エピローグ「みずいろ きれいな空の下を いつまでも」
あれから数日。
風音市は何事もなかったように平穏さを取り戻していた。
もちろん彩たちを含め、街の住人から無事に力が消えたのは言うまでもない。
うららかな青空の下、少女――月代彩は公園のベンチに座っていた。
冬休みも終わり、今日は三学期の始業式。帰りも早いということで、公園でデートの待ち合わせという事になったわけだ。
一緒に住んでいるのだから、真が帰ってくるのを家で待っていればよさそうなものだが、たまには外で待ち合わせる恋人同士の雰囲気も味わってみたいと思うのもまた人の心だろう。
「少し、よろしいかね」
突然、真横から声をかけられた。
人を待っているので、と返事すべく振り向いた顔が「あっ」という表情になる。
明らかに日本人ではないと分かる顔立ちの、杖を突いた老人がそこに立っていた。
「リオ・フセスラフさん……でしたか?」
「覚えていてくれて何よりだよ、彩君」
間違いなく、数日前に意味深な言葉を残して去っていった、あの老人だった。
「隣、構わないかな」
「……どうぞ」
真との待ち合わせ時間まで、まだ一時間はある――少し話をするくらいなら全然問題はないだろう。
彩の隣に、長いロングコートが腰を下ろした。
ベンチの下から伸びる二つの影は、親子のようにも見えないことはない。
「さて、何から話したものか」
思案するようにぽつりと呟くと、リオは正面の噴水を向いたままで訊ねてきた。
「そうだな。君は今回の一件……バロンたちがこの街で蘇った理由は知っているね?」
「はい」
彩はこくんと頷いた。
リオが今回の事件のことを切り出してきても、あまり驚かなかった。
この老人なら知っていても不思議ではない――何故かそんな感じがした。
「もう何年も前に、そう願った少年がいましたから。その「力」でしょう」
10年ほど前、この街にひとりの少年がいた。その少年の持つ力は「願った事が現実になる力」だった。
無論それは、無意識に思った小さな願いしか実現はしないし、常に叶うものではない。
本でバロンの冒険を読んだ少年が彼らに憧れ、心のどこかでバロンたちがこの街に現れる事を望んだ。それがバロンが蘇った理由だという事は分かっていた。
問題は、何故その願いが実現に至ったのかということだ。
そんな途方もないことを現実に事象化するのは街の力だけでは不可能なのだから。
何度考えても、それだけがどうしても分からなかった。
そこで「ハッ」として、彩は老人の方を向いた。
「まさか……その原因をご存知なんですか?」
「それをこれから話そうとしているのだよ。まずは……私が「力」を持つ能力者であるということを君は知っているかね」
「……いいえ。でも、そう言われても納得はできます」
たぶん、そうなのだろう。この老人の言葉からは嘘の臭いが感じられなかった。
「当然ながら、私の力はこの街に存在していた力とは別のものだよ。この街の神が見ていた夢の副産物などではなく……言うなれば、人の持つ可能性の力だ」
「可能性の力、ですか。いえ、それよりも……この街の事をどこまで知っているんですか?」
「ああ……ほとんど全部、だよ。10年前にここを訪れたときに視させてもらってね」
「視させてって……何を? それに、よく街から出るときに、街の力に関する記憶を失わなかったものですね……」
「まあ待ちたまえ。順を追って説明する」
流石に驚きを隠せず、矢継ぎ早に疑問をぶつける彩を、リオは落ち着き払った態度で制した。
「私の力だが、私の力は未来視……言葉どおり未来を視ることのできる能力だ」
「未来を視る力……」
「そうだ。もっとも、せいぜいが十数年そこらの範囲ではあるがね。そして、その力を行使すると対象の過去や素性なども同時に視えてくる……だから私は知ろうと思えばこの世界の殆どの人間のことを知る事も可能ということだ。10年前にこの街を訪れたとき、街全体を覆う不思議な風に興味を持ってね……それで私の力で視たのだよ。ここまで言えば分かると思うが、必然的に君のことも視えてしまったわけだ」
「だから、私のことを知っていたんですね」
納得がいった。それなら自分の名前を知っているのも当たり前だ。
そこで彩はふと思ったことを訊いてみた。
「でも、私の過去を見て、平気だったんですか?」
永遠の孤独と苦しみと悲しみに覆われた、彩の深い闇。
「私も平穏な日常を歩んできたわけではないのでね……」
それがリオの答えだった。
飛翔する噴水の飛沫を見つめる横顔は、遠い何かを映しているようでもあった。
その表情は、現実に成長して歳をとった老人の重み。千年の時を生きても、やはり自分は子供であると彩は感じた。
「そうそう。未来視と言ったが、私の力は一般的な未来を見る力とは似て非なるものなのだよ」
「……というと?」
「私の力は、正確には……私の視た未来のとおりに現実が形作られてゆく、そういう力なのだ」
彩はそれを聞いて、少しの間、絶句した。
これから起こるであろう未来を見るのではなく――自分に視えた未来のとおりに現実が形成される。
それは、人の範疇を越えているのではないか?
