12月13日(月曜日)


 その光景が見えた瞬間、俺はこれは夢だとわかった。
「うぐぅ」
 大きな白いリボンの少女が泣いている。
 忘れもしないあゆと初めてあった時の光景だ。
「……う、ぐっ……えぐ……えぐぅ……」
 あゆはずっと泣き続けていた。
 あの時はどうやったら泣き止んでくれるのか本当に困ったものだ。
 悲しみのわけを知るまでは厄介なのに絡まれたと思ってたっけ……
 夢というのは勝手なものだ。俺が郷愁に浸っているというのに別の場面に俺を運んでいく。


「うぐぅ」
 ……今度は7年後の再会の光景だった。
 そういえば、この時も厄介な奴に絡まれたと思ってたな。
 幼なじみとの再会から二日連続で食い逃げの共犯にされたのは俺くらいのものだろう。
 次々とあゆとの思い出が浮かんでくる。
 それは夢が見せた光景なのか、それとも俺の思い出なのか……
 どちらかはっきりしないうちに思考がおぼろげになってきた。
 もう少しこの懐かしくてそして悲しくて楽しい夢に浸っていたかった。
 が、夢とは勝手なものだ。
 薄れゆく意識の中で俺は思う。
 俺はあゆからたくさんの思い出をもらっていたのだ…と











「……っ痛」
 どうやら勉強しながら机に突っ伏して寝ていたらしい。
 枕にしていた右腕が痺れている。
「11時か……」
 朝食を食べ終わったのが8時だから3時間ほど寝ていたことになる。
 まったく、名雪じゃあるまいし何時間寝たら気がすむんだよ俺は……
 昨日早く寝ておきながらまた居眠りしてしまうなんて大丈夫か?
 自分に呆れながら俺は右腕の痺れが引くのを待った。
 せっかくの文化祭明けの休み、無駄にしたらもったいない。
 何気なく窓の外を見ると何とも言えない曇天の空が広がっていた。
「はあ、トイレにでも行くか……」
 なんとなく鬱な気分になったので俺は気分転換に部屋の外に出ることにした。
 扉を開けて廊下に……


「…………」
 廊下に出たところで俺は茫然とした。
「この家ってこんなに静かだったか?」
 廊下はぞっとするほど静かで、そして冷たかった。
 確かに秋子さんが仕事に行っていていないというのはある。
 名雪は…部屋で寝ているのだろう。
 だけど……
 以前は同じ状況でもこんなに寂しい感じはなかった。
「……あゆ」
 いなくなるとこんなに違ってしまうなんてな……
 もうあゆがいない水瀬家なんて俺には想像もできなかった。
 まったく…そんな大事な人なのにどうして俺はいっつもからかってしまうんだろうな。
 いない時は真面目にあゆのことを考えているけど
 本人と顔をあわせたら絶対からかってしまうだろう。
 これでお互い恋人同士と思ってるところがまた凄い話だと思う。
 家族以上恋人未満……
 俺とあゆの関係ってそういうものだろうか?
「『腐れ縁』ねえ……」
 全国の腐れ縁カップルにお互いどう思っているのかアンケートでもしてみたいものだ。


 トイレから帰って再び机に向かう。
 英単語の暗記しなきゃな……

 …………。
 ……。

「だあああっ! 何やってるんだ俺は?」
 さっきから30分経ってるが同じ単語ばかり指でなぞっている。
 ようは全然集中できてないのだ。
「はあ……」
 俺は机に足を投げ出してボーっと天井を眺めた。
 こんな状態じゃいくら机に向かったって意味がない。
 あゆは今ごろどうしているんだろうか?
 結局集中出来ないわけはそこに行きくのだった。
 朝は俺が起きるより早くに月宮さんと家を出て行ったためにその様子を伺うことは出来なかった。
 泣いてるだろうか、いやそれとも案外気丈に振舞ってるだろうか?
 離れて生活しているとはいえ、俺もこの年で母親の墓前に立つなんてことは想像したくもない。
 ましてやあゆは……
 克服できるんだろうか?
 出会ったときはあんなに泣いていたあゆが。
 それからあゆの中ではまだ1年しか経ってないのに……
 帰ってきたとき、あゆがどんな顔をしているかを考えるだけでも気が気でなかった。
「ふっ、ふふふ」
 と考えたところで俺はおかしくなった。
 何で俺はこんなにあゆのことが気になるのやら。
 結局は全部あゆ自身の問題じゃないか。
 俺がどんなに心配しても何かが変わるわけでもない。
 じゃあ何故?
 好きな人だから?
 いや、そんな陳腐な理由じゃない。
 そうか……
 俺は……
 あゆの笑顔が消えるのを恐れているんだ。
 あゆのことが心配なのもある。
 だけど、俺自身あゆの笑顔を見れなくなるのが辛いのだった。
 泣いたり、怒ったり、笑ったり……
 あいつのころころかわる表情が見れなくなるかと思うと気が気ではない。
 以前栞が『あゆさんの笑顔に励まされて頑張れました』って言ってたが……
 その意味の深さがよくわかった気がした。
 俺だけじゃない。名雪や秋子さん、月宮さんもそうだろう。
 あゆはいるだけで周りの人間を明るくしてくれるやつなのだ。







