「ただいま〜」
さっきのじゃれあいで気分も晴れていたのだろう。
あゆはいつものように元気のいい挨拶をして家に入った。
「ちっす」
「え?」
「『え?』じゃない。この家では帰った時の挨拶は『ちっす』って決まりなんだ」
「そうだったの?」
「知らなかったのか? まったく秋子さんもあゆには甘いんだから」
もちろん大嘘である。
なんでこいつはこう簡単に信じるのかな?
「ほれ、秋子さんが来る前にはやく言い直せ」
「う、うん。『ちっす』」
本当に言ったよ……。ん?
ふと脇を見ると見知らぬ靴が混ざっている。
黒の男物の革靴だ。
誰かお客さんでも……?
カチャリ
と思っていると、リビングの扉が開いた。出てきたのは……
凶悪そうな面をしたオヤジだった。
「うわっ!?」
ドサッ!
俺はびっくりして尻餅をつくと同時に背負っていた名雪を落としてしまった。
ゴツッ!
名雪はそのまま後ろの玄関に頭をぶつけたらしい。凄い音がした。
「わっ…な、名雪さん大丈夫!?」
「うにゅ…あさ?」
「…………」
頑丈な奴だ…今まで起こし方がいかに甘かったかいやがおうにも認識させられた。
あゆも開いた口がふさがらないという顔をしている。
それより目の前の凶悪犯らしきオヤジのほうが今は問題だ……って、あれ?
「どうしたんだ? 一体?」
「あ、お父さん」
眼鏡をしてないから一瞬見分けがつかなかったが、よく見ればあゆの親父、もとい月宮さんだった。
そういや今日来るって朝あゆが言ってたな。
「…大丈夫かい? 祐一君と名雪ちゃん」
月宮さんは派手に頭をぶつけた名雪の方を心配そうに見やった。
「あれ? わたしのイチゴサンデー…どこ〜?」
…文化祭の時のまままだ寝ぼけてるらしい。
この衝撃でもマイペースとは…やはり普通ではないな名雪。
「イチゴサンデー?」
「あ、気にしないで下さい。寝ぼけてるだけですから。あと数分もしたらいつもどおりです」
俺は名雪を抱き起こしながら月宮さんにそう説明した。
名雪の眠り癖をよく知らない月宮さんにいきなりこの展開はショッキングだろうなあ。
「それならいいけど。……さすがは秋子さんの娘さんだな」
何か今さりげなく凄いことを言って感心していたような気がするけど。
「えっと、お父さん」
そこであゆが月宮さんの様子を伺うように上目遣いで月宮さんを呼んだ。
「会いたかったよあゆ。1ヶ月ぶりだな」
そして、月宮さんはそんなあゆに笑顔で向かい合う。
…しかし、この親子本当に血つながってるのか?
どこをどうしたらこの凶悪そうな顔をした親父からあゆが生まれるのだろうか?
グレゴール=メンデルの遺伝法則もあてにならないものである。
…まあ、月宮さんの話だとあゆは極端なお母さん似だということらしいが。
「えっと……」
ん? なんだ? あゆの様子がおかしい。
笑顔の月宮さんに対して何か言いにくいことがあるかのように伏し目がちにちらちら様子を伺っている。
「どうかしたのか? あゆ」
月宮さんもあゆの態度に違和感を感じたらしい。
少し狼狽気味にあゆの顔を覗き込む。
そして、次の瞬間…
「ち…ちっす」
あゆは顔を真っ赤にしながらそう呟いた。
……だあああああ!?
まずい、まずいぞ。本当ならこれを言う相手は秋子さんだった筈なのに。
まさか月宮さん相手にあゆがそれを言うとは!
ていうか月宮さんがいるなんて予想だにしてなかった。
……どうフォローしよう?
いつもの冗談では済まなくなってしまった。
「…………」
月宮さんの表情が険しくなっていく。本格的にやばい。
あゆの無作法に怒りを覚えているのだろう。
あのただでさえ怖い顔をした月宮さんに説教をくらうなんて生きた心地がしない……が、自分の蒔いた種だ。
俺の冗談ですとここは素直に謝って……
「ちっす」
って、ええっ!?
