夕食を終えた俺とあゆはあゆの部屋にやってきていた。
 言うまでもなく、栞の様子を見るためだ。
 ちなみに……名雪は例によってもう寝てしまった。
 栞の荷物整理と、さっきの介抱がトドメとなったらしい。
 『ごちそうさま』のあたりから既に目が半分閉じていた。

 コンコン

「栞ちゃん、入るよ」
「……はい、どうぞ」
 寝てるかな? と小さくノックして、ゆっくりドアを開けるあゆに栞の返事が返ってくる。
「なんだ、起きてたのか」
 部屋に入ってみると、栞は足に布団をかけた状態で体を起こしていた。
 廊下の光だけで十分に部屋の中は見渡せるので、栞を刺激しないように部屋の電気はつけないでおく。
 しばらく横になって休んでいたせいか、栞はさっきのような熱っぽい顔はしていない。
 俺もあゆも少し安心した。
「寝てなくていいのか?」
「はい、まだ寝る時間じゃないですから。それに……」
「それに?」
「歯を磨かないで寝たら虫歯になっちゃいます」
 口に指を当てて、お茶目に言ってみせる栞。
 しかし、口調にいつもの覇気がない。
 いつもなら、『あゆさんと祐一さんのラブシーンを見るまでは眠れませんよ』くらいのことを言って俺達をからかう筈だ。
 そんな気力もないのだろうか? 今の栞は少し翳りを持っているように見える。
 物静かで、どこか精巧な人形のような雰囲気がして、それでいて何か懐かしいような……。
 そうだ、出会った時の栞はこんな感じだったんだ。
「見破られちゃいましたね。元気なふりは得意だったんですけど」
「いや、俺はすっかり騙されてたぞ。秋子さんが鋭すぎるんだ」
「うん、ボクも全然気付かなかったよ。栞ちゃん元気だと思ってた」
「あはは……あゆさんと祐一さんはもっと酷い病気の時でも誤魔化せたんですから見破れるわけないですよ」
 栞はそう言って、静かに笑う。
 そういや、俺達は栞が重病を抱えてるのにまったく気付かなかったんだよな……
「でも……、気付かれたくなかったです」
 栞は落ち着いてはいるが、どこか憂いを含んだ声でそう言う。
「何で!? 体調悪いのに無理しちゃいけないよ。栞ちゃんは体弱いんだから」
 病気には人一倍心配性のあゆが詰め寄った。
 あゆにとって病気は、母親の悲しい記憶を思い出させるものだしこの反応は当然だと言える。
「強く……なりたかったんです、私は。あゆさんや祐一さんのように」
「え?」
「私がもっと強かったら、誰も苦しまずに済んだんです」
「おいおい、よくわからないが、それは自己犠牲が過ぎないか?」
「いいえ、私は弱かったんです。手を伸ばせば奇跡は掴めたのに、目の前の大きな崖が怖くて手を伸ばせませんでした」
「それって、あの時の病気のこと?」
 あの時とはもちろん1年前のことである。
「はい。今立っている場所には闇しか待っていないことを知っていながら……私はそこを動けませんでした」
「仕方ないよ、栞ちゃんはほとんど助かる見込みがないって言われてたんだから」
「違うんです、あゆさん」
「え?」
「確かに私が助かったのは奇跡です。でも……その結果はいつでも望めたはずなんです」
 何の話だろう? 栞の治療の決意の話だろうか?
「私がもっと前に決意していれば、お姉ちゃんもお父さんもお母さんも苦しまずに済んだんです」
 でも……
 私には勇気がなかったから……
 後に続く言葉は容易に想像できた。
「私は、あの時私に勇気をくれたあゆさんのように自分で輝いてみたいんです」
「えっ、ぼ、ボク?」
「祐一さんもですよ」
「え? 俺、なんかしたっけ?」
「気付いてませんか? 知りたければ、月宮さんの書いた本を読んでみるといいですよ」
 栞はそう言って、部屋の隅にあるあゆの机を指差した。
 そこには薄い本が数冊置いてあった。
「あ、あれ栞ちゃんのリュック整理してる時に出てきたお父さんの本だ」
「たまたま持ってきちゃったんです。1冊あれば十分ですし、余ってる分はあげますよ」
 なんだ、本って言うから分厚いのを想像してたが、こんな薄い本だったのか。
 これなら数時間もあれば十分読み切れる。せっかくだし頂いておこう。
「んじゃ、せっかくだしもらっとくか。気になるし今日読もう」
 俺は机の上から文庫サイズのその薄い本を一冊抜き取った。
 それに続いて小さな手が下から伸びる。
「ボクも」
「ちょっと待て、何でお前がいるんだ? お前の親父の本だろう?」
 見てないわけないだろう。
「うぐぅ、お父さんの出してる本なんて何冊もあるから読んでられないよ〜」
 ああ、そうか、月宮さんは学者だったな。
 本を出したからといって取り立てて騒ぐほどのことではない。
「それに、勉強が忙しくて見てられなかったんだよ」
「そうだったな、すまん」
 俺も勉強が忙しくてそんな暇がなかったわけだからその気持ちはよくわかる。
 というか、このくらいのサイズでなければ読む気にはならなかっただろう。
「でも……」
 俺たちが本をとったところで栞は俺達のほうを見ながら言った。
「私は後悔していません。あゆさんや祐一さんに会えたのも、あの時の私の弱さのおかげですから」
「こいつの前方不注意のせいじゃないのか?」
「うぐっ!?」
 俺はあゆの首根っこを掴んで栞の前に突き出してやった。
「何するんだよっ」
 不意をつかれたあゆがばたばた手足を動かして俺の手を振りほどこうとする。
「やかましい、あの時は栞だったからともかく、怖いお兄さんとか老人だったらどうするつもりだったんだ」
「え、えっと……逃げる」
「お前、犯罪者の資格大有りだな」
 車なら『当て逃げ』もいいところだぞ。
 それにそもそも、栞と初めて出会った並木道も食い逃げの途中迷い込んだ場所だ。
「うぐぅ、違うもん」
 ぷーっと頬を膨らまして怒るあゆ。

