12月11日(土曜日)
ジリリリリリ!
ジリリリリリ!
パチッ、パチッ、パチッ、……
「うぐぅ…あたまクラクラ〜」
「俺もだ。昨日あゆが夜中に騒ぐから」
「…うぐぅ」
あゆは申し訳なさそうにうつむいた。
別にあゆが騒いでいようがいまいが、寝不足に変わりはない。
明日、文化祭を楽しむために昨日はいつも以上に頑張ったからな。
それはあゆも同じらしく、今日はまだパジャマ姿で時折目をこすっている。
二人とも自分の目覚ましで起きられず、名雪の目覚ましで目を覚ましたというわけだ。
寝不足の俺達でさえ、壁を一枚挟んだこの音で目を覚ましているのに、音の中心にいる名雪がどうして寝ていられるんだ?
いくら遅くても11時には寝ているはずなのに。
ギネスでも狙ってるのだろうか?
とりあえず寝不足の頭には堪えるので、廊下で鉢合わせしたあゆと一緒に名雪の部屋に入り、目覚ましを全て切っていったという次第だ。
ったく、頭がガンガンする。
「名雪、朝だぞ! 起きろ!」
「名雪さん起きて!」
「くー」
二人がかりで名雪をゆするが、名雪は一向に目を覚まさない。
「でやっ!」
「わっ」
俺は名雪の下のシーツを力任せに引き抜いた。
その勢いで、名雪はきりもみ状に回転する。
これで何の反応も示さないようだったら、震度7の地震でも安眠していられるだろう。
「祐一君やりすぎだよ」
「正当防衛の範囲だ」
「何を防衛してるの?」
「俺の皆勤賞の防衛だ。今日遅刻したら欠席扱いになってしまう」
「そうだったんだ」
「もちろん嘘だが」
「うぐぅ…どうしてそういうこと言うの?」
あゆは非難混じりの涙目で俺を見上げた。
本当に毎日からかっても飽きない奴だ。
ちなみに俺の皆勤賞の夢は、あの冬、あゆとお別れする前日にとっくに消えている。
「で名雪、いい加減起きたか?」
「……うにゅ」
俺達が騒いでいる傍で、名雪がベットから起き上がり、目をこすっていた。
やれやれ、どうにか遅刻しないですみそうだ。
「今日はぶんかさい…」
「ああ、文化祭だな」
……まだ寝ぼけてるな。
名雪の目は完全に閉じていた。
立ってなかったら、寝ているというのが正しい表現だ。
「わたし……家でべんきょうしてるから」
そう言って、ベットに倒れこむ。
どこの世界で勉強する気だ……
というより、お前陸上部の手伝いがあるんだろうが。
「寝るな!」
完全にベッドに横になる前に、名雪の手を掴んで無理矢理ベッドから立たせようとするが……
「う、重い。あゆ、手伝え」
「う、うん」
あゆが俺の掴んでない左手の方を掴んだ瞬間、重みが一気になくなった。
「うぐぅ!」
ベチッ
一気に引っ張ろうとしたのだろう、あゆは勢い余ってひっくり返る。
「わたし、重くなんかないもん」
重いという言葉に反応したらしい。名雪は目を覚まして、俺を睨んでいた。
重みがなくなったのは、名雪が自分で立ち上がったからだ。
「もっと普通に起きてくれ」
あの目覚ましの轟音でも起きないくせに、どうしてそんな一言で起きられるんだ?
前もイチゴジャムって言葉だけで起きていたような。
「重くないもん」
「そうかもな。とっとと着替えて降りてこい」
「うー」
相手にしている時間はないので、俺は名雪の言葉をさらりと受け流しながら部屋を出た。
俺も着替えないとな。
「い、痛いよ」
後ろからあゆの泣き声が聞こえてくる。
しまった、手をかしてやるのを忘れてた…
「祐一さんおはようございます」
「おはようございます、秋子さん」
ダイニングに入り、秋子さんと朝の挨拶を交わす。
食卓には和食が用意されていた。
あゆが和食派なので、朝は時々和食になるのだ。
「祐一さん、さっき上で何かが落ちるような物音がしてましたけど、何かありましたか?」
物音……あゆのあれか。
「あゆの奴が名雪と格闘して転んだだけです」
「あらあら、やっぱり受け身の取り方を教えてあげた方がいいかもしれませんね」
秋子さんはいつものポーズで微笑む。
格闘に突っ込みを入れないのは、朝の水瀬家で名雪との格闘といえば何のことか、周知の事実となっているということだ。
それにしても、受け身の取り方を教えられるとは……秋子さん、昔何か武道でもやっていたのか?
