12月14日(火曜日)
数ヶ月前まで走るのが苦手だったあゆに少しは気を使っていた時の習慣のおかげか、名雪はかろうじて歩いても学校に間に合う時間には家を出るように動いてくれる。
もっとも、俺が起こさなかったらずっと寝てるのは相変わらずだが……
とにかく、そのおかげでゆっくり3人で話しながら学校に行けるわけだ。
名雪の努力には感謝しよう。
少しだけだが……
「そういえば、昨日月宮さんと秋子さんが話してるのを聞いてて不思議に思ったんだが……」
『今日はいい天気だね』とかありきたりな話をしている名雪たちに話を振る。
「何かあったの?」
「秋子さんが名前で呼ばない人って珍しくないか?」
「そうかな?」
…やっぱり、秋子さんが他人をどう呼んでいるか、まだ水瀬家で日が浅いあゆにはわからないか。
「そう言えばそうだね。お母さんが苗字で呼ぶ人って月宮さんがはじめてじゃないかな?」
さすがに秋子さんとの付き合いの長い名雪だ。
俺の言いたいことにすぐに気付いてくれた。
「そうだったんだ」
「そんな観察力じゃそのうち食い逃げに失敗するぞ。食い逃げは店主という人間の観察から始まるんだからな」
「うぐぅ…もうしてないよ」
「祐一、話逸らしてあゆちゃんをからかわないで」
名雪に睨まれてしまった……。
仕方ないだろう、性分なんだから。
「わかったから睨むなって……」
もちろん全然わかっちゃいないのだが。
「うー」
…いい加減鈍い名雪でも俺が懲りてないことがわかったようだ。
低い唸り声を上げて俺を睨んでいる。
「…ちっとも怖くないぞ、名雪」
「うー……」
俺が思ったとおりのことを素直に言うと名雪はしょんぼりしてしまった。
そこで怒鳴るとかすれば少しは迫力あるんだがなあ……
まあ、名雪のキャラじゃない。
「しかし、よく考えてみれば俺月宮さんの名前知らないぞ」
頭に手を置いて、少し考えるような仕草をしながら言ってみる。
「そういえばそうだね」
秋子さんがいつも『月宮さん』と呼んでいるものだから本名を聞いた覚えがなかった。
あゆは『お父さん』と呼んでいるし……
「あゆ、月宮さんの下の名前って何なんだ?」
「え、えっと……」
「お前まさか知らないとか……」
「そんなわけないよっ!」
いくらなんでもそれはないよなあ。
父親のことを全く知らない名雪ならともかく、実際に顔合わしてる父親の名前を知らない奴がいるわけない。
「で、なんて言うんだ?」
「…………」
何故黙る?
「あゆちゃん、言いたくないなら言わなくてもいいんだよ」
「待て名雪、これはそんな深刻な話題じゃないだろ」
「何か深いわけがあるかもしれないよ」
「心配するな、あゆに限ってそれはない」
「うぐぅ、変なこと断言しないで」
「以前こいつが俺に言った深いわけとやらは『腹が減ったから食い逃げをした』というものだった」
「あゆちゃん……」
「うぐぅっ! 名雪さんまでそんな目で見ないで」
唯一の味方にも見放されたようだ。哀れな奴め……
「というわけだ、おとなしく吐け」
「なんでそうなるんだよ!」
「あゆちゃん、言ってしまったほうがスッキリすることってあるよ」
…さりげなく俺より凄いこと言ってないか名雪?