「あ……あはは、やめて下さい。お腹が裂けちゃいます」

 気がつくと、俺達のやりとりを見ていた栞が腹を抑えて思いっきり笑っていた。
「な、何だ? 何がおかしいんだ?」
「あゆさんと祐一さんです」
 笑いを必死に堪えながら言う栞。
「失礼なこと言うな。この珍獣うぐぅならともかく俺は『おかしい』とか言われる筋合いはないぞ」
「そうだよ、祐一君はともかくボクは『おかしい』とか言われるところはないよっ」
 言って顔を見合わせる俺とあゆ。
「…………」
「…………」
「何ぃ!? 名雪やお前に『おかしい』なんて言われるほど落ちぶれた覚えはないぞ」
「何で名雪さんまで入ってるんだよ!? それに落ちぶれたってどういう意味!?」
 俺のまわりじゃお前らのやることなすことが一番変だ。
「言葉どおりだ。なら訊くが、俺のどこが『おかしい』?」
「え、えっと……」
 言葉に詰まってうろたえるあゆ。
「見ろ、すぐに出ないってことは出まかせじゃないか」
「違うよ!」
「ほぉ、じゃあちゃんと説明してもらおうか」
 嫌味っぽく笑いながら、あゆに迫る。
 するとあゆは、恥ずかしそうにうつむきながら、小さな声でごにょごにょと言い出した。

