「ふぁ〜あ……午後の授業ってのはどうしても眠いんだよなあ」
「お前は単に午前中遊び疲れただけだろうが」
「つれないねえ。転校したころはお前の方がよく寝てたのに」
「俺は転校したせいで授業がわからないからヤケになって寝てただけだ」
授業もわかるようになれば面白い教師も出てくるものである。
ちなみに、今の授業は数学。
担任の石橋が教壇で熱弁を振るっている。
が、何故か古代中国の役人試験『科挙』におけるカンニングの壮絶さを語っていた。
石橋は数学の教師のくせになぜか歴史関係の雑学が好きらしく、授業の合間にそれを面白おかしく語ることがある。
数学の教え方自体は単調なのだが、この雑学披露が魅力的で生徒を寝かさないような授業時間を作り上げているという意味で面白い教師である。
が、まあ中にはチンプンカンプンな生徒もいるわけで、その代表格北川が暇を持て余して後ろから俺に話し掛けてきた。
俺は世界史を選択していることもあって結構楽しんで聞いていたのに、まったくうるさい奴だ。
まあ、北川は地理を選択しているみたいだから歴史なんかに興味ないのは無理もないかもしれないが。
チラリと横を見てみると…
「うにゅ……」
こっちは授業開始からこの調子である。
石橋の雑談も面白くない者には面白くないようだ。
って、名雪には関係ないか。
起きてる時はどんなつまらない授業でも起きてるし、寝ているときはどんな面白い授業でも寝ているからな。
「で、どうなんだ? 本当は眠いんだろ?」
「眠い」
確かに石橋の話は面白いが……
昼飯を食べた後というのはどうしても胃が重くて眠い。
実際、石橋が授業中断する前は半分寝ていた。
授業が再開されたら今度こそ寝てしまう。
「ほれ、これをやろう」
「ん?」
銀紙で覆われた薄い板のようなものを俺に差し出す。
「ガムか……」
「おう、眠気覚ましのな。しかもそいつは特別製だ、そのままあの世までいけるぞ」
「待て…これは一体何のガムだ」
あの世とは聞き捨てならない。
「だから、眠気覚ましだって。効くぞ。オレの知る限りそこらの眠気覚ましガムの数倍の威力だからな」
どうやら俺のリアクションを見て楽しむ腹らしい。
銀紙を取って見ると、毒々しいまでに黒っぽい色をしたガムが現われる。
そこらの数倍の威力というのはすぐにわかった。
匂いからしてきつい。
開けただけで目が覚めそうな強烈なミント臭を放っている。
「うにゅ?」
その凄まじさは横で舟をこいでた名雪を一時的に覚醒させたほどだ。
「これはマジできつそうだな……」
「最初は涙も出るくらいだが、慣れれば結構刺激的でいいんだぞ」
そういうものか……
「……っ!」
意を決して口の中に放り込んでみると強烈な刺激が舌に走った。
鼻が異常なくらいスッとして、北川の言う通り目から思わず涙が出てしまった。
とても酸っぱい梅干を食べた時のような感じである。
「ふっふっふ、効いたみたいだな」
「効くなんてもんじゃないぞ、コレ……。まあ、目はバッチリ覚めたが」
「せっかくだ、ちょっとだけ分けてやろう」
そう言って北川はそのガムを3枚俺に渡してくれた。
ついでにパッケージも渡される。自分で買う時の参考にしろという意味だろう。
「ありがとよ」
しかし、こいつに慣れると味覚がおかしくなるんじゃなかろうか……
まあいいか、それはそれで。
秋子さんの例のジャムがおいしく思えるようになるかもしれないし。
ガラガラッ!