「わかったよ……でも笑わない?」
様子を伺うように俺達の顔を見るあゆ。
「任せろ」
「笑わないよ〜」
「うぐぅ…二人とも、もう笑ってる」
しまった、面白そうなのでついにやけてしまった。
ちなみに、名雪は単に素の顔が笑顔なだけである。
「まあ、前置きはもういいから。で、実際は何なんだ?」
「前置きって……わかったよ」
少し間を置いてあゆは躊躇いがちに口を開いた。
「……あゆた」
「え?」
「だから、『鮎太』だよ。『月宮鮎太』。魚の鮎に太いって書いて鮎太」
月宮鮎太……。
「…………」
「…………」
しばらく俺と名雪は何も言わずに固まっていた。
「うぐぅ、どうせなら笑って…」
笑うなと言ったり笑えと言ったり忙しい奴だな……。
「笑えと言われても…案外普通の名前だったからなあ」
少々期待はずれというのが本音だ。
「…うん」
って、お前も何か期待してたんかい名雪。
「せめて『ジョージ』とか『ブッシュ』とかじゃないと笑えないぞ」
「お父さんは日本人だよ……」
「わたしの名前よりもっと変わった名前なのかなって思った」
そういえば、以前名雪の名前を変わった名前って言ったなあ。
に比べて『鮎太』なんて俺の名前と比べても別に何の変哲もない名前のような気がする。
「強いて言うなら、親子揃って『あゆあゆ』ってことしか突っ込みどころがないな」
「それで笑われると思ったんだよ……」
「しかし、よく考えたら変だな。普通親父の名前を娘につけるか? 息子ならともかく」
昔の戦国武将のケースから考えると男が父親の名前から一字をもらうケースは多い。
「まさか…男の子と間違って名前をつけられた!?」
「うぐぅ、ボク女の子」
本当にからかいがいのあるやつだ。
すぐ乗ってきてくれる。
「それにボクの名前はちゃんと女の子らしくって考えられてるんだよ」
「そうなのか?」
どのあたりが女の子らしいのかよくわからない。
『あゆ』だけじゃあ女の子云々というより、魚のイメージの方が強いが。
月宮さんの『鮎太』はどう考えても男らしいのに対して、『あゆ』はどう考えても女の子には結びつかなかった。
「お母さんとお父さんがボクに名前をつけるとき、女の子らしいようにって平仮名で『あゆ』にしたんだよ」
「そういえば、平仮名ってやさしい感じがするね」
「うん」
自分で言うな。
「確かに、平仮名は昔の女文字だからな」
月宮さんらしい発想と工夫だと思う。
読みは同じでもイメージがガラリと変わる。
『鮎』だと、男か魚の名前にしか思えない感じがするから不思議だ。
「あゆ…俺、お前がはじめて女の子らしく思えたよ」
いや、本当に。
「…今までなんだと思ってたの?」
「珍獣たい焼きイーターうぐぅ」
「うぐぅ…珍獣」
あゆは涙目で不満そうに俺をじーっと睨んでいた。
「しかし……」
もうすこしからかおうと思ったが、横で名雪も威嚇するように唸っているので話題を変える。
「あゆはともかく、女の子の名前って言っても名雪と栞は本当に変わった名前だな」
「そうなのかな?」
「女の子らしいイメージはあるけど、普通じゃない感じがする」
なんというか、こう一般的な女の子のイメージと結びつかないというか……
シオリにしても普通は詩織だと思う。
「うー」
「いや、名雪も栞もいい名前だって。ただ、やっぱり一般的な女の子のイメージとは違うような」
何も睨まなくてもいいだろう…名雪。
「どんなのが普通の女の子らしい名前なのかな?」
「そうだな、やっぱり秋子さんなんか分かりやすい。逆を言うと俺の名前だってすぐ男って分かるだろう?」
「言われてみればそんな気がする」
「あゆは……紙に書いたら女の子ってすぐにイメージできるな」
さっき説明されたせいかもしれないが……。
「うーん、どうすればいいのかな?」
いや、どうすればいいとかそういう問題じゃないのだが……
「そんなに気になるなら旧名に変えたらどうだ?」
「え? 旧名って?」
「昔の名前のことだ」
「え、名雪さん昔は別の名前だったの?」
「うー、忘れちゃったのかな? 憶えてないよ〜」
アホかこいつら……。
あゆはともかく自分の名前忘れるやつがどこにいるんだ。
言うまでもないが、からかっているだけである。
「もう忘れたのか? 再会した時は『花子』って名前だっただろ?」
「そうだったんだ…。それだったらわかりやすいね」
…少しは疑え。
どうやらあゆの中では、男は太郎、犬はポチ、猫はタマという図式がしっかりとできているらしい。
「祐一、あゆちゃんに嘘教えないで」
「『憶えてない』なんておかしなことを言うお前が悪い」
「うー……」
からかわれる原因を自分から作ったことくらいはさすがに鈍い名雪でもわかったとみえる。
名雪は反論できずに唸っていた。
「俺の周りでどこから見ても女の子の名前とわかるのは秋子さんと香里だけだな」
そう言ったところで、校門前についた。
そういや、香里は今日来てるだろうか?