「いつもはいじわるなのに、時々やさしくて、泣いてるボクにただ一人ずっと構ってくれた……」

「え?」
「うぐぅ、な、何でもないよっ。ぼ、ボク下で本読んでくるね」
 照れ隠しのつもりか、あゆはさっきの本を持って部屋から飛び出して下に降りていった。
「…………」
「…………」
 部屋には俺と栞だけが残された。
「ちょっと、あゆに悪いことしたな……」
 あんな恥ずかしいこと人が見ている前で言ったら俺だって逃げ出すと思う。
 たしかに、あゆから見た俺は変な奴だったのかもしれない。
 好きなんだけど、どうしてかあいつはからかいたくなってしまうんだよなあ。
 素直に優しくしてやれる気になるのは、決まってあゆが落ち込んでる時だけだ。
「私はあゆさんと祐一さんのやりとりがおかしいって言いたかったんですけど」
 苦笑しながら言う栞。
 冷静に考えればそうだ。勢いだけで物を言ってて気付かなかったが……
 思い返して考えると、俺とあゆの会話はまわりから見たらさぞかし滑稽だろう。
「個人だけで見るなら、祐一さんの言う通りあゆさんの方が『おかしい』ですけどね」
「絶対そうだよな」
 あいつと名雪の場合はどう考えても、世間一般でいう『天然ボケ』だ。
「ええ、私も色々見ましたから。モグラさんへの特攻とか……」
「は?」
「いえ、その本に書いてありますよ」
 意味ありげに笑う栞。
「…………」
 あゆのやつ、栞の前で何やったんだ?
 手に持った、その『Angel Promise』という題名の薄い文庫本を不審気に眺めてみる。
 読むのが楽しみなような、怖いような……
「…それなら俺も読んでみよう。じゃあな栞。無理しないで今日はゆっくり休めよ」
「はい」
 俺はそう言って部屋を出ようとした。
 しかし、扉のところで足を止めて振り返る。



「栞……あゆはどうか知らないが、俺はお前が思ってるほど強くないぞ」
 そう、俺は強くなんかない。
 あんな体になってまでも俺に会いに来たあゆに対して……
 俺はその悲しい記憶から逃げていた情けない人間だ。
 あゆが俺に会いに来てくれなかったら……俺はきっとあゆのことなんか思い出しはしなかっただろう。
「いや、俺はひょっとしたら栞よりもずっと弱いかもしれない」
 死に至る病と闘い、奇跡を掴んだ少女……
 たとえあゆと出会ったから闘病の決意が出来たのだとしても、闘い抜けたのは他でもない栞の強さだ。
 俺にはそんな強さは……

