無造作に置かれた夕飯。
 半分以上の灯りが切れたままになっている暗い食卓。
 汚れたテーブルクロス。
 そこでおっきなお姉さんと食事を食べる。
 黙って、黙々と食事という作業を繰り返す。
 お姉さんは自分の食事が終わるとわたしの食器も黙って持っていく。
 まだお腹がすいてるから、わたしは食べたかったけれど…
 お皿は強引に持っていかれる。
 わたしが笑っても、拗ねても、話し掛けても
 お姉さんはいつも無表情で、わたしから顔を背けるだけ。
 朝はカーテンを締め切った薄暗い食卓。
 昼は汚れた服で、汚れた包みのお弁当。
 夜はやっぱり暗い食卓。
 それがわたしの一日。
 物心ついた頃の…
 わたしの一番昔の記憶…







































     12月16日(木曜日)


「おらっ!」

 ドガッ!

「わあっ、やりすぎだよ祐一君!」
 やりすぎも何もあるか。今日は何やっても起きる気配がない。
 しびれを切らした俺は、最終奥義ベッド返しを敢行したのだった。
「…うー、痛い」
 さすがにベッドごとフローリングの床に転がされたら痛いらしい。
「まったく、急げよ。マジで時間ないぞ」
「うー、頭は痛いし背中はビショビショで冷たいし…」
 背中に雪を入れるというアレですら起きなくなったのだからとんでもない。
「ごちゃごちゃ言ってないで早く着替えて降りて来い」
 昨日、夕飯の後すぐ寝てたはずなのになんでこんなに寝起きが悪いんだ…。
 はあ…二日連続でフルマラソンか。
 何でここに来てこんな目にあわなければならないんだろう……
 最近は全部ダッシュなんてことはなかったのに。





 ダッシュで教室に駆け込む。
 急いで口につっこんだ朝食が喉から溢れ出そうなくらいに気分が悪い。
 とりあえず、入り口で膝に手をつき、乱れた呼吸を整える。
 名雪はさすがは元陸上部。
 たいした呼吸の乱れもなく、へばった俺を申し訳なさそうに見ていた。
 そういや、あゆがうちに来て名雪が少しは早起きを心掛けるようになる前はこういう日も結構あったな。
 30秒ほど間を置き、ある程度落ち着いたところで入り口で隣にいる名雪の方に向かって顔を上げる。
「悪い、席につこうか」
 丁度入り口で名雪を通せんぼする形になってしまっていた。
「ううん、ごめんね。わたしのペースに合わせちゃって」
「そう思うんならちゃんと起きてくれ…」
 まあ、本当に名雪のペースで走られたら俺は置いていかれるのが関の山だ。
 一応、俺が学校に間に合うくらいの時間は最低限守るように努力はしてくれているらしい。


