「ほんとうにびっくりしたよ」
「すまん」
 俺は布団から起き上がってあゆと栞に謝っていた。
 隣からガンガンと頭を壁にぶつける音が聞こえてくれば、誰だって驚くだろう。
 何事かと隣の名雪の部屋から飛び出してきた二人にとんだ醜態を見せてしまった。
「祐一君、一体どうしたの?」
「そうですよ、頭にこぶができてるじゃないですか」
 何を考えてそんな馬鹿なことをしたの?
 二人の目がそう言っている。
 まったくだ。
 何でそんなことをしてたんだろうな。
 心をえぐられた名雪の痛みはこんなものではなかったはずだ。
 こんな程度で名雪に申し訳が立つなんて一瞬でも思った自分が馬鹿らしい。
 そして同時に腹立たしく思えてくる。
 俺は……どこまで最低の人間なんだ。

 パンッ!

「祐一君!?」
「祐一さん!?」
 自分の右手で思いっきり右頬をひっぱたいた。
 あまりの唐突な自傷行為にあゆと栞が目の色を変える。
 何か言おうとした二人に右手を突き出し、言葉を制した。
「学校、行ってくる」
 寝巻を脱ごうとボタンに手をかけたとき、二人が困ったように目を伏せているのに気づく。
 そっか、女の子だもんな。
 俺の着替えを見るのは恥ずかしいけれども、それ以上に目を離せない雰囲気を俺が撒き散らしているんだろう。
「心配するな。自殺とか馬鹿なことは考えない」
「え、あ……うん」
「だから一人で着替えさせてくれ」
 そう言って二人に部屋の外に出るように手で指図する。
 あゆは一瞬ためらっていたが、栞に促されて部屋を出ていった。
 栞は俺にそんなことをする意思がないことを感じ取ったのだろう。


 そう、自殺なんてできるはずがない。
 そんな簡単な道が許されるならどんなに楽だったろう。
 名雪は……まだ生きているのだ。
 だから、俺だけ逃げるなんて許されるわけがない。













 何故か授業はよく耳に入った。
 単に無心になっていたからかもしれない。
 でも、それだけだ。
 むしろよくないことだと思う。
 名雪に何かしてやらなきゃならないのに、どうにもならないと分かっている自分がいた。
 授業が終わるたびに、いつも以上にきれいに取られたノートを見て自己嫌悪に陥る。
 よりによってこんな時に、なんでこんなことだけいつも以上にやれてるんだ。
 くそっ
 どうにかしなきゃならないのに、どうにかしてやらなきゃならないのに……
 俺はなんて無力な人間なんだ。



 昼休み、あまり食堂に行くのは気が乗らなかったので北川にパンを買ってきてもらった。
 北川はパンじゃ物足りないとかでそのまま食堂にとんぼ返りしていった。
 無条件でパシリを受けてくれるなんて…心配かけてしまったな。
 後ろ隣を見ると香里が一人で黙々と弁当を食べていた。
「よう、香里が弁当なんて珍しいな」
「あ、これ? あたしが自分で作ったの」
 来年から栞やあゆさんとお昼に交換するかもしれないから練習よ、と付け足す。
「確かに色気のない弁当だな」
 一面に焼きそばって、一人暮らしの男が作ったような乱雑さを感じる。
「味は悪くないんだけどね……凝ったのを作るのは面倒くさくて」
「腹に入ればみんな同じ、ってわけか」
「まあ、そんなとこね。あたしも秋子さんに習った方がいいかしら」
「やめとけ、そっちの方が香里らしいから」
 美味しく、見栄えよく作るのも才能なら、手早く無駄なく作れるのもまた才能だろう。
「なんだか引っ掛かるいい方ね」
 不満げに俺と焼きそばを見つめる香里。
 なんとなく、こいつとの関係は女友達というより男友達のノリに近い気がする。
「なんでもない。それに、あゆってたい焼きが好物なのは知ってるだろ?」
「それがどうしたのよ」
「そのせいかあれで結構ジャンクフード系は好きなんだ」
 俺がそう言うと、香里はがっかりしたようにため息をつく。
「つまり、相沢君はあたしを屋台のおじさんか何かのように見てたわけね」
 ぐあっ、相変わらず鋭い切り返しで……。
「ま、いいわ。向いてないのは自分でもよく分かってるから」
 そう言って香里はすくい上げた焼きそばを口の中に運ぶ。
 つられて俺も焼きそばパンを一口かじった。
「それで、何か言いたいことがあるんじゃないの?」
「ばればれか」
「あれだけ朝から一人にして欲しい雰囲気を出してた人が話し掛けてくれば当然ね」
 そっか、それで北川も何も言わずにパン買ってきてくれたのか。
 ちょっと大きく息を吸い、香里を見据える。
「お前って、最低の人間だよな」
「随分なご挨拶ね」
「だってそうだろ、お前のことを愛している妹をいなかったことにするなんてさ」
「…そうね」
 香里は激昂することもなく、ただ淡白にため息をついた。
「じゃ、あなたは人でなしってことかしら?」
「何でそんなに自信もって言えるんだ」
「相沢君が理由もなくそんな暴言を吐く人だなんて思えないから」
 香里はそう言って悪戯っぽく微笑んだ。
 あたし以上に自分を卑下してるからの言葉でしょ? と目が言っている。
「ああ、俺は……人でなしだ」
 腹の底から搾り出すような声で告げ、顔を伏せる。
 それを見た香里も真剣な顔になった。
「香里は、人を殺したことはあるか?」
「あったら今ごろ檻の中よ」
 呆れたようにため息をついてみせた後、より真剣な顔になる香里。
「相沢君は……あるのね」
「ある」
「それは……名雪なの?」
「香里の知ってる名雪は、本当の名雪じゃない」
 そう、あれは本当の名雪じゃない。
 かつて俺に心を砕かれた名雪の死にぞこなっている姿なのだ。
「本当の名雪は、ちょっと要領は悪いけど、しっかり者の健気な優しい女の子だったんだ」
 それを俺が……