「違いますよ祐一さん」

「え?」
「私の言ってる強さは、自分の強さのことじゃないです」
 栞は落ち着いた表情で言葉を続ける。
「私が憧れているのは、誰かに分けてあげられる強さのことです」
「誰かに分けてあげる強さ?」
 よく分からない。
「そうですね、例えばあゆさんの笑顔を見ているとなんだか世界が明るくなってくる気がしませんか?」
「分かりにくい例えだな……。でも、なんとなく分かるぞ」
 あゆの笑顔見てると不思議と晴れた気分になってくるんだよな。
 で、愉快になってついからかいたくなるわけだが。
「もっとわかりやすく言うと、誰かの太陽になってその人を輝かせる強さ……ですね」
「……太陽」
「私はあゆさんや月宮さん、お姉ちゃん、祐一さん達に光をもらって輝くことが出来たんです」
 輝くことが出来た……とは栞の掴んだ奇跡のことだろう。
「俺が栞を輝かせたのか?」
「はい、祐一さんは気付いてないだけでちゃんと私に光をくれていましたよ」
 栞はそう言って、俺の手にある本を見る。
 そこに書いてあるということだろう。
「でも、私はまだ誰にも光をあげられていません」
 栞はそう言って、少し悲しそうにうつむいた。
「お姉ちゃんを苦しめました。お父さんやお母さんも。ひょっとしたら祐一さんも我儘で苦しめてたかもしれません」
「……栞」
「皆からもらった命、来なかった筈の時間、私はもう後悔したくないんです」
 栞はそう、とても安らかな笑顔をして言った。
 しかし、その直後うかない顔をする。
「それで、あゆさんや祐一さんのようになりたくて今日まで頑張って来たんですけど……」
 そして自嘲じみた声で続ける。
「その結果がこの様です。やっぱり、私じゃ駄目なのでしょうか?」
 この様とは、香里と喧嘩して水瀬家に転がり込んだことだろう。
「さあな……。だけど、栞は間違っていないと思うぞ」
「え?」
「あゆが今、一生懸命勉強している気力の源はお前じゃないか」
「そう……なんでしょうか? あゆさんは元々頑張り屋さんだと思いますけど」
「いや、栞と会った日とかは特に元気なんだよあいつは」
「そうなんですか」
「それに、俺も栞と話してると楽しいぞ」
「わ、告白ですか?」
「違う! 行き過ぎだっ」
「そうなんですか……ドラマでよくある告白台詞に似てたものですから」
 照れ隠しに笑いながら、栞はそう言った。
「でも……」
 栞はそこで口に指を当ててこちらを見る。
「私は祐一さんのこと好きですよ」
「え? それって……」
 冗談だよな? と言おうとしたところで栞がそれを遮って言葉を続ける。
「はい、告白です」
「ちょ、ちょっと待て!」
 何か間違ってるぞ、絶対。
 いつもの如くからかってるのか?
 いや、さっきから栞は至極真面目だ。
 ってことは本気で俺を?
「別にあゆさんから祐一さんを取る気なんてないですよ。私を何だと思ってるんですか」
「いや、てっきりそう言う意味かと」
「あゆさんと祐一さんとの間に入れる人はいませんよ。だから私の恋は絶対に叶わない恋なんです」
 そう言ってにっこり微笑む栞。
「栞、お前さっきから爆弾発言連発してるぞ。それに絶対なんて何で言い切れるんだよ」
 俺とあゆが別れる可能性だってあるわけなのに……
「祐一さん、祐一さんはあゆさんと喧嘩したことはありますか?」
「喧嘩? うーん……ないな」
 考えてみるとあれだけからかいまくってるのに喧嘩したことはない。
「あゆさんに不満はありますか?」
「……ないな」
 同じく、考えてみても不思議なことにまったく思い浮かばなかった。
「そういう事ですよ。1年近くも一緒にいて喧嘩も不満もないカップルなんてほとんどいませんよ」
「うーむ、言われてみると確かにそうだな」
 何故かあいつとは後にも先にも、喧嘩や不満といったものはないような気がする。
 というか、お互いほとんど遠慮することない付き合いしてるしなあ……。
「『腐れ縁』なんて言いますけど、私は羨ましいです」
 ぐあっ、『腐れ縁』かよ。
 まあ、『お似合い』の裏返しは『腐れ縁』なんだろうが……
「でも、やっぱりあゆさんは凄いです」
「え?」
「あゆさんの笑顔を見てると、私の恋なんて叶わなくてもいいやって不思議に納得できてしまうんです」
 まったく含みのない笑顔で栞はそう言った。
「それに……あゆさんには祐一さんしかいませんけど、私にはまた別の機会があると思いますから」
「そっか、きっと栞なら俺なんかよりいい相手が見つかると思うぞ」
「それに関しては心配いりません。自信満々です」
 薄明かりの中えっへんと言わんばかりに胸を張る栞。
 なんというか、そう躊躇なく強がって見せられる栞はとてもかわいらしいと思った。


