お姉さんとの生活が続いたある寒い日。
珍しく鳴った呼び鈴に玄関に行ってみると、お姉さんが誰かとお話をしていた。
知らないおばさんと、知らない男の子。
男の子は…わたしと同じ年くらいかな?
おばさんの話していたことはよく分からなかった。
大人の人同士の話って何であんなに難しいのかな?
よく分からなかったけど、男の子の頭に手を置いて『冬休みの間』とか言ってたのは分かった。
お姉さんはそれに面倒くさそうに返事をしていた気がする。
わたしはただお姉さんの傍に立って、おろおろとそこにいる人たちの顔を伺っていた。
お姉さんは相変わらずの無表情。
知らないおばさんはお姉さんとお話しながら、時々わたしを心配そうに見やっていた。
そういえば、わたしがお姉さんの傍に立ったとき『こんにちは、名雪ちゃん』って挨拶してくれた気がする。
知らないおばさんはわたしのことを知ってるみたいだった。
そして、知らないおばさんに連れてこられた男の子は…
お姉さんとわたしを交互に見比べていた。
ううっ、何だか睨まれてるみたいだよ。
それに何で手に木の枝なんかを持ってるんだろう。
幼稚園の乱暴な子みたいだよ…
お姉さんと知らないおばさんの話は続いた。
わたしは次第にその知らないおばさんより男の子の方が気になって仕方なくなった。
だって、いまいち何を考えているのかよくわからなかったから。
何でわたしたちのほうを睨んでいるんだろう?
でも、男の子は次第にお姉さんの方をじっと睨みつけるようになっていた。
よかった、わたしを睨んでたんじゃなかったんだ。
最後に知らないおばさんは『それじゃあ、よろしくね秋子。祐一もいい子にしてるのよ』と言って帰っていった。
男の子を残して。
男の子は『祐一』って名前みたい。
玄関に残されたのはわたしとお姉さんと男の子だけ。
お姉さんは知らないおばさんが出て行ったのを確認すると、つまらなそうに溜息をついた。
そして、やっぱりお姉さんが面倒くさそうに男の子に何かを言おうとしたその瞬間……
12月18日(土曜日)
「で…またなのか?」
昨日と全く同じ朝の展開に俺は頭を抱えるしかなかった。
あゆに叩き起こされて名雪の部屋に行ってみると、ベッドから引きずりおろされても尚寝ている名雪が……
「何でお前はまたこんなことやってんだ!?」
「あゆさんに頼まれましたから仕方なくです」
「アホはお前かっ!」
「うぐぅ、アホじゃないよっ」
家主の娘に二日連続で狼藉に及ぶ居候、こいつの神経の図太さは二日連続で起きない名雪といい勝負をしている。
そして前日の凶行を目にしても、またその下手人に依頼をするあゆの神経も大したものである。
「それより、どうするの?」
あゆが一向に目を覚ます気配のない名雪を心配そうに見つめる。
どうするか…か。
考えるまでもない。
「ほっとけ」
「うぐぅ、こんな時に冗談言わないで」
「俺は大真面目だ」
「尚悪いよっ」
ああもうやかましい。
大体ここまでやられて起きない奴をどうやって起こせって言うんだ?
