12月19日(日曜日)


 『朝〜、朝だよ〜』
 『朝ご飯食べて学校行くよ〜』


 名雪!?


 俺は布団をガバッとはねのけた。
 そして声のした方を見る。
 『朝〜、朝だよ〜』
 『朝ご飯食べて学校行くよ〜』
「…………」
 あの目覚ましだった。
 『朝〜、朝だよ〜』
 『朝ご飯食べて学校行くよ〜』
 『朝〜、朝だよ〜』
 『朝ご飯食べて学校行くよ〜』
 カチ……
 しばらく放心状態で目覚ましの声を聞いたあと目覚ましを止めた。
 一晩たったし、目を覚ましてくれるだろうか?
 そう思って名雪の部屋に行ってみる。



「…おはよう祐一君」
「おはよございます…祐一さん」
 名雪の部屋には先客がいた。
 あゆと栞だ。
 二人ともうかない顔をして名雪のベッドの傍に座っている。
「名雪は…起きないか?」
「…うん。昨日のまま」
 朝からこんなに沈んだあゆを見ることはまずない。
 この前のお墓参りの日よりも酷い沈みようだ。
 しかし……
 壁にセロテープで点滴袋が貼り付けられているのが気になって仕方ないんだが。
「…本当に栞がやるとは思わなかった」
 実際に目にするまで、冗談だと思っておきたかったが本当にやるとは。
「失礼ですね。戦場の野戦病院なら貴重な技能ですよ」
 そんな生々しい例えを出されても…まあそれはそうなんだが。
「それとも私がナース服を着ていたほうが良かったですか?」
 にっこり。
「いや、俺はそういう趣味はないから」
 だいたいこいつがナース服なんか着たら…
 白衣の天使じゃなくて、天使の姿を借りた悪魔に見えると思うが。
「祐一さん、盲腸手術の下の剃毛は私がやってあげましょうか?」
 にこー
 やば…勘の鋭いやつめ。
 おちおち心の中で突っこむこともできない。
「遠慮しておく」
 見ず知らずの看護婦にやられるのも恥ずかしいが…
 栞にやられるのだけは絶対嫌だ。
 あとあとどんなネタにされるかわかったものじゃない。
「しかし、お前はよくこの状況下で冗談が言えるな」
 その冗談につき合ってる俺も俺だが、あゆがこんなに落ち込んでいるっていうのに。
 俺がそう言うと栞は真剣な顔で名雪を見つめながら言った。
「こういう時だからこそ…笑ってなきゃいけないんです。そうしないと、幸せは逃げていくだけですから」
「…そうだな。俺も、普通どおりにしてよう」
 名雪も…俺達が暗くなることなんか望んでないだろうから。
「ほら、お前も普通どおりにしてろ、あゆ」
 そう言ってあゆの頭をわしわしと撫でる…というか、くしゃくしゃにする。
「うぐぅ! 何するんだよ!」
 いつもの怒った顔になるあゆ。
 怒っているはずなのにどこか愉快な顔だ。
 やっぱあゆはこうでないとな。
 沈みっぱなしのあゆなんてあゆじゃない。
「よし、朝メシ食べに行こうか」
 自分に気合を入れるように、爽やかにそう宣言して俺は名雪の部屋を出た。


 もちろんただの空元気だが…栞の言うことも一理ある。
 誰かが暗い顔をしていたら、周りの人も暗くなってしまうものだしな…









 教室に着いたのは石橋と同時だった。
 朝食の時間が家族会議で長引いたからだ。
 一つは名雪のこと、もう一つは今日の香里の呼び出しについて。
 秋子さんはさすがだった。
 自分の愛娘が不安で仕方ないだろうに、いつものように振る舞い、俺達の不安を煽らないように気を配っていたのだ。
 もし一家の主の秋子さんが取り乱していたら、全員パニックに陥っていたかもしれない。
 本当に秋子さんは立派な人だ。
 名雪は幸せ者だよな…あんな母親がいて。
 その名雪は、とりあえず栞の病院で精密検査をすることになった。
 昨日の時点で栞の父が『もし今日になっても何も変わらなかったら念のため』と言ってくれていたらしい。
 というわけで、秋子さんは仕事を休んで名雪に付き添うことになった。
 栞とあゆは午前中はそれについていき、香里との約束の時間には学校に来るということになっている。
 他に、名雪の検査はいつまで続くかわからないということで、遅くなる場合はあゆが夕飯を代わりに作る。
 もしも、入院という事態になったらその時は病院から秋子さんが電話をするのでその時に決める。
 といったことが、朝の食卓で秋子さんによってテキパキと決められた。
 二重に秋子さんには感心する。
 朝食が長引いたとはいえ、それだけのことを俺が学校に間に合う時間までに決めてしまったのだから。
 俺だったらうまくまとめられずにもっと時間を食ってただろう。


 席に座ってホームルームの最中周りを見回してみる。
 三日連続となるともう名雪がいなくても関心を集めないようだ。
 ていうか、今日は日曜日で来ているのはクラスの六割強の受験組だけ。
 あちこち空席だらけの教室では名雪がいなくても目立たなくて当たり前の気もする。
 そして斜め後ろの席を見てみる。
 香里……も来ていないな。
 まあ、昨日あれだけ疲れていたんだから無理もない。
 何をするつもりか知らないが、約束の時間まで出てこれないなんてことがないことを祈ろう。