千年以上もこの街の人間に夢を見させ続けていた、この地に生まれた神の力にも匹敵するのではないだろうか。
それほどの力の持ち主なら、まだ街の力が弱まっていない10年前でも、街の結界によって記憶を失わなくても不思議ではない。
「とても、大きな力をお持ちなんですね……」
「そんなことはないよ」
リオは達観したように、空を仰いで否定した。
「この世には、望んだだけで世界すら消してしまえる力を持つ人間だって存在するのだから」
可能性の織糸を編み直し、如何なる現実をも事象化させることのできる力を持つ、魔術師――カサフと呼ばれる唯一の人間が。
「世界……」
「ああ、すまない。話が逸れてしまったね。老人は長話が好きでいかんな」
脇道に逸れた話の規模の大きさに、ぽかんとしてしまった少女に微笑するリオ。
彩は「いえ、気にしないで下さい」と、自分でもよく分からない返事をした。
「では話を戻そう。10年前、この街を訪れた私は未来視の力を使った。ここからが重要なのだが……そのとき、偶然にひとりの少年の願いをも視てしまったとしたらどうなると思うかね?」
「……………………まさか!?」
「そうだ。それが今回の事件の発端だ」
彩の頭の中で、ようやく全ての謎のピースが組み合わさった。
未来視で視えたのは10年後のこの街で起こる、今回の四日間の事件。
少年の力による叶えられるはずのない願いは、リオ・フセスラフ翁の未来視という大きな偶然によって実現に至ったのだ。
「そうだったんですか……」
呟いて、彩は大きく溜めた吐息を解放した。
噴水の音が近くにも遠くにも聞こえる、そんな気分だった。
「わざわざ話してくださってありがとうございました」
ぺこりと下げた頭を上げて、彩は指を一つ立てた。
「リオさん、ひとつだけお聞きしてもいいですか」
「何だね」
「未来視で視えた未来を変えようと思ったことはないんですか?」
「…………それだな」
彩の質問に、リオは深い溜息をついて遠くを見つめる。
別のベンチでは老夫婦が鳩に餌をやっていた。
ざあっと、一陣の風が通り過ぎた後、リオは口を開いた。
「私が視た未来の中には現実になってほしくないものも沢山あった。だが、私には自分の視た未来とは別の未来への道を模索する勇気がなかった。違う未来への可能性へ足を踏み出すことが怖かったのだ。言うなれば……それが私の罪だな」
「…………私と同じですね」
一呼吸置いて、彩が空を見上げる。千年もの間、同化体の儀式を続けてきた彩。
風を解き放って街を目覚めさせる方法はあったのだが、それを実行する勇気がなかった。
自分を救おうと、手を差し伸べてきた人間たちだっていた。
それでも、永遠に一人で生きていくこと、それが強さだと思い込み、中途半端な優しさや同情は迷惑なものと跳ね除けてきた。
だが、真やみなもたちと出会い、そうではないということが分かった。
そして彩は救われた。
街から風を解き放つために消えるしかなかった自分の未来を、真は覆してくれたのだ。
「だが、今回のことに関しては、私の視たとおりになってくれてよかったと思っているよ。君にとっては傍迷惑なことでしかなかっただろうがね」
「……そんなことはないですよ。今回の件でさらにハッキリとしました。私にとって、真さんがどれだけ大切なのか……真さんのいない毎日なんて耐えられないということが」
「そうか……そう思ってくれるなら、私も気が楽だ」
やや頬の赤い彩を瞳に収め、リオは落ち着いた笑みを見せた。
「私の話はこれで終わりだ。老人の長話に付き合ってくれてありがとう」
「いえ、こちらこそ。リオさんはこれからどうなさるんですか?」