どうせ必死に起こそうとしても結局起きずに、夜になったらまた『おかえり〜』とかのんびりした声が返ってくるに違いない。
さっさと学校に行く準備をしようと思って名雪の部屋を出ようとすると俺のパジャマの裾をあゆが掴んだ。
「おい、離せって」
「名雪さんを置いていったらダメだよ!」
ええい、融通の利かないやつめ。
かくなる上は……
「栞、手を貸せ」
「はい?」
俺はツカツカと名雪の傍に寄り、栞に声をかけて名雪の背中を起こす。
「俺は腕を持つから栞は足を頼む」
「どこかに運ぶんですか?」
「まあそんなところだ」
俺がそう答えると、栞は納得いってない様子だったが、素直に名雪の足を持ってくれた。
ちょうど要介護人を運ぶような格好で名雪を宙ぶらりんにして部屋の外に…
「えっと…何をするつもりなの?」
栞以上に状況をつかめていないあゆが不思議そうに俺達を見つめながら訊いてきた。
「こいつを裸にして外に放り出す」
決まってるだろうとばかりに答えてやった。
「だ、ダメだよっ、そんなこと」
「喜んでお手伝いしますっ」
顔を真っ赤にするあゆと、一気に笑顔になる栞。
分かりやすいまでに対照的な二人だった。
「なに、心配するな。俺は名雪と昔風呂にも入った仲だし問題なしだ」
「問題大有りだよ!」
「私も女の子同士なので問題無しです」
またも見事に対照的な二人。
ていうか少しは止めろよ栞。このまま止めなかったらマジでやるぞ。
「というわけで名雪はここでゆっくり寝かしておいてやろう」
馬鹿やってる時間じゃないので、くるりと方向転換をしてベッドに名雪を寝かせてやる。
「なにが『というわけ』なのか全然わからないよっ」
「えーっ、剥かないんですか?」
同じ不満顔でも、言ってることが全然違うし……
よくこれで親友やってるなあ。
まあそれを言うと名雪と香里もなんであれで親友なのか不思議なでこぼこコンビだが。
姉達が姉達なら妹達も妹達か……
なんだか不思議な共通点を見つけて、今目の前にいる二人が微笑ましく思えた。
「とりあえず、俺は時間がないしもう行くからな」
「あっ、祐一君」
名雪を放っていこうとする俺に尚も追いすがるあゆ。
やれやれ…仕方ないな。
「栞、そんなに脱がしたければ女の子同士楽しくやってくれ。俺は消えるから」
「えっ、いいんですか?」
うわ、無茶苦茶嬉しそうだし。
しかし、このままあゆにしがみつかれていては俺も困る。
「楽しく、仲良くな」
「嬉しいです〜」
そう言って栞は不敵に笑いながら俺にしがみついてるあゆに後ろから掴みかかる。
そして……
やっぱりどこにそんな力があるのか謎だがあっさり俺からあゆを引き剥がしてしまった。
「えっ、ちょっと栞ちゃん何を…」
「ゆっくり楽しんでくれ」
パタン
何をされるか全く分からないまま、栞に部屋の真ん中に引きずられていくあゆに黙祷を捧げながら名雪の部屋を出る。
自分の部屋に戻って着替えている間中、隣から『うぐぅ〜!』という悲鳴と栞の歓喜の声が聞こえてきていたが、着替えを終えて部屋を出た時には、二人で楽しそうにはしゃぐ声が聞こえた。
何だか分からないが、楽しそうなのはいいことだ…と思う。
少し覗いてみたかったが、本当に脱がしっこしてたら男が覗くのはまずいよな。
ていうか、名雪までとばっちり受けてなきゃいいが……
はしゃぎ疲れてベッドに倒れる三人。
白い均整の取れた綺麗な体をした栞に、引き締まった肢体に…が大きな名雪に、色付きのいい体を惜しげもなく大の字でさらけ出すあゆ。
そのどれもが朝日に照らされて輝いていた……
ごつん
…朝っぱらから何考えてるんだ俺は。
妄想全開の頭に一発くれて、俺は家を出た。
今日も一日頑張ろう。
訂正、今日こそは一日頑張ろう。
…ここのところ平穏な日がない気がするのは気のせいか?
人間、珍しいことがあっても二度目となると結構落ち着いたものである。
教室へ小走りに駆け込んだ俺の傍に今日も名雪がいないことに一瞬クラスの注目が集まったが…
数秒の沈黙の後、全員先ほどまでやっていたことにそれぞれ戻っていった。
「よ、おはよう」
「ああ、おはよう」
いつものように挨拶してきた北川に挨拶を返す。
その表情は少し不安そうに見える。
一見無関心そうに向こうを見ていたが、香里もどうやらこっちが気になって仕方ないようだ。
時折こちらをちらちら見ているのが分かる。
「水瀬、昨日どうだったんだ? 結局一日中来なかったが」
ああ、そうか。
あんまりにも間抜けな理由だったので忘れてたが、昨日は一日中学校に出てこなかったんだよな。
北川やクラスメートが心配そうにするのも無理はない。
「聞いて驚け、昨日一日中あいつは寝坊したんだ。で、今日もそんな感じだ」
俺がそう言うと全員から溜息があがる。
昨日の俺を見ているような気分だ。
香里も一瞬呆れたように肩を落として、机に広げていた参考書か問題集に顔を戻していた。
……あの様子、やっぱり心配してくれてるんだろうか?
