お姉さんは、『お母さん』って人なんだって最近知った。
 あの日からお姉さんはわたしに笑いかけてくれるようになった。
 わたしが食べ終わるまでいつまでも待ってくれるし
 食卓も明るくなった。
 わたしが笑いかけると、笑顔を返してくれる。
 かわいいお弁当箱においしい昼ご飯を詰めてくれた。
 わたしが言わなくても、わたしの欲しい物は買ってきてくれるし
 頼れる『お母さん』なんだと思う。
 でもね……
 頼っちゃダメなんだよ。
 だって、『お母さん』はね、本当は……
 とっても弱い人だってわたしは知ってるから。
 心配かけるようなことを言っちゃダメなんだよ。
 辛いことがあっても『お母さん』に言っちゃいけない。
 『お母さん』はそれに耐えられないから。
 だから、わたしはできるだけ一人で頑張らないといけないんだよ。
 だって
 あんなお姉さんと暮らすのはもう嫌だもん。
 わたしが本当に頼れるのは……







































     12月17日(金曜日)


 ドタドタ
 ガタガタ

 だあっ!
 何の騒ぎだ!?
 布団をはねのけて飛び起きる。

「祐一君大変だよっ!」

 と、同時に部屋に飛び込んでくるあゆ。
「大変、じゃない! 何の音だよ? って…」
 ブルッ
 忘れてた。ここは北国なわけで……
 しかも冬ともなると、いきなり布団をはねのけようものなら強烈に寒い。

「お休み」

 はねのけた布団をもう一度かぶり暖を取る。
 なんだか騒がしい音はずっと続いてるが、この際そんなのは無視だ。
「うぐぅ、大変なのに」
「うるさいな…。昨日あんまり寝てないんだギリギリまで寝かせてくれ」
 布団を頭からかぶって逃げた熱を必死で取り戻す。
 このうとうとした感じがたまらないんだよな。
「そんなことやってる場合じゃないよっ。それに祐一君も遅れちゃうよ」
 まったく…人が気持ちよく寝ようとしているのにやかましい奴だな。
 って…何!?

 ガバッ!

「うぐっ!?」

 ドスン!

 布団を再びはねのけるとなんだか鈍い音がした。
 なんか今布団が一瞬重くなったような……
「うぐぅ…祐一君が突き飛ばしたぁっ!」
 あゆが床にはねのけた布団と一緒に転がっている。
 かなり痛そうだ。
 つまりこの状況は…
「ふん、俺にフライングボディプレスをかまそうなど100年早い!」
「そんなことしてないよっ。祐一君を揺すろうとしたらいきなり祐一君が…」

 ……ふむ。

「ところで、俺が遅れるってどういうことだ?」
「うぐぅ、都合が悪くなったからっていきなり話を変えないでよ…」
 ダメだ、こいつはあてにならん。
 余計な時に更に話をややこしくする。
 俺は横で不満げなあゆを無視して、例の目覚ましを取った。
 えーっと、時間は……
「げ…やばい」
 なんてことだ。目覚ましを止めてしまったのか!?
 いや、前も何度か寝ぼけて止めたことはある。
 そもそも、あの目覚ましで起きられること自体が奇跡みたいなものなのだから。
 こういうとき、普段なら隣の名雪の部屋の轟音で目が覚めるんだが……
 壁越しとはいえ、あれで起きないのはまずありえない。
「名雪のやつ、目覚ましのセット忘れたのか?」
「うん、そうみたい」
 珍しいこともあるものだ。
 俺が軽く首をひねっていると、不安そうな表情を浮かべたままのあゆが更に続ける。
「だけど変なんだよ。名雪さん、今日は一つも目覚ましセットしてなかったんだよ」
「なんだって?」
 確かにそれは珍しい、というより変だ。
 あれだけの目覚ましでも起きることはない名雪なのに、いつもはちゃんと全部の目覚ましをONにして寝る。
 あの大音量は耳に毒なので、出来る限り鳴る前に全部止めるようにしているのだが…
 その目覚ましは今日まで一個たりともOFFのままにされていたことはない。
 あれだけの数があるとセットすることの方が面倒そうで僅かな睡眠時間も惜しむ名雪が、寝る前にわざわざ一つずつONにしていっているのはある意味おかしな矛盾なのだが……
 今日に限って一つもセットされていないっていうのはどうかしたのだろうか?