 いや、よく考えてみれば、最近の栞はずっとそうやって強がっていたのかもしれない。
 本当の栞は……体の弱い、小さくて細い体をした、見た目通りの繊細な女の子なのだ。
 最近図太い神経になってきたと思ってたが……
 間違っていた。
 栞、お前は、自分を明るくするためにその小さな体で精一杯強がって見せていたんだな。
 その底抜けの明るさはよく考えたらあゆと同じだった。
 で、やたらいい性格をするようになったのは俺の請け売りということだろう。
 どうりであゆに絡むわけだ。
 あゆへのからかいぶりなんか、ほとんど俺じゃないか。
「栞、お前って本当に変なやつだな」
 誰よりも繊細で弱くて、それでいて誰よりも強情で強い。
 思いっきり矛盾だらけだ。
「わ、そんなこと言う人、嫌いです」
 だけど、それが栞の魅力なんだろう。
 栞といると、あゆとはまた違った形で勇気づけられる。
 俺なんかより、いや誰よりも弱いはずなのに、強く振舞える栞の姿を見れば誰だって勇気づけられるだろう。
「冗談だ。じゃ、俺はそろそろ自分の部屋に戻るわ。これを読みたいしな」
 俺は右手に持った本を掲げて、あゆの部屋を出る。
 と、思い返して振り返り、あゆの部屋を覗きながら栞に声をかけた。


「栞、叶うといいな、お前の望み」
 誰かに分けてあげる力……
「はい」
 凛とした表情でそれに答える栞。
 だけど、もうその望みは叶っていると思うぞ。
 まだ読んでないが、この本を読んだ人や、栞の出たドラマを見た人たちはきっと……
 部屋を後にしながら俺はそう思ったのだった。











 栞からもらった本には栞と俺達の出会いのシーンから始まっていた。
 あの時……
 俺は栞をただあゆに巻き込まれただけの、ごく普通の少女と思っていた。
 しかし、実際はそうではなかったのだ。
 あの日の栞は、大好きな姉に余命幾ばくもないことを告げられた挙句、そんな妹と残り少ない時間に耐えられなくなった姉に見捨てられ、一人孤独に絶望の底をさまよっていたのだ。
 もし、あの時あゆが体当たりで栞を巻き込んでいなかったら……
 もし、その後俺たちが馬鹿をやっていなければ……
 栞はその日自殺を完遂するつもりだったのだ。
 出会った時のどこか怯えた表情の意味はそれだったのだろう。
 そして中庭での出会い。
 頼れる姉を無くした栞は俺達の姿を求めて学校にやってきて、そして俺と出会った。
 俺としては、初めて会ったときの寂しげな顔がどうにも気になって少し構っていただけだったのだが……
 まわりに頼る人が誰もいない栞にとって、俺との会話の時間がどれほど大切だったのかよくわかる。
 栞は、俺以外に気軽に話が出来る人がいなかったのだ。
 栞の病気を知っている人は皆、栞との間に距離をおいた。
 両親や姉でさえも。
 どんなに寂しかったことだろう。
 栞は生きているにも関わらず、既に死人のような扱いを受けていたのである。
 俺はちょっと気になったので、成人の日に学校に足を運んでみたりしただけだったのだが……
 栞にとっては、その『ちょっと気にかけてもらう』ことがとても力になっていたのだ。
 栞の言っていた『俺からもらった強さ』というのは、そのささいな日常のことだったのだろう。
 俺はほんのちょっと栞のことが気になっただけだ。
 しかし、その『ほんのちょっと』が思いがけないほど誰かの力になることはあるのかもしれない。
 疑問に思っていた俺が栞にしてやったこと……
 その後の物語はあゆから聞いていた話から想像できるものだった。
 まあ、栞とあゆ、月宮さんとの関係がよくわかったので、無駄な時間ではなかったと思う。
 あゆの説明はどうもはしょりすぎでわかりにくかったからなあ……

 それにしても、あいつ栞の前でも転んでたのか。
 もぐら叩きのグローブといい、生傷の絶えない奴だ。
 ……あいつ、包丁とか大丈夫だよな?
 最近秋子さんと並んで料理をしていることが多いらしいだけに少し、いやかなり心配である。
 まあ、秋子さんが傍にいるなら大丈夫か……
 さて、一息ついたところで勉強しよう。











