような仕草だ。
「でも、ボクは踏み込めなかった。訊いたら何もかも壊れちゃいそうで。それくらい名雪さんの気持ちは切なかったんだよ」
 意味が通じていないようでなんだかわかるような不思議な感覚だ。
 あゆの不思議なところだと思う。
「ずるいよね、ボク」
 しばらく間を置いてポツリと呟くあゆ。
「子供のふりしてわからないつもりでいたんだから」
「子供の…ふりだって?」
「うん、ボクは祐一君や名雪さんが思ってるほど何もわかってない子供じゃないよ」
 それでもまだまだ子供だけどね。
 と、あゆは苦笑いしながら分かるような分からないような説明をした。
「名雪さんが夢の中に逃げたんだとしたら、ボクは子供であることに逃げたんだと思う」
 そこでもう一度一呼吸置いて、申し訳なさそうにあゆが横を向く。
「ずるいよね、ボク」
「ずるくなんかない」
 あゆの言葉が終わると同時に俺はそう断言した。
 お前はずるくない。
 だって、お前のそれは……
「お前なりに名雪のことを心配してたからなんだろ?」
 もしあゆがなりふり構わず名雪から俺を遠ざけていたなら……
 名雪の心の傷はより深くえぐられていたかもしれない。
 あゆが名雪の心の傷に気付いて、いたわっていたからこそ、名雪は今の今まで笑ってこれたんだろう。
 そして、あゆのその心遣いのおかげで俺は名雪の心の傷に気付いた。
 名雪を放っておいてあゆと二人っきりでいれば気付くこともなかったに違いない。
 確かに、知らずにいれば幸せだった。
 だけど、そんな恥知らずな幸せなんて受け入れられるはずがない。
「あゆ、親近憎悪って知ってるか?」
「え?」
 突然の関係ない問いかけにきょとんとするあゆ。
「ええっと、性格のよく似てる人はお互い嫌いになっちゃうって意味だったかな?」
「まあ、そんなとこだ」
「でも、その言葉おかしいよ」
「どうおかしいんだ?」
「だって性格が似てるならその分その人のことが分かるから、きっと仲良しになれるとボクは思うよ」
 何の疑いもなく、なんの躊躇もなくそう言いきるあゆ。
 その姿に思わず笑いがこみ上げてきた。
「ぷっ、はははは」
「な、なんで笑うの!?」
 脈絡なく笑われたものだからあゆが怒る。
 でも、その姿が余計に滑稽で笑いが止まらない。
「お前なあ、人が語ってる時は最後まで語らせろよ」
 人がこれから人間関係というものについて語ろうと思ってたら……
 あゆはいきなり核心を言ってしまった。
 それもこいつらしい言葉で。
「そうだ。お前の言う通りだよ」
 口を覆って笑いをこらえながら話を続ける。
「性格の似てる二人ってのは誰よりも分かり合える二人でもあるんだ」
「ひょっとして、ボクと名雪さんのこと?」
「ああ、お前と名雪は似てるよ」
 性格、境遇、考え方、程度の差はあれ二人は似ている。
 はじめて出会った時の雰囲気なんかは特にそうだ。
「だから怖かったんだ、お前と名雪を会わせるのが」
 7年後、偶然出会った二人はその場で意気投合した。
 それを知っているからこそ後悔が止まらない。


 何故俺は二人を7年前に引き合わせなかったのだろうか?
 何で二人を信用してやれなかった?
 名雪もあゆも、お互いをわかってやれる優しさを持ってるのは分かってたじゃないか。
 二人の関係に歪みを落としたのも俺だったのだ。
 運命は、どこまで残酷な真実を俺に突きつければすむのだろう。
 いや、何を言ってるんだ。
 運命じゃない。
 全部俺の起こした必然じゃないか。
 色々な後悔がある。
 でも、これが一番の、そして7年前からずっと続く最後の後悔。
 これをどうにかしないと、俺は前に進めない。
 でも、気付かなければ進むことも出来なかった。


