香里が家に辿り着くのを見届けるため、香里の斜め後ろについて歩く。
 夜道を私服で制服の女の子の後について歩くというのは、少し犯罪くさい気がする。
 が、香里の家の場所を知らない以上後ろについて歩くしかない。
 どっちにしたって他の人に見られたら別の意味でも勘違いされそうな状態だが。
「ところで香里、栞が任された『あれ』って何なんだ?」
 犯罪者と勘違いされるのは洒落にならないので、知り合いであることをアピールすべく 会話を持ちかける。
 まあ、人通りもほとんどない時間なのだが、念のため。
 いや、だからこそ誤解を招きやすいとも言えるが…
「『あれ』? ああ、点滴のことね」
 そうか、名雪が何も食べずに寝たままだったらそのうち衰弱していくもんな。
 点滴はあるにこしたことはない。
「…ってちょっと待て」
 点滴って、無資格で勝手に扱っていいものじゃないだろ。
「大丈夫よ。新米の医者や看護師より栞は、はるかにうまいから」
「何でそんなことに慣れてるんだ…」
「あの子、昔からよく点滴のお世話になっていたから。だから見ているうちに覚えてしまったみたいなのよ」
「見よう見真似でやれるものなのか、あれ? ていうか失敗したら怖いだろう、普通」
「病室をこっそり抜け出すために悪用するうちにプロ級になってたわ…」
 香里はそう言って溜息をついた。
 栞の無謀な行為と、病院の管理の甘さの両方に呆れているんだろう。
「ついでに言うと、注射器も使えるわよ。他にも色々」
「…おいおい、いいのかそれ?」
 他にも色々っていうのが気になるが訊くのが怖い。
 浣腸とかも入ってるんだろうか…
 さすがにこれは訊いたら怒られそうだし黙ってよう。
「いいわけないのにお父さんはいい加減だから困るのよ」
 いい加減な父親と悪ノリすると止まらない栞……
 栞が医療器具の取り扱いに慣れていった過程が何となく想像できて怖い。
「不本意だけど、一応栞の腕は保証するから安心して」
 無資格だけど腕はいい…か。
 これは無責任と怒るべきなんだろうか? それとも好意と喜ぶべきなんだろうか?
 かなり微妙なところである。
 まあ…誠意は尽くしてくれるだろうから一応好意と思っておこう。
「そんな大事にならないうちに名雪が起きることを祈る」
「そうね。本当に名雪、どうしたのかしら? あの子との付き合いは長いけど、最近本当におかしかったわ」
 最近…目に見えておかしくなり始めたのはいつからだったろう?
 やっぱり文化祭か?
 いや、もっと前から着々と進行していたに違いない。
「まあ、あの子のことだし案外人の心配も知らずに『おはよ〜』とか言って起きそうだけど」
「だったらいいんだが」
 あの寝方は異常だった。
 そんな甘い希望が通じそうにない気がして仕方がない。


「そういや、香里って名雪とどんな風に知り合ったんだ? 名雪の話じゃお前から声をかけたらしいが」
 名雪の話をしているうちに以前疑問に思ったことがふと頭に浮かんだ。
「あの子…そんなこと言ってたの?」
 腕を組んでしかめっ面をする香里。
 やっぱり話がずれていたようだ。
 名雪の話はあてにならない。
「後ろの席に座ってた名雪がぼけーっとしててプリントを回さないから注意しただけよ」
「そんなことだろうと思った」
 で、どうせ名雪のことだ。
 あのずれた思考で注意を友好宣言か何かと勘違いしたんだろう。
「何を勘違いしたのかあの子ったらいきなり自己紹介始めて、それから何かあるごとにあたしに話し掛けてきたわ」
 やっぱり。
「でもね」
 香里はそう前置きしていつもの顔になる。
「縁って奇妙なものよね。気がついたらあたしは名雪と仲良くなってたわ」
 そう、縁とは奇妙なものだ。
 食い逃げに巻き込まれたことから始まった恋と友情を俺は知っている。
 ……なんか真面目に考えると凄い嫌な縁だな。俺と栞のあゆとの縁って。
「ま、話していくうちに名雪が悪い子じゃないって分かっていったからなんだけどね」
「あいつはどう見ても悪い子じゃないだろう」
 悪い子以前に、天然記念物ものの能天気である。
「だから逆に目が離せなくなるのよ。訊いてもいないことまでべらべら喋っちゃうし」
 呆れたように溜息をつく香里。
 香里、その気持ちよく分かるぞ。
「そういえば、相沢君って名雪に本当に信頼されてるわね」
「は? 何が?」
 香里が愉快そうに笑っているのがなんだか嫌な予感がする。
「あの子、相沢君のこともよく話してたけど、『王子様みたいな人』なんて言ってたわよ」
「ぐあ…あの野郎」
 この前の帰り道、名雪がそんなことを言ってたのを思い出して頭痛。
「でも、変なことも言ってたわね」
「え?」
 香里が少し真剣な顔をする。
「あたしはその時あの子に、『そのいとこの男の子が大好きなのね』って言ったのよ」
「それで?」
「そうしたら、『わからない』って答えが返ってきたのよ。ね、変でしょう?」
「確かに…変だな」