月宮さんはにっこり微笑んでそう言った。
何気に右手まで上げてとてもフレンドリーだ。
「ちっす」
と、今度はあゆも笑顔で挨拶を返してるし……
なんというか、何か間違った世界のような気がするが、微笑ましい親子の挨拶にも見える。
「月宮さん、『ちっす』って何ですか?」
いつの間にか後ろから遅れてやってきた秋子さんが月宮さんを白い目で見ていた。
「い、いやこれはその、家に帰ってきた娘と交わすのフレンドリーな挨拶で……」
「変な冗談をあゆちゃんに言うのはやめて下さい。あゆちゃんはすぐに信じちゃうんですから」
「…すみません」
何で謝るんですか月宮さん!? 悪いのは俺なんですけど……
「家に帰ったときは『ただいま』だよ、あゆちゃん」
「う、うん」
で、こっちは名雪に諭されてるし……。
名雪は寝ていたから俺の差し金と気付いてないようだった。
一瞬『月宮親子VS水瀬親子は水瀬親子の圧倒的勝利に終わった』なんて不謹慎な構図が頭の中に浮かぶ。
「皆揃ったことですし、そろそろ晩ご飯の用意をしますね」
秋子さんは頬に手をやり何事もなかったかのように笑顔でそう言うとリビング、正確にはその奥のダイニングに引き返していった。
……なんというか、なんだか置いてけぼりにされた気がする。
しばらく間をおいて秋子さん以外の時間も動き出した。
「あ、わたし着替えてこよう」
名雪はそう言って2階へ。
「あ、秋子さん、ボクも晩ご飯手伝うよ」
あゆはそう言ってダイニングへとそれぞれ散っていった。
残されたのは俺と月宮さん。
「祐一君……」
「なんでしょう?」
さっきのこともあるので、少し恐れ気味に返事する。
「あゆにあの挨拶教えたのは君だろう?」
…ばれてるし。
「ごめんなさい」
「いや、謝らなくていいよ。悪いのは僕のほうだから」
「え?」
どういうことだろう? どう考えても月宮さんに非はないと思うのだが
「いや、君があゆに吹き込んだのは想像ついていたんだよ。ただ、ね……」
さっき険しい顔してたのは、怒っていたのではなく、考えていただけだったのか。
「ただ?」
「ああいう挨拶をするあゆがかわいかったものだからついアンコールをしてしまったんだよ」
頭を掻きながら照れ笑いをする月宮さん。
「…………」
「あのコート姿もかわいかったなあ。リュックを必死に探したかいがあったよ、うん」
駄目だ…この親父。完全に親ばかになってるし。
しかし、月宮さんって顔に似合わず冗談のわかる人なんだな。
まだ数回しか会ったことがないので、これは新しい発見だった。
ん? ちょっと待て……
「あの、月宮さん」
「何だい?」
「ひょっとして秋子さんは俺が大元って気付いてるんでしょうか?」
「気付いてるだろうね。まあ大人気ない悪ノリをした僕が悪いし祐一君は叱られたりはしないと思うよ」
いや、そういう事ではなく、秋子さんにしてはえらく一方的だなと思っていたら…やっぱり気付いてたのか。
つまり秋子さんは冗談に怒ったのではなく、親として止めるべき立場の月宮さんが俺の冗談に便乗したのに怒っていたわけだ。
「やっぱり秋子さんは凄いな」
「祐一君もそう思うかい。気が合うね」
着替えた俺はこんな調子で食事の用意が出来るまで月宮さんと話をして時間を潰した。
さっきからそうじゃないかと思ってはいたが、月宮さんは意外にひょうきんな人だった。
今までは大学の学者でこの顔だから、親ばかであること以外は厳格そうなイメージを持っていたのだが……
結構話上手で聞き上手な人のような気がする。
これなら栞が月宮さんを話相手にしたのも納得がいくというものだ。
また一つ月宮さんという人を知ることが出来て有意義な時間だったと思う。
月宮さんを迎えての食事ということもあって、今日の夕飯は色鮮やかな……
鮭雑炊だった。
「あの、秋子さん…これが今日の夕飯ですか?」
今まで秋子さんの夕飯を色々ご馳走になってきたが…雑炊が夕飯なんてはじめてだった。
「たくさんありますよ」
俺の言いたいことをわかっているのか、わかっていないのか…秋子さんは微笑みながらそう言った。
「…………」
見ると名雪も不審そうな顔をしている。
こんな夕飯はじめて、という顔だ。
「いただきます」
「いただきまーす」
に対して月宮親子はまったく気にしていないようだ。
そして、二人揃って何のためらいもなく雑炊を口に運ぶ。
「こ、これは!」
「うぐっ!?」
そして次の瞬間、親子二人揃って顔色を変える。
なんだ、ひょっとして変な味なのか!?