突然乱暴に教室の後ろの扉が開け放たれた。
教室の視線が教卓からそちらに移される。
話に夢中になってた石橋も、突然の大きな音に口と目を開けたまま静止していた。
「なっ…!?」
「香里?」
「美坂?」
扉を開けて入ってきたのは香里だった。
香里は扉を開けたまま足早に俺達の後ろの自分の席に座り、荒々しい音を立てながら手早くノートと筆記用具を出し授業準備を整える。
その間、俺達はおろか、教室の誰も何も言えなかった。
全員香里の恐ろしい形相と気迫に飲まれていたのである。
…………。
……。
しばらくの沈黙の後、石橋は香里に何も言わずにさっきまでの雑談を切り上げ、授業を再開した。
香里に開けっ放しにされた扉は、扉の傍の生徒が香里の方を見ながら恐る恐る音を立てないように閉めていった。
そしてそのまま、恐ろしく何かを欠いたような静かな授業が始められた。
いつもなら絶えず聞こえるはずの咳の音すらも聞こえない。
皆息を飲んで黒板の方を見、時折香里の方を横目で伺っては慌てて黒板の方に向き直る。
当の香里は何も言わず、ただ口をキッと閉じてシャーペンを硬く握りしめているだけだった。
授業を黙って聴いているというよりは、まるで何かに耐えているかのように、その指を震わせている。
だが、俺は横目からはっきりと見た。
その時、香里は確かに泣いていた……。
結局、その日は香里と話すことは出来なかった。
というのも、話そうとしても休み時間にはさっさと教室を出てどこかに行ってしまうので話す機会がなかったのだ。
香里は明らかに俺たちを、いやクラスの全員を避けていた。
いや…この前あゆに対してとった態度が更に対象を広げているかのように……。
今日の香里には誰も近づくことのできないオーラが漂っていた。
「今日はなんだか疲れたね」
「そうだな」
校門をくぐると同時に名雪が溜息混じりに言う。
授業のせいで疲れたというより……
恐怖に似た緊張感に溢れる空間に閉じ込められていたのが原因だ。
「わたし、噛み付かれるかと思ったよ」
珍しく名雪は本当に怯えていた。
真後ろにいるために顔が伺えない分、恐ろしさは一際だったのだろう。
香里が後ろに座ってから名雪は姿勢をピンと正して、一度たりとも頭を揺らしたりしなかったほどだ。
「香里……昔はあんなんじゃなかったのに」
「そういや、名雪はかなり前から香里のこと知ってるんだよな」
「うん」
かなり前から……
その言葉を聞いてふと気になった。
「なあ、名雪と香里っていつから親友なんだ?」
「前からだよ」
「そりゃ後ろとか右からとか上からとかだったら怖いな」
何でこいつはこう真面目な間が持たないんだろう……
「俺が訊きたいのはお前と香里が知り合った経緯だよ」
「うー、普通だよ。中学校に入った時、たまたま席が前と後ろだったから」
「どっちが先に声かけたんだ?」
「うーん、香里…だったと思うよ」
「そうなのか?」
ちょっと意外だ。
香里はたかが席が近かったくらいで声なんかかけるようなやつには見えないんだが……
どうせ名雪が『はじめまして、わたし水瀬名雪って言うんだよ〜』って能天気に声をかけたんだと思ってた。
「……何か酷いこと考えてない?」
「考えてるぞ」
「祐一、最近素直すぎるよ〜」
何だ、素直で何が悪い?
「とりあえずだ、中学からの親友なんだな」
「うん」
それじゃ最近の香里の豹変ぶりも心配になるわけだ。
「でも……」
名雪の表情が曇る。
「最近わたし香里のことがよくわからなくなったよ」
「まあ、こないだといい、今日といい、たしかにな」
そう言った俺に名雪は浮かない顔で首を振る。
「ううん。そうじゃないよ。もっと前から」
「え?」
「栞ちゃんのことを知ったときから……」
栞?