「……昼飯でも作るか」
 昼食でもとれば少しは気が晴れるだろう。
 おあつらえ向きに空から明るい日差しが差し込みはじめていた。
 少し暖かくなり始めた部屋を後にして廊下へ。

「いちたすいちは……に」

 階段を降りようとした時妙な声が聞こえてきた。
「…………」
 何か聞いてはいけなかったような、聞かなければよかったような……

「いちひくいちは……ぜろ」

 声の聞こえてくる方向を見る。
 いや、見ないでも誰の声かはわかっているのだが。
 『なゆきの部屋』と書かれたプレートが目に入る。
 そうか…算数の勉強をしてるんだな、名雪。
「って、お前は小学生かっ!」
 というか昨日から何時間寝てるんだ!?
 俺は名雪の部屋の扉を殴打し、名雪を叩き起こして昼食に向かうのだった。
 まったく、こいつはどうしてこういう妙なときだけムードメーカーになるのやら……











 名雪のボケが効いたのか、午後は比較的勉強に集中できた。
 とは言ってもいつもの半分くらいだが……
 どうしてもあゆのことが少し気になってしまう。
「ね、祐一ここの訳教えて」
 で、1時間ほど前から俺の部屋には名雪がいる。
 なんでも英語がわからないから教えて欲しいとかいうことらしい。
 普段なら『俺は人に教えるのは得意じゃない』と言って追い払うところだが……
 どうせ勉強に身が入らなかったところなので相手をしてやっているのだった。
 まあ、たまには人に解説できるか確かめるのも勉強になるだろう。
「ああ、そこは……ってなんだその訳は!?」
「え?」
「間違った顔などない。全ての線は同じである。彼は私に会社の命運をかけると、私のデスクにアッパーを打った」
「違うの?」
「どこにこんな危ない会社があるんだ……」
「だって最近不景気だし皆ピリピリしてそうだから」
 会社の名前を騙る暴力団の組事務所の一コマにしか見えないのは気のせいだろうか?
 英語の訳をすると人間人格が変わって見えるから怖い。
「ええと…『There was no mistaking the face -- every line was the same.』」
 俺は問題文を音読した。
「『He glanced at me and moved toward the companionway for the upper deck.』」
 そして名雪が爽やかに2文目を読み上げる。
 むう、発音は無茶苦茶うまいじゃないか。
「って、何でお前が読み上げてるんだ?」
「二人で読んだ方が楽しいよ」
 にこっと笑顔で言う名雪。それもそうか……
「じゃ、ないだろ。何しに俺の部屋に来てるんだまったく」
「うー、楽しいのに……」
「『うー』じゃない!」
 危うく名雪のリズムにはまって脱線するところだった。
「それの訳はだな……」
 …『the upper deck』これがあの珍解答の原因か。
 名雪でこれじゃあ『織田信長』な北川はどんな解答を出してくるのやら……
「その顔を見間違える筈がなかった。顔の皺も全て同じだった」
 で、二文目が…
「彼は私をチラリと見ると上甲板に通じる昇降階段の方へ向かった」
 というところか?
「わ、なんだか合ってるみたいだよ」
「みたい…じゃなくてこれが正解だろ」
 絶対合ってるとは言い難いが、少なくとも大はずれではないはずだ。
「どうしてそうなるの?」
「待ってくれ、それを今から説明するから。俺もとりあえず訳しただけなんだ」
「うん、わかりやすく教えてね」
 ニッコリ笑う名雪。
「…………」
 うわ、なんて罪の無い笑顔をするんだこいつは。
 不覚にも少しドキッとしてしまった。
 いとこの女の子とはいえこのシチュエーションはおいしすぎる。
「な、何? 祐一」
「いや…お前少し無防備すぎないか? 今この家には俺とお前しかいないんだぞ。しかも同じ部屋に二人っきり」
 更に言うなら寝巻のままというのが余計に何も考えていないように思える。
 おまけにノーブラなのか胸が、その……いつもより大きく柔らかそうに見えるわけで。
「祐一変なこと考えてるの? あゆちゃんがいるのに」
「そんなに俺が信用できるのか?」
「うんっ」
 またしてもさっき以上の罪の無い笑顔。
 駄目だ…ここまで無意味に信用されてしまうとその気になってても襲えない。
 にしても、少しは恥ずかしがると思ったら呆れた顔しただけとは……
 俺があゆ以外には心を奪われたりしないと思ってるんだろうか?
「なあ、名雪お前俺とあゆのことをどう思う?」
「大好きだよー」
 ……馬鹿かこいつは、こっぱずかしいこと素で言って。
 普通『それってどういう意味?』って前置きがあるだろ。
 名雪以外こんなこと言える奴はいな……


