「頼むよ」
「頼まれても、困るよ…」
「拝むから」
「拝まれても、困るよ…」
「2000円くらいでいいから」
「わたし…そんなにお金ないよ…」
「あるだけ全部でいいから」
「全部はダメ。わたしが困るもん」
「ちゃんと返すから」
「…1000円だけでいい?」
「それだけあれば充分だ」
「本当に返してね…」
「来月の小遣いが入ったら返すから」
「来月…って、祐一が帰ったあとだよ」
「だったら、来年に返すから」
「わたし、本当に困るよ…」
「じゃあ、ちょっと出かけてくる」
「わっ。本当にダメっ!」
 追いすがる名雪をかわして、外に飛び出す。
 そして、商店街に向かった…。
 …でも
 その1000円が名雪に返されることはなかった。















     12月20日(月曜日)


「ん…朝か」
 雀の鳴き声に目が覚めた。
 時間は7時。
 目覚ましをかけてないのに随分健康的になったものだ。
 今日は月曜日だから本来なら学校なのだが、創立記念日だとかで休みらしい。
 前日の休日出勤で、受験直前を意識していたのに少し拍子抜けである。
 まあ、心配しないでも冬休みは正月以外が全て直前特訓になっているし……
 今はむしろ降って湧いたようなこの休みを素直に喜ぶべきか。
 それにしても、また随分懐かしい夢を見たな。
 あゆにあの人形をやるために、恥も外聞もなく名雪から借金した7年前の夢。
 あのあと、あゆがあんなことになってしまって…
 結局名雪から借りた1000円は返さずじまいだった。
 しかし、こんな夢を見るなんて…
 やっぱり名雪のことで頭が相当参っているみたいだな。


 昨日、あゆ、栞、香里の三人で連れ立って帰ると、名雪も丁度帰ってきたところだった。
 ただし、秋子さんに背負われたまま。
 病院での精密検査では何の異常もなかったらしい。
 この前の診察どおり、ただ眠っているだけだったそうだ。
 ただ寝ているだけでは入院させるわけにもいかず、結局連れて帰ってくることになった。
 栞が水瀬家に泊り込んで点滴を続けるということで。
 栞の父によると…
 こうなると未知の奇病か、精神の問題によるものとしか思えないとのことだった。
 そして検査で異常が見つからないことからしておそらく後者の可能性が高い、とも。
 受験ノイローゼにでもなったんだろうか?
 勉強で満足な睡眠が取れなかった精神的苦痛が名雪を蝕み、ここに来て不足分の睡眠を一気に求めた……
 そんなわけない。
 受験だろうが関係なく名雪はいつもどおり睡眠をとっていた。
 その驚異的なマイペースさで。
 だいたい名雪のどこに精神的な苦痛とかがあるんだ?
 おおよそもっとも名雪と無縁の言葉としか思えない。
 一体……何がどうなっているんだろう?


 しかし、気のせいだろうか?
 夢で見た幼い頃の名雪は今よりもっとしっかりしていた気がする。
 少々生真面目で要領は悪かった気がするが、今ほどひどい天然ボケではなかったような…
 って、何考えてるんだ俺は。
 それじゃまるで名雪が年をとるごとに幼児退行していったみたいじゃないか。
 ……みたい
 じゃなくて、実際にそうだった気もする。
 俺の記憶に残る昔の名雪は間違いなく今よりしっかりしていた。
 それに記憶が間違っていなければ…
 昔の名雪は今ほど間延びした喋り方をしてなかったと思う。