 ガッシャーーーン!!

「って、さっきから何の音だ!?」
 さっきから聞こえていた妙な騒音が、今また一際大きな音を立てる。
 隣の名雪の部屋からだ。
 そして、今の一際大きな音を境に音はプッツリ途切れた。
「だから大変なんだよっ」
「だから何が?」
 なんか話がごちゃごちゃになって、結局もとのところに戻ってきた気がする。
「名雪さんが起きないんだよ」
 おいおい、半泣きで言うほどのことか?
「そんなのいつものことだろうが…。大体、本気で寝ている名雪をお前が起こせたことなんてないだろ」
 名雪が並の起こし方じゃ起きないのはあゆも知ってるはずなのに、あゆは名雪を前にすると強硬手段には出られないのだ。
 要領が悪いというか、お人よしというか…
「…待て。じゃあさっきから名雪の部屋でしている大きな音は何だ?」
 あゆはここにいるから、あゆが名雪を起こそうとしている音じゃないだろうし…
 名雪がけろぴーと夢遊病者の如く取っ組み合いをしているわけでもないだろう。
 …多分。
 想像してみると、一瞬リアルにその光景が頭の中に浮かんでしまった。
「栞ちゃんが起こそうとしているんだけど…」
「栞が?」
 栞…騒音…そして続く沈黙
 なんだか無性に嫌な予感がするんだが…
 ていうか、どう考えても善意的な解釈が出来ないのが怖い。
 ベットを飛び降りて廊下へ急ぐ。
「あっ、待ってよ祐一君」
 そのあとをあゆが慌てて追ってきた。





 部屋の扉を開き廊下に…
 『なゆきの部屋』と書かれたプレートのドアを開け放つ。
 目に入ったのは…
「あ、おはようございます祐一さん」
「…おはよう」
 何事もないかのように普通に挨拶を返してくる栞と…
「くー」
 マットレスごとひっくり返されて床に転がっているにも関わらず、何事もないかのように寝ている名雪だった。
 どうやら昨日の俺にやられたことを栞にもやられたらしい。
 しかし、あの細腕でよく名雪をベッドからひっくり返せたな…
「お前はこないだ来たばかりの居候のくせに家主の娘にこんな狼藉をするのか?」
「でも、居候の先輩であるあゆさんの命令には逆らえませんから」
 にっこり
 うっ、まずった。
 黙ってりゃいいのに、なんでわざわざ俺は栞ワールドに自分から足つっこんでるんだ。
 待ってましたと言わんばかりに笑顔で切り返してきてるし…
「…なんて命令されたんだ?」
「『名雪さんを起こしてちょうだい。そのためにはあらゆる犠牲も厭わなくていいよ』です」
「うぐぅ、そこまで言ってない…」
 諦めろ、栞に頼んだ時点でお前の失敗だ。
「でも凄いですね…。あゆさんから聞いた方法を全部試しても起きないなんて」
 あゆから聞いた方法って…俺の今までやった方法かい。
 栞、お前は鬼だ。
「くー」
 しかし、それでも起きない名雪って一体……?
 このままフライパンで火にかけたら、こんがりとウェルダンまで寝たまま焼きあがるんじゃあ…。
「どうしよう…」
 時間がないのに一向に目を覚ます気配のない名雪を前にあゆが不安そうに呟く。
「裸にして玄関にでも出してみますか?」
 お前どこまで鬼なんだ…
 同性としてさすがにそれは可哀想とか普通は思うだろ。
「いつも頑張ってる祐一さんへのサービスですよ」
「人の思考を読むな。ていうか、それならお前が脱げ」
 ふっ、どうだ、さすがにお前でもこればっかりは恥ずかしいだろう。
 さあ、思いっきり嫌そうな顔をして『嫌です』とでも言え!
 いつもいつも言い込められてばかりと思ったら大間違いだぞ。
「祐一さんが『あい らぶ ゆー しおり』とでも言ってくれればこの場ででも」
 って、何ぃーっ!?
 お前ネタのためにそこまで体を張るか?
 なんて、漢らしい奴だ。
 よし、お前の漢気に敬意を表してしっかり拝んでやろうじゃないか。
 美少女の生の裸を!
「あい らぶ……」