「祐一君、あのね……」
 頭を抱えて俯いていた俺にあゆが呼びかける。
 そして、パジャマのポケットに手をやりごそごそと何かを取り出した。
「それは……」
「うん、祐一君がくれて、名雪さんが直してくれた天使さんだよ」
 あゆがポケットから取り出したもの。
 それはあの天使の人形だった。
「最後のお願い、まだ残ってるよね?」
「何? もうお前はお願い全部言っただろ」
 そう言うとあゆは悪戯っぽく笑う。
「でも、最後のお願いは叶えてもらってないよ?」
「あ……」

 一つ目のお願いは『ボクのこと忘れないでください』
 二つ目のお願いは『今日だけ、一緒の学校に通いたい』
 そして、三つ目のお願いは……
 『ボクのこと忘れてください』

 実に単純明快なロジックだ。
 一つ目のお願いを叶えれば三つ目のお願いが叶わず……
 三つ目のお願いを叶えれば一つ目のお願いが叶わない。
 俺はあゆに『俺にできないことも叶えてやれないぞ』と言った。
 お願いが矛盾している上に、三つ目のお願いは俺にできるわけがない。
 となると、三つ目のお願いが無効だったということになるのだ。
 非常に分かりやすい。
 しかし、あゆに理屈ではめられたというのは何か癪だ。
「でも、奇跡が起きただろ」
「祐一君には奇跡が起こせるの?」
「起こせません、ごめんなさい」
 反射的に苦しい反論をした自分を馬鹿らしく思う。
 思わずあゆに敬語で謝ってしまった。
 何故だか分からないが、今日のあゆには勝てない気がする。
「あはは、だよね」
 それを見たあゆが面白そうに笑う。
 そして、物悲しい顔で呟いた。
「もし奇跡を起こせるなら、名雪さんを真っ先に起こしてるもんね」
「……悪い」
 もし俺達に奇跡というものを起こせる力があるなら……
 たった一回だけの力でも今は名雪を目覚めさせることに使うだろう。
 そして、そんな力があるなら何に変えてもあゆは欲しいと思っているのだ。
 そんなあゆに気安く使っていい言葉ではなかったと思う。
「いいよ、祐一君がそういうヘンなことを言うのは昔からだから」
 そのほうが祐一君らしいよ、とあゆはうれしそうに付け足した。
「それじゃ、最後のお願い聞いてくれる?」
 そう言ってあゆが緊張からか人形をぎゅっと握り締める。
 しばらく間を置いて俺は口を開いた。


「お願いの決まり、改めて言わせてもらうぞ」
「うん」
「お願いを増やすことと俺にできないことは駄目だ。それと他のお願いと矛盾するのもな」
 一息置いて、椅子に深く腰掛け直す。
 さあ、何でも言ってこいという感じで。
「それでも俺にできることなら何でもOKだ」
 それを聞いたあゆは明るい笑顔を見せる。
「大丈夫。祐一君ならできるし、祐一君にしかできないことだよ」
 あゆが天使の人形を俺の目の前に差し出す。
「ボクの最後のお願いです」
 あの日の、悲しい顔じゃない。
 心から願っているそんな安らかな顔だ。
 だから、どんな願いでも叶えてやりたいと純粋にそう思った。
「名雪さんを笑顔にしてください」
 なんだろう? この胸に溢れてくる気持ちは?
「名雪さんに心からの本当の笑顔をさせてあげてください」
 とても懐かしい気がする。
「それが、ボクの最後のお願いです」
 思い出した。
 この人を包み込むような優しい雰囲気は……







     「ボクは、ふたつ叶えてもらったから、充分だよ」
        「残りのひとつは、未来の自分…」
   「もしかしたら、他の誰かのために…送ってあげたいんだよ」







 きっとあの時だったのだ。
 俺があゆを好きになったのは。
 その何気ない、ほんの少しの小さな思いやりが忘れられなくて……
 もう迷わない。
 何かそう胸に湧いてくるものがあった。
 だから、俺はあゆの『ダメかな?』の問いかけを待たず応える。
「わかった、叶える。絶対に」
「うんっ」



 今、7年の時を越え……
 あの日あゆが望んだとおりに。
 あゆの最後のお願いは名雪に送られたのだった。







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