ゆさゆさ
 誰かが俺を揺すっている。
「ほら、起きてよ祐一」
「うるさいなあ、せっかくの冬休みなんだから寝かせろよ」
 俺はまだ眠いんだ。
 おまけに冬の早朝。布団から出たいわけなどない。
「ダメだよ。一緒に雪だるま作るって約束だよ」
「昼な、昼」
「早起きして作るぞって言ったのは祐一だよ」
「何で寒いのが苦手な俺がそんなこと言うんだよ…ありえない」
「昨日の夜に雪が降って、雪だるま作るなら新しい雪の方がいいって…」
 …そんなこと言ってたっけ?
 いや、言ってたような…
「わたしに起こせって言ったのも祐一だよ」
 むう、そうだったけか? そうだった気もする。
「やっぱ寒いし眠いからパス。おやすみ」
「わっ、本当に寝ないで」
「ぐうぐう」
 かなりわざとらしいいびきをかいて、布団に包まる。
「…いいもん」
 ふてくされた名雪の呟きが聞こえる。
 朝から元気でご苦労なことだ。
「祐一が寝ている間に、祐一の上に特大雪だるま置いてあげるもん」
「うっかり倒して祐一が押し潰されても助けてあげないんだから」

 がばっ

「おはよう、祐一」
「爽やかな笑顔だな、おい」
 堂々と予告殺人をほのめかすとは、自分のいとこながら末恐ろしい。
「へいへい、起きますよ。起きればいいんだろ」
「だから起こせって言ったのは祐一だよ〜」


 結局、起きるのを嫌がっていたくせに、いざ雪だるま作り出すと俺の方が熱中してしまって…
 昼頃には家中が大小さまざまの雪だるまだらけになっていた。
 当然の如く秋子さんには思いっきり怒られた。
 俺のつきそいで怒られたのが不服だったのだろう。
 名雪はお説教の後、とても不満そうだった。
 名雪は悪ノリで雪だるまを量産する俺をおどおど眺めているだけだったから…
 ある意味俺の悪戯に巻き込まれた被害者だった。
















     12月21日(火曜日)


 『朝〜、朝だよ〜』
 『朝ご飯食べて学校行くよ〜』
「…………」

 カチ

 何で俺はいまだにこんな余計に眠りを誘いそうな目覚ましなんか使ってるんだろう?
 これのせいで入試の日に寝過ごしたら洒落にならないぞ……
 そろそろ真面目に別の声入れるか他の目覚まし使うかした方がよさそうな気がする。
 しかし…
 おかしな夢を見たな…
 多分10年くらい前の冬休みの夢だ。
 それは分かる。
 でもおかしい。
 夢の中で名雪は俺を起こしに来ていた。
 それも俺の記憶が確かなら、そのときの時間は7時。
 そんな早朝にまだ小学生低学年の名雪が俺を起こしに来ていた?
 それどころか俺が名雪に起こすように頼んでいた?
 今の名雪に起こしてもらうように頼むなんて自殺行為だぞ?
 いや…でも間違いない。今の夢で思い出した。
 7年前のあゆのことを思い出してから、俺は時々昔のことをこんな風に夢で思い出すことがある。
 いつもはたわいない夢で思い出した傍らからまたすぐに忘れてしまうのだが、今日の夢は違った。
 この間からずっと感じていた違和感、その正体だったのだから。
 あの冬休みの早朝に名雪はちゃんと一人で起きてたし、面倒くさがる俺を起こしにも来た。
 それも一日だけのことではない。
 朝食の時間に名雪に起こされたことは何度でもあった。
 それに、あの時は名雪の部屋にあんなに大量の目覚ましはなかったはず。
 おかしい……
 俺の記憶の中にある昔の名雪と今の名雪は、姿は似ていれど性格はほとんど別人だ。
 一体、俺の知らない7年の間に名雪に何があったというんだろう?