来てたらこないだの校門前のことは追及しないといけないな。
「行ってらっしゃい、祐一君、名雪さん」
「うん、行ってくるよあゆちゃん」
「知らないおじさんについて行くなよ」
「どうしていつもそんなこと言うんだよ」
これ性分なり。
と心の中で扇子片手に愉快そうに言っておく。
「川を泳いで帰るなよ」
「そんなことやるのは祐一君だけだよ……」
俺でもやらないって。
そんなことやる奴は……
「既にやっていたのか、マイ・フレンド」
「何がだ?」
噂をすればなんとやら、ちょうど北川がやってきた。
何故かびしょ濡れで……
「川を泳いで登校か…お前も物好きだな」
「オレの通学路に川はないぞ」
あったらこのくそ寒い中でも泳いでくるのか?
相変わらず侮れない奴だ。
「おはよう、北川君」
「おはようだよっ」
「おう、おはよう。しかし、羨ましいな相沢。朝からこんな二人と……いや、なんでもない」
かなり悔しそうに聞こえるぞ。
まあ、気持ちはわからなくもないが……
「今度は12人姉妹の家にでも生まれることを願うんだな」
「そうだな。来年の初詣の願掛けはそれでいくか……」
なんて邪念に満ちた参拝者だよ。
巫女さん見たさに神社をはしごする奴よりもある意味たちが悪い。
「北川君どうしてびしょ濡れなの?」
洗濯中のものを着てきた、という感じではなさそうだ。
少し汚れているようだし……
「学校に行く途中、屋根から半分溶けた雪が落ちてきたんだ」
悲惨というか漫画のような奴だな。
「寒くないの?」
「無茶苦茶寒い」
「早く教室に入った方がいいよ」
心配そうにあゆと名雪が北川を気遣う。
実にほのぼのした光景だ……
っと
「時間やばくなかったか?」
「あ……」
「走るぞ」
「う、うん、じゃあねあゆちゃん」
俺と名雪は頷くと同時に昇降口に向かってダッシュした。
「ふ、服が重い……か、体が震える……」
その後を北川がヨタヨタと情けない足取りで追ってくる。
名雪と一緒に教室に駆け込み、見知ったクラスメートと軽く挨拶して席につく。
問題の香里は…いないか。
石橋はまだいないのかクラス中の人間が勝手気ままなことをしている。
おかしいな…チャイムはもう鳴ってるはずだが?
「祐一、あれ…」
「ん?」
名雪の指差す先を見てみると、黒板に『自習』と書かれてあった。
『静かに』……とも書かれているが、お約束でそんなものが守られているわけがない。
「さ、寒い……。走るんじゃなかった……」
と、そこに、凍死寸前状態の北川が転がり込んできた。
それでも走らなきゃいけないのが遅刻という言葉の強制力だ。
「お? 何だまだ石橋来てないのか?」
「悪運の強い奴だな…お前」
俺はそう言って黒板を指差してやった。
「自習…か。相沢、何をして遊ぶ?」
「自習と聞いていきなり思いつくことが遊びかい!」
「違うのか?」
…目がマジだ。
受験寸前とかいう緊張感はこの男には絶無なんだろうか?
まあ、トランプ広げたりしている連中が見えるこの状況で『勉強』などありえないような気もするが…
「俺は勉強する」
昨日の午前中は全然勉強してないからな。
しかし、俺がそう言うと北川はさも驚いたような顔をした。
「相沢…お前熱でもあるのか?」
「頭沸いてるのはお前だドアホ」
「そうか? 水瀬だって…」
北川につられて隣の名雪の席に視線を向ける。
「くー」
案の定寝ていた。
受験直前の自習時間に自主的に勉強しようなんて相当おかしい行為なんだろうか?