「一日中寝坊って……ギネスでも狙ってるのか?」
俺と同じこと考えるとは、さすがだな相棒。
もう何だか、名雪の睡眠といえば何でもありな雰囲気になっている気がする。
まあ、授業中あれだけ寝ている姿を見せられれば、寝ながら100メートル走で一位を取ったとかいう噂が真実味を帯びてくるのも無理はない。
今度は放課後まで寝坊……なんて伝説がここに加わってくるんだろう。
そして、そんな感じで石橋が入ってきて授業が始まる。
休み時間には名雪の寝坊話で盛り上がったりして…
いつものように時間が過ぎていった。
授業中、窓から天候のぐずつき始めた空を仰いで思う。
もうすぐこのいつものようにと感じている日常も終わるのだ。
今年もあと二週間……
その後は、あっという間だろう。
慣れ親しんだこの学校とももうすぐお別れというわけだ。
あと一年高校生活があれば…
あいつの二つ目のお願いを本当に叶えてやれたのに。
いや、俺達の願いか…
俺とあゆと名雪の
決して叶うことのない願い。
毎朝三人で登校する時、三人ともが思い浮かべていたに違いない。
楽しい三人の高校生活を。
……やっぱり、明日からは何があっても名雪を起こそう。
残された時間は僅かなのだから。
楽しい夢なら、見続けることが出来るかぎりは見続けていたいじゃないか。
昨日よりちょっと早く帰宅した。
最後の授業が石橋だとホームルームがすぐに終わって楽でいい。
加えて、雪が降り始めていたので本降りになる前に家に辿り着けて助かった。
まあ、雨じゃないし降ったら降ったで突っ切って帰ればいいだけだが…
「あ、祐一さん。おかえりなさい」
昨日のように名雪が出迎えてくれるかと思ったら今日は秋子さんだった。
鞄を持っているところを見ると、出かけようとしているところのようだ。
「ただいま。今からおでかけですか?」
「ええ、夕飯の材料が切れていたのに気付いて」
「商店街なら俺が行ってきますよ」
靴はまだ履いてるし、どうせ夕飯を食べるまでは勉強をする気もないからついでだ。
だが、秋子さんはすこし考え込むと…軽く首を振った。
「いえ、祐一さんは大事な時期ですし、こんな雪の中お買い物に行ってもらったら悪いわ」
「別にいいですよ、それくらい」
もう家族みたいなものだし、今更遠慮されるとかえって寂しい。
そんな俺に秋子さんはにっこり微笑む。
「ありがとう、でもいいのよ。買うものは決めているからわたしが行ったほうが早いわ」
「そうなんですか?」
珍しいな、秋子さんが買い物に行く前から買う物を決めてるなんて。
俺が買い物に行く時も好きなものを買ってくればいいっていつも言うのに。
「今日はあゆちゃんがカレーに挑戦してみるみたいですから」
ああ、なるほど。
それなら目の利く秋子さんが行っていい食材を買ってきた方がいいに決まってる。
「じゃあお言葉に甘えて俺は夕飯まで休憩してます」
「留守番よろしくお願いしますね」
秋子さんはそう言って俺と入れ違いに玄関を出て行った。
とりあえず、部屋に行って着替えるか。
「おかえり、祐一君」
「おかえりなさい、祐一さん」
二階に上ると、丁度部屋から一緒に出てきたあゆと栞に出会った。
「ただいま」
何だ? 二人からほのかないい香りが漂ってくるんだが…
心なしか二人とも顔がてかてかしてる気がする。
「二人揃ってご機嫌だな。何かあったのか?」
俺がそう訊くと二人は緒にこぼれんばかりの笑顔で
「栞ちゃんと一緒にお風呂に入ったんだよ」
「あゆさんと一緒にお風呂に入ったんです」
と、答えた。
まさか朝のテンションでそのまま?
