辛い。
 悲しい。
 胸が吐き気をもよおすほど締め付けられる。
 俺は駅前のベンチに座っていた。
 どこをどうやって今自分がここに座っているのかもわからない。
 いや、『今』なら分かる。
 あの場所を象徴する独特の薬品臭を思い出す。
 そう、俺は数時間前まで病院にいた。
 そして、シャツの裾にわずかについた黒い染み。
 もともとは赤だったもの、つまり血の染みだ。
 血まみれになっていた上着は病院で着替えさせられた。
 あのままこんなところに座っていたら、周りの人間が失神するだろう。
 血まみれの服を着た少年が駅前のベンチに座っていたら。
 これはあゆの事故が起きた数時間後の記憶だ。
 今まで一度も見たことのない……
 いや、俺が目を向けようとしなかった現実。
 俺の意識は、今まさにその中にあった。


 あれから……あゆが木から落ちてから……
 俺は足が砕けるほどに走って走って森を抜けた。
 そして、秋子さんと救急車を呼んで……
 あ、あれ?
 何でだ?
 おかしい、おかしいぞ。
 なんで俺はそんなことを克明に覚えているんだ?
 あの時の俺は相当錯乱していた。
 それこそ記憶を封印してしまうほどに。
 秋子さんや救急車を呼んだ電話の時も、ほとんどまともな言葉を話していなかった。
 でも覚えている。
 全てに目を背けて、眠ってしまいたかった。
 全てを夢だと思いたかった。
 目が覚めればまた何でもない、いつもの自分がいることを信じて。
 でも、俺は自分の義務を果たした。
 秋子さんや救急隊の人をあゆの元に案内して……
 そして、あゆが運ばれるのをちゃんと見届けた。
 そして病院で医師が秋子さんに暗い顔で首を振るのを見て……
 耐え切れずに病院を飛び出したのだ。
 秋子さんの制止も聞かず。
 そして気がついたら、あゆとの思い出の場所に辿り着いていた。
 いや、走りっぱなしでただ限界を迎えただけかもしれない。
 俺は病院からすぐの駅前のベンチに一人腰掛けていた。
 あゆと遊ぶ待ち合わせの場所にしたあのベンチに。



 あゆは……
 死んだ。
 一縷の望みをかけた病院も駄目だった。
 そのやり場の無い悲しさ、悔しさが胸を締め付ける。
 俺は耐え切れずに、そこで泣き続ける。
 周りを見回すとさっき降ったばかりの、今も降っている真新しい雪が積もっている。
 人の悲しみも知らないかのような、その真っ白さが癇に障った。
 ベンチの雪を払い落とし、足元に積もった雪を真っ黒になるまで踏み潰す。



 やがて、いい加減それにも疲れた俺は再びベンチに腰を下ろした。
 何をしたくてここにいるのかさっぱり分からない。
 これからどうするかも……

 サクッ、サクッ

 ふいに誰かが俺の元にゆっくり歩み寄ってくる音が聞こえた。
 ためらいがちに雪を踏み鳴らす音が。
 誰だろう? と思って少し顔を上げてみる。
 目の前に立っていたのは、真新しい雪よりも汚れを知らない雪。
 雪うさぎを頭に乗せた幼い日の名雪だった。

 やめろ、来たらだめだ名雪!

 本能的に叫ぶ。
 だけど無駄だ。
 これは俺の記憶、既に起こったこと。
 そして、俺が行ったこと。
 だから、名雪にその声が届くわけもない。
 何も知らずに名雪は、涙を拭いて接近者に対し少し顔を上げた俺に近づいていく。

 やめてくれ!
 見せないでくれ、その先の光景を!
 思い出すのもおぞましい俺の醜い姿を見せないでくれ!