 様子を見に名雪の部屋にお邪魔する。
 昨日と同じように先客二人がいた。
「おはよう」
「おはよう、祐一君」
「おはようございます」
 あゆと栞に軽く朝の挨拶をして名雪の顔を覗き込む。
 昨日の夜に見たのと全く変わってない顔がそこにあった。
「変化無しか…」
「…うん」
 もっとも、いつもの名雪でも休日のこんな時間に目を覚ますことなどないが。
 これで名雪の睡眠時間は三日を越えたことになる。
「悪いな栞。早く家に帰りたいとこを引き止めて」
 家で香里と話したいことはたくさんあるだろうに、今度はこっちの事情で引き止めることになってしまった。
 今も俺の見ている前で点滴の用意をしている。
「気にしないで下さい。名雪さんはお姉ちゃんとあゆさんの大事な人ですから、役に立てて私は嬉しいです」
 そうだ、役に立てるというのは嬉しいことだ。
 何より辛いのは見ていることしか出来ない無力感。
 俺とあゆには名雪を見ていることしか出来ない。
 栞みたいに何かしてやれたら少しは気がまぎれたかもしれないが、俺達には見ていることしかできなかった。
「終わりました。私たちも朝ご飯食べに行きましょう」
 栞が名雪の右手に針を挿し、壁に貼り付けた点滴袋が落ちないか確認して俺達の方を振り向く。
「ああ、お疲れ」
 俺はそう言って栞をねぎらった。
「ほら、お前も何か言う事あるだろ」
 ワシワシと横でぼーっとしていたあゆの頭をかき回す。
「うぐぅ、何するんだよっ!」
 びくっと体を震わせたあと、怒って俺の手を払いのけるあゆ。
「ほら、何か栞に言う事あるだろ」
「え…えっと…おはよう」
 俺にそう言われたあゆはしどろもどろしながら栞に挨拶した。
「1時間前に聞きましたけど?」
「違うだろ、お礼だよお礼」
「お礼?」
 しばらく考え込んでいたかと思うと、あゆは栞に頭を下げた。
「ありがとう、栞ちゃん」
「何のお礼だ、おい」
 苦労をねぎらえと言いたいのに何を勘違いしているんだこいつは…
 今度はその俺の突っ込みにあゆは照れ笑いを浮かべた。
「えっと、何のお礼なんだろう?」
 わけもわからずお前はお礼をするのか?
 俺は溜息をつきながら部屋の扉を指差す。
「もういい、秋子さんの手伝いしてこい」
「……う、うん」


 何か納得いってないようだったが、あゆは素直に部屋を出て行った。
 その様子を見て栞が辛そうに呟く。
「あゆさん、相当参ってますね」
「みたいだ。あいつは元気だけが取り柄なのに」
 さっきから名雪のことが心配で上の空になっていたらしい。
「あゆさん、本当に名雪さんのことが好きなんですね。なんだかうらやましいです」
「あれこれ面倒見てもらってるからな」
 あの名雪に世話を焼かせるなんて、あゆの危なっかしさは相当のものだ。
 というか…名雪が世話を焼ける相手ってあゆくらいなものだが。
 名雪に世話を焼かれるやつは、名雪以上のぬけたやつってことだし。
「…………」
 そんなのが自分の彼女なのかと思うと何か複雑だ。
「目の離せない人ですよね、あゆさんは」
「まったくだ」
 俺の気持ちを察した栞が苦笑いしながらそんなことを言った。
 でも見ていておかしいから楽しい。
 だから余計に目が離せないんだと思う。
 俺はそれであゆの傍にいたいと思うのかもしれない。


「私たちも行きましょうか、朝ご飯に」
「そうだな」
 栞の言葉に頷き、俺達は名雪の部屋を後にした。













 朝食が済んでからはいつものように部屋で勉強だ。
 と言っても全然やる気がおきない。
 昨日の放課後に行った自習といい、今日といい、受験勉強を始めてからはじめてのスランプのような気がする。
 香里の一件以来少しずつペースが落ちてきていたが、勉強以外の心配事がこうも続くと集中できるわけがない。


 廊下からは時折一階から名雪の部屋に出入りする足音が聞こえる。
 足音からいって多分秋子さんだろう。
 俺達の前では決して心配そうな顔を見せていないが、本当に名雪を心配していないわけがない。
 きっと誰よりも心配しているだろう。
 だけど、秋子さんが心配そうな顔をすればきっとあゆが余計に不安がる。
 俺だって秋子さんがそんな顔をしていたら、必要以上に不安になるだろう。
 秋子さんは傍にいてくれるといつも心強い、そんな絵に書いたような立派な『母親』だ。
 時々自分の母親より『母親』らしく思えてしまう。
 本当に、秋子さんあっての水瀬家だ。
 秋子さんが落ち込んでいるところなんて見たことがない。


 あれ……?
 いや…どこかで一度見たような?
 本当に一度だけ。
 一体あれはいつだっただろう?