北川の発言に、お休み中の名雪。
そしてクラスの喧騒を見ていると、おかしいのは本当に自分のような気がしてくる。
「って、委員長はどこ行ったんだ!?」
この騒がしいクラスを見てあの真面目な委員長がほったらかしとは思えない。
しかし、クラスを見回しても彼の姿はなかった。
「図書室にでも逃げたんじゃないか? あいつうるさいの嫌いみたいだから」
「……おい」
なんて薄情な委員長だ。
それでも元生徒会長か!?
ザワザワ
ザワザワザワザ…
「俺も逃げよう」
出た結論は俺も委員長と同じ敵前逃亡だった。
薄情って、人のこと言えないな俺も。
「ところで、いったい何で自習なんだ? 隣のクラスもうるさいが」
隣どころか学校中うるさい気もする。
「まあ、文化祭の後だからな」
「どういうことだ?」
「打ち上げで羽目を外した連中に関する職員会議だろう」
「なるほどな」
どこの学校でも祭りの後で大なり小なり人様に迷惑かける奴がいるものだ。
石橋先生ご苦労様といったところだな。
帰り間際に校門で石橋達が目を光らしていた理由がわかった気がする。
とりあえず、2時間目まで自習らしい。
黒板でそれを確認して教室をさっさと逃げ出すことにした。
図書室に向かう途中、勉強道具を持って教室を抜け出す生徒を数人見かけた。
よかった…俺だけがおかしいわけではなかったらしい。
「…というわけで、受験希望者は模試の結果を持って面談に来るように。あとは昼まで自習だ」
二時間目に現れた石橋はそう言って、また早々と教室を去っていった。
…………
……
俺は返却された試験の成績表を見て固まっていた。
「……マジ?」
いや、それなりに手ごたえは感じていたけどこれは……
「祐一、どうだった?」
名雪がそう言って横からぴょこんと顔を出す。
「わ…」
そして名雪も俺の試験結果を見て固まってしまった。
「何だ? 何かあったのか…って、うおぉ!」
名雪の様子が気になったのか、北川も後ろから俺の成績表を覗き込む。
そして、全員揃って固まってしまった。
その視線の先には……
校内順位『1位』の表示が。
「凄いよ〜。祐一」
名雪がまるで自分のことのように喜んでくれる。
こう含みのない笑顔で祝福してもらうのは悪い気はしない。
「しかし、美坂はどうしたんだ?」
そう、それがどうにも腑に落ちなくて素直に喜べないのだ。
確かに今回は自己採点で校内5位くらいは狙えるのではないか?
という自負はある程度あったし、期待もしていた。
無論香里には絶対負けると思っていたのだが……
そもそも俺の点数はこないだ名雪に話した予想通りの671点。
いくら調子が悪くても香里なら軽くこの50点以上は取ってくるはずだ。
越えられない壁と感じていたものをあっさり知らないうちに越えてしまったようで何だか宙ぶらりんな気分である。
「それはそうと相沢。面談はいいのか?」
「あ、俺からか」
面談の順番は出席番号順。
つまり名前順だ。
見ると他の面談希望者はもう教室を出てしまっている。
「まず。急いで行ってくる」
俺の後の3人は面談室の前で待機。
ようは俺が出て行かなかったら寒い廊下で待ちぼうけである。
後で文句を言われるのはいうまでもない。
急いで模試の成績表と簡単な筆記用具を持って俺は席を立った。
「行ってらっしゃいだよ」
名雪…頼むからみんなの前でそういう誤解を招きそうな笑顔と挨拶はやめてくれ。
嫌じゃないが、やっぱり恥ずかしい。
昼休み、食堂で輪を囲んだ俺たちの話題は当然、面談で石橋に何を言われたか、だった。
「石橋の奴……オレに何か恨みでもあるのか?」
「酷いよ、あんなに怒らなくても……」
の、筈だったがなんだか俺以外はさんざんな面談だったらしい。
しょっぱなから北川と名雪は不機嫌だった。
「お前ら帰ってくるのが妙に遅いと思ったら、二人とも怒られてたのか」
面談で長い時間かかるやつは決まっている。
説教を受けるやつか、微妙な成績で志望校を担任と一緒に迷うやつだ。
で、二人揃って前者だったらしい。
「ちょっと400越えなかった位であそこまで目くじら立てなくてもいいじゃないか」
「400以下って…半分なかったのか北川」
ちなみに英語・数学・国語が各200点、社会・理科が各100点の800点満点だ。
「国語が14点だったんだ」
「記号問題だけのマーク試験で何でそんな点数が取れるんだ…」
意図的に正解を外して選ばないと普通そんな点数取れないだろう。
同じ記号だけ選んで全問埋めても40から70は取れるらしいのに…
ある意味才能だ。
「で、何点だったんだ?」
「342点」
「どこがちょっと越えてないだ! 余裕で半分ないだろ!」
石橋が怒る理由もわかる気がする。
この時期にここまで危機感ないやつと面談してたんじゃあ胃に穴も空くだろう。
素直に進学諦めてくれる方が担任にとってもありがたいに違いない。
「なあに、社会と理科なら今からでもいくらでも上るって」
「ちなみに社会と理科の合計点は?」
「20点」
……そりゃもう下がりようがないだろ。国語も含めて。
ていうか、数学と英語だけで7割強の300点取ったのか?