 だが、俺の願いも空しく夢は止まらない。
 名雪の口がゆっくりと開かれた。
「…家に帰ってなかったから…ずっと探してたんだよ…」
「…見せたい物があったから…」
「…ずっと…探してたんだよ…」
 期待と希望が入り混じった名雪の声。
 そして表情。
「ほら…これって、雪うさぎって言うんだよ…」
「わたしが作ったんだよ…」
「わたし、ヘタだから、時間かかっちゃったけど…」
「一生懸命作ったんだよ」
 何でだ?
 何でお前はそんな幸せそうな……
 幸せを夢見るような顔が出来るんだ?
「…あのね…祐一…」
「…これ…受け取ってもらえるかな…?」
「明日から、またしばらく会えなくなっちゃうけど…」
「でも、春になって、夏が来て…」
「秋が訪れて…またこの街に雪が降り始めたとき…」
「また、会いに来てくれるよね?」
 俺がこんなに深い絶望を味わっているっていうのに……
 何でお前はそんなに平気な顔をしていられるんだ?
 いや、いっつもいっつも幸せそうな顔をして……
 お前に俺の悲しみが少しでもわかるか?
 母親とたくさんの幸せに囲まれて暮らしている果報者のお前が…
「こんな物しか用意できなかったけど…」
「わたしから、祐一へのプレゼントだよ…」
「…受け取ってもらえるかな…」
 湧き上がった黒い感情は止まることなく膨らんでいく。
 目の前の少女の一言一言が癇に障る。
 ついさっき俺の目の前で消えていった幸福の灯火を
 目の前のいとこの少女が自慢げに見せびらかしているようで…
「わたし…ずっと言えなかったけど…」
「祐一のこと…」
「ずっと…」
 不公平だ。
 俺がこんなに苦しんでいるのに……
 こいつは今朝の俺のように馬鹿みたいに目をキラキラさせて。
「好きだったよ」
 好き?
 俺も嫌いじゃないさ。
 じゃあお前も……
 俺と同じ苦しみを味わえ!


 その瞬間、名雪の差し出した雪うさぎは、崩れ落ちていた。
「…祐一…?」
 戸惑うように、名雪が俺の名前を呼ぶ。
 さっきまであった雪うさぎは、地面に落ちて、すでに見る影もなかった。
「……」
 スカッとした。
 目の前の女が俺と同じような顔をしている。
 ざまあみろ。
 この鬱陶しいまでに平和で幸せそうな女め。
 目が取れて、耳が潰れたうさぎ…。
 差し出した少女の雪うさぎを地面に叩きつけたのは、紛れもなく俺の小さな手だった。
「…祐一…雪…嫌いなんだよね…」
 涙を堪えるように、名雪が雪うさぎだった雪のかけらを拾い集める。
「…ごめんね…わたしが、悪いんだよね…」
 ああそうさ、馬鹿みたいに幸せな面をしているお前が悪いんだ。
「…ごめんね、祐一…」
 じっくり味わいな。
 幸せを夢見て、そのまさに頂点から絶望の底に叩き落される辛さを。
 俺の悲しみを十分の一でも感じ取ってみろ。


「…祐一…」
「…さっきの言葉、どうしてももう一度言いたいから…」
「…明日、会ってくれる?」
 涙を堪えながら、名雪が健気に笑おうとする。
 気に食わない顔だった。
 まだこいつは望みを持っている。
 いいぜ、それもきっちり断ってやるよ。
「…ここで、ずっと待ってるから…」
「…帰る前に…」
「…少しでいいから…」
「…お願い、祐一…」
 堪えていた涙が、頬を伝っていた。
 だが、その顔は俺の心の底から湧きあがる、言いようもない興奮を猛らせるばかりだった。
「…ちゃんと、お別れ言いたいから…」


 そして、約束の日…。
 ひとりぼっちで佇む名雪の元に、俺は最後まで姿を見せることはなかった…。
 その名雪の姿をこの街を離れる最後の時まで目に焼きつけ……
 電車に乗った俺は不思議な満足感を覚えて目を閉じた。
 次に目を開けた時には……
 元の街に戻り、何でもない、いつもの自分の姿だけがあった。



