「信じられない…たかが雑炊と思っていたけれど、秋子さんの雑炊はここまで違うのか?」
月宮さんはしかめっ面から一転して、満足げな顔をしていた。
…どこかの料理漫画のキャラクターみたいなことしないで下さい、月宮さん。紛らわしいです。
「う、うぐぅ」
に対してこっちは涙目になってもがいている。
「あ、あゆちゃんどうしたの!?」
慌てて席を立ってあゆの元に駆け寄る名雪。
一体どうしたんだ? 何か変なものでも入っていたのか?
そこに台所からコップを持った秋子さんがやってくる。
「あらあら、まだ熱かったみたいね。はい、あゆちゃんお水ですよ」
そういやあゆは猫舌だったな。
なるほど、雑炊の熱さにもがいていただけか。
あゆは秋子さんからコップを受け取ると、口に水を含んでしばらく溜めた後、ゆっくりと飲み込んだ。
「ありがとう、秋子さん」
「お水を用意するのを忘れてましたね。あゆちゃん、冷めるまでの間にみんなのお水お願いしてもいいかしら?」
「うん、任せてよ」
あゆはそう言うと台所とリビングを往復して全員分のコップを持ってきた。
律儀に一つ一つ大事そうに両手に抱えながら。
「うふふ、あゆちゃんって見ていて本当にかわいい子ですね」
「もう少し要領よくやればいいんですけど…でも、あの不器用さがまたかわいいんですよね」
そしてこちらは見事に親馬鹿ぶりを披露していた。
しかし、まるで夫婦だな、この二人の会話。
「祐一、食べないの? 温かくておいしいよ」
ホクホク顔で鮭雑炊を食べる名雪。
いつのまに食べ始めていたのやら……
相変わらずマイペースな奴だ。
「いただきます」
俺はそう言って雑炊を一掬い口に運んだ。
「こ、これは!?」
本当にこれ雑炊なのか!?
それは病人食とは違った濃い味付けがなされていて、雑炊といえども『夕飯』にふさわしい味だった。
和風リゾットとでも言うべきだろうか?
やはり秋子さん…雑炊一つでもこうも違うとは……
「どうしたの?」
驚いている俺に心配そうに名雪が声をかけてくる。
「う、美味い」
「祐一、大げさだよ〜」
呆れ果てたような表情で非難する名雪。
本当にそれくらい驚いたんだから仕方ないだろう……
まったく、これを食べて『温かくておいしいよ』だけで済ませるとは、名雪らしいというか……
いや、生まれてからずっと秋子さんの手料理食べてきたのだからそれくらい舌が肥えているのかもしれないな。
「秋子さん、俺こんな美味い雑炊はじめて食べましたよ」
感激する俺に対して秋子さんはいつものポーズで微笑みを返してくれた。
あれ?
ふと横を見ると、秋子さんの傍であゆが得意げに微笑んでいる。
雑炊にはまったく手をつけていない。
「何だ? あゆ、お前食べないのか?」
食べもしてないのに何を笑ってるんだこいつ?