 そろそろ疲れてきたな……
 そう思って時計を見ると12時過ぎ。
 軽く柔軟体操でもして、もうちょっとだけ頑張るか。
 ついでにトイレも行っとこう。
 そう思って伸びをした時

 コンコン

「ん?」
 扉が小さくノックされる音。
「今日こそ秋子さんだ!!」
「だから何でそうなるのっ!」
 嬉々とした俺の弾んだ声に、即突っ込みを入れるべく部屋に乱入するあゆ。
 もちろんあゆだろうと想像はついていたが。
「いや、冗談だ。で、どうしたんだ?」
「……部屋で栞ちゃんと一緒にいるのがちょっと怖くて」
 俯き加減に、小さな声であゆはそう言った。
「怖い? 栞が?」
「うん、栞ちゃんやっぱりお姉さんと喧嘩したこと凄い悩んでるみたいなんだ」
「それで、さっきからずっと怖い顔したまんまで」
「そうか……」
 今日知った栞の本心。
 あいつはいつものように振舞ってみせていたけれど……
 きっと心のうちでは、香里とこれっきりになるのではないか不安で堪らないに違いない。
 多分、今あゆの部屋にいる栞は今日ここに来たばかりのあの顔をしているんだろうな。
 はっきり言ってあの雰囲気の中、栞と二人っきりになるのはかなり怖い。
「なんとなく昨日のボクを見てるみたいで、そっとしておいてあげたほうがいいかなって」
「そうだな」
 そのうち疲れて寝るだろうし、明日にもなればある程度は気持ちの整理もつくに違いない。


 寝る?


 あゆの姿をじーっと見つめる。
「あゆ、訊くまでもないかもしれないが……、それは何だ?」
 俺はあゆが小脇に抱えてるものを指して言った。
「枕と勉強道具だよ」
「いや、それは見ればわかる。何でそんなもの持ってきてるんだ?」
 いや、これも訊くまでもない。
 訊かなくともこいつの単純な思考回路くらい読める。
「え? 祐一君と一緒に勉強して一緒に寝ようと思ったんだけど」
 まったく躊躇いなく言うものだからこっちが面食らう。
 多分何も考えてないんだろう。
 一緒に勉強はともかく、年頃の健康な男女が一緒に寝るっていうのは……
 なんて、あゆにはまだわかるわけないか。
 まあ、わかってたところで問題あるまい。一応恋人同士なんだから。
 あゆの外見を見てると無意識的に『一応』と入れてしまう自分が何故か情けなかった。
「それに、前に栞ちゃんが『恋人同士は一緒に寝るものです』って言ってたから」
 ……あいつ、あゆになんてことを吹き込んでやがる。
 こいつは絶対に『一緒に寝る』のがどういう意味かわかってないぞ。
 しかし……。
 追い返すのはもったいない。
 せっかくだから栞のご好意に甘えてしまおう。
 それに、追い返してもこの時間じゃ秋子さんや名雪は寝てるはずだ。
 と、自分の行動を色々と正当化する理由をつけてはいるが……
 本当のところとても嬉しい。
 前のように1階のソファーで寝るという選択肢もあるが……
 失念していたことにしてしまおう。
「まあ、あゆは小さいから二人で寝ても大丈夫か」
「うぐぅ、わざわざ『小さいから』なんて言わないでよ」
 やはりどこか素直に言えず、余計な言葉をつけてしまったため、あゆが拗ねる。
「それで、勉強って何するんだ? 俺とあゆじゃそもそも勉強内容が違うだろ」
 俺は大学受験、あゆは高校受験である。
 一緒に勉強することなんて……
 …はっ! 深夜それなりに仲のいい男女が二人で密室にいるってことは
 お医者さんごっこ…とか?
「うん、ちょっと数学で困ってたんだ。祐一君理系だったら教えてくれないかな?」
 そんなわけないだろ。
 もしそうだったら話がうますぎる。
「何がそんなわけないの?」
「おうわっ!? な、何故それを!?」
「え?」
 何のことか合点がいってないあゆの顔。
「いや、なんでもない。あゆくらいの数学なら多分大丈夫だぞ」
「うぐぅ、また余計なこと言う〜」
 危ない危ない……。
 思わず自分の飛躍した思考に小声で突っ込み入れてしまってたようだ。
 『お医者さんごっこ』なんて単語があゆの耳に入ろうものなら……
 秋子さんや栞に何を言われるかわかったもんじゃない。
 名雪は……
 『わたしも一緒にやるよ〜』と、別の意味で危ない反応を返してくれそうでこいつも危険だ。
 知りすぎなのも、無知すぎるのも怖いな……
「じゃ、トイレ行ってから教えてやるから、あゆはそこに座って待ってろ」
 そういうと、俺は名雪が昨日置いていったままにしたちゃぶ台を指して部屋を出ようとした。
 が、すれ違おうとした瞬間あゆに袖を掴まれる。
「…何だ?」
「えっと…」
 もじもじ。
「…わかった、そのままついて来い」
 まったく、いい加減トイレくらい一人で行けよ。
 極度の暗所恐怖症のあゆは自分の部屋で寝るとき、豆球をつけて寝ているらしい。