『いつか白馬に乗った王子様が自分を迎えに来てくれる』

 それは子供の時、女の子が持つといわれる好きな人のイメージ像のはずだ。
 だからそんな表現を高校生になってまで使われると余計に恥ずかしいわけだが…
 名雪はそれに対して『わからない』と言う。
 なら、名雪にとって『王子様』っていうのはどういう意味なんだ?
「名雪は『祐一はわたしが困っているとき必ず現れてくれる人だから』って言ってたわ」
「何だそりゃ…そこまで名雪に頼りにされる覚えはないぞ」
 記憶にある限りでは今日に至るまで名雪に何かしてやった覚えなどない。
 それなのにそんなに頼りにされるのは不思議である。
「相沢君」
 香里が厳しい目をして俺を見つめる。
「あなたがそう思っていなくても、何気ない行動が他人を救っていることはあるものよ」
「そうかもしれないが…」
 あゆや栞ならともかく、名雪に関しては全然心当たりがない。
「あの子の変な思い込みにせよ、期待されてるんだから少しくらいは力になってあげることね」
「善処する」
 まあ、あからさまに困ってる名雪をほっとくほど俺だって冷血じゃないしな。
 ……少しくらいなら。
 そう答えたところで香里が足を止めた。


「見送りありがと。もう目の前だから」
 香里の指差す先に水瀬家とさほど変わらない大きさの家がある。
「そうか、じゃ今日はゆっくり休めよ」
「ええ」
 香里は頷いて、一人家に向かって歩き出す。
 と、思ったら引き返してきた。
「どうした?」
「栞とあゆさんに伝言をお願い」
「今日のことならちゃんと説明しておくぞ」
 ていうか嫌でも説明しないといけない状況になっているんだが……
 目の前にいるこいつの発言のせいで。
「そっちじゃなくて。まあ、それも説明してもらえるに越したことはないけど」
 誰のせいで説明しなきゃいけないと思ってるんだ、誰のせいで!
 と、心の中で一応突っ込み。
 根本的な問題として、ぶん殴った俺が悪いんだけど。
「明日の5時前に校門前に来て欲しいの」
 明日…って日曜日だな。
 普通は休みなのだが、受験組は夕方までセンター試験の特訓をやることになっていた。
 それはそうと何か二人を呼ぶ重要な用でもあるんだろうか?
 香里の穏やかな表情から察するに、二人と事を起こそうという雰囲気ではないが…
「俺も行っていいか?」
「別にふたり以外に誰が来たって構わないわ」
 あっさりOKされた。
 どうやら秘密事でもないらしい。
「わかった、伝えておく」
「じゃあね、明日に備えてもう寝るわ」
「ああ、おやすみ」
 香里はそう言って俺に背を向け、自宅へと消えていった。
 明日、一体何をするつもりなんだろう?


「へーっくしっ!」


 寒っ、さっきからずっと外だったからいい加減堪えてきた。
 おまけに夕飯食ってないものだから腹まで減ってきたし…。
 風邪を引いたらたまらないのでさっさと帰ることにした。












































 ペシッ!

 お姉さんが面倒くさそうに男の子に何かを言おうとしたその瞬間……
 『祐一』という男の子は飛び上がって持っていた木の枝でお姉さんに突然殴りかかった。
「えっ?」
 お姉さんは何が起こったのか分からない顔をしている。
 わたしもあまりに突然のことなので、何が起こったのかよく分からなかった。
 男の子はわたしの前に立って、口を開けたまま何も言えないお姉さんに木の枝を突きつけて叫んだ。
「妖怪ババア、オレが退治してやる!」
 よ、妖怪ババア…
 わたし知らないよ、そんなこと言って怒られても。
 幼稚園の先生にそんなことを言って怒られてる子がいたのを覚えている。
 あっ、お姉さんの顔が凄い歪んでる…。
 とっても怖い。
 男の子も怖がっているはず…と思って、わたしとお姉さんの間に立った男の子の顔を横から伺った。
 でも…
 男の子はお姉さんに負けないように睨み返していた。
 うう、思いっきりお姉さんと戦う気みたいだよ。
「必殺! イナズマぎり!」
 男の子はそう叫んで、また大きく飛び上がった。
 そしてお姉さんの肩にその枝を振り下ろそうとした瞬間!