「まだ熱いから待ってるんだよ」
なんか変だ。
いつもなら……
『うぐぅ、まだ熱い〜』
と涙目で言うはずだが。何が嬉しいのかあゆは笑顔でそう答えた。
まあいいか、こいつはとにかく変な奴だからな。
俺は気にせず食事を再開することにした。
そして俺がある程度食べたとき、秋子さんが突然口を開いた。
「月宮さん、祐一さん、名雪、お雑炊おいしいですか?」
……?
さっき言ったのになんでそんなこと訊くんだろう?
「おいしいよ〜」
能天気な名雪は何も考えていないような笑顔でそう答える。
こいつ放っておけばボケ老人の同じ問いかけにでもずっと笑顔で答えているんじゃ……
「何? 祐一?」
「何でもない」
こういうときだけは鋭いやつめ。
突如失礼なことを考えていた俺を追求するような目で睨んできた。
「とてもおいしいです」
そして、俺と同じく秋子さんの真意を測りかねたのだろう。
月宮さんがやや遅れて反応した。
「あ、俺もとてもおいしいです」
あえて黙秘する理由もなかったので、俺もそれに続いた。
「誰も祐一なんか食べたくないよ」
その俺の言葉に名雪がポツリと一言そう呟く。
ポカッ!
「痛い……」
「何気にきわどいボケをかますな!」
「うー、わたしボケじゃないもん」
二重にボケてるお前は立派な天然ボケだ。
「名雪さんはボケじゃないよっ」
そしてあゆは立派な天然うぐぅだった。
……って、『天然うぐぅ』って何だ!?
とりあえず説明は出来ないが、これ以外の形容は考えられないのは確かだった。
そんな俺達のやりとりを見ながら秋子さんは何が嬉しいのか、とても嬉しそうに
「そうですか。よかったです」
と言った。
何を言いたかったんだろう?
とりあえず、食べながら次の反応を待つか。
そう思って俺は雑炊をまた一掬い口に入れた。
月宮さんも同じように雑炊を口に入れる。
ちなみに名雪はさっきから話をしながらもマイぺースに雑炊を口に運んでいた。
「今日の夕飯ですけど、実は……」
と、秋子さんがゆっくりと口を開いた。
なんだかすこし茶目っ気さを感じるような声で……
ガリッ!
「う゛っ!?」
秋子さんがそこまで言ったところで俺は奥歯で何か異物を噛み潰すのを感じた。
「っ!?」
どうやら月宮さんも同じらしい。
まさか……いや、『雑炊』って時点で気付くべきだった。
嫌な予感がする……
「今日の夕飯はあゆちゃんが作ったんですよ」
娘の自慢話をするかのように笑顔で言う秋子さん。
「わ、びっくり。おいしいよ〜あゆちゃん」
「ありがとう、名雪さん」
全然びっくりしてないような名雪にとても嬉しそうなあゆ。
まったくどこまでも天然な姉妹だ。
「本当は他の料理も出来るけど、これがボクの得意料理だからお父さんに食べてもらいたかったんだよ」
「そ、そうか。料理上手くなったな、あゆ。偉いぞ」
「えへへ」
引きつった笑顔であゆの頭をなでる月宮さん。
大人だ……。何事もなかったかのように異物を噛み潰して飲み込んだらしい。
まったく……
いつのまにかこれだけ料理が上手くなっていたかと思えば、卵割りの不器用さはそのまま。
相変わらずどこか抜けているというかなんというか……
「あゆちゃんは物覚えがいいので、料理の教えがいがあります」
「そ、そうですか…マダム・アキコの後継者に?」
顔を引きつらせたまま笑う月宮さん。はっきり言って怖い。
「それもいいですね」
対して月宮さんの気持ちがわかっているのかわかってないのか謎だが、とても満足げな秋子さん。
「ボク頑張るよ」
そして小さくガッツポーズをするあゆ。
かなり複雑な光景だった。
というか、マダム・アキコって何なんだろう?
秋子さんの仕事のことだろうか?