 ガタッ

 目を見開き、立ち上がる。
 それと同時に自分に集まる視線。
 目の前には黒板を背にした石橋が立っている。
 それも、目を見開きいかにも驚いているといった様相で。
「な、何だ相沢!? 突然授業中に立ち上がったりして」
「え……あ……石橋…先生ってことは5時間目?」
「何を言ってる? 寝ぼけて…なんだお前泣いてるのか?」
「いや、泣いてなんか……」
 そう言って目元を拭うと、ぐっしょり濡れている事に気付く。
 何がどうなっているんだ?
 1時間目の授業が始まったと思ったら今は5時間目で……
「あ、先生。相沢どうも体調よくないらしいんで保健室に連れて行ってきます」
 突然後ろの北川が席を立ってそう宣言する。
「そうなのか?」
「はい、徹夜で勉強してたと朝に」
「そうか…よし、連れて行ってやれ。お前も見習ったらどうだ北川?」
 クラス中に失笑が漏れ、北川が頭をかいて苦笑いをする。
「そりゃないですよ、先生」
「冗談だ。相沢も無理はいかんぞ」
 北川に背中をつつかれる。
 話を合わせろということだろう。
「すみません」
 軽く石橋に頭を下げて北川に教室の外に連れ出してもらった。



「悪い」
 廊下に出てから、北川に小声で謝る。
 泣いていたせいか鼻から頭に刺すような痛みを感じる。
「気にするなって。どうせ暇だったしな」
「…暇って、お前なあ」
 まあ確かに石橋は雑談の方は面白いが、授業自体は真面目すぎるきらいがある。
 雑談の一つでも入らないと1時間は結構単調でつらいタイプだ。
「まったくね。放課後に教える前から不安になってくるわ」
「おわっ、なんで美坂がいるんだ!?」
 後ろに香里が呆れた顔で立っていた。
 俺達に続いて教室から出てきたらしい。
「北川君がちゃんと帰ってくるか不安なので見てきますって言ったら、よろしく頼むって」
「…ヒデエ」
 鮮やかにして極悪な方便だった。
 さすが香里。
「それで、どうしたの? 相沢君」
「……いや、どうしたって訊かれても俺自身の頭が混乱してて。ていうか、今5時間目か?」
 ぐらぐらする頭に手の平を当て、こめかみをぐりぐり押してみる。
 あまり…気分はよくない。
「ああ、5時間目だぞ」
「相沢君、今日一時間目からずっと寝てたのよ」
 名雪みたいにね、と香里が付け足す。
 それはつまり、起こそうとしても起きなかったということだろう。
「そっか、心配かけて悪い。ちょっと嫌な夢を見ていたんだ」
 それを聞いた香里が腕を組んで、納得行かないわねと言わんばかりの顔をする。
「大の男が大泣きするほどの夢ってどんなのかしら」
「おい、美坂…そりゃ男性差別ってやつだぞ。男だって泣きたい時は……」
「泣いてる所を人に見られたいかしら?」
「う……それは確かに嫌だな」
 香里の鋭い指摘に北川が顔を伏せる。
 香里の言う通りだ。
 俺だって人に泣いているところなんか見られたくない。
 後日他の連中の笑いの種にされるかと思うとうんざりする。
 でも、今はどうでもいい。
 そんなことよりもっと深刻なことが頭にあったから。
「いや、大したことじゃない。昔のことをちょっと思い出しただけだ」
「……そう」


 それから無言で保健室まで歩いた。
 保健室の前で二人に礼を言う。
「大丈夫か?」
「頭が痛いくらいだ。気分も少し悪いかな」
「放課後起こしに来てやろうか?」
「頼む」
 あいよ、了解。という感じに北川が片手を上げた。
 そして保健室に入ろうとしたところで香里に呼び止められる。
「相沢君…月並みかもしれないけど。あまり思いつめないでね」
「何だそりゃ、秋子さんの真似か?」
 真剣な顔をする香里におどけてみせる。
 が、怒られるどころか逆に悲しい顔をされてしまった。
「相沢君は、あたしとそういうところは似ているから」
「……茶化して悪かった。もし寂しくなったら遠慮せずに頼る」
「ええ。それじゃお休みなさい」
 二人にもう一度軽く頭を下げて保健室の扉をくぐった。












 保険医に事情を説明してベッドを借りた俺は、その中でさっきの夢のことを考えていた。
「ふ…ははは……」
 自然と笑いがこみ上げてくる。
 もちろん、自嘲という類の。
 そして涙が止まらない。