「わたし、ずっと香里のこと親友だと思ってた。香里もそう言ってたし」
「『思ってた』って、今は違うのか?」
「わたしは今でも親友だと思ってるよ。ううん、思いたいよ。でも……」
不安そうに鞄を持つ手が震えていた。
「半年前、香里に妹がいるってはじめて知った時から、わからなくなっちゃった」
「あ……」
名雪の言いたいことがわかった。
今まで親友と思っていた香里。
でも、その実、まったく香里のことを知らなかった自分。
「わたしは、自分のことを香里によく話してたよ。でも、香里は自分のことを全然話さなかった」
……お前の場合は親友とか以前に話し過ぎだ。
転校早々、クラス中に俺との同居を嬉々として話していたという、いとこの少女に半ば呆れた目を向ける。
「……親友だと思っていたのはわたしだけだったのかな?」
すっかり落ち込んでしまった名雪。
やれやれ……、こいつは普段能天気な割に考え込むと暗いんだから困ったものだ。
「俺はそうは思わないぞ」
「え?」
「香里は結構一人で抱え込むやつだからな。お前に余計な心配かけたくなかっただけだろ」
ていうか、強情なんだよな……あいつは。
もっと素直になれば楽に生きられるのに。
「そう……なのかな?」
「多分な。栞が言ってたことだし間違ってないだろう」
「祐一って栞ちゃんと仲いいんだ」
なんだか妙に不満げな表情で俺を見る名雪。
「こ、こら、何勘違いしてるんだ! 本当に仲がいいのはあゆだ」
「びっくりしたよ…。栞ちゃんに浮気しちゃダメだよ。栞ちゃんはかわいいくてきれいだけど」
「するか馬鹿!」
「わたし、馬鹿じゃないもん」
一人で勝手に妄想を進めるな、まったく。
「まあ、栞とも一度はデートみたいなことをしたことはあるが……」
「え……」
「あゆ曰く、『兄妹みたい』だったそうだ」
「あ、それなんだかわかる気がするよ」
笑顔でうんうん頷く名雪。
栞って俺達なんかよりはるかにしたたかなやつなのに、なんか妹っぽいオーラが出てるんだよなあ。
いや、わざと子供っぽく振舞ってるだけか……
それに騙されるとあの小悪魔のような笑顔で……
……やめとこう。
続きを想像すると怖くなってきた。
出会った時はあんなんじゃなかったのに、何を間違ってあんなキャラになったのだろう?
「まあ、なんかよくわからんが、栞にとって俺とあゆは命の恩人らしい」
「恩人?」
「俺とあゆに会ってなかったら、今この世にいないんだと」
入院中約束をしたあゆならともかく、栞の抱えてる病気の重さにも気付かなかった俺がどうしてそこに入ってるのやら。
俺が知ってるのは、ドラマになったとかいう月宮さんやあゆとの病院での出会いが栞に奇跡の回復を遂げさせたという話である。
「俺は栞に特に何もしてないんだがな」
「ううん、そんなことないと思うよ」
「は?」
何気なく呟いた一言に名雪が反応した。
何故かとても優しそうな顔をして……
「祐一が気付いてないだけで、きっと祐一は栞ちゃんを助けてたんだよ」
「……なんでそんな自信満々に言えるんだ」
特に俺と栞の出会いのことも知ってるわけもないのに、何でそんなこと言ってるのやら。
「祐一はわたしの王子様だったからだよ」
「はぁっ!?」
またいきなり笑顔で何言い出してるんだ、コイツは……
とりあえず周りに人がいないのを確認。よし、誰にも聞かれてない。
こんな発言聞かれたら恥ずかしすぎる。
「名雪、寝言は路上で言うものじゃないぞ」
「寝てないよ〜」
「……その年で王子様はないだろう、まったく」
いや、名雪ならこの年でも『白馬の王子様』なんてもの信じてても不思議ではないが……
何で俺なんだ?