訊いてみたいが、なんとなく響きが怪しくて訊く気になれなかった。
そういえば……
「名雪」
俺はこのなんともいえない光景をまったく気にせず笑顔で雑炊を食べている名雪に声をかける。
「何、祐一」
「お前秋子さんに料理習ってないのか?」
秋子さんが出かけている時に名雪の料理を食べることもあるが、今日のあゆほどおいしいものを食べた記憶がない。
おいしいのは確かだが、秋子さんの料理に比べるとどこか一歩劣る気がしてならないのだ。
あゆの鮭雑炊は秋子さんの料理と勘違いするくらいなのに……
「少しは習ったよ。どうしてそんなこと訊くの?」
こちらの意図がわからないらしく当惑気味の名雪。
……スプーン片手に当惑も何もない気もするが、見なかったことにしよう。
「いや、その割には秋子さんの料理とは違うというかなんというか」
「わたしはお母さんの真似をして料理を覚えただけだよ。だからお母さんにはまだまだかなわないよ〜」
理由は簡単だよ〜、とばかりに名雪は笑顔でそう言った。
真似をして覚えた? 何で秋子さんにちゃんと教えてもらってないんだ?
「そうじゃなくて、あゆみたいに秋子さんに手取り足取り教えてもらってないのか?」
「ないよ」
「何故?」
まともに料理が出来るようになるまで何度もあゆに台所を滅茶苦茶にされていたというのに、
それでも笑顔であゆに料理を教えていた秋子さんが娘の名雪にちゃんと料理を教えないというのも変だ。
もしかして……
「名雪、お前秋子さんに『教えて』って頼んだか?」
「頼んでないよ」
やっぱり。
秋子さんは人に物事を強要しない人だから、頼まれない限り手取り足取り教えるということはしない。
おそらく台所で料理の真似をしている名雪にちょこっとアドバイスをするだけであとは名雪の好きなようにさせていたのだろう。
つまり、名雪の料理は基本的に独学というわけだ。
あゆはどうせ……
「わあ、秋子さん、これおいしいね。ボクもこんなの作ってみたいな」
「教えてあげましょうか?」
「え、いいの?」
「いいですよ」
…わかりやすすぎる。
間違いなくこれだ。
しかし、名雪も少しくらいあゆの積極的なところを見習えばいいのに。
性格というかなんというか、名雪は昔からこういうところで控えめだからなあ。
「一度秋子さんに、ちゃんと料理を教えてもらったらどうだ?」
料理するのが嫌いならともかく、名雪は料理をするのは好きだ。
だったら、秋子さんという立派な先生がいるわけだし、しっかりと教えてもらった方がいいと思う。
俺も簡単な料理くらいだったら秋子さんに教えてもらうかな。
そう思って名雪を見ると、名雪は何やら深刻な顔をしていた。
「名雪…?」
俺は何か変なこと言っただろうか?
「えっ、うん…そう、だよね」
一瞬慌てた表情をした名雪だったが……
「大学に入ったら教えてもらうよ」
次の瞬間にはいつもの能天気な笑顔でそう言った。
…三日後には絶対忘れてるな。
しかし、さっきの深刻な、まるで何かに怯えるような名雪はなんだったんだろう?