 『了承』


 いやあと一名いたな。
 それはともかく
「いや、そうじゃなくて……お前から見て俺達はどう見えるんだ?」
「すっごくお似合いだと思うよ」
 名雪はそう全く屈託の無い笑顔で言った。
「そうか」
 どうも俺が思っている以上に周りから見たら俺達はお似合いらしい。
 鈍そうな名雪ですらそう言うのだから他の人から見れば尚更だろう。
「祐一…何だか凄く腹が立つんだけど」
 どうも口元が緩んでいたらしい。
 名雪がこっちを恨めしげに睨んでいた。
「なんだ、俺とあゆの仲に嫉妬してるのか?」
「違うよ。うー……でもそうかも」
「えっ?」
 俺とあゆの仲に名雪が嫉妬していたって…
 ということは、名雪は俺のことが…
「祐一とあゆちゃんみたいに心から通じ合ってる関係って羨ましいよ」
「俺と名雪には心で通じ合うところは無いのか? あと秋子さんも」
「そんなことはないと思うけど…やっぱり祐一とあゆちゃんは特別だと思うよ」
 名雪の表情は複雑だ。
 自分でも言いたいことがよく分からないのだろう。
 俺も何となくわかるようでわからない複雑な気分だ。
「でも、それは嫉妬しているとは言わないんじゃ…」
「ううん、嫉妬だよ。多分わたしはそんな人と会えないと思うから」
「おいおい、今から人生諦めるなよ。きっと名雪にだって…」
「それでも…だよ。きっと祐一とあゆちゃんにはかなわないと思うから」
「…名雪」
 寂しそうな顔を見せる名雪に、なんて言えばいいのか分からなかった。
 思わず言葉に詰まる。
 だが、名雪はそんな俺の目をさっきとはうって変わった優しい顔でじっと見つめてきた。
「祐一は気付いてないのかもしれないけど、あゆちゃんは祐一にとってそれくらいの宝物なんだよ」
「そうか?」
 口ではそう言い返してみるが、そうなのかもしれない。
 今朝の夢と、午前中のことが頭に浮かぶ。
「だから、絶対に手放したらダメだよ」


    『だから、絶対に手放したらダメだよ』


 何故かとても胸に響く一言だった。
 それに…そんな目でじーっと見られるとなんとなく恥ずかしい。
 名雪がお姉さんみたいに見えるじゃないか。
 そう思った瞬間俺は名雪から目を逸らしていた。
「っと、無駄話してる時間なんかなかったな。さっきの英訳の説明しないと……」
「…祐一、あゆちゃんのことになるといつもこうなんだから」
 あからさまな俺のごまかしに名雪が横で呆れたように呟く。
 なんだか余計に自分が名雪より幼く感じさせられて恥ずかしかった。








 ガチャッ!