「うぐぅーっ!!」


 言いかけたところで後ろにいてたあゆが凄まじい叫び声を上げる。
 びっくりして振り返ると、修羅のような形相のあゆが…
 し、しまった
 自分の彼女の前で彼女の親友に告白なんて俺はアホか?
 くそ…栞の狙いはこれか!
 横で思いっきりほくそ笑んでるし…
「…………」
 そして、力いっぱい左拳を握り締めながら俺に歩み寄るあゆ。
 うう、これはぶたれても仕方ない状況だよなあ。
 あゆじゃなかったら破局でもおかしくない状況だし。
 俺は覚悟を決めて体を硬直させた。
 が、次の瞬間あゆは自分の胸に拳をあて、こう叫んだ。


「見たいならボクが脱ぐよっ!」


 おいっ
 怒るところ間違ってるぞお前は!
 あーあ、栞も唖然としてるし……
「…本当に脱ぐのか?」
 とりあえず、半分パニック状態ながらもそう言葉を出した。
「え…あっ…」
 言われてようやく自分が衝動的に叫んだことの意味がわかったらしい。
「…………」
 あゆは顔を真っ赤にして俯いてしまった。
「もう、祐一さんふざけるのは時と場所を考えてください」
「…はい」
 そしてなんで俺は自分より年下の女の子に怒られてるんだ…
 仕掛けたのは栞とはいえ、はまった自分の馬鹿さ加減が恥ずかしい。
 反応こそずれていたが、あゆの気持ちを多少なりとも傷つけた自分が情けなかった。


「さっきから大きな音がしているけど、何かあったの?」
 と、そんな微妙に気まずい雰囲気の中に秋子さんが現れた。
 本当にいいタイミングで来てくれる。
 さっきから部屋の外で俺達の騒ぎが収まるのを待っていたんじゃないかと思うくらいのタイミングだ。
「早くしないと遅れるわよ?」
「あ、はい。でも…」
 俺は地面に転がされたままの名雪を目で指し示す。
 すると秋子さんは少し困った顔をした。
「いいわ。わたしが起こしておきますから、祐一さんは学校に行ってください」
「お願いします」
 俺がそう言うと、秋子さんは目を閉じて首を軽く横に振る。
「いいのよ。いつも名雪が迷惑かけて悪いですね」
 手早く用意をして出かけるため、名雪の部屋を出ようとして振り返る。
「あ、一応担任には言っておきましょうか?」
「そうね、お願いします」
 俺はそれだけ訊くと、部屋で着替えを済ませて急いで家を飛び出した。


 うう…これでフルマラソン3日目か。
 これで体育の時間がマラソンだったらボイコットしてやる。
 肺に突き刺さるような寒気を吸い込みながら俺はそんなことを考えていた。















 何とか昨日と同じくらいの時間に教室に駆け込んだ。
 3日続けて走ってたせいか、以前の勘が戻ってきたんだろうか?
 家を出る時間がどんどん遅れているのに学校に着く時間がほとんど同じとは…
 ぐ〜
「…………」
 って、飯食べてない分体が軽かっただけか。
 昼まで4時間近くあることを思うとかなり憂鬱である。
「はぁ…」
 俺は溜息をついて、自分の席についた。
 走って疲れたし、腹は減ってるし…1時間目は寝るか。
 そうでもしなきゃもたない。
 そう思って、鞄を机に置いてそれを枕にする。
 こうしていれば少しは空腹もまぎれるな。
 あとはとりあえずホームルームが終わるまではこのまま起きとくか…
 名雪のことも石橋に言っておかなきゃいけないし。