 名雪の部屋にお邪魔する。
 あゆと栞の姿はない。
 どうやら今日は一足早かったようだ。
 名雪には既に今日の点滴が行われている。
「よくよく考えたら、ノックもせずに女の子の部屋に入るなんてとんでもないな」
 静かにベッドで眠っている名雪を眺めながら呟く。
「ま、お互い大事なところを見せ合った仲だし今更遠慮しないでもいいか」
 いいわけない。
 ていうか、自分で言っててなんだがかなり恥ずかしい。
 単に子供の時一緒に風呂に入ったことがあるだけのことだ。
 いや、でもあの時名雪は通常女には装備されていないブツをいつも横目でチラチラ見て……
 それで……
 やめとこう。あの一件はインパクトありすぎて今思い出すとかなりやばい。
 まあ、仕方ないよなあ。
 名雪は父親のこと全然覚えてないんだし、芽生えて当然の興味だ、うん。
「感謝しろよ名雪。お前は俺のおかげで変態思考を持たずに済んだんだからな」
 年頃の女の子の寝所に無断で上りこんだ挙句、何言ってるんだ俺は。
 完全に言ってることが変態である。
 おまけに馬鹿なこと思い出したせいで変な気分になってきてるし。
 理性がまともなうちにここを出よう。
 そう思って俺は名雪に背を向けた。


「……して…」


「え!?」
 背中から小さな声が聞こえた。
 間違いなく名雪の声だ。
 恐る恐る後ろを振り向いてみる。
 名雪は変わらず静かに眠っていた。
 …気のせいか?


「…どう…して」


「名雪!?」
 聞こえた…今度ははっきりと。
 名雪が唇を静かに…本当に静かに小さく動かしながら寝言を言ったのが。
 『どうして』と。
 今まで何の反応も示さなかった名雪がはじめて寝言を言った。
 俺が突然のことに面食らっていると、名雪の口がまた開いた。
 今度ははっきりと…


「どうしてなの…ゆういち……」


 『どうしてなの…祐一?』
 はっきりとそう聞こえた。
 まるで心をえぐられそうな悲痛な響きを持った声で。
 そして名雪はそれきり喋らない。
 俺は驚愕しながら、物言わぬ無表情なその顔を凝視するしかなかった。
 何がなんだ名雪?
 何が『どうして』なんだ?
 俺がお前に何かしたのか?
 記憶を探る……
 思い出せない。
 記憶にない。
 どんなに考えても、名雪にこんな悲痛な言葉を言わせるほど酷い事をした覚えはない。
 どんなに考えても……


 あれ?


 思い出せない。
 今度は『思い出せない』ということに気がついた。




「だって、一度も連絡がなかったから」
「祐一が、この街に来なくなってから…」
「わたしは、ちゃんと書いたよ」
「そういえば、名雪から手紙が来たような気もする」
「よかった…届いてたんだ」
「何も返事がなかったから、届かなかったのかなって思ってたよ…」
「いや、ちゃんと全部読んでたぞ」
「嬉しいよ」




 水瀬家に7年ぶりにやって来た時に何気なく名雪と交わした会話だ。
 なぜ手紙に返事をしなかったんだろう?
 名雪の手紙は当りさわりの無いことばかりだったはずだ。
 それに、どんなに面倒でも年賀状くらいは返事をしてもよかったんじゃないだろうか?
 でも…俺は出さなかった。
 胸の奥が僅かに痛む。
 7年前のこと…
 とっくに全部思い出したと思っていた。
 でも、そこに全く思い出せない空白がまだあったのだ。
 錯乱状態であゆを担いで病院に連れていった後…
 その後の記憶が無い。
 あの後、俺は名雪とどんな別れ方をしたんだ?
 確かに、あゆのことでこの街のことを無意識的に嫌いにはなっていた。
 でも、名雪が嫌いになったわけじゃない。
 なんで、たかが手紙の返事をすることくらいしなかったんだろう?
 電話だってあったはずなのに。
 7年前の空白のこと……
 思い出せないんじゃない。
 思い出したくないんだ。
 何を?
 頭が混乱する。
 自分が何を考えているのかよくわからない。
 ただ、はっきり分かるのは……
 あゆが目覚めて、今では暖かな思い出になっているはずの辛い7年前の事故。
 それがいまだに暖かな思い出とはならないでいる。
 ずっと感じていたわけの分からない罪の意識。