 俺の事情とは関係なく、学校は平日の授業と同じように過ぎていった。
 せいぜい変わった事といえば、北川や名雪と親しいクラスメート達が名雪の異変に驚き不安がってたくらいだ。
 香里のことは、北川には話しておいた。
 詳しく説明しようとしたが、北川は香里が平静を取り戻してくれればそれで十分だったらしくそれは遠慮された。
 後は香里と直に話せばいいことだ…ということらしい。
 いかにもさばさばした北川らしい考え方だ。
 もっとも、ただ単にあれこれ考えるのが面倒くさかっただけかもしれないが。
 名雪のこともあるのでそんな北川がいつも以上に気のいいやつに思えた。
 しかし、あとでぶん殴った話なんか香里から訊いたらまたややこしいことになるんだろうな……
 香里がそれくらい気を利かせて黙っておいてくれることを祈るしかない。











 センター試験の特訓も終わり、夕日が差す教室に残っているのは俺だけ。
 香里の約束の時間まで行く場所もないのでここで自習をしていた。
 北川に約束のことを教えようかと思ったが…
 何の話かもわからないし、事情の説明もややこしいだろう…と思って誘うのはやめておいた。
 しかし……。
 いつかのあゆのお墓参りのときといい、何か不安を抱えながら勉強っていうのは全然意味がないな。
 さっきから参考書を開いているものの、中身は全然頭に入ってこない。
 はあ…何やってんだろうな俺。

 タッタッタッタ

 何だ?
 誰かがここに走ってきている。
 忘れ物でも取りに来たんだろうか?

 ガラッ!

 乱暴に扉が開かれる。
 入ってきたのは我らが委員長、久瀬だった。
 ここまで全力で走ってきたのか、息を切らしている。
 規則に従順な委員長が廊下を全力疾走するなんて何かあったんだろうか?
「残っているのは…相沢君だけか」
 委員長は俺の前に駈けてきて膝に手をつきながら荒い息で言う。
 言葉から察するに、俺しかいなかったのは都合が悪いことのようだ。
「よう、まだ委員長もまだ残ってたのか。で、どうしたんだ?」
「さっきまで職員室で授業の質問をしていたんだ」
 世間では休日だというのにそりゃまた熱心なことだ。
 応じる教師も教師で感心だが。
「そうしたら美坂さんが入ってきて…」
「香里が?」
 今日は最後まで姿を見せなかった香里が職員室に何の用だろう?
 時計を見ると約束の時間までもう少しというところ。
 委員長はそこで大きく息を吸って呼吸を整える。
「美坂さんが自主留年するらしいんだ」
「何だって!?」
 一瞬我が耳を疑った。
 余裕で現役合格を決めて進学と思われた香里が留年?
「自主休学って形だけど、美坂さんは出席日数が危ないから実際は…」
「事実上『留年』ってわけか」
 一体何故?
 あまりの突飛な香里の行動に俺は戸惑いを隠せなかった。
「石橋先生が説得しているけど、美坂さんは『妹との約束を守りたいから』って頑として聞かなくて」
 妹……
 それを聞いてはっとした。香里の言葉が頭に浮かぶ。



    「あたしだって…栞と学校に行きたかったわ」



 来年栞はこの学校に一年生として復学する。
 そして、香里が三年生として留年すれば……
 二人は少なくとも一年間は同じ学校に通えるのだ。
「まだ間に合うから、相沢君からも説得してくれないか? ここまできて留年なんてもったいない」
 なるほど、委員長は俺に説得を頼みに来たのか。
 いや、正確には俺だけではなく教室に残っているクラスメート全員に頼みに来たんだろう。
 しかし……
「いや、止めておく」
 俺はそう言って首を振った。
「香里には受験なんかより大切なものがあるんだろ」
「だからって一年を棒に振るなんて……それも、我が校始まって以来の秀才が」
 俺は少し溜息をついた。
 委員長は呆れるくらい真面目な奴だからな。
 留年という言葉がとても不名誉なもののように思えているんだろう。
 そんな委員長にとって、香里の行為は正気とは思えず、到底理解できないに違いない。
 それに、頭に血が上っている今は何を言っても無駄だろう。
 俺はそう思って荷物を鞄にしまって席を立った。
「相沢君どこに行くんだ?」
「帰るんだよ。うちのいとこが心配で勉強に手がつかないからな」
「だったら帰るついでに職員室に……」
「情に訴えるくらいで香里の気が変わると思うか? 香里の頑固さは委員長以上だぞ」
「……それは、まあそうだけど」
 香里という人物の自分の決意に対する頑固さは委員長含めてクラスメートのよく知るところである。
 もっとも、それでも委員長は『皆で説得すれば…』とか思っているんだろうが。
「そういうわけで俺は帰る。委員長も暗くならないうちに帰れよ」
 このまま押し問答していても仕方ないので、委員長が言葉に詰まっているうちに出ることにした。
 まあ、時間を置けば委員長にもある程度香里の気持ちはわかってくるだろうしな。
「ああ、そうそう。心配しなくても近いうちに香里以上の秀才が現れるかもしれないぞ」
「え? それってどういう……」
 言葉に詰まった委員長を、更に混乱に追い込む一言を残して俺は教室を出た。