「ふーん、やっぱりそうだったのね」
 考え込んでいると香里が納得したように頷いた。
「え? 知ってた…のか?」
「見くびらないでね。これでもあたしは名雪と5年間一緒にいたのよ」
「そうか、そうだったな」
「でも、相沢君が名雪を振ったとかそういう単純な話じゃないみたいね」
「それもあるけど、肝心なことじゃないし、香里にはわからないと思う」
 『そう』と言って、香里は横を向いた。
「人は成長していくものよね。でも、あの子の性格は何年たっても変わらなかった」
 そう言ったところで香里は首を横に振る。
「違うわ。あの子は変わらないどころか年々子供のようになっていったの」
 そこで香里が拳を震わせて顔を伏せる。
「酷い時は、それが原因でからかわれていたこともあったわ」
 明らかにクラスの笑い者になっていたであろう名雪の姿を思い浮かべて胸が痛む。
 口にこそ出してないが、そんな名雪を守ってくれていたのは香里だったに違いない。
「名雪から憧れのいとこの話を聞くたびに思ったわ」
 いとこ、と言って俺を見つめる香里。
 うわごとのように香里に俺の話をしている名雪の姿が思い浮かぶ。
 以前、そんな話を聞いて名雪を恥ずかしいやつと思ったのが心苦しい。
 誰のせいで名雪はそんなやつになってしまったんだ。
 誰のせいであいつは夢の世界から抜け出せなくなってしまったんだ。
 誰のせいで……
「この子は何かそのいとことの間にあったことで心に傷を持ってるって」
 言葉を切って、香里は自嘲するように笑った。
「同病相憐れむってところかしら。あたしがあの子の親友になったのは。自分のことに精一杯で余計な詮索をされないですみそうだったからかもしれないわね」
 そう言ったところで、悲しい顔をしてため息をつく香里。
「ほんと……最低の人間ね。あたしは」
「いや、そんなことはない。ありがとう」
 俺の代わりに約束を守ってくれて。
 名雪の傍にいてくれて。
「馬鹿、お礼を言うところじゃないでしょ」
「いや、いいんだ」
 たとえ経緯はどうであれ、香里は名雪の親友でいてくれる。
 いや、今度こそ本当の親友になってくれるだろう。
 そう思ったとき、何か光が見えた気がした。
 名雪、お前はもう……
 いや、きっとそうだ。
「どうしたのよ、さっきまで暗い顔してたと思ったら急に明るくなって」
「ん、まあな。香里と話してて気が楽になっただけだ。サンキュな」
「まあ、いいけどね」
 再び二人してそれぞれの食事に戻る。


 もう、覚悟は出来ていた。















 夕飯を食べたあと、俺は全員をリビングに集めた。
 目的は言うまでもない。
 名雪が目を覚まさない理由を話すためだ。
 初めて会った名雪にした約束のこと。
 あゆに出会って名雪との距離が遠くなったあの冬のこと。
 そして名雪の告白を最低の形で裏切ったこと。
 とても人に話したい内容じゃなかった。
 いや、話せる内容じゃなかった。
 自分の最低ぶりを人前で告白するなんて……
 だが、俺が言わなければ名雪はいつまでも前に進めない。
 これは俺に課された贖罪だった気がする。


「……以上です」
 全てを語り、俺は全員に…いや、その中心に居る秋子さんに向けて一礼した。
 秋子さんはそれを見て無言で立ち上がると、足音も立てずに俺に歩み寄る。
「祐一さん」
 恐ろしいほど冷たい響きの声。
 秋子さんの無表情な顔を見て俺は寒気を感じた。
 怒っている。
 そうはっきりと分かった。
 当たり前だ。
 最愛の娘をあんな風にした原因を作った人物が俺なのだから。
 ひっぱたかれるのを覚悟して思わず目をつぶった。

 …………。
 ……。

 ……?