「だらしがないぞ相沢」
 鞄を席に置いて一息つくと、後ろから北川がそんなことを言ってきた。
「そう思うならお前も名雪と一緒に走ってみろ」
「何分くらい走ればいいんだ?」
「15分」
「なんだ、それくらいなら毎日走ってるぞ」
「嘘つけ、お前が走って学校に来るところなんか見たことないぞ」
「そりゃ走ってるのは早朝だしな。遅刻寸前の時間に家を出る趣味はない」
 俺だって趣味で遅刻寸前に出ているわけじゃない。
「そういうお前は早朝にジョギングするジジくさい趣味があったのか?」
「祐一、それは全国のおじいさんに失礼だよ〜」
 横で話を聞いてた名雪が名雪的突っ込みを入れてくる。
 名雪の突っ込みは世間一般の突っ込みとはレベルが違うので、あえて『名雪的』とつけておく。
 その特徴は……
 『つっこまれても全然堪えない』だ。
「単に新聞配達のバイトをしているだけだが」
「お前そんなことしてたのか?」
 初耳である。
 もっとも、訊いたこともなかったが。
「ちょっとした小遣い稼ぎにはなるかと思ってな」
「毎日どれくらい走ってるんだ?」
「1時間くらいだな」
「…マジか」
 わざわざ大言壮語する奴でもないし本当だろう。
 どころか1時間くらい走るのには慣れっこになっているような響きさえあった。
 しかもこのくそ寒い街で日も出ないうちから走ってるのかと思うと…
「って、じゃあなんでマラソン大会では目立ってなかったんだ?」
 マラソン大会は1ヶ月程前にあった、俺にとっては迷惑極まりないイベントだ。
 この学校、舞踏会まであるくらいだからとにかくイベントは多い。
 ちなみに寝不足の体で走るのは辛かったため、俺は全行程をほとんど歩いていた。
 名雪はさすがというか、陸上部部長の肩書きに恥じない貫禄の一位だったが。
「ああ…あの時は腹の具合が悪くて走るのが精一杯だったんだ」
「そんな状態なら見学していればいいだろう」
「まあ、半分自業自得だったしな、腹壊したのは」
「…何やったんだお前」
 薄々感じていたが、どうも北川は微妙にヘンに見えて、実はかなりヘンな奴らしい。
 少し変わった感性をしているというかなんというか…
「期限切れの牛乳をイチかバチか飲んでみたのがまずかった」
「お前は馬鹿か」
「失礼な。残すのはもったいないし、飲んで何もなければ儲けた気分になるだろうが」
「少しはリスク計算しろっ!」
 どういう思考回路をしていたらそんなことができるのやら…
 しかもマラソン大会の前日に。
「そうだよ〜。わたしだって大会の前は6時には寝て次の日にしっかり備えてたよ」
 …それはそれで何かおかしいと思う。
「しかし、そんなに走りこんでるなら、受験なんかしないでスポーツでもやった方が向いてるんじゃないか?」
 どう考えても受験よりそっちの方が向いている。
「それがな…特にやりたい物がなくて悩んでるんだ。水瀬みたいに陸上やるのはなんだか性に合わないし」
「まあ…何となくそれはわかる気がする。むしろ格闘技の方が似合ってるな」
 体格的にもそっちが向いてる気がする。
 ていうか、イチかバチかで期限切れの牛乳を飲むような神経をしているやつだ。
 少しくらい殴られたり蹴られたりしてもこれ以上ヘンにはならないだろう。
「祐一…また、なにかひどいこと考えてるよ」
「うるさい名雪」
 なんでこの鈍感そうな娘に俺の考えが易々とわかるのだろう……
 俺って結構考えていることが顔に出るタイプなんだろうか?
 名雪でもわかる……というのがかなりアレだ。
「まあ、とりあえずは大学に入ってゆっくり探すわ」
 頭を掻きながら、北川はそう言ってそのまま教室の後ろに歩いていく。
 何を考えているのかよくわからないが、一応北川には北川なりの人生のビジョンがあるらしい。
 大雑把過ぎるところがまたあいつらしいが。


 って、あいつ教室の後ろの黒板に向かって何やってるんだ!?
 話を切ってトイレにでも行くのかと思ったら、北川は何も書いてない黒板をじーっと眺めているようだった。
 何をやる気だ?
「…格闘技か」
 北川がそうボソッと呟く。
 そして、右腕を思いっきり引いて……
「右ストレートォッ!」


 ドゴォォォンン!!


 凄まじい音が教室中に響き渡る。
 ざわついていた教室が一瞬にして静まりかえり、北川に視線が集まる。
「なんてな」
 目をつぶり、『決まった』とばかりに振り返る北川。
 しかし、それに対してクラス全員は目を丸くして北川を見つめていた。
 ギリギリで入ってきた香里まで後ろの入り口で目を丸くしているし…
「ん? どうかしたのか?」
「アホかお前は! 後ろ見ろ!」
「うしろ?」
 俺に怒鳴られて、北川が今しがた右ストレートを叩き込んだ黒板に目を向ける。
「…………」
 そしてそのまま固まってしまった。
 黒板は北川の拳の打ち込まれたあたりを中心に砕けてしまっていたのだ。

「あー、全員席につけ」

 そして、最悪のタイミングで石橋が入ってくる。
 全員が急いで北川から目を背けた。
「俺は何も見なかった」
 一緒に咎められたらかなわないので、俺は北川とは話をしてなかったようなフリをする。
「わ、わたしも…」
 続く名雪も薄情者だった。
 あ…香里のやつも北川を見ないようにしながら席に向かってやがる。
「ん? 北川、その黒板は何だ?」
「あ、いやこれはその…」
「後で職員室に来い。そこでしっかり訊かせてもらおうか」
「…はい」
 北川はしゅんとして、すごすごと自分の席に戻ってきた。
 しかし、なんて馬鹿力だ。
 無造作に拳打ち込んであの破壊力って、本気で格闘技始めたらどうなるのやら…
 冗談で言ったが、スジは相当いいのかもしれない。
 …あいつと喧嘩するのだけは止めとこう。






 そして、いつものように授業が始まり、時間が過ぎていく。
 結局今日は香里と話さずじまいだった。
 話すだけ無駄な気がしたからだ。
 ひょっとしたら何となく頭に来ていたのかもしれない。
 教室の中で完全に孤立していく香里を見て俺は…
 少し『いい気味だ』と思った。
 そして、そう思ってしまったことを俺は何故か後悔した。

 …………。
 ……。







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