「私も人を待たせているのでね」
リオが首を傾けると、その先――並木沿いの向こうに二つの人影があった。
一人は二十代半ばから後半といった感じの青年。
もう一人は、ベレー帽を被り、ゴスロリ風の服装をしたロングヘアーの少女。
こちらは外国人らしく、青年に寄り添って立つ姿が可愛らしくて綺麗だった。
「お子さんですか?」
「知り合いだよ。私の人生の中で最も縁の深い――ね」
意味深に、そしてどこか嬉しそうに言いながら、リオはベンチから腰を上げた。
「では彩君、これでお別れだ。縁があればまた会おう。今度は君の恋人も一緒に」
「そのときは美味しいお茶をご馳走してあげますね」
別れの挨拶を終えると、老人は並木沿いの向こうに立つ二人の方へ歩いていった。
彩には知る由もないことだが、二人のうちの青年こそが、魔術師――カサフと呼ばれる唯一の存在にして、リオの未来視による未来とは別の未来を選び、それを実現させたただひとりの人間なのだ。
やがてリオたちの姿が並木道の彼方へ消えたころ、別の方角から足音が近付いてきた。
「待ったか」
「いえ、今来たところです」
待ち合わせ時間の数分前にやってきた真に、彩は微笑んだ。
いつの間にか肩に止まっていた小鳥が、小さな鳴き声を上げて飛び立ってゆく。
真はベンチに座っている彩を見下ろして、もう一度訊いてみた。
「本当か?」
「……実は一時間ほど前から」
「そんなに早く来なくても……退屈だったんじゃないのか」
一時間と聞いて呆気にとられる真だったが、彩はふるふると首を振って否定した。
「好きな人のことを待つのって、結構楽しいんですよ」
「そんなものかな」
真にはよく分からなかったが、彩のにっこりとした笑顔を見ていると、少し照れくさくなってきた。
彩は笑顔を崩さないまま、でも、と付け加える。
「それは必ず来てくれると信じているから待てるんです。楽しいんです。だから、絶対に裏切らないで下さいね?」
「脅迫か……彩ちゃんも怖い女の子になってしまったんだな」
「真さん、知らなかったんですか? 女性は怖いものなんですよ」
「…………」
「…………」
沈黙。静寂。止場。
「…………」
「……ごめんなさい」
先に折れたのは彩だった。
軽く俯いた顔が、ほんのりと桜色に染まって可愛らしい。
「心配しなくても、俺は彩ちゃんを悲しませるような事はしないよ」
「はい。信じてます」
微笑して、彩はベンチから腰を上げて真の横に並んだ。
「さてどこに行こうか……彩ちゃんは何か希望あるか?」
「私は真さんとならどこでも……あっ、でも無駄に騒がしいところは苦手かもしれません」
「そうか。じゃあ静かなところ……」
ラブホテルという冗談が浮かんだが口に出すのはやめた。
何だか勤の病気が移ったみたいだと、本人にしてみれば失礼な事を思った。
「まあ、歩きながら考えるか」
「そうですね」
何とも行き当たりばったりだが、彩は楽しそうだった。
「あ、真さん」
はたと立ち止まり、真を見上げる。紅玉色の大きな瞳に淡い青空と雲の流れが映っていた。
その澄んだ眼差しに一瞬見惚れながら、真は「何だ?」と聞き返した。
「ひかり」
「…………ん?」
「彩って、呼んでください」
そういうことか、と真は納得した。
「それじゃあ行こうか、彩」
「はいっ!」
元気よく返事した少女の顔は、間違いなく満面の笑顔だった。
笑顔を忘れずに歩き出せる
淡いみずいろのきれいな空の下をいつまでも
誰よりも大切な人と歩いていく この道を二人で
澄み渡る青空の下、公園を歩く二人の後ろ姿が遠ざかってゆく。
爽やかに吹き抜ける優しい風。
ふたりの手は、しっかりと繋がれていた――
(END)