 そして昼食が終わり、何事もなく午後の昼が過ぎようとしていた時、水瀬家に珍客が現れた。
「こんにちは」
 月宮さんだった。
「お父さん!」
 玄関に現れた父を見てあゆが飛びつく。
「おっとっと、今日はいつも以上に積極的だな、あゆは」
 あゆに勢いよく抱きつかれ、少しよろめいた月宮さんは愉快そうに笑う。
「どうしたんですか、突然?」
 今まで水瀬家に来るときには事前に連絡があったのに、今回は本当に唐突だった。
「うん、昨日あゆに電話したとき元気がないのが不安になってね。ま、これなら大丈夫かな」
 月宮さんはそう言って、自分にしがみついているあゆの頭を撫でる。
 そして、一緒に玄関にお出迎えにきた栞の顔をちらっと見て顔を背けた。
「見なかったことにしよう」
「どういう意味ですか!?」
 うわ、きついこと言うなあ月宮さん。
 栞のペースを最初から崩すなんて、扱い慣れてる…
 一通り、俺達の顔を見回したあと月宮さんは真剣な顔で俺達の後ろに立っていた秋子さんと目を合わせた。
「あゆから話を聞きました。名雪ちゃんが大変なことになっているって」
「すみません…ご心配をおかけして」
「何を言ってるんですか。名雪ちゃんはあゆの大事な家族だから、僕にとっても大事な家族ですよ」
 なんの躊躇もなくそう言ってのける月宮さんが頼もしかった。
 気休めかもしれないけど、誰かが来てくれるというのは何かしら心強いものだと思う。

 挨拶をそこそこに済ませ、夕飯の用意をする秋子さんを除く俺達三人は月宮さんを名雪の部屋に案内した。
 月宮さんは名雪の状態について俺達の説明を黙って聞き、聞き終えて一言…
「また…こんな光景を目にすることになるなんて」
 とだけ呟いて部屋を出ていった。
 7年間ずっと物言わぬあゆに付き添っていた月宮さん。
 それを思い出させるこの光景を目にした胸中はどんなものだったのか俺達には想像がつかない。
 ただ、部屋を出る時に呟いた一言はとても重苦しい響きを持っていた。















 そして、月宮さんを加えた夕食が始まる。
 名雪がいつ目覚めてもいいように冷蔵庫の中身は普段より多めにしてあったため、急な来客でも問題はなかったようだ。
 同じ料理が全員分並んでいる。
 全員で『いただきます』をしたあと、秋子さんが向かい合って座った月宮さんに話しかけた。
「月宮さん、今日はこの後どうされるんですか?」
「あ、泊めてもらえませんか? 出張先からいきなり飛び出してきたものだから当てもないので」
「了承。月宮さんなら大歓迎ですよ」
「というか…」
 秋子さんの快い返事に、照れ笑いを浮かべながら頭を掻く月宮さん。
「勢いで飛び出してきたせいで年末までの予定が全部吹っ飛んでしまって」
「あらあら、それなら新年もこちらで迎えられますか?」
「そう言ってもらえると助かります」
 月宮さんはそう言って頭を下げた。
「じゃあ、お父さんお正月までここにいるんだ」
「そういうことになるね」
「ありがとうお父さん。来てくれて本当に嬉しかったよ」
 月宮さんの隣に座っていたあゆが笑顔で月宮さんに抱きつく。
 あーあ、嬉しいのはわかるけど箸持ったまま抱きつくなよ、行儀悪い。
「よかったですね、月宮さん」
「ええ、帰ってきてよかったです。あゆのこの顔を見れて…」
 秋子さんの言葉に月宮さんは嬉しそうに頷いた。
 本当によかった。
 月宮さんが来てくれたおかげで、あゆがある程度いつもどおりの元気さを取り戻してくれたから。