 でも、あゆなら本当にやるかもしれないな…
 とりあえず約束の場所に行こう。
 今ごろ香里も石橋の説得を振り切って出てきている頃だろうから。













 香里は学校でと言っただけで場所は指定していない。
 が、この学校の生徒じゃない栞とあゆを呼ぶ場所といったらあそこしかないだろう。
 俺の予想通り、香里は一人で校門前に立っていた。
 でも、昨日のような寂しさはない。
 校門の外の道路には人が歩いている姿が時折見えるし、何より西から差し込む夕日があたりを暖色に染めていた。
「昨日も言ったけど、ちゃんと場所を指定しろよ」
「栞とあゆさんがここ以外に来るわけないでしょう」
「まあな」
 俺の足音に気付き、こっちを振り返った香里とそんな挨拶を交わす。
 栞とあゆはまだ来ていない。
 約束の時間より少し早いくらいだからまだ着いていないんだろう。
「随分思い切ったことをしたな」
「大したことじゃないわよ」
 こともなげに言ってのける香里。
 その顔は憑き物が落ちたように爽やかだった。
「やっと栞とあたしの夢がかなう時が来たんだから、一年くらい些細なことだわ」
 それでも俺はそんなことをできないと思う。
 俺も一年残ればあゆと一緒に通えるが……
 そんなことをして再来年ちゃんと進学できるか自信がない。
 そもそも現役で合格できるかも心配なのに…
 受験に関しては来年だろうが再来年だろうが問題ないという自信がある香里がうらやましい。
「それに、一年間あたしは栞の気持ちを裏切り続けてきたんだから、ちゃんと償わないとね」
「そうだな」
 償うとか言う割には香里本人も嬉しそうだった。
「で、それを伝えるために二人を呼んだのか?」
「ええ。それとあゆさんに挨拶」
「挨拶?」
「これから同じ学校でよく顔を会わせることになるでしょ」
 ああ、そうか。
 そういう事になるんだな。
「色々手間がかかる奴だがよろしく頼む」
 俺がそう言って頭を下げると香里は顔をしかめる。
「相沢君って、自分の彼女のことを何だと思っているのよ…本当に」
「いや…何だと訊かれると困るわけだが」
 本当に何なんだろうな。
 『自分の彼女だ』という認識はちゃんとあるのに、なんかいつもこういうことを言ってしまう。
「それとも、恋人同士ってそういうものなのかしら?」
「それは絶対に違う」
 香里の言葉を即否定すると香里に驚かれた。
「即答ね」
「あゆと俺は変わっているんだ。というか、あゆがヘンな奴だから」
 しどろもどろに説明すると香里が呆れた表情をする。
 どことなくとなく見下されてる気がするのは気のせいか?
「あたしには相沢君だって十分ヘンに見えるんだけど」
「俺はノーマルだ」
「知らないのは自分だけね。名雪にも『ヘン』って言われてたわよ」
「…………」
 あの名雪にまで言われてたなんて……
 なにか酷いショックだった。


「それで……名雪、今日はどうだったの?」
 心配そうに尋ねる香里。
 俺はそれに黙って首を振る。
「変化なしだ。今日は秋子さんが病院に連れていってる」
「…そう」
 一分ほど気まずい沈黙が流れた。
 その雰囲気から抜けようと思ったのだろう、香里は顔を上げて普通の表情に戻る。
「今日、名雪のお見舞いに寄ってもいいかしら?」
「まだ帰ってるかわからないぞ」
「戻ってなかったら待つわ。それに、栞の荷物も少しずつ持って帰らないといけないから」
「あれか…よくあんな重いものを持ってきたもんだ」
 俺でもあの馬鹿でかいリュックを背負ったらふらつくぞ。
「栞の部屋からほとんど物が消えていたときにはびっくりしたわ」
「だろうな。俺もあの馬鹿でかいリュックが玄関をふさいでた時はびっくりした」
 お互いにその情景を想像して少し笑った。


 と、向こうから二人がやってくるのが見えた。
 俺の視線に気付いて香里もその方向に振り返る。
「来たな」
「ええ、こっちから迎えにいく?」
「そうだな」
 俺がそう答えると、香里が先頭を切ってこっちに向かってくる二人に向かって歩き出した。
 そんな俺達に気付いたのか二人が手を振る。
 香里もそれに応えて手を振った。



「相沢君」
 足を少し止めて香里が俺の名前を呼び、少し振り返る。
 その顔は夕日に照らされているせいか、とても温かく、そして優しく見えた。
「名雪は色々手間がかかる子だけど、力になってあげてね」
 お前も自分の親友を何だと思ってるんだ?
 と言ってやりたかったが……
「ああ」
 何故か俺は素直にそう答えたのだった。







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