 『どうしてなの…祐一?』


 俺は…お前に一体何をしてしまったんだ?
 今まで聞いたこともないような、名雪の悲痛な声。
 その一言が俺の罪の意識に食い込んでいく。
 そうだ…名雪がこうなってしまったのは…
 俺のせいだ。











 名雪の部屋を出てからは頭がぼうっとしていた。
 何となく頭の中がうまくまとまらなくて、視界も焦点が何となく定まらないような感じ。
 食卓で秋子さんたちに心配されたような気がするが、適当に何か言っておいた。
 余計に変に思われてしまった気がするがどうでもいい。
 そんなことを考えている余裕は俺の頭になかった。
 あゆと栞から風邪薬とかを色々渡された気もするが、曖昧に返事しながら全部飲んでしまった。
 そのせいか通学路を一人で歩く間中、余計に変な気分になってきた気がする。
 俺は…7年前の名雪に一体何をしたんだ?
 学校に着くまで、頭の中にあったのはそのことだけだった。












 教室の扉を開け、黙って席につく。
 一人で席につくのがもう当たり前になった感じがして嫌な気分だ。
「おい、相沢どうした?」
 北川に声をかけられた。
 気は晴れないが、人の関心を引きたいわけでもない。
 むしろ今は他人の存在は邪魔だった。
 かと言って露骨に邪険にするのも悪いので、とりあえず普通に挨拶を返しておくことにする。
「おはよう。別に何でもない、眠いだけだ」
 そう言って俺は机に突っ伏した。
 なんだか思考がひどく重く感じる。
 このまま寝てしまえば楽になりそうだ。


「ちょっと、少しはまともに人の顔見て挨拶しなさいよ」


 眠りの底に落ちていこうとしたら、突然そんな声と共に襟首を引っ張られて顔を起こされてしまった。
 ったく、誰だ?
 人が寝ようとしているのを邪魔するなんてえらく肝の据わった女だな。
 色んな意味で邪魔された気がして、俺は不機嫌に引っぱった奴の方に振り返った。
「えっ!? 香里!?」
「不機嫌なのか驚くのかどっちかにしなさいよ」
 振り向いた先にいたのは、腕組みをして呆れている香里だった。
「何でいるんだ?」
「いたら悪いかしら?」
「い、いや、悪いなんて言ってない……けど」
 『お前休学したんじゃ?』
 あまりの意外なことに、さっきまでの頭のもやもやは一時的に飛んでしまった。
 ぽかーんとしている俺に香里が笑顔で言う。
「久瀬君の粋な計らいでね、今までどおり学校に出てきても構わないって」
「委員長が?」
 どんな計らいをすれば自主留年の者が出てきて構わないなんてことになるんだろう?
 舞踏会といい、変な制服といい……この学校の何か桁外れなスケールには舌を巻くばかりだ。
「『真面目な生徒たちのための生徒会さ』なんてかっこつけてたわ」
 こいつはこいつでその骨を折ってくれたであろう相手に感謝の気持ちはないのか?
 かっこつけ…って本人が聞いたら怒るぞ。
「失礼ね。ちゃんと感謝してるわよ」
「うおっ、何故それを!?」
 口に出してたか?
 漫画の登場人物じゃあるまいし……
「相沢君は考えてることを顔に出しすぎよ」
「何を、俺のポーカーフェイスは一級品だぞ」
 俺がそう言ったら、香里は呆れた顔から一転してニッコリ笑った。
 ……嫌なくらい覚えのある顔だな。
 そう、こいつの妹のあの凶悪極まりない笑顔だ。
「名雪でも丸わかりのポーカーフェイスね。確かに一級品だわ」
「嫌なくらいわかりやすい例えをどーも」
 名雪でも丸わかり……
 一級品どころか超三級品のポーカーフェイスかよ。
「『正直者が馬鹿を見るなんて嫌じゃないか』なんていいこと言うわね、彼」
「委員長がそんなことを?」
「まあ、この時期に生徒が突然いなくなったらクラスも混乱するでしょうしね」
 香里は俺の問いかけに、頷いてそう付け足した。
 確かに、今の時期にクラスメートが一人いきなり留年を決めていなくなるのは好ましいこととは思えない。
 委員長と石橋あたりがそう考えて、外見は今までどおりに保つ苦心をしたのだろう。
 幸い香里の留年の話を聞いてたのは委員長以外の生徒では俺だけだ。
 俺が黙っていれば、卒業式まで香里の留年の話は出ないことだろう。
 出たところで、いきなりいなくなるよりは衝撃が薄いのは間違いない。
 堅物と思ってたけど、結構いいところあるんだな、あの委員長。
「はぁ、なんかそれ聞いて少し安心した」
「そう?」
「香里がいてくれて俺は嬉しい」
「あら、また随分積極的な発言ね。あゆさんに言いつけちゃおうかしら?」
「だぁっ、ちょっと待てそういう意味じゃない! その…なんだ、香里だと落ち着くっていうか……」
 だ、ダメだ。
 何言ってるんだよ俺。
 余計に言ってることが支離滅裂になってきてるじゃないか。
 あたふたと慌てふためく俺に、香里が愉快そうに笑った。
「わかってるわよ。相談事ならいつでも乗るわ。友達として…ね」
「あ、ああ。頼む」
 やっぱこいつ栞の姉だ。
 人の扱い方がうまい。
 でもまあ、そんな香里だからこそ相談役として近くにいてくれるのは心強いと思う。
 あんなことがあった後だが、香里が物事に対する冷静な目を持っているのは確かだ。
 というか、そんな香里でも妹のこととなると冷静ではいられなかったというのが正しいだろう。
 ともすれば冷淡に見える香里だが、どこかあたたかみを感じるのはそういう脆さもあるからかもしれない。