「でもいいなあ…栞ちゃんの体真っ白で綺麗なんだもん」
「あゆさんだって健康そうな体型でうらやましいです。本当に7年間寝てたんですか?」
おーい、二人とも俺をほったらかして桃色の世界に入らないでくれ。
それ以前に少なくとも男の前でする会話じゃないぞ。
「目を覚ました時はガリガリだったよ〜。栞ちゃん知ってるくせに」
「服の下までは見てませんでしたから」
ダメだ、完全に二人の世界になってしまってる。
やっぱり何だかんだで仲いいんだな、この二人。
「服の下って言えば、栞ちゃんのお腹にはびっくりしたよ」
「ああ、あれですね…」
意味ありげに二人で神妙な顔になる。
栞の腹がどうかしたのか?
「実は三段腹だった…とか?」
いつまでも話に置いていかれるのは寂しいので突っ込みを入れた。
「祐一さん、今日の夕飯に強力な下剤を入れてもらいたいですか?」
「いえ、冗談です。スミマセンデシタ」
もの凄い怒気をはらんだ笑顔で恐ろしいことを言われた。
カレーなんかに下剤なんか入れられたらトラウマになってカレーをこれから口に出来そうにない。
カレーを食うたびに色々と思い出しそうだ。
そう、色々と……。
「栞ちゃんお腹のところに大きな傷があるんだよ」
あゆが小声で言いにくそうに俺に告げる。
「傷?」
傷って何の? と思ったところではっとした。
「手術の跡…か?」
「はい」
俺はことの大きさに口をつぐんだ。
女の子の体に大きな傷痕。
それがどれだけその子にとって辛いものか。
「栞ちゃんの体とっても綺麗だからそれだけそこが目立つんだよ」
そうだろうな……
たとえ手や足にあったとしても、栞の雪のように白い肌では目立つに違いない。
それがお腹となると……
「私は別に気にしてませんけど?」
深刻に考え込んでる俺に苦笑いをしながら栞は言った。
「確かに私の完璧な美少女ぶりに傷がついたのは悲しいですけど…」
少し悲しそうな顔を見せたかと思ったら、いつものポーズで…
「私くらいになるとこれくらいのハンデがあってはじめて普通の女の子と同じくらいですから」
と、とんでもない大見栄を切った。それも当然とばかりに自信満々で。
「俺、お前に同情する気が失せてきたんだが」
「そんなこと言う人嫌いです」
ならどう反応しろって言うんだ…
「こういう時は、『そうでも思わないとやっていけないよな。大丈夫、栞は十分かわいいよ』って優しく慰めるんです」
「自分で言うな」
全く…よくこんな図太い神経を持った女の子になったものだ。
何でもかんでも強引にプラスの方向に考えて自分を元気付ける。
呆れるくらいに強い奴だよ、お前は。
「ところで名雪はどうしたんだ?」
さっきから名雪の部屋の前で会話しているのだが、名雪の部屋からは物音一つ聞こえない。
起きているなら、俺の声に気付いて出迎えに出てくるものだが…
「まだ寝てるよ」
「はあ、やっぱりそうなのか。まったく何時間寝てるんだ?」
「えーっと、20時間くらいかな?」
指を折りながら、あゆが首を傾げる。
「途中全く起きてないのか?」
「起きてませんでしたね」
「20時間ぶっ通しか…凄まじいな」
しかも昨日も同じような状況だから、この二日間名雪が起きていた時間は2、3時間程度ということになる。
「まあいいか、夕飯前に起こせばいいし」
「そうだね」
「じゃあ、俺着替えてくるから」
「ボクたちは秋子さんが帰ってくるまで下でテレビ見てるよ」
「あれ? 秋子さんが出たの知ってたのか?」
「はい、お出かけ前に私達に断って出て行かれましたから」
「そうか、じゃあ俺も着替えてから夕飯まではリビングのソファーでテレビでも見ながら休憩するかな」
「あっ、じゃあボクお茶でも入れてくるよ」
あゆはそう言ってたたたっ、と階段を駆け下りていった。