疑問に思いつつも食事が終わるころにはどうでもよくなっていた。
今日は文化祭で随分疲れていたし、月宮さんが来ていることもあったので勉強は休んでリビングで雑談することにした。
全員風呂上りなのでリビングにはいい香りが漂っている。
あゆも俺と同じように今日は勉強を休んで早めに寝るらしい。
名雪は…一応リビングのソファーに座ってはいるものの、目は完全に閉じていて話に参加しているのかは怪しいものだった。
「くー」
のんきなものだ…
「まったく、さっきまであれだけ寝ててなんでまたすぐ寝るんだ?」
ほとんど夕飯のためだけに起きてたようなものだ。
「名雪ですから」
「なるほど」
秋子さんが言うと乱暴な意見も妙に説得力がある。
おそらく秋子さんが……
『うぐぅですから』
と言ったらあゆも自分の『うぐぅ』ぶりを認めざるを認めざるを得ないだろう。
「でも、こんなに寝て…まるで猫みたいだな」
「猫?」
あゆが身を乗り出して訊いてくる。
「ああ、猫は一生の3分の2を寝て過ごすんだ」
「ええっ!? そんなに寝てたらもったいないよ」
あゆは深刻な顔をして驚いた。
7年間寝てて人生無駄にしてるだけに重みのある発言だな。
「いいんじゃないか? 名雪は寝るのが好きらしいし」
「いいのかなあ?」
「にゅ…けろぴ…」
心配そうにみつめるあゆの気も知らず、名雪は傍に置いてあるクッションを抱きしめながら寝ぼけていた。
「猫好きが高じて猫に憑かれたのかしら?」
頬に手を当てながら微笑む秋子さん。
たしかに、あゆが俺の前に現れたことを考えれば、化け猫がいてもおかしくなさそうだ。
「昔はこうじゃなかったんですけどね」
え……
呆れたように呟かれたその言葉に俺は驚いた。
「秋子さん、昔っていつくらいですか?」
「そうですね…祐一さんがここに遊びに来ていた頃かしら」
やっぱりそうか。俺の記憶に間違いはなかったようだ。
俺が遊びに来ていた頃はこんな驚異的な睡眠時間を誇っていなかった。
「しかし、なんでこんなに寝るようになったのやら」
猫に憑かれたという説明もありえない話じゃないような気がする。
「直せるなら直したいものですね。最近どんどん酷くなってるみたいですし」
確かに。
「お父さん、さっきから何をしてるの?」
あゆが不思議そうな目で月宮さんを見ていた。
そういえばさっきから月宮さん何も言ってなかったような……
じっと寝ている名雪を見つめて…というか観察して何か考えているように見える。
「いや…寝巻きの名雪ちゃんを見ていたら何かに似ていると思ってね」
なんだったかなあ? という感じで名雪を色んな角度から眺める月宮さん。
パジャマの少女とそれを眺める中年…なんとなく犯罪臭い匂いがするのは俺だけだろうか?
そう思っていると、月宮さんは合点がいったという感じで手を叩いた。
「そうだ、『雪ん子』だ。雪ん子に似てるんだ」
雪ん子というと妖怪雪女の子供のことだ。
たしかにそう言われてみると、あの半纏がそれっぽさを出している気がする。
地域的にもここは雪ん子が出ておかしくないところだ。
「うん、この格好で雪靴をはけば誰がどう見ても雪ん子だな」
「たしかに……」
パジャマと半纏…どことなく和洋折衷な雪ん子だが、意外に違和感がない。
そういえば昔も名雪は雪ん子みたいだったな。
頭に雪うさぎを乗せて無邪気に微笑んでいたっけ……
服なら今の方が雪ん子らしいが、歳相応という意味では昔のほうが雪ん子らしいといえる。
いや、昔のは現代風雪ん子かな?
子供服とゴム長靴がまたそれっぽさを出している。
そして雪うさぎを頭に掲げたあの光景…雪ん子が幼なじみだったらあんな感じだろうな。
…雪うさぎ?
ふと頭に浮かんだ光景……
幼い名雪が雪うさぎを頭に掲げている光景……
何故だろう? はっきりと頭に残っているのに、
その光景がいつのことだったのかまったく検討がつかない。
…………
……
駄目だ、思い出せない。
一体いつあんな雪ん子みたいな名雪を見たんだろう?