「今日は文化祭ですね。祐一さんはどうするんですか?」
「今日はホームルームが終わったら帰ります。明日はあゆと一緒に行きますけど」
「デートですね」
「いえ、栞も一緒です。名雪も後から合流予定ですし」
別にデートと言われても恥ずかしくはなかった。
俺とあゆはそういう関係だし……それに、あゆとのデートがそんなロマンティックな物でもないのが原因だ。
どうせあゆをからかいまくった後に、たい焼きを食べるのがたいていだし。
恋人…というより、完全に腐れ縁だな。
それでも飽きないのがあゆの魅力か……
「じゃあ今日はお昼を用意しておきますね」
「お願いします」
そこにまだ涙目のあゆと、目をこすっている制服姿の名雪がやってきて朝食が始まった。
ううっ、気分が悪い。朝食を食べた直後で、しかも寝不足。
こんなコンディションで5分も走るのは拷問だ。
見ればあゆも気分が悪そうな顔をしている。
こんな状態でも、わざわざ一緒に走ってくれるなんて律儀な奴だ。
名雪は平然とした顔をしている。
さすがは陸上部、眠くても走るのは苦しくないらしい。
ようやく目的の橋が見えてきた。あそこまで走れば、あとは歩いても間に合う。
「……はあはあ、ゴール」
俺はたどり付くやいなや、川の手すりにつかまってしゃがみこんだ。
完全に息切れである。
「ここまでくれば大丈夫だね」
名雪は走ったおかげか、かえって清々しい顔をしていた。
ベチッ
一足遅れて俺達に追いついたあゆが、いつものように盛大にこける。
「あゆちゃん!」
で、これまたいつものように名雪があゆに駆け寄った。
「うぐぅ…気分が悪い」
名雪に起こしてもらいながら、あゆは本当に気分の悪そうな顔をする。
「あゆ、無理しないでもいいぞ。ここで休んで帰った方がいい」
もう目覚めてから半年以上経つが、俺とあゆの体力には歴然とした差がある。
俺がこんな状況なんだから、あゆの方はそれこそ限界だろう。
「だめ……だよ。祐一君と一緒に…学校に行くんだもん」
これはあゆが水瀬家に来て以来、絶対に譲らなかったことだ。
一緒に学校に行けないなら、せめて登校は一緒にしたいらしい。
「あゆ、気持ちはわかったから、帰れ。今日無理して明日倒れたら元も子もないぞ」
「だけど」
あゆは簡単にはあきらめない。
あゆは約束事を曲げることは絶対にしない。それは自分に課した約束に関しても言える。
「あのなあゆ、俺も明日お前と学校に行けるのを楽しみにしているんだぞ」
「……祐一君」
俺はあゆに対して優しい言葉をかけてやることはあまりない。
そんな俺があゆに優しい言葉をかけるのはどういう時か、あゆは、もうよくわかっていた。
だからあゆも普段見せない神妙な顔つきになる。
「そういうわけだから、お前も明日に向けて体調は万全に調えておいてくれ」
「……うん、わかったよ。少し休んだら、ボク帰るよ」
あゆはそう言って、橋の欄干に腰掛けた。
「落ちるなよ」
「落ちるのはもうこりごりだよ」
「そうだな。俺もあゆが落ちるのを見るのはもうこりごりだ」
俺達は顔を見合わせると、二人同時に笑いあった。
あの出来事も冗談に出来るのだから、月日の流れというものはおかしなものだ。
「ねえ、祐一」
「どうした、名雪」
呼ばれて振り返ると、名雪は申し訳なさそうな顔をしていた。
「時間ないよ」
「ぐわっ、忘れてた。また走るのか?」
「じゃないと間に合わないよ」
「……くそ、こうなりゃヤケだ。学校まで全力疾走してやる。行くぞ名雪!」
「え、祐一本気?」
さすがに今の俺がそんなことできるわけない、と思ったらしい。名雪がびっくりしている。
「これくらいやれないで、何が医学部だ。医者には体力も必要だぜ」
「そうだね。感心したよ祐一。じゃあ、学校まで競争だよ」
さっきの表情はどこに行ったのか、名雪はあっさり納得して微笑む。そして……