その様子を見て栞がくすっと笑う。
「甲斐甲斐しい若奥さんですね」
「おっちょこちょいなメイドの間違いだろ」
俺がそう言うと同時に、一階から転倒音と『うぐぅ』が聞こえてきた。
「ほれ見ろ」
「ですね」
あまりのタイミングのよさに二人で顔を合わせて苦笑いするしかなかった。
着替えて一階のリビングに入ると同時に電話が鳴った。
先にリビングにいた二人の視線が俺に向く。
…このメンバーだと居候歴の一番長い俺が取るのが一番か。
「俺が取ってくる」
そう告げて電話の置いてあるダイニングへ向かう。
「って、なんでお前らもついてくるんだ!」
いつの間にか俺を先頭にパーティーが組まれていた。
並び順は俺、栞、そしてしんがりがあゆである。
「いえ、どんな電話か気になったので」
「栞ちゃんがついて行ったからボクも」
ゴシップ好きに金魚のフンか、まったく…
「何でもいいけど邪魔するなよ」
俺はそう二人に注意して電話を取った。
「もしもし、水瀬ですが」
「…………」
無言。回線が通じているのは電話独特の雑音でわかるが…
イタズラ電話か?
俺にイタズラ電話とはいい度胸だ。
「一番、相沢祐一歌いますっ!」
ふふふ、無言を保っているのが辛いくらいに笑える替え歌を聴かせてやるぜ。
いままで俺に無言電話をかけた奴は例外なく笑いを堪えかねて電話を切ったあの歌をな!
「学校で待ってるわ」
プツッ
俺が脳内でイントロを流して、今まさに歌おうとしたところでそっけない声と共に電話は切れた。
「歌わないの?」
「電話を切られた」
しかし、今の声は……
「あっ、祐一君どこに行くの?」
「学校に行ってくる」
「え? 学校?」
あゆは俺の真剣な表情にただ事ではないのには気付いたようだが、いまいち合点がいってないようだ。
だが、栞は誰からの電話か気づいたようだ。複雑な顔をしている。
「お姉ちゃん…ですね?」
「多分な。『学校に来い』とだけしか言ってなかったが、あれは香里に違いない」
それを聞いて栞がカタカタと小さく震えだした。
怯えている…のか?
あの気の強い栞が香里のこととなるとこんなに気弱になるなんて…
「…………」
俺は黙って栞の肩をぽんと叩いた。
「…祐一さん」
「任せとけ。悪いようにはしない。だからお前はテレビでも見ていつものようにどーんと構えてろ」
そう言ってもう一度力強く栞の肩を叩いた。
こうしてみると、栞もやっぱり小さいと感じる。
人間って度胸がないとここまで萎縮して見えるものなんだな…
「そう…ですね」
少し躊躇いがちな言葉。
だが、その目にもう迷いはなかった。
そして、次の瞬間いつものポーズで
「では、泥舟に乗ったつもりで安心して待ってます」
「ひどい奴だなお前は」
でも、それでこそいつもの栞だ。
「本当は私が行って鉄拳制裁した方が早いでしょうけど、それでは祐一さんの見せ場がないのでここはお譲りします」
「ははは…ありがとう」
もはや笑うしかなかった。
しおらしいままにさせておいた方がよかっただろうか?
というか、もし連れて行ったら本当に鉄拳制裁に及びそうで怖い。
「じゃあ、行ってくる」
「あっ、ちょっと待って」
ダイニングを出ようとすると、あゆに呼び止められた。
「はい、これ」
そして湯気の立つ湯飲みを渡される。
「外は寒いから」
「そうだな。あゆも栞のこと頼むぞ」
温かいお茶を口に一気に注ぎ込んで、あゆに湯飲みを返す。
よし、いい感じで体が温まった。
「うん、祐一君も頑張ってね」
二人の期待と不安の入り混じったような視線を浴びながら
俺はすっかり日の暮れた雪の舞い散る夜の街へと出て行った。
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