 最低だ。
 あゆの悲しみから目を背けた?
 なんて都合のいい嘘で自分を誤魔化していたんだろう?
 突きつけられた現実はあまりに残酷だった。
 7年前のあゆの事故の後…
 俺は告白をしてきた名雪に劣情をぶつけた。
 そしてそれに満足して全てを夢だと思い込んで忘れてしまったのだ。
 いや、夢だと思いたかったのだろう。
 自分の中にあんな醜い自分がいることを信じたくなくて。
 あゆの事故を夢だと思いたかった。
 それもある。
 でも、俺が本当に夢に逃げたのは……
 名雪にした自分の仕打ちを忘れたかったからだ。
 名雪から届く手紙を見るたびに何か胸を締め付けられる思いがした。
 そして年賀状にすら返事を書けなかった。
 ずっとあった罪の意識。
 それは……名雪に酷い事をしたという俺の良心の呵責だったのだろう。
 『どうしてなの…祐一?』
 今朝の名雪の言葉が胸にグサリと突き刺さる。
 間違いない、名雪がああなったのは俺のせいだ。


 あれ?
 待てよ?
 と、そこまで思ったところで不思議なことに気付いた。
 何で名雪はあの日あんなところにやってきたのか?
 秋子さんから話を聞いていないのか?
 おかしい。
 なんで名雪はあんな最悪のタイミングで俺の前に現れたんだ?
 秋子さんから何か聞いていなかったのだろうか?
 次の日名雪が駅前にいたのも変だ。
 秋子さんに聞けば俺がどういう状況にあったか理解できないわけもないだろう。
 いや、名雪はあゆが目覚めるまであいつのことを全く知らなかった。
 秋子さんが7年前の事件、そしてあゆのことをしっかり知っていたのにも関わらず…だ。
 後で事件のこととかを説明したら『そうだったんだ』と感心していたのを覚えている。
 何かパズルのピースが抜けている。
 そんな感じだ。
 俺のやったことが名雪をあんな風にしてしまったのは間違いない。
 しかし、何かが足りない。
 決定的な何かがまだ抜けている。
 そんな予感がする。
 一体、それは何なんだろうか?
 治まっていた頭痛がまた激しくなる。
 まだ考え事をするには頭が落ち着いていないようだ。
 仕方がない、寝よう。
 そう思った瞬間、意識は闇の中へ落ちていった。























 放課後、北川と香里に起こしてもらった時の気分はわりと良かった。
 しばらくぶりのまとまった睡眠を取ったせいか非常に頭がスッキリしていた。
 そしてふたりに大丈夫だということを空元気ながらもアピールして俺は帰路についた。
 一人で落ち着いて考えたいことがあると二人に告げて。
 家に帰れば……
 あの日の当事者が二人ともいる。
 秋子さんと月宮さんだ。
 二人から話を聞けば……
 決定的に欠けている何かが分かるかもしれない。
 いや、きっと分かる筈だ。





 玄関をくぐり、鞄も下ろさずそのままリビングに向かう。
 夕飯前のこの時間なら全員そこにいるはずだ。
 案の定、扉の前に立つと中からテレビの音が聞こえてくる。
 俺は息を大きく吸い、意を決して扉を開けた。
「お帰りなさい、祐一さん」
「おや、おかえり」
 リビングで出迎えてくれたのは栞と月宮さんだった。
 そして、今度は二人の声を聞きつけてダイニングのほうからあゆと秋子さんが姿を現す。
 二人で夕飯の準備をしていたのだろう。
「おかえり…祐一君」
「祐一さんお帰りなさい」
 四人とも微妙に違う挨拶をしているのが妙に面白い。
 あゆの声がいつものように弾んでいないのは気になるが、こればかりは仕方ないか。
「ただいま……です」
 『ただいま』と言いかけたところで、月宮さんがいるのを思い出し語尾を少し丁寧にしておく。
「あら? 祐一さんお腹が減っているのかしら?」
 秋子さんが俺の姿を見回して不思議そうに首を傾げる。
 帰ってきた時の格好のまますぐにリビングに入ってきたことを言っているのだろう。
「いえ、ちょっと秋子さんと月宮さんに訊きたい事があったんです」
「訊きたいこと?」
 秋子さんと月宮さんが二人で顔を見合わせ、同時に首をかしげる。
 お互い俺の言いたいことに見当がつかないという意思表示のようだ。
「大したことじゃないです」
 そう、今は大したことじゃない。
 でも、これを尋ねないことには俺のパズルのピースは埋まらないのだ。
「ええ、わたしに答えられることなら」
「うん、僕に答えられることなら何でも答えるよ」
 二人の顔を交互に見つめてから俺は口を開いた。