出来てる科目と出来てない科目が歴然としすぎている。
ネタでやってるんじゃないだろうな?
なんだかそう邪推もしたくなる極端ぶりだ。
「北川…がんば〜」
「そのやる気のない応援は何だ相沢」
「べ〜つ〜に〜」
真面目に相手すると、マジになってる自分が馬鹿らしくなるだけだ。
北川は非常に不服そうだったがあえて無視。
少しはショックを受けて真面目にやって欲しい。
いや本人の中で真面目かどうかは置いといて、見た目にもという意味で。
これで一度も赤点取ったことがないというのも驚きだが、赤点を逃れるのと入試を切り抜けるのとは別問題だぞ。
それを理解してないからこその余裕なのだろうか?
ある意味、北川のチャンプな態度は惚れ惚れするものがある。
絶対に見習いたくはないが。
「で、名雪はなんで怒られたんだ?」
「うん、酷いんだよ。自己採点から50点も上ってたのに石橋先生ったらカンカンで……」
「待て、それは怒って当然だ」
北川といい俺の周りにはまともなのがいないのか?
センター試験は全部記号問題のため、問題用紙に答えを書き込んでおけば正確な自己採点が出来る。
本番では試験結果は返ってこないので、学力だけではなく正確な自己採点ができる技術も要求される。
といっても、点数計算のミスや解答欄の記入ミスがない限り基本的に自己採点と結果とに誤差はない。
むしろ誤差が生じる時は圧倒的にマイナス方向に働くことが多いわけだが…
俺の目の前にいる能天気娘は50点も上ったらしい。
このセンター試験、大学を受けるための全国共通の資格試験みたいなもので、これの結果が悪いと下手をすると大学の入試から門前払いをくってしまう。
逆を言うと、これでいい結果を出しておくと有利にもなるのだが。
そういうわけで50点も違えば受けられる大学も学部も大きく変わってくる。
つまり、正確な自己採点が出来ないのは致命的ということだ。
これを本番で誤まったばかりに涙を飲む学生が毎年少なからず存在する。
…とまあ、普通は採点ミスで点数が上っているのは喜ばしいことであるのだが
今回の場合は喜ばしいことではない。
しかも50点という大きな変動。
それがプラスの方向となると前代未聞に近い。
……少なくとも俺の中では。
そもそも、僅かな誤差があるだけでも小言を言われることもあるのに、50点もやっているとなると担任が怒るのも無理はないことだ。
「でも、50点も上ったんだからいいことだよ」
「何をどうやったらマークミスで50点も上るんだ……」
まったくもって理解不能である。
たまたま解答欄をずらして書き込んでしまった答えがそうもうまく当たるものだろうか?
いや、待て。名雪みたいに人と1メートルほど感覚のずれたやつは解答欄をずらしてはじめて答えが合うようになるのでは……
「祐一、何か今信じられないくらい失礼なこと考えてない?」
「思いっきり考えてる。ていうかお前が信じられん」
「うー」
真っ向から肯定されて名雪は唸るしかないようだった。
「オレも自己採点だけはミスったことがないぞ」
「お前はその前にミスが起こるくらいの点数を取れ。だいたいお前と名雪の点差200点も開いてるぞ」
14点や20点なんて採点ミス以前の問題だ。
「何!? 水瀬は500あるのか!?」
「550点だ」
「…マジ?」
何となく気持ちはわかるぞ北川。
このいかにも要領悪そうな名雪が中堅大学クラスの点数はクリアしてるんだからな。
陸上やっててそれだから実は結構勉強の才能があるのかもしれない。
「…あれ? 何で祐一わたしの点数知ってるの?」
名雪が横で首をかしげていた。
「こないだ帰り道、500点って言ってただろう」
そこから50点上ったんだから550のはずだ。
「あ、うん。言ってたね」
……待てよ?