 …………。
 ……。

 なんだ?
 何となく視線を感じるな…
 俺は少し顔をあげてみた。
 すると目の前には北川が!
「だあっ、いきなり何だ!?」
「そんなに驚くなよ」
 だったらもう少し離れて立ってろ。
「何か用か? もうすぐ授業始まるぞ」
 疲れてる上に腹が減って気が立っているのだ。
 さっさと追い払おう、と思ったところでおかしなことに気づく。
 北川だけじゃなくて、教室中全ての視線が俺に集まっているような…
 俺の直後に入ってきたのだろうか?
 香里もすぐ後ろの席から俺を見ていた。
 もっとも、目が合うとすぐに目を逸らされたが。
「水瀬はどうしたんだ?」
「あ? あいつならいつもどおり寝てるぞ」
「どこで?」
「家で」
「病気なのか?」
「そんなわけないだろ、寝てるだけだ」
「今日は学校だろうが」
「はっ、そういえば!」
「ボケはいいから真面目に答えてくれ」
 いや、ボケじゃなくて俺は大真面目だったんだが…
 言われてみれば、ホームルームが始まろうという時間に俺だけしかいないというのは初めてのことだ。
 特に名雪が部活を引退してからのこの数ヶ月は、俺と名雪はいつも一緒に登校してたんだったな…
 これじゃあ俺だけしか来てないのが少なからず注目集めても不思議ではない。
「ただの寝坊だ」
「そうか…しかし、水瀬の寝坊って何だか凄そうだな」
 『なんだそれだけか』と済ませないあたり、こいつも名雪のことをよくわきまえている。
「ああ、ただの寝坊…のはずなんだけどな」
 俺は苦笑いするしかなかった。

「あー、全員席につけ」

 と、そこに石橋がやってくる。
「おっと、じゃ、オレ席に戻るわ。疲れてるとこ邪魔して悪かったな」
「そう思うんなら一時間目の授業ノート取っといてくれ。俺は寝る」
「へいへい」
 軽口を叩いて後ろの席へ戻っていく北川。
 その様子を眺めていると、香里と目が合った。
 またすぐに目を逸らされてしまったが…
 少し呆れたような、それでいて安心した表情を一瞬見た気がする。
 あいつも…名雪がいないことを心配していたんだろうか?


 ま、とりあえず今日も一日頑張ろう!
 ……1時間目寝てから。













 結局…
 名雪はその日最後まで学校に現れなかった。
 で、何をしていたかというと…
「おかえり〜」
 呑気に笑顔で俺を玄関まで出迎えに来てたりする。
 いや、玄関開けたら偶然洗面所から出てきた名雪と鉢合わせただけなのだが。
「『おかえり〜』じゃない! お前何やってたんだ!?」
 さすがにずっと出てこなかったから、下校時間にはかなり心配になっていたのに…
 思いっきり健康そうな顔色をして出迎えに現れたものだから気が抜けた。
 だいたい夕飯前だってのに何故パジャマ……
「…その服装、まさか今起きたばっかりとか言うんじゃないだろうな?」
「そうだよ〜。起きたら学校終わっててびっくり」
 笑顔でのんびりと間延びした声の回答が返ってくる。
 …俺の思考回路の方が終わりそうだ。
 俺は頭を片手で押さえながら、鞄を床に置いた。
 そして、両手を名雪に伸ばす…
「えっ、な…何?」
 俺の不穏な気配を感じて後ずさる名雪。
 だがもう遅い!
「人が心配してたっていうのにこいつはっ!」
「ひ、ひはいよ〜、はなひて〜」
 左右のほっぺをつまんで、思いっきり引き伸ばしてやった。
 うむ、相変わらず餅のようによく伸びる。
「うるさい! お前みたいな間抜けにはこういう間抜け面のほうが似合ってるんだ」
「うー、ひおいよ〜」
 拗ねてるつもりなんだろうが、その顔で怒っても滑稽なだけだった。
 はぁ、クラスの連中全員心配させておいてオチはこれか…
 しかも本人は全然困った素振りすらないし、本当に俺のほうが寝込んでしまいそうだ。
 まったく、これだけ盛大に寝坊する奴は世界中探してもほとんど見つからないぞ…







 でも…
 どうして気づいてやれなかったんだろう?
 どうして俺達は気づかなかったんだろう?
 泣いている小さな女の子に……
 彼女の発した最後のSOSに……








感想いただけると嬉しいです(完全匿名・全角1000文字まで)