「7年前、あの事件の時…秋子さんと月宮さんは何をしていましたか?」
「7年…前?」
 俺の一言に場が凍りつく。
 7年前のあの事件。
 過ぎ去ってもなお俺達の心に残る出来事。
 きっと一生消えることはないだろう。
 一人だけこの件とは部外者の栞は、気を利かせて静かにテレビを消した。
「わたしは祐一さんから電話を受けて救急隊の人と一緒に祐一さんのところに行ったわね」
 『覚えてるかしら?』と秋子さんが付け加える。
「ええ。その後何とか秋子さんたちをあゆのところに案内して……で、病院に行きました」
「ちょうどそのころだね。あゆの財布に入れてあったメモから僕のところに電話が来たのが」
「あゆちゃんの保護者が来ると聞いて、その間にわたしは祐一さんの着替えを取りに行きました」
「着替え?」
 秋子さんの言葉に月宮さんが首をかしげる。
「俺の服、あゆの血で血まみれだったんです」
「……ああ……そうか。なるほど」
 秋子さんが表現に困っているようなので、横から単刀直入に告げた。
 あの時の俺の姿は凄惨の一言で、秋子さんが一瞬言葉に詰まるのも無理もない話だ。
 一言で血まみれと言ってしまうと、こうも実感が薄いのかと妙に感心する。
「それで祐一さんを着替えさせたところで月宮さんがやってきました」
「そこから先は覚えてます。二人で話しているところに病院の人が来たんですよね」
 そして医者は、あゆの容態が思わしくないことを二人に告げた。
 だが、俺はそれを最悪の事態と思い込み……
 あの場から居ても立ってもいられずに駆け出したのだ。
「祐一さん、見ていたんですか?」
「え?」
「わたしと月宮さんとお医者さんが話しているところをです」
「ええ…はい」
「それで病院から突然いなくなったのね」
 俺がそう答えると、秋子さんは納得のいったように目を閉じた。
 ちょっと秋子さんにしては反応が大袈裟な気がする。
「あの…何かあったんですか?」
 月宮さんに小声で訊いてみる。
「あの時の君は情緒不安定だったから一人で外を歩かせるのは危険だ、って心配していた矢先にいなくなったからだよ」
「あ…う、その……ごめんなさい」
 本当に俺はどこまで秋子さんに迷惑かけたら気が済むんだろう。
 確かに、あの後病院を飛び出してからどこをどう走ったかよく覚えてない。
 今思うと、車に轢かれていてもおかしくなかったのではないか?
 交通量の少ない冬場でなかったらほぼ間違いなく俺もあゆの後を追っていたに違いない。
「いいのよ。今はこうしてあゆちゃんも祐一さんもわたしの目の前にいますから」
 秋子さんはそう言って、自分を見上げながら話を聞いているあゆを抱き寄せて頭を優しく撫でてみせた。
「それから祐一さんを駅前のベンチで見つけたのはお昼をだいぶん過ぎたころでした」
 それは覚えている。
 秋子さんが俺の元へやってきたのは、あれから一時間くらいたってからだった。
 そう、あの後の……
「そこからは覚えてます。半分風邪をこじらした俺をここまで連れて帰って寝かせてくれたんですよね」
「ええ」
 そして次の日、辛うじて電車に乗れるくらいには回復した俺を迎えに来たお袋に引き会わせた。
 正確には覚えているというよりは思い出したというわけだがどっちでもいいだろう。
「わたしがあの日していたことはそれくらいだけど、これでいいのかしら?」
「僕もあの日は病院にいただけだから特に言うことはないかな」
 二人が口を閉じたところで月宮さんに軽く頭を下げた。
「ありがとうございます」
 月宮さんに訊くことはもうない。
 だが……