 玄関の開く音がした。
「ん? 秋子さんか?」
「お母さんは月曜日はもっと遅いはずだけど…」
 二人揃って時計を見ると時間はまだ3時。
 さすがに秋子さんの帰ってくる時間にはまだ遠い。
「ってことはあゆか」

 ダンダンダンダンッ!
 バタンッ!

 出迎えに行こうと部屋を出ようとすると、階段を走って登る音と、あゆの部屋の扉が乱暴に閉められる音がした。
「あゆ?」
「あんな閉め方したらドアが壊れちゃうよ〜」
 さっきの大人びた雰囲気はどこに行ったのか、名雪はいつもの調子に戻っていた。
「どうしたんだあいつ」


 俺達は部屋を出てあゆの部屋の前に立った。
「あゆ、入るぞ」

 ガツッ!

 引っぱった扉が嫌な音を立てて引っ掛かった。
「鍵かかってるね」
「おい、あゆ開けろ! 何やってるんだ!?」
 今まで使ったことのない鍵までかけて閉じこもるなんて普通じゃない。
 俺は何度もあゆの部屋の扉を叩き続けた。
「あゆちゃん、どうしたの?」
 そんな俺の後ろで名雪も心配そうにドアを眺めながら何度もあゆに語りかける。


「しばらく…そっとしておいてやってくれないか? あれでも随分落ち着いた方なんだ」


「あ、月宮さんお帰りなさい」
「お帰りなさい」
「ただいま…でいいのかな。祐一君に名雪ちゃん」
 俺達がドアに気をとられているうちに、階段を上ってきた月宮さんが後ろに立っていた。
 肩を落とした雰囲気から察するに、随分疲れているようだ。
「あの…大丈夫ですか?」
 名雪も心配になったのだろう。そんないたわるような質問をする。
「ああ、僕は大丈夫。悪いけど、下で少し休ませてもらえるかな」
「名雪、俺は部屋の片付けしておくからお前は月宮さんにお茶出してくれ」
「うん。あ、わたしのねこさんの文房具は持っていっちゃ駄目だよ」
「持っていくわけないだろそんなモノ……。月宮さん疲れてるんだからさっさと行け」
 妙なところにこだわる名雪に呆れながら俺はそう指示した。
 大体意味がわかったのだろう。後ろで月宮さんも苦笑してるようだった。


 部屋に戻る前に俺はあゆの部屋を軽くノックした。
「あゆ、言ってくれれば温かい飲み物いつでも持っていくからな」
「……う、ぐっ……えぐ……えぐぅ……祐一君……」
 俺がそう言ってあゆの部屋を後にしようとすると思いがけずあゆから返事があった。
 今にも消え入りそうな声で……
「ごめんね…今ボクの顔きっとぐしゃぐしゃだから」
 震える声で俺に語りかけるあゆ。
「わかった。気の済むまで泣いてくれ。夕飯は食べたくないんだろ?」
「うん……。秋子さんにごめんねって言っておいて」
「気にするな。それより早くいつもの顔に戻って秋子さんたちを安心させてやれ」
 俺もお前がいつもの顔に戻ってくれないと困る…とは言わない。
「あ…ぬるいお茶もらえる…かな?」
「温かくなくていいのか? 体が冷えてるんだろ?」
「うぐぅ、猫舌……」
 妙なところでマイペースな奴だな……。
 名雪とあゆって時々よく似ていると思わされる。
「わかった。ついでにたい焼きでも買ってきてやろうか?」
 はじめて会ったときのあゆと今のあゆを重ね合わせたのだろう。
 俺は自然とそんなことを口にしていた。

「たい焼きっ」

「……お前、今声が弾んでたぞ」
 本当に悲しんでいるのか? と突っ込みたくなったが、昔よりは早く立ち直ってくれそうで安心した。
「うぐぅ…いじわる」
「ぬるいお茶とたい焼き、部屋の前に置いておけばいいな? 顔見られたくないんだろ?」
「うん…ありがとう」
「お互い様だ」
 俺はいつもお前からたくさんのものをもらってるからな。
 と心の中で言っておく。
「え?」
「何でもない」









 部屋の片付けを終えてダイニングに入ると……
 お茶を飲んでソファーに横になった月宮さんと
 その隣に座って幸せそうに舟をこいでいる名雪がいた。
「って何やってんだお前は!」
「うにゅ」
 ほっぺたをペシペシ叩いて目を覚まさせる。
「あ、祐一」
「まったく……」
 どうやら熟睡はしていなかったらしい。
 名雪はすぐに立ち上がると軽く伸びをした。
「相当疲れたんだね月宮さん」
「みたいだな」
 俺が名雪に怒鳴ったのに目を覚まさずぐったりしている。
「お墓参りのあと泣き出したあゆちゃんを慰めるので大変だったらしいよ」
「相当酷かったんだな、さっきまでは」
 名雪がふと気付いたように俺の体を見回して首をかしげる。
「祐一、なんで着替えてるの?」
「ちょっと商店街にたい焼き買いに行ってくる」
「あゆちゃん?」
「ああ、夕飯はいらないらしいけどな」
「あゆちゃんらしいね」
 俺達は二人してクスクスと笑った。


 待てよ…
 ……お墓参り?
 そこで俺は何か違和感を感じた。
 あゆだけなのか?
 名雪は?
「どうしたの祐一?」
 突然真剣な顔になった俺に驚いたのか、名雪が覗き込むように訊いてくる。
「なあ、嫌なら答えなくてもいいんだけど」
「何?」
「お前の父親ってどうしたんだ?」
 今考えると子供の時にもいなかったはずだ。
 たしか母さんの話だと名雪が生まれてからすぐに死んだとか言ってたような……
「何言ってるんだよ祐一。わたし、お父さんのことはよく知らないよ。小さい時にいなくなってるから」
 『まったくも〜』って顔で呆れたように言う名雪。
「だよなあ。でも悲しくないのか? あゆはあんな調子なのに」
「うーん、寂しいけど……わたしお父さんのことはよく知らないから」
「そんなもんか……」
 まあ確かに、見覚えのない人じゃあ偲ぼうにも偲びようがないか。
「それにわたしにはお母さんがいるから悲しくないよ。祐一やあゆちゃんもいるしね」
 名雪は笑顔でそう締めくくった。
「悪い、変なこと訊いた。じゃあ、俺行ってくる」
「あ、祐一わたしもたい焼き」
「……奢らないからな」
「言われなくても払うよ……」
 ううむ、さすがにがめつい発言だったか。
 名雪に呆れ果てられるとは……
「行ってきます」
 俺はそそくさと逃げ出すように玄関にむかった。
 と……
 玄関に出るところで足をとめて振り返る。
「なあ、名雪の父親って何してたんだ?」
「知らないよ〜」
「秋子さんに訊いたことないのか? ていうか気にならないか普通」
「うー、今まで考えたこともなかったよそんなこと」
「そんなものか」
 いや、名雪を『普通』の感覚で推し量ること自体間違っているような……
「祐一、今凄く失礼なこと……」
「行ってくる」
 危ない危ない。危うく口に出してしまうところだった。
 親しすぎると口が軽くなってしまうのはこういう時困る。
 難癖つけられてたい焼き奢らされる羽目になるのはごめんだったので、俺は振り返らずに商店街に走っていった。














 そして……
 月宮さんは夕食を俺達と一緒に食べた後帰っていった。
 新年には水瀬家に来れるように仕事を片付けないといけないらしい。
 仕事って言ってもあの人の場合自分の研究の筈なんだけどなあ……
 大学での講義のスケジュールでもあるんだろうか?
 ひょっとしたら、自分がいたらあゆが今日のことを忘れにくいからとか思って距離を置こうとしているのかもしれない。
 あの人があゆと距離を開けて住んでいるのもそれが理由だろうか?
 詳しくは知らないが、そういう事なのかもしれない。
 一見すると間違った親子関係にも見えるが、それも娘を想う父親の立派な愛情だと思う。
 帰り際ドア越しにあゆと少し話をしていたところを見ると、あゆも随分落ち着いたらしい。
 夕食にはやっぱり出てこなかったが……
 明日くらいにはいつもの顔を見せてくれるだろう。
 心配事がなくなったおかげか夜は比較的頭が冴えていた。
 この分なら朝何も出来なかった埋め合わせも十分できるだろう。
 適当に科目を変えながら俺は頭に入れておきたいことをチェックしていった。


 コンコン。


 ん? 誰だ?
 時間はもう夜の12時。
 名雪…のわけはないな。
 日中いくら寝ていてもこの時間には起きてない、と断定できるとは我がいとこながら情けないやつだ。
 となると……
「秋子さんか!?」
 俺は禁断の香りが漂う花園を頭に浮かべながら、嬉しそうに言ってやった。
「ボクだよ……」
 複雑な表情をしたあゆが入ってくる。
「なんだ、あゆか」
 かなりわざとらしく残念がってみせる。
「なんだ、って…うぐぅ、秋子さんの方がよかったの?」
「もちろんだ」
「何で?」
「お前にはまだ早い世界の事情だ」
 早い遅い以前に問題発言のような気もするが。
「……?」
「まあそれは置いといて、どうしたんだ? 今日はもう閉じこもりっきりだと思ってたぞ」
「う、うん。そうなんだけど……」
 もじもじ
「……わかった。ついて行ってやるから」
「ありがとう、祐一君」
 怖くてトイレに行けなかったらしい。
「あ、でもお話もあって来たんだよ」
「ついでのように言うなっ」
 まだ少し悲しげではあるが、いつもの『うぐぅ』ぶりが戻っていた。




「今日は心配かけてごめんね」
「大丈夫だ。あゆの心配をするほど俺は落ちぶれてはいない」
「うぐっ、少しは心配してよ!」
「もちろん冗談だが」
「冗談を言うべき場面じゃないよ……」
 部屋に戻った俺達はお互い椅子とベッドに腰掛けながら向かい合っていた。
「にしても、随分早く立ち直ったなあ、お前」
 7年前あんなに泣いていたあゆが1日も置かずにいつものあゆに戻っていたのには正直驚いた。
 雰囲気が既にいつもの感じなので、場違いとわかっていながらもついついからかってしまう。
「……本当はね、ボクさっきまで悲しくて泣いてたんじゃないんだ」
「え?」
「嬉しくて、それで胸が痛くなってたんだよ」
 嬉しかった?
 俺はあゆの言葉の真意がよくわからず、次の言葉を待った。
「ボクね、今日お母さんのお墓の前で、お母さんに報告してきたんだ」
「何て?」
「お母さん、ボクは今とっても幸せだよ…って」
 あゆは続ける。
「優しくて綺麗なお母さんとお姉さんがいるし……」
 秋子さんと名雪のことだな。
「お父さんや栞ちゃんもいるし……それに」
 あゆの目に少し涙が滲む。
「祐一君もいるからとっても幸せなんだよ…って。だから……」
 だけど、あゆの強がりもそこまでだった。
「だから……ボクはもう…悲しくなんか…ないもん。う、ぐっ……えぐ……えぐぅ……」
 堰を切ったように溢れ出す涙。
 だけど……
 今はちゃんと拭ってやれる。
 あゆの隣に腰掛けた。
 するとあゆは何も言わず俺の胸に顔を埋めてすすり泣いた。
「まったく、お前はいつまでたっても子供だな」
 俺は呆れたように言った。
「うぐぅ……」
「強がり切れないくせに、無理に強がって見せるんだから」


 それからどれだけ時間が経っただろう?
 俺にもたれかかってずっと泣いていたあゆが不意に顔を上げた。
 涙で少し顔が赤くなっている。
「あのね、祐一君」
「何だ?」
「もし、もしもだよ。幸せな夢の中にいられるのならどうしたい?」
「そりゃ、覚めて欲しくないよな。まあ、夢は本物じゃないんだからそれじゃいけないけど」
 突然変なことを言い出すものだから少し焦ったが、俺は思ったことを素直に答えた。
「うん…そうだよね。前のボクがそうだったから。でも夢をずっと見ていたらボクは駄目だったと思うんだ」
「ああ…、だけどどうしたんだ? 突然そんなこと言い出して」
「うん、ボクね思ったんだ」
 あゆの表情がすこし険しくなる。
「何を?」
「名雪さん、何かずっと覚めて欲しくない夢があるんじゃないかなって」
「え?」
「ううん、ただちょっとそんな気がしただけ。名雪さん時々凄い寂しそうな顔をするから」
「名雪のあれは寝坊癖が酷くなっただけだろう……」
「あはは、やっぱりそうかな」
 柄にもない話をしたのが恥ずかしかったのかあゆは笑って照れ隠しをしていた。

 だけど俺は……
 名雪の部屋と俺の部屋を隔てる一枚の壁に
 一瞬なんともいえない不安感を覚えたのだった。


 …………。
 ……。







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