「香里に初めて祐一のことを説明した時にもそう言ったよ」
「おいっ」
どういう神経してるんだ、こいつは……
「一つ聞くが……クラスの奴らにもそう言ったんじゃないだろうな?」
「言ってないよ。笑われるだけだから」
「え?」
「香里なら笑わないで聞いてくれると思ったから言ったんだよ」
何だ? 一応子供っぽいっていう自覚はあったのか?
「で、香里の反応は?」
「最初は呆れられた」
そりゃ、まあ普通はそうだよな。
「でも、ちゃんと話したら真面目に聞いてくれたよ」
「へえ……」
そんな子供の戯言みたいなことをよくあの香里が聞いてたもんだ。
あれ? でも、それって……
「どうしたの?」
「いや、やっぱり香里はお前の親友だよ」
「……?」
「あいつが興味ない話を真剣に聞くやつだと思うか?」
「……あ」
「そういう事だ、安心しろ」
「うんっ」
まあ、最近の香里の異常ぶりはまったくわけがわからないが、それはまた後々考えよう。
しかし……。
「何、祐一?」
「いや、何でもない」
慌てて名雪から視線を外す。
「……?」
自分のこと話す、って言っても……こいつに悩み事の相談なんかするやつなんかいないんじゃあなかろうか?
どう考えても事態が好転するとは思えない。
ていうか、話してる最中に『くー』とかやられそうだ。
香里が自分のことを名雪にあまり話さないのって、香里自身の性格もあるだろうけど、相手が名雪だからなんじゃあ……
なんてふと思ってしまった。
あれ? そういや
名雪が俺のこと『王子様』って言ってたが……
俺、名雪に何かしてやったっけ?
軽く記憶を探ってみても思い当たる節はなかった。
…まあいいか。
どうせ名雪のことだ。大したことでもないだろう。
と、家が見えてきたので俺の疑問はそこで打ち切られた。
俺が先頭に立って、鍵を開け家の中に入る。
「ただいま……って、何だこりゃ!?」
「わ、おっきなリュック……」
俺たちを出迎えたのは、玄関を塞ぐぐらいの大きなリュックだった。
これって、確か登山用の色々入れるやつだよな?
紐で口を縛るタイプのようだが、今は半開きで中の衣類らしきものが見えている。
それはともかく、なんでこんなものが玄関を占領してるんだ?
バタバタバタ
「あ、あゆちゃん」
俺達が帰ってきたのに気付いたのだろう。
あゆが階段を降りてくる音が聞こえる。
「ちょうどいいところに。おいあゆ、このでかいリュックはなん……」
「うぐぅ、祐一君、名雪さん、怖かったよ〜」
ベチッ!
俺か名雪に泣きつこうとしたのだろう。
しかし、その前にリュックに足を取られてあゆは盛大にすっころんだ。
「う、うぐぅ」
普通自分の腰くらいある物につまづくものだろうか?
とにかくこいつの転び癖は常人の域を越している。
まあ、単に前方不注意なだけなんだろうが……
「で、何かあったのか?」
半分開いたリュックの口に頭を突っ込んだままもがいているあゆに訊く。
どうやら転んで突っ込んだ拍子に何かに掴まろうとして開閉用の紐を引っ張ってしまったらしい。
首から先が抜けなくなってしまったようだ。
階段を駆け下りて来た時のあゆの顔を見る限り、緊迫した状況なんだろうが……
「うーっ、うーっ!」
駄目だ、力が抜ける。
「おーい、大丈夫か?」
とりあえずリュックをつつきながら訊いてみる。
すると、あゆはリュックに頭を突っ込んだまま右手で、今降りてきた階段を指した。
『上に行って』ということなんだろう
「名雪、俺は上に行ってくるから、そいつ救助してやってくれ」
「うん、任されたよ」
ほっといても大丈夫だろうが、どこか抜けているあゆのことだ。
運が悪かったら秋子さんが帰ってくるまでこのままもがいてるかもしれない。
俺はあゆの救出を名雪に任せて2階へ上っていった。
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