「ところで、月宮さんはどこで寝るんですか?」
 黙ってそんなやりとりを見ていた栞の一言に場が凍りつく。
「どこって…あゆの部屋だけど」
「私もいるんですけど…」
「え…そうか、栞ちゃんはあゆと一緒に寝ているのか」
 実の娘はともかく、人様の娘と同じ部屋で寝るのはやっぱり気が引けるのだろう。
 ていうか、普通に考えてもあの部屋に三人で寝るのは窮屈だ。
 しかもあゆの寝相は最悪だし。
「仕方ないな…前みたいにリビングのソファーを借りるか」
「私が代わりましょうか?」
「いや、いいよ。栞ちゃんは名雪ちゃんの看病をしてるから名雪ちゃんの傍にいてくれた方がいい」
 この場合『いてあげた方が』というべきなのに、月宮さんは『いてくれた方が』と言った。
 月宮さんにとって名雪も娘みたいな存在になっているんだな。
「俺の部屋もありますけど」
 広くはないがベッドと布団で二人寝るくらいなら問題ない。
 だが、月宮さんは首を横に振った。
「やめとくよ。祐一君の勉強の邪魔だろうし、夜も遅いんだろう?」
「うっ……、まあそうですけど」
 ここ数日は勉強に全然集中できていないだけに、少し後ろめたい。
 と、突然月宮さんが真剣な顔をして秋子さんと目を合わせる。
「冗談か本気かは置いといて、そのつもりはありませんから」
「残念です」
 秋子さんが何かを言おうとしたところを月宮さんが遮ってしまった。
 まあ…秋子さんが何を言おうとしたのかはある程度想像つくが。
 冗談なのか本気なのか…かなり本気な気がして怖い。
「それにしても、秋子さんは相変わらず気丈な人ですね」
「そうですか?」
「僕が秋子さんの立場だったら今ごろ取り乱して何もできなくなってますよ」
 俺も秋子さんの立場ならこんないつもどおりに振舞うなんて出来ないと思う。
 冷たいとかじゃなくて、名雪のことをちゃんと心配しているのはわかる。
 でも、秋子さんにはそのことで人の同情を買おうという雰囲気が全くない。
 秋子さんはずっと前を見て生活しているのだ。
「自分に出来ることをやっているだけですよ。あの子がいつ目覚めても困らないように」
 そうたおやかに言って秋子さんは頬に手を当てる。
「わたしも月宮さんとあゆちゃんをずっと見ていて色々学びましたから」
「それでも、僕はそこまで気丈には振舞えませんよ」
 月宮さんの言う通り、わかっていてもなかなか割り切れないものだ。
 そうやってその気持ちに押しつぶされて周りの人まで暗い雰囲気に引きずり込む。
 今回、本来その渦中にあるはずの秋子さんが、逆に俺達を元気付けているというのは凄いことだと思う。
「俺も無理です。秋子さんが落ち込んでるところなんて見たことないし」
「うん、秋子さんはいつも優しくてお母さんみたいだよね」
 俺の言葉にあゆが相槌を打つ。
 だが、それを聞いた秋子さんは少し寂しげな表情を見せ、目をつぶった。