 トイレから戻ってきた俺は、あゆの見せた数学の問題に唸っていた。
 いや、さすがに『わからん』なんてオチはないが……
 あゆのやつ、高校受験の数学のレベルをとっくに超えたところを勉強している。
 できるとは訊いていたが……これほどとは。
「で、わかったか?」
「うんっ、こうすればいいのかな?」
 スラスラスラっ
 うわっ、俺より計算速い……
 あゆは普段の鈍くささとは裏腹に、軽快な筆捌きで計算をこなしていく。
 マジでこいつ頭いいんだな。
「できたっ」
 あゆは嬉しそうに計算式を書き込んだ紙を掲げる。
 達成感に対する満足そうな顔。
 きっとこいつは何かが出来れば更に次の段階に挑戦したくなるタイプなんだろう。
 羨ましい限りだ。
「ありがとう、祐一君。祐一君って教えるのうまいね」
「あゆの理解が早いだけだ」
 この調子なら飛び級の高校入試も問題ないだろう。
「ん…もう2時か。そろそろ寝るか、あゆ?」
 あゆを教えていて楽しかったのか気付くと深夜2時だった。
 そろそろ寝ないと学校に行く時間に起きられない。
「うん、そうだね…ふぁーーあ」
 あゆは小さい身体で精一杯背伸びしながらあくびした。
 パジャマ姿のせいかどこか子供っぽくて微笑ましい。
「じゃ、電気消すぞ。お前は先に奥に入ってろ」
「うん」
 俺はあゆが布団の奥に入るのを見届けて明かりを消した。

「うぐっ!?」

 っと、いけない。あゆがいたんだった。
 俺は天井の蛍光灯をいじって豆球だけつけた状態にしておいた。
 そして、あゆに続いて俺も布団に入る。


 あゆの身体は小さいため寝心地は普段とほとんど変わらない。
 あゆもあゆで俺に気を使ってるのか壁にピッタリと張り付いて、俺のためにスペースを大きく空けてくれていた。

 …………
 ……

 お互いしばらく無言。
 あゆの小さな呼吸が聞こえてくる。
 あゆは俺に背中を向けており、表情は伺えない。
 ううっ、これはもう我慢すべき状況じゃないよな?
 俺とあゆは相思相愛なんだからちょっと強引にやったって……。
 名雪も秋子さんも寝てる。栞も寝てるだろう。
 よしっ!
 あゆの背中に向かい合う形で、俺は身体を横に倒した。
 そしてそーっとあゆの身体に手を伸ばす。
 ちょっとあゆの身体に触れた瞬間……

