第4話「そして終わる物語」



風音神社。
月代一族によって護り続けられてきたとされるこの神社は、風音山の中に位置しており、千年以上も昔に建造されたものであるらしい。
時刻は夕刻。
茜色に染まる世界の眼下、夕陽に照らされた神社の境内に四つの人影があった。
世界が蒼茫に暮れる前の僅かなひととき、その夕映えの美しさよ。
この日の夕映えはひときわ鮮やかで、地に落ちる影さえも真紅に染まるような気がした。
彩の脳裏に、全ての始まりである紅の色彩に彩られた遠い記憶が蘇ったが、それも数秒、霧の方舟に乗って朧の彼方へ霞んでいった。
対峙する人影は、月代彩と丘野真。
そして、両者それぞれの後方に距離を置いて佇む人影。
彩の側には鳴風みなも。真の側には丘野ひなた。
二人とも、対峙する両者の行方を固唾を飲んで見守っている。
また、今のひなたはひなた本人に他ならなかった。
致命傷には至らなかったとはいえ、昨日の彩の一撃はそれに近いほどの大きなダメージをひなたの中の存在に与えていたらしい。
もはやバートホールドは自身の存在を維持するのが精一杯で、もし一度でも能力を使おうものなら消滅は免れず、みなもとの一戦の時のような横槍は難しいだろう。
「ふむ。お前の本来の格好である巫女装束で来るものと思っておったが……」
いつもと変わらぬ制服姿の彩を目にやって、ぽつりと漏らす真。
彩はふるふると首を左右に振り、爽やかに応じた。
「私はもうこの街の管理者ではありません。真さんに私の過去の記憶を見せ、人を愛することにより巫女でなくなったあの日に、私の正装は役目を終えたんです」
ここにいるのは只の月代彩という名の、ひとりの普通の少女であった。
真がすらりと鞘から剣を抜く。それは貴族が愛用するような細身の西洋剣。
合わせるように、彩も腰元の鞘から剣を抜いて見せた。
だが、それは彼女の刀ではなく、真の手にあるものとさして変わらぬ普通の剣だった。
「お前の刀ではないのだな」
「私の刀では真さんの力に護られている貴方を傷つけることはできませんから」
「ふむ。だがその剣ではわしを傷つけることは出来んぞ? それともわしの憑依しているこの少年を殺し、お前も後を追うつもりか」
「……笑えない冗談です。二度は許しませんよ」
彩の真っ赤な眼光が鋭く光り、見る見るうちに険しい顔付きになる。
算段はあった。バロンたちは憑依先では本来の力が発揮できない。
だが、それは逆もまた然り。憑依されている側の力も、等しく抑制を受けるのだ。
つまり憑依先の肉体を傷つければ、それだけその力も弱まる事になる。
普通の剣で真の身体を傷つけ、真の「力を吸収する力」を弱める。そこで自分の刀を呼び寄せ、力の護りを失ったバロンを直接攻撃して倒す。
それが彩の考えだ。
ただ、力を弱めるためにはそれなりの重症を負わせないといけない。
誰よりも大切な人をそこまで傷つけるのは心苦しいが、それでも彩の眼には並々ならぬ決意の輝きが宿っていた。
「私は真さんと一緒の未来を歩みます。貴方に恨みはありませんが、私は絶対に負けるわけにはいきません。――伝説の彼方へ還って下さい」
ずい、と青眼。
「その伝説に呼ばれた以上、わしは目覚めるだけだ。邪魔はさせん」
すう、と片手持ちの中段。
ふたすじの煌めきが真っ赤に染まる境内に生まれる。
その煌めきが空を裂いて交わる前に、少女の声は放たれた。
「駄目だよっ!!」
精一杯の大声で皆の注目を集めたのは誰あろう丘野ひなただった。
三者を視界に収めたひなたは、今にも泣きそうな顔をしていた。
「もうやめようよっ。お兄ちゃんと彩ちゃんが傷つけあうなんて嫌だよ! バロンおじさんが完全に復活するまでそんなに日にちはかからないんだよね? だったらそのときが来てお兄ちゃんが解放されるまで仲良くしようよ……ひなた、それくらいなら我慢できるから」