「わたしはそんなに強い人間じゃありませんよ」
「えっ?」
 珍しく弱気な秋子さんの反論の言葉。
 あゆがそれを聞いてびっくりしたような表情をする。
 俺も少し驚いた。
 秋子さんが人の意見をこんなふうに頭から否定するなんて…
 そんな俺達を見て秋子さんは安堵させるためか微笑んでみせる。
「もし、わたしが気丈に見えるのだとしたら…それは祐一さんのおかげですね」
「え?」
 今度は俺が驚きの声をあげる番だった。
 俺!?
 何で俺が?
「もう覚えてませんか? 昔のことだったものね」
「昔っていつぐらいのことですか?」
「祐一さんが初めてここに来た時のことですよ」
 ここに初めて来た時っていうと幼稚園の冬休みの時だったか?
 ええっと、その時どんなことしてたっけ?
 ごく普通に挨拶してた気がするが…
 必死に記憶を探っていると秋子さんがクスッと笑う。
「ずいぶんとのんびりした『イナズマ斬り』でしたね」
「ぐあっ…」
 その一言で想定外のことを思い出した。
 その昔テレビのヒーローの真似事をして、木の枝で初対面のお姉さんに殴りかかったことを。
 まだ記憶の定かでない幼稚園年少時代のことだが、あれ水瀬家でのことだったのか……
 言われてみればそうだった気がしてきた。
 今目の前にいる人がその時の当事者だと分かって思いっきり恥ずかしい。
 おまけにあとでそれがお袋にばれて、次に水瀬家に預けられる時には思いっきりしつけられた。
 その時はお袋と秋子さんへの恐怖でガチガチに緊張して、『秋子さん』『名雪さん』と滅茶苦茶な敬語を使ってた気がする。
 というか、今まで二回目に訪れた時のことを初めて水瀬家に訪れた時だと記憶違いしていた。
 他所の家に預けられていると自覚してたのは二回目の訪問からだったからだ。
「『イナズマ斬り』って何ですか?」
「ボクが子供の時やってたテレビのヒーローの必殺技だよ」
「ああ、小さい男の子はよくああいうのに憧れますよね」
 外野うるさい。
 人の恥を上塗りするな。
「でもよく覚えてましたね」
「だってボクもよく真似して遊んだも…」
「はい?」
「あ、あはは…何でもないよ忘れてちょうだい」
 やっぱ『男の子』だったか、あゆ。
 しかも俺よりはっきり覚えてるあたり、相当好きだったと見える。
 そういや、そのヒーローの一人称が『僕』だった気がするが、まさか…な。
「おまけにわたしを『妖怪ババア』呼わばりして。傷つきましたよ」
 秋子さん、笑顔が怖いです。
「いや、そのあれはあの時秋子さんが何となくそんな感じに見えて…」
 おい、何言ってんだ俺!
 焦って何かもっととんでもないことを言ってしまったような…
「ふふ、当たってますよ祐一さん」
「え?」
 だが、怒るかと思ったら秋子さんは愉快そうに微笑んだ。
「あの頃のわたしは生きることに希望を持てずにやつれていましたから」
 その言葉で記憶の奥底から当時の秋子さんの姿が思い浮かぶ。
 ぼさぼさの髪に薄汚れた服。
 そして、何かに取り憑かれたかのように憔悴しきった顔。
 その姿はまるで…
「『妖怪ババア』に見えてもおかしくなかったでしょうね」
 思い出した。
 一回だけ見た秋子さんの落ち込んだ姿。
 それは、その初めて会った時のことだったのだ。
 自分の母親とはあまりに違うその雰囲気に俺は傍にいたみすぼらしい女の子が…
 つまり昔の名雪がそれに苦しめられていると思い込み…
 何を思ったのか秋子さんに攻撃を仕掛けたのだった。
 子供心にも困っている人をほっとけない性分だったのだと思う。
「初耳ですね。秋子さんがそんなやつれるまでに落ち込むなんて何があったんです?」
 月宮さんが信じられない、と言わんばかりの表情で尋ねる。
 そうだ、こんな気丈な秋子さんが何があればあんなところまで落ち込むんだろう?
 秋子さんはその問いに目をつぶり、静かに少し寂しさの混ざった声で告げた。


「わたしの大事な人が亡くなったんですよ」


 大事な人…
「……大事な人って名雪さんのお父さんのことだよね?」
 あゆが確認するかのように訊く。
 秋子さんはそれに目をつぶったまま頷いた。
「ええ。当時はわたしも若かったのでこれからどうすればいいのか途方に暮れて…」
「そうだったんですか…秋子さんにもそんな時期が。僕にもわかりますよ。その気持ち」
「月宮さんの方が大人です。わたしはあの時悲しみに押し潰されて、人間らしい生活すら出来ませんでしたから」
 そうか、月宮さんも若いうちに大事な人を失ってるんだ。
 お互いに娘だけ残された者同士、二人が仲のいい理由の一つの気がする。


「そんなわたしを立ち直らせてくれたのが祐一さんでした」
「え、俺? あんなので元気が出たんですか?」
 あれをどう解釈すれば人が立ち直るきっかけになるのだろう?
「『イナズマ斬り』とは違いますよ」
「秋子さん…その単語はもう勘弁してください」
「あら、そう」
 頬に手を置いて、とぼけたような顔をする秋子さん。
 うう、わかってくれてるのかくれてないのか…遊ばれてるんだろうか?
「…うぐぅ」
 若気の至りなもう一人もさりげなく精神ダメージを受けていた。
「まったく、姉さんも酷い事をしてくれます」
 秋子さんは小さく溜息をつき、そしてこぼれんばかりの笑みを見せた。
「あんな手のかかる子の面倒を任されたら落ち込んでる暇もないじゃないですか」
 あんな手のかかる子って…俺のことだよな?
 うう、今思うと昔ここに来てたときの俺って秋子さんに迷惑かけっぱなしだったような…
「えーっと、その…すみません」
 とりあえず謝罪する。
「謝らないで下さい。子供が元気なのはいいことです。それにわたしは感謝してますから」
「え?」
「わたしに母親としての務めを思い出させてくれたのは祐一さんだったんですよ」
 そう言って秋子さんは目をつぶって小さな溜息をつく。
「名雪はあれで手のかからない結構大人しい子でしたからね」
「あ、あはは…そうですね」
 結局のところ俺が迷惑かけまくっていた事に変わりはなかった。
 むしろ俺が名雪まで引き込んで余計に迷惑事を増やしていたような…
「大切なことを気付かせてくれた人だから、わたしは感謝を込めてこう呼ぶんです」