確かそういえばその時…
そうだ、間違いない。
「名雪…お前ひょっとしなくても英語の採点中に寝てたな?」
「え? えっと…」
英語の試験中寝ていたとか言ってたが、本当はそうじゃなくて…
俺がそう問い掛けると、名雪はしばらく目を泳がせてから
「……あ、そういえば英語の長文問題の採点中の記憶がないよ〜」
と謎が解けてスッキリしたと言わんばかりの笑顔を見せた。
俺の方は頭痛がしてきたが。
俺の周りにはまともなやつはいないのか、ほんとに…
受験本番を控えた、重要な模試だぞ?
なのにネタのような点数を取ってる北川と、マイペースの名雪。
こいつらに緊張感とかいうものはあるんだろうか?
マジになっている自分が馬鹿らしく思えてくる。
「まったく……本番の時は何度も採点の見直しやれよ」
「わかったよ〜」
信用度21%くらいの脱力を誘う笑顔で名雪はそう答えた。
「はあ……」
疲れる。
「ああ、そういえば…自己採点で思い出した」
「え?」
「香里のやつどうもマークミスだったらしい」
「美坂が!?」
「ああ、面談の時どうしても気になったから訊いてみたんだ」
ちなみに、俺への石橋の指導は
『いい気にならずがんばれ。校内順位は褒めてやるが、まだ20点はないと厳しいぞ』
というものだった。
「社会が0点だったらしいんだ」
「マジかよ。美坂が0点なんてはじめてのことだぞ」
驚く北川の隣で名雪も神妙な顔で頷く。
親友の名雪から見ても香里がそんなミスをする人間には見えないってことだろう。
実際俺もこの1年香里を見ていて、あいつがミスをするところなんてまったく見たことがない。
そんな香里がよりによってこんな大事な時期の試験で初歩的なミスをするなんて、
石橋から訊いた時にはにわかに信じられなかった。
「だけどな……それでもやっぱり香里らしいというかなんというか」
「……?」
「あいつ、社会0点なのに俺と2点差で2位なんだ」
コトッ
唐揚げを掴もうとしていた北川の箸が落ちた。
ついでに名雪のフォークも。
「相沢の2点差って、社会抜きのハンデで669点!?」
あまりの驚きに北川絶叫。
俺も聞いた時は本気で驚いただけに気持ちはよくわかる。
「石橋から直接訊いた。提出された自己採点では750点越えてたらしい」
ちなみに800点中の750点である。
「香里凄いよ〜」
「化物か?」
「お前らは別の学部だからいいよ。俺なんか同じ医学部志望だから見比べるとぞっとする」
なんと言うか、いつもどおり素直に1位とっててくれたらここまで意識しなくても済んだだろうに……
ハンデ付きで辛勝というのは実力の差をいつも以上に見せ付けられた気がする。
もちろん本人にそんな意識はないのだろうが。
「ってよくよく考えたら、オレにとっては美坂も水瀬も変わったもんじゃないな。驚いて損した」
そう言って、北川は唐揚げ定食に向かって箸を動かし始める。
ってこら、お前はもう少し危機感持ってくれ。
頼むから!
「でも、香里どうしたのかな…なんだか香里らしくないよ」
名雪が腑に落ちない顔をするのももっともだと思う。
あの顔面神経痛みたいな顔して机に向かってる香里がそんなくだらないミスをするなんて……
もちろん、人間誰しもミスというものはあるが、ただ、それでも人前ではミスを見せない、いわゆる完全主義者的な人間は存在する。
香里はまさにそんな典型的なタイプの人間だった。
やっぱり、香里は俺たちの知っている香里ではなくなってきているのだろうか?
その後はなんとなく空気の重い昼食になってしまった……
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