「ひなたちゃん……」
一気にまくし立てたひなたの涙腺の緩みに気付き、みなもがぎゅっと自身の両手を握る。
対照的に彩はぽかんとした顔で彼女を見つめた。
「ひなたさん、知らないんですか? バロンが復活したら、真さんは永遠に助からないんですよ」
「…………えっ?」
「バロンは伝説に選ばれた英雄です。それだけの存在が肉体を得て蘇るには、宿主をその糧にするしかありません。つまり……真さんの身体はバロンの肉体を形成する依代になってしまうんです」
見る見るうちに、ひなたの目が見開かれてゆく。
その瞳に困惑の光を乗せて、矛先が真の方へと移動した。
「バロンおじさん……ひなたに嘘ついたの?」
縋るような眼差しは、否定の返答がほしかったのかもしれない。
「…………すまんな」
申し訳なさそうに言う真の鳶色の目は、哀しげな翳に覆われていた。
ひなたはショックを隠し切れずに、愕然とその場にへたり込んだ。
憐れむような視線を外し、真は彩へと向き直る。
「では、始めようか」
「いきます」
燃えるような夕陽の下で、再び青眼と中段が理想的な構えを取った。
刹那、二つの足は地を離れ、赤黒く染まった影と影が重なり合った――

「紫光院先輩、こんなところで何をしているんですか?」
「……あら」
風音山の麓。
上の方に目をやっていた少女が面白そうな表情で、声をかけてきた藤宮望の方を向いた。
均整の取れた顔を大きめの眼鏡が際立たせ、背中の中ほどまでかかる黒髪は、艶のあるさらさらのストレートロング。
黒のジャケットにパンツというシックな服装に身を包んだ、大人びた雰囲気の少女。
紫光院霞である。
望の手には一振りの木刀。腰には、剣を包んでいると思われる長布。
「そんな物騒なものを持ってきたということは、全部お見通しということかしら」
「はい、紫光院先輩……いえ、アドルファスというんですよね?」
霞がにやりと破顔した。そう、彼女の中にいる存在はアドルファス。
百発百中の腕前を持つ射撃の名手にして、その能力はいかな遠くをも見通す千里眼。
また、その力によって撃たれる弾は、物理法則を無視して何処までも飛翔する。
伝説では地球の反対側にある的に弾丸を命中させた事があるらしい。
たぶん、山中の風音神社で死闘を繰り広げているはずの彩を、ここから狙撃しようとしていたのだろう。
だが彼女の手元にあるのはマスケット銃ではなく、はたまた現代の拳銃でもない。
精神を集中させて木刀を構える望の目に映ったもの――霞は銃を取り出した。
ジャケットの懐から開眼したそれは、銃というよりは超小型の投擲器と表現した方がいいかもしれない。
Y字型をした月橘の木の枝。左右の先端に括りつけられたタイヤのチューブ。
そして弾を据える部分には程よいサイズの革。
ゴムカン――パチンコだと認識したとき、引き金ならぬ引き指は動いた。
瞬間、望は気合を込めて木刀を振るった。
それに合わせるかのように、ばしっ、と空気が鳴った。
弾き落としたそれに目をやると、紛れも無い石ころであった。
「あっ!」
木刀に瞳を戻してから口を突いて放たれる驚愕の一声。
半ばからへし折れていた。ちょうど石を弾き落とした個所である。一撃で木刀を破壊するゴムカン――――恐るべき子供の玩具よ。
使い物にならなくなった木刀を放り捨て、望は腰元の長布を手に取った。
見ると、既に霞の姿は彼女の視界から消えていた。フェイントの一発を撃ち、その隙に周囲の木々のどこかに身を潜めたのであろう。
当然だ。狙撃は相手から見えないところから行ってこそのもの。
全神経を研ぎ澄ませて気配を探る望。だが不気味なくらいに静まりかえる木々の間からは、何も感じ取れなかった。
伝説の名射手アドルファスなら、殺気や気配を完全に