 パシッ

 着地した男の子の手に木の枝はなかった。
「あれ?」
 不思議そうに男の子が自分の手を眺める。
 そして恐る恐るお姉さんを見上げると…
 頬に左手を当てて微笑んでいるお姉さんの姿があった。
 その右手の人差し指と中指の間には、男の子が持っていた木の枝が挟まれている。
「この蝿が止まりそうなのが必殺剣ですか?」
 ビックリした。
 思いっきり男の子が振り下ろした枝を指二本だけで止めてしまったこともだけど…



       その時お姉さんは、はじめて笑ってたんだよ



 わたしがお姉さんの笑顔にビックリしていると、突然右手を握られて引っ張られた。
 私の手を握っているのはさっきの男の子だった。
 わたしを引っ張って奥の部屋の扉の前まで走って、後ろにいるお姉さんを向く。
「覚えてろ、妖怪ババア!」
 また言ってるよ…。わたしだってそう言われたら怒るよ、多分。
 でも、お姉さんはその男の子の言葉に…
 頬に手を置いたまま
「ええ、いつでもいらっしゃい。実力の違いを教えてあげましょう」
 と、楽しそうに答えたのだった。


 …それから二週間
 男の子は…祐一は何度もお姉さんに攻撃を仕掛けてはあっさり撃退された。
 わたしの定位置は男の子の後ろ。
 お姉さんはそんな男の子とわたしを楽しそうに眺めていた。
 こんなやさしい顔をしたお姉さんをわたしは見たことない。
 ううん、この人はお姉さんじゃなかったんだよ。

『名雪、お母さんは買い物に行ってくるから祐一さんと大人しく遊んでいるのよ』

 そうだったんだ。
 この人がわたしのお母さんだったんだよ。
 祐一がやってきてからのお姉さんは、とっても優しくてごはんもおいしくて、しっかりしてて……
 『お母さん』って感じのする人になった。
 お母さん…一緒にいてとても温かい感じのする人。


 そして、冬休みが終わってまたあの知らないおばさんがやってきた。
 おばさんは『お母さん』のそんな顔を見て喜んでいた気がする。
 大人の話はやっぱりわからなかったけど…
 祐一は自分の家に帰るみたい。
 もっといて欲しかったけど、もう『お母さん』と一緒だから平気だよね。
 最後に祐一はおばさんにさようならの挨拶をするように言われて…
「じゃあな、名雪」
 わたしに力強くそういった後、不敵な笑みを浮かべて……。
「今度来たら決着をつけてやるからな妖怪ババア!」

 ゴンッ!

 祐一がおばさんに殴られた頭から物凄い音を出していたのは今でもはっきり覚えている。
 そのせいか、次にやってきたときから祐一はお母さんを『秋子さん』って呼んで、とてもお行儀よくなっていた。
 でも、イタズラ好きなのは変わってなくて、お母さんを困らせていたよね。
 お母さんはそんなわたしたちを怒りながらもなんだか嬉しそうだった。
 祐一が来ているとき、お母さんはいつも以上に優しくなった。
 そして、祐一が来て帰っていくたびにお母さんはとてもしっかりした人になっていった。
 後で祐一とテレビを見てて分かったんだけど、祐一はヒーローごっこをやってたんだね。
 わたしはそのヒーローに助けられる女の子の役。
 今思うと恥ずかしかったけど…
 あのお姉さんを『お母さん』にしてくれたのは祐一だったんだよ。





     「オレは相沢祐一。お前は?」
          「え?」
        「名前だよ、名前」
       「なゆき……水瀬名雪」
   「よし名雪、あのババアのことは任しとけ」
         「…えっと」
       「オレが守ってやる」
         「う、うん」





 二人ともまだ小さかったからよく覚えてないかもしれないけど。
 祐一は何度もわたしを守ってくれたんだよ
 はじめて祐一が来てからの数年は、お母さんは何度か『お姉さん』に戻りそうになった。
 でも、そうなる前にいつも祐一が来てくれた。
 まるで絵本の中の王子様のように。


 祐一がはじめて来た日から、お姉さんはわたしに笑いかけてくれるようになった。
 わたしが食べ終わるまでいつまでも待ってくれるし
 食卓も明るくなった。
 わたしが笑いかけると、笑顔を返してくれる。
 かわいいお弁当箱においしい昼ご飯を詰めてくれた。
 わたしが言わなくても、わたしの欲しい物は買ってきてくれるし
 頼れる『お母さん』なんだと思う。
 でもね……
 頼っちゃダメなんだよ。
 だって、『お母さん』はね、本当は……
 とっても弱い人だってわたしは知ってるから。
 心配かけるようなことを言っちゃダメなんだよ。
 辛いことがあっても『お母さん』に言っちゃいけない。
 『お母さん』はそれに耐えられないから。
 だから、わたしはできるだけ一人で頑張らないといけないんだよ。
 だって
 あんなお姉さんと暮らすのはもう嫌だもん。
 わたしが本当に頼れるのは……



       祐一だけなんだよ







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