       『祐一さん』…と



 そうだったのか。
 昔から少し気になっていた。
 子供の俺に何故か敬語を使う秋子さん。
 そこにはそんな意味があったのだ。
 香里があゆのことを『あゆさん』と呼ぶように。
「でも、今はそれだけじゃないですね」
「え?」
 秋子さんがじっと俺を見つめる。
 あんまりにもまっすぐに見られたので思わず怯んでしまった。
「本当に、祐一さんはたくましくなってくれました。今は頼れる人としてそう呼ばせてもらってます」
「あ、いや…その、どうも」
 秋子さんにそんな風に思われてたなんて少し驚きだ。
「でも、まだまだ気を休める暇はありませんね」
 そう言って悪戯っぽく微笑む秋子さん。
「今は祐一さん以上に手のかかる子がいますから」
 確かに……。
 全員の目がその『手のかかる子』に集中する。
「えっ? 何?」
 全員の視線が突然自分に集まったので慌てふためくあゆ。
 どうやら自覚は全然ないらしい。
「迷惑おかけします、秋子さん」
「トラブルメーカーさんですからね」
 月宮さんと栞、二人とも容赦ないな。
「手のかかる子って…ボク!?」
「お前じゃなきゃ名雪だっていうことになるぞ」
「…うぐぅ」
 さすがに、名雪に責任転嫁してまで否定する気は起きないらしい。
 やれやれ、これじゃ手がかかるのも当然だな。
「やっぱり、祐一さんと合わせて『手のかかる子達』かしら」
「…………」
 秋子さん、そりゃないでしょう。
「祐一君とおそろいだねっ」
「嬉しくない」
 喜ぶところじゃないぞ『うぐぅ』。
 こんなことでセットにされるのは嫌だ。
「ふふ、まだまだ頑張らないといけませんね」
 秋子さんはそんな俺達の様子を楽しそうに眺めていた。
 そんな秋子さんに月宮さんが声をかける。
「なるほど、それが超人秋子さんの秘密ですか」
「そうかもしれませんね。この子達がいるから、わたしは強い自分を演じられるんです」
「演技だったんですか? とてもそんな風には見えませんけど」
 栞が驚く。
 演技派の栞すら驚くくらいなのだから、俺達には秋子さんの超人ぶりは素のようにしか思えない。
 その言葉に秋子さんは、目をつぶり懐かしむような優しい声で
「最初は自分を勇気づける演技でした。今となっては演技なのか性分なのか分からなくなってしまいましたけど」
 と言って微笑んだ。
 その微笑みと結論がいかにも秋子さんらしいなと思った。
 昔はどうだったか知らないが、それは間違いなく今の秋子さんの性分だと思う。


「でも、何でそんなことを教えてくれたんです? 秋子さんにしては珍しい」
「そうだね」
 ほとんど自分のことを語らない秋子さんがこんなに自分のことを話すなんて…。
 あゆもそれに相槌を打つ。
「あらあら、忘れましたか?」
 仕方ありませんね、と頬に手を当てる秋子さん。
 それで気付いた、そうだ、今日は…


「俺が初めてこの家にやってきた日」
「ええ、そうですよ。祐一さん」




 そして、俺と名雪が初めて出会った日。
 秋子さんに殴りかかったこと以外ほとんど思い出せないけど…
 名雪はその時のことを覚えているのだろうか?
 あいつもまだ子供だったし、しっかり覚えているのは小学生くらいからだろうな…







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