「え? おい、名雪……」
「ふぁいと、だよ」
と言うと全力で学校に走りだした。
「ちょ、ちょっと待て、どうせ全部走るならもう少し休んで……って聞いちゃいないか。あゆ、そういうわけだ、行ってくる」
「うん、行ってらっしゃい」
そんな俺達の様子がおかしかったのか、あゆは笑顔で手を振っていた。
「おーい、相沢生きてるか?」
「話しかけるな……マジで機嫌が悪い」
あー、くそ、頭がぐらぐらしてやがる。
校門から教室まで、文化祭らしい装飾やら下準備が整えられていたようだが……
体力的にも精神的にも、そんな物を見ている余裕がなかったくらいだ。
「機嫌? 朝から機嫌が悪いなんて怖い奴だな」
「冗談を真に受けるな。悪いのは気分だ」
「冗談を言えるなら、まだ大丈夫だな」
「ごめんね祐一。久しぶりに全力で走れたから気持ちよくって、つい」
「もういい。おかげで今日も5分前に入れた。授業もないし、別に問題はないぞ」
机に突っ伏し、顔だけ上げていつもの2人と会話する。
「なんてだらしない格好してるのよ」
「わ、香里」
香里だった。相変わらず不健康そうな血の気のない顔をしている。
目には隈ができているし、昨日もろくに寝てないのだろう。
「登校中にヘビー級ボクサーに襲われて、鳩尾を打たれたんだ」
「よくそれで無事だったわね」
付き合ってられないわ、という表情で腕を組みながら俺を見る香里。
しかし、表情こそ冷たいが、少しは俺に話を合わせてくれているらしい。
今の香里にはそれくらいが限界だろう。
最後に香里の笑顔を見たのは何ヶ月前だったか……。
「名雪が陸上部じこみの蹴りで、相手のふぐりを潰してくれた」
「それは見物だったわね。その場にいられなくて残念だわ」
呆れたような表情をする香里。
「ふぐり?」
「ふぐりってなんだ?」
こちらの二人は何のことかわかっていない。
まあ、こいつらにはわからない単語を選んだつもりだしな。
「乙女の秘密だ」
「どんな乙女の秘密よ?」
「彼女を口説く時なんかに『ふぐりなし』とか使うとイチコロだぞ」
逆効果のイチコロだがな。
「何、本当か?」
本気にするな北川。
言ったこっちのほうが恥ずかしい。
「香里、オレ実はお前のこと『ふぐりなし』と思っていたんだ」
しかも速攻使うか普通!?
確かに言ってることは合ってるが、完全なセクハラだぞ。
「殴った方がいいかしら?」
「少なくとも、『私でよければ』なんて選択肢はないな」
この会話でようやく騙された事に気付いた北川がいきり立つ。
「相沢、純情なオレを騙したな!」
誰が純情だ、誰が。
朝っぱらから冗談でコクるアホがどこにいる。
しかもあからさまに難易度の高そうな香里に。
ちなみに『ふぐり』とは、男の最大の弱点のあれのことだ。
「あっさり騙されるお前が悪い。信じる前に辞書くらい調べろ」
「あたしもそう思うわ」
「むう」
俺に香里の援護射撃が加わったので、北川は返す言葉がないようだった。
「わたし、何かしたの?」
「俺を助けてくれたんだ。礼をいうぞ、名雪」
「そうだったの……?」
話についてこれない名雪は、ずっと頭に?マークを浮かべていた。
「そういや、言葉の意味で思いだした。こないだ国語で小テストがあっただろ」
「あたしは知らないわよ。休んでたのかしら?」
「うん。文学史のテストがあったんだよ」
「あれの時、俺の所に北川の答案が回されたんだが」
古典の鈴木は小テストの採点を前後左右の席で交換させて行う。
「こいつの答えにギャグなのか本気なのかわからないのがあった」
こいつと言って北川を指す。
「試験はいつも真面目に受けてるぞ」
「……『枕草子』の作者を『織田信長』と書いていたのは本気だったのか?」
「違うのか?」
真顔で訊き返す北川。
本気だったのか…