「なあ、さっきから二人で何の話してるんだ?」
 完全に会話に置いていかれた北川がぽつりと呟く。
 香里の留年の話は全く聞いてないのだから無理もないか。
 いずれそれは香里からゆっく聞いてもらうことにしよう。
「別に大したことじゃないわ。仲のいい男女として普通の会話をしてただけよ。ね、相沢君」
 にっこり。
 こ、怖っ。
 香里の笑顔とヤツの顔が一瞬ダブった。
 やっぱり姉妹だ。
 しかし、相手は北川なのでそれに臆することなく俺も冗談に乗る。
「ん、ああ。まあそんなところだ。モテる男は辛いぜ」
 北川はそれを聞いて少し複雑な顔で
「……そうか」
 と呟いた。
 からかわれているのか本気なのか判別し難くて困ってます、といったところだろう。
「この人を放っておくわけにもいかないしね。受験直前って緊張感ないのかしら?」
 香里はそう言って溜息をついた。
 気持ちはよくわかる。
「なんとかしてやってくれ」
「そうね。久瀬君や石橋への恩返しも兼ねて無事進学させてあげなきゃ」
 香里にケツひっぱ叩かれれば北川も少しは緊張感とういうか、サマになりそうな気がする。
 俺じゃ最後まで真面目な雰囲気にならないので効果が薄い。
 というか、俺は人のことを気にかけられるほど余裕もない。
「だからさっきから二人で何の話を進めてるんだ?」
 まだわかってないのかこいつは……
 本当に大丈夫なんだろうか?
 頭が。
「北川君、放課後勉強に付き合ってあげるわ」
「お、いいのか?」
 言葉をそのまま好意と受け取ったのか北川は少し嬉しそうだ。
「ええ」
 にっこり。
 グッドラック……北川。
 放課後は鬼教官の個人指導が待っているだろう。


 久々の懐かしい雰囲気のやりとりに先ほどまでの鬱な気分も少し和らいだ。
 そして担任がやってきて授業が始まる。





 ……だが
 一度タガが外れた記憶は、既に留まる事を許さなかった。







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