 いつまでたっても衝撃はこない。
 目を開けると秋子さんは目前から消えていた。
 その代わりに、一点を見つめて驚いているあゆたちの姿があった。
 あゆたちの視線の先には……
「え?」
 思いがけない光景に、素っ頓狂な声を漏らす。
 秋子さんが、俺の足元で土下座をしていたのだ。
「ごめんなさい、祐一さん」
「え、ええっ?」
 なぜ秋子さんが俺に謝ってるんだ?
 悪いのは俺のはずなのに。
「いくら子供でも、忘れられない記憶というものはあるんですね」
 正座したまま、秋子さんが顔を上げる。
 その顔はさっきと同じ怒りの顔だった。
「祐一さんに大切なことを教えてもらって以来、あの子には母親として振舞ってきました」
 秋子さんの怒りの表情。
 なんとなくその意味がわかった気がする。
「傍目には仲のいい親子だったでしょう。でも……」
 秋子さんは、自分に怒っていたのだ。
 名雪の本心に気づけなかった自分のふがいなさに。
「名雪はずっとわたしにいい子を演じていただけだったのですね」
 そしてそれは……
「それに気づかずわたしは一人で母親を気取って、全てを祐一さんに押し付けていた」
 秋子さんの作り上げてきた『母親としての自分』という人格の否定そのものだった。
「……秋子さん」
「皮肉ですね、月宮さん」
「え?」
「一見すれ違い気味の月宮さんとあゆちゃんより、わたしと名雪の関係は薄かったなんて」
 何か慰めの言葉をかけようとした月宮さんに秋子さんはそう言って俯く。


 人間というものはよく分からないものだと思う。
 目に見えたものが真実とは限らない。
 ここにいる誰もが信じて疑わなかった秋子さんと名雪の絆。
 だが、それはとても危うく脆いものであった。
 考えてみればおかしなところがたくさんあった。
 何故か秋子さんに対して積極的な態度を見せない名雪。
 事故のことを秋子さんにまったく訊かなかった名雪。
 秋子さんのことを表面的にしか知っていない名雪。
 そのどれもが二人の関係を暗示するものであった。
 だが、名雪は隠しとおした。
 自分の気持ちに素直になれば秋子さんを困らせると思って。
 秋子さんを困らせたらこの家が真っ暗になるということを知っていたから。
 そうやって一人で全てを抱え込んで生きてきたのだ。
 俺達はそんな名雪の気遣いに甘えて居心地のいい家という幻想を見せてもらっていただけ。
 水瀬家という理想は名雪の犠牲の元に成り立っていた、それが真実。
 名雪は俺に裏切られた後も、そのボロボロの心でここを支えてきたのだ。
 それこそ本当にひとりぼっちで。
 名雪はここにいる誰よりも大人だった。


「秋子さん、謝らないで下さい。悪いのは俺なんですから」
 秋子さんは名雪の頼れる人でなかったことを悔いている。
 それで十分だ。
 今の秋子さんはあの日の秋子さんじゃない。
 紛れもない母親としての秋子さんなんだ。
「でも、わたしがもっとしっかりしていればこんなことには……」
「違います」
 言って自分で驚く。
 まさか自分が秋子さんの言葉を遮るなんて。
「俺が悪いんです。何もかも」
 秋子さんがどうだったからなんてのは言い訳だ。
 秋子さんの無意識の好意に逃げるわけにはいかない。
 名雪が希望を抱いたのも、名雪がボロボロにされたのも、全部俺という存在があったからだ。


「祐一さん、どこに行くんですか?」
 突然席を立った俺を秋子さんが呼び止める。
 振り返ると床に正座したまま顔を上げている秋子さんがいた。
「あいつが目覚めるまで声かけてきます」
 俺でなければ名雪は救えない。
 俺が名雪を救わなくちゃいけない。
 それは遠い日の約束だから……。
「自分で蒔いた種くらい自分で何とかできないと、昔のあいつにも笑われそうですから」
「……祐一さん」
 それを聞いた秋子さんは右手で目を拭った。
「本当に……たくましくなりましたね」
 数日前に栞に言われた言葉が頭に思い浮かぶ。
 『誰かに分けてあげられる強さ』
 そうか、こういうことだったんだな。
 今俺がこうして目を逸らさずにこの現実に立ち向かえるのは……
「あゆや栞のおかげですよ。それに秋子さんも、昔の名雪も」
 まったくなんて情けない人間だ、俺は。
 この中の誰よりもちっぽけに見える。
 何一つ、俺は自分一人で何かやれたことがないじゃないか。
 これを逃げたら、もうここにいる誰にも顔向けできない。
 それに名雪……
 お前は気づいているのか?
 目に見えたものが真実とは限らない。
 それはお前にも言えることなんだ。
 お前は幼いときの記憶に縛られて気づいてなかったんじゃないか?
 お前はもう一人ぼっちじゃないはずだ。
 もう一人で泣く必要もないだろ?
「秋子さん」
「はい?」
「今度はあいつと本当の親子になってあげてください」
「もちろんです」
 秋子さんは笑顔で力強く頷いた。


 なあ、名雪。
 これでも秋子さんはお前の『お母さん』じゃないのか?
 お前には香里だっている。
 もう本当に一人ぼっちじゃないだろ?
 俺が気づかせてやらなくちゃいけない。
 それが俺がお前にやった裏切りの贖罪だ。







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