「秋子さん、最後にもう一つだけいいですか?」
「構いませんよ」
「あの日、名雪が何をしていのたか知ってます?」
「…名雪?」
 まるで寝耳に水と言わんばかりの顔をする秋子さん。
 そんなに名雪の名前がここに出てきたのが意外だったのだろうか?
「名雪はずっと家でお留守番していたはずよ」
「えっ!?」
 今度は俺が驚く番だった。
 秋子さんは……
 名雪が俺に会いに駅前に出てきたことを知らない?
 じゃあ、あの日の出来事のことも?
「秋子さん、名雪…俺が帰った後どうしてました?」
「そうね、祐一さんが帰ったのをいつものように寂しそうにしてたわね」
「いつものように…ですか?」
「あの子もこの大きな家にわたしと二人っきりは寂しかったんでしょうね」
 何だ?
 一体何がどうなっているんだ?
 秋子さんが冗談を言っているとは思えない。
 まさか、本当に秋子さんは何も知らないのか?
 名雪は俺との間にあったことを秋子さんに一言も話してないのか?
「名雪、俺が帰った後、秋子さんに何か訊きませんでした?」
 俺の豹変ぶりについてとか秋子さんに訊きたいことはいくらでもあったはずだ。
「いえ、特に何も訊かなかったわね」
「じゃあ、あゆのことを名雪には……」
 訊くまでもない。
 名雪はあゆのことを秋子さんから聞いていないのはもうとっくに分かっていることだ。
 でも、でも訊かずにはいられなかった。
「教えなかったわ。名雪には辛いだけのお話ですし、無理に聞かせるのもと思いまして」


 頭を鈍器で殴られた気がした。
 嘘だと言ってほしかった。
 俺の見ていた世界が虚構だったなんて……
 名雪は秋子さんに訊かなかったんじゃない。
 秋子さんには訊けなかったのだ。
 どうして?
 仲のいい親子じゃなかったのか?
 あれは上辺だけのことだったのか?
「そうですか……ありがとうございました」
 とりあえず秋子さんにお礼を言って、自分の部屋に行くことにした。


「祐一さん」
 リビングの扉に手をかけたところで秋子さんに呼び止められる。
 振り向くと真剣な顔をした秋子さんがいた。
「祐一さんは嘘をつきましたね」
「え?」
「さっき『大したことじゃない』と言ったことです」
「それは……」
「さっきの質問、本当は名雪に関係することですね?」
「…はい」
「わたしにも話してもらえませんか?」
 静かな、それでいて深い眼差し。
 それで確信した。
 どうしてこの人を一瞬でも疑ったのだろう?
 秋子さんの名雪への愛情は見せかけだなんて……
 そんなわけないじゃないか。
 秋子さんは紛れもなく名雪の『お母さん』なのだ。
「考えがまとまったら話します。いや、聞いてください」
「分かりました」





 考えなければいけないことはたくさんある。
 名雪の心の闇。
 それは予想だにしなかったほどに深いものだった。
 いや、今の今まであの名雪にそんなものがあることすら信じられなかった。
 きっと俺だけでは救えない。
 直感的にそう感じる。
 だが、もう一つ湧き上がる不思議な感情があった。
 俺でなければ名雪は救えない。
 俺が名雪を救わなくちゃいけない。
 それは遠い日の……だから。


















 夕飯を食べたあと、数時間机に向かった俺は早めに寝ることにした。
 学校であれだけ寝ておいて……とも思うが妙に頭が重い。
 なら考えなきゃいけないことは布団に入ってからにするのが一番だろう。
 考え事は、風呂や布団の中でやる方が落ち着いてできる。
 と、思って布団をかぶるのと思考がぼやけていくのは同時だった。
 頭が溶けて行くような不思議な感覚。
 消えいく意識の中で気付く。
 今から俺は夢を見るのだということに。
 忘れてしまった何かを取り戻す夢を……







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