香里だけでなく名雪まで呆れてるし…
「……清少納言だよ」
「お前は正真正銘の馬鹿か?」
「あと一年頑張ってね」
「ちょ、ちょっと待て美坂、あと一年ってなんだ?」
「言葉通りよ」
「浪人決定ってことだ」
「な、何い!」
『ガーン』という効果音がぴったりの顔をして、思いっきりのぞける北川。
「この前の天井を『てんどん』と読んでいたのも本気だったのね」
「食い意地の張った奴だな」
「この時期にそんな間違いをしてるなんて、終わりね」
香里の止めのような一撃と同時にチャイムが鳴った。
石橋の姿を確認して全員すぐに教卓を向く。
なんだか後ろでいじけている北川が恨めしげで怖かったが気にしないでおこう。
本当は単に北川が清々しいまでに国語の才能がないだけなのだが…
いや、やっぱりあそこまでいくと致命的だな。
進級の際に行われたクラス変えで、慣れ親しんだ出席番号1番に戻ったおかげで、点呼は一番最初だった。
今朝の登校で疲れていることだし、あとは寝かせていただくか。
今日は文化祭ということもあって、ホームルームが少し特殊だ。
30分以上はかかるだろう。
俺は小声で名雪に話し掛けた。
「名雪、マジできつい。ホームルーム終わったら起こしてくれ」
「え?」
「頼む」
「うん、頼まれたよ」
今朝の自分の行動に少し罪悪感でもあったのか、名雪はすんなり承諾してくれた。
相当疲れていたらしい。
俺は10秒もしないうちに眠りに落ちた。
…………。
……。
「……ういち。祐一」
「……ん? 終わったか?」
目を開けると、目の前には名雪が立っていた。
「あれ?」
教室には誰もいない。
「ごめん、わたしも寝ちゃった」
……時計を確認すると10時。
廊下と窓の外からは歓声が聞こえる。
この教室の者は全員帰っているか、文化祭を見て回っているのだろう。
「お前な……どうしてそんなにアホみたいに寝られるんだ?」
「寝るのは好きだから」
名雪は何の屈託もなく笑った。
「限度ってものがあるだろ……。だいたい、昨日何時間寝たんだ?」
「えっと、11時間かな?」
「俺は5時間ちょっとだ」
とは言うものの、あゆの騒ぎで実際は4時間くらいしか寝ていないような気分だ。
「わ、びっくり。あゆちゃんと同じくらいだね」
「……一応参考までに言っておくが、昨日あゆは3時間くらいしか寝ていないぞ」
「3時間……」
名雪は口を開けてポカンとしている。
睡眠時間3時間なんて、名雪には想像もできない世界なんだろう。
「一応名雪も受験生なんだから、多くても8時間が普通だろ?」
「うー、でも大丈夫だ、って石橋先生には言われているよ」
「まあ、合格できるならそれでもいいけどな」
「うん」
名雪はマイペースだし、本人が志望するところに行けるのなら別に気にすることでもないか。
「ところで、お前陸上の方はいいのか?」
「全然よくないよ〜」
名雪は肩を落としながら言った。
すでにあきらめていたらしい。
「やっぱりお前、その習慣直した方がいいぞ」
「……がんばるよ」
「じゃあ、俺は帰るわ。名雪も早く陸上の方に行ってやれよ」
……しかし、部員が誰も呼びに来ないってことは、やっぱり名雪がいると作業の邪魔ということか?
「祐一、何を考えているの?」
「なんでもない。じゃあな」
こういう時だけは、鋭いやつだな。
「うー」
不満顔の名雪を残して俺は帰宅した。
途中1・2年の教室を見たが、結構賑やかにやっているらしい。
さすがにこの寒さのせいか、校庭に模擬店は出ていないようだった。
講堂とかでやっているのだろう。
ただ、校庭では運動会系のクラブがせっせと雪像を作っていた。
明日は楽しめそうだな。
…………。
……。
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