「祐一君」

 背中を向けたままあゆが小さく俺の名前を呼んだ。
「な、何だ?」
 これからやろうとしてた行為の後ろめたさに声が上ずる。
「えっと…ボク、よくわからないけど、祐一君なら後悔しないよ」
「…………」
 ちょっと待て。
 そりゃどういう意味だ?
「あゆ、お前意味分かってて俺と一緒に寝るって言ったのか?」
 わかってるなら、もうお互い合意の上なんだから遠慮する必要はない。
 ていうか、おっかなびっくりの自分がむしろ情けない。
「ううん」
「おいおい…」
 やっぱり栞の『恋人は一緒に寝るもの』というのを言葉どおりの意味で受け取っていたか…。

 栞の奴、中途半端にしか教えてなかったな。

 まあ、手取り足取り意味を教えてたらそれはそれで問題だが……。
「で、ボクが『そんなの恥ずかしいよ』って言ったら…『祐一さんは喜びますよ』って」
 ナイスだ栞!
 …じゃ、ない! 何企んでいるんだあいつは……まったく。

『それに……あゆさんには祐一さんしかいませんけど、私にはまた別の機会があると思いますから』

 それとも、あいつなりの思いやり、なのか?
 俺とあゆをもっと親密にしようという。
 あゆもわかってはいないようだが、後悔はしないと言っている。
 じゃあ、迷うことはない…よな?

「あゆ……」
「あっ」
 俺はあゆに手を回して抱き寄せよせた。
 それに対してあゆが小さい叫び声を上げる。
 そのままあゆをぎゅっと抱きしめた。
 さらさらした髪からシャンプーのいい香りがする。
「…………」
 しかし、改めてこう胸に収めてみると……
 あゆの小ささがよくわかる。
 いつも活発に動き回っているのでそこまで意識しないものの…
 今俺の胸に抱かれておとなしくなっているあゆはとても小さかった。
 こんなに小さいやつを俺は強引にどうこうしようとしてたのか?
 そう思うとなんだか情けなくなってきた。
「祐一君?」
 俺がぼーっとしてるのであゆが恐る恐る声をかけてくる。
 別に、焦ることはないよな?
 俺は緊張で胸に溜めていた息を一気に吐き出した。
「やめだ、やめ。明日も早いし寝るぞあゆ」
 そう言ってあゆに回していた手を緩める。
「えっ?」
 そう、何も焦ることはない。
 あゆはここにいるわけだし、もうどこにも行くわけでもない。
 こいつがちゃんと理解するまで待ってやったっていいじゃないか。
 それに
「今、万一間違いがあったら栞とお前の約束が駄目になるからな」
 高校に入る前に『お母さん』になったら、栞と一緒に高校に行く約束も無理になるだろう。
 あの本を読んで、栞とあゆにとってその約束が大切なものか改めて知った。
 俺としても二人を応援してやりたい。
「どういうこと?」
 あゆは不思議そうに疑問の声をあげる。
「意味がわかるまではまだ子供だな」
「うぐぅ。子供、子供って…そりゃあボクは祐一君から見たら子供だけどさ」
 ちょっと拗ねたように頭を更に向こうにそらすあゆ。
 俺はそんなあゆをゆっくり抱きしめてやる。
「別に子供でいいじゃないか。子供には子供のかわいらしさってものがあるしな」
 小さくてやわらかい身体。
 今はこうやって抱いてるだけで満足だ。
 こいつは俺の彼女かもしれないが、今はまだ俺の娘みたいなものだ。
 しっかり守ってやらないとな……
「…うん、今はまだボクもこの方が安心できるような気がする」
 あゆはそういうと身体をこっちに向け、笑顔を見せて正面から俺に抱きついた。
 『今は』というのは、これが恋人同士の抱擁ではないとあゆも少しは自覚しているということだろう。
 でも……
 今はこれで十分だ。
「おやすみ、あゆ」
「おやすみっ、祐一君」
 俺達はお互いにお休みを言いあって目を閉じた。
 ああ、あったかいなあ……。

 …………。
 ……。







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