微笑ましいようで、それでいて今にも溶けてしまいそうに儚げな……
その光景だけが頭にしっかりと焼き付いているだけに、思い出せないとなると尚更もどかしい感じがした。
でもまあいいか、どうせ冬休みのひとコマだろう。
「名雪は昔から雪ん子みたいでしたね」
俺は気を取り直して月宮さんにそう言った。
「そうなのか。実は名雪ちゃんは秋子さんがどこかで拾ってきた雪ん子とか?」
そして月宮さんはそんな冗談を秋子さんに振る。
対する秋子さんは真剣な顔で
「名雪は正真正銘わたしの子供です」
と返した。
そりゃそうだよな…と思った瞬間
「実は名雪の父親が雪男なんです」
と、いつものポーズで微笑みながらさらりと言った。
また…この人は何とも反応に困る冗談を…
「秋子さんって毛深い人が好みだったんですか?」
と思った瞬間、月宮さんは更にその上を行くボケで応戦した。しかも真顔で……
たしかに名雪の父親が雪男と言うよりは、秋子さんが雪女という方が妥当だと思う。
そもそも雪男はゴリラが巨大になったような生物で、人と同じ姿の雪女とはまったく似ても似つかない別物だ。
そんなのが名雪の父親ならとてつもなく嫌だ。
ましてや秋子さんの夫だなんて……
それを例えととって『毛深い』人と解釈というか擬人化する月宮さんも月宮さんだが……
「逞しい人は好きですよ」
…………
さすが名雪の正真正銘の母親、さらに10メートルほどずれたボケで返してる。
というか、突っ込む奴いないのか!?
俺は助け舟を求めてさっきから黙ってるあゆの方を見た。
「…………」
あゆは親達のボケ合戦にはまったく目もくれず名雪をじっと見つめていた。
「……何やってんだ? あゆ」
「名雪さんが…妖怪?」
俺が呼びかけると、あゆは名雪を見たままそう呟く。
さては……
「お前、まさかいつものようにお化けが怖いって感じで名雪に怯えてるのか?」
ありえる。
十分にありえる。
お化け・妖怪の類は完全に駄目なあゆのことだ。
名雪を見ながら今日のお化け屋敷を思い出してるに違いない。
「ううん、妖怪は怖いけど…」
「けど?」
一瞬怯えたような表情を見せたあゆだったが、次の瞬間照れるように笑いながら
「名雪さんが妖怪でも全然怖くないんだよ」
といった。
「たしかに、こいつが妖怪でも全然怖くないな」
たとえ本当にそうだったとしても信じてもらえないような気がする。
逆に『秋子さんが雪女だった』という話ならかなり真実味がある気がするが……
そう思って秋子さんの方を見ると、月宮さんとまだボケの応酬をしているようだった。
もはやボケがどんどんずれて行って別の話題になってしまってるようだが……
「そういえば…なんで月宮さん今日来たんですか?」
話題が途切れたところで俺は今朝のあゆの様子を思い出して訊いてみた。
「…………」
「…………」
「…………」
え?
俺…何か悪いこと言ったか?
一気に場の雰囲気が重くなるのを感じた。
「あ、あの、俺何か悪いこと言いました?」
間抜けだ。
この雰囲気でそんなこと十分わかるのに。
「祐一さん…実は」
「待って秋子さん!」
「あゆ!?」
言いにくそうな事情を俺に説明しようとして口を開けようとした秋子さんをあゆが制す。
「ボクが…ボクが言うから。ううん、ボクが言わなきゃ」
「あゆ、無理しなくてもいいぞ。お前にはまだ1年前のことなんだから」
「そうよ、あゆちゃん。そのことはわたしが祐一さんに説明しますから」
泣き出しそうになるあゆとそれを慰める大人達。
だが、あゆはキッと口を閉じて俺の方を見た。
その目からは何かの決意を感じられる。
「ううん。ここでまた逃げたら…ボクはいつまでも置いていかれるから…だから」
「……あゆ」
月宮さんは不安そうに、だが感心したような様子で自分の娘の背中を見ていた。
「そう…じゃあ、あゆちゃんの口から言ってくださいね」
「うん……」
この重い空気…明日一体何があるというのだろう?
5分ほど…いや、俺には1時間近くに思える沈黙が続いた後
何かに耐えるようにぐっと握り締められていた手を開くと同時に、あゆの重い口が開いた。
「明日はお母さんの命日なんだよ」
どこかで雪の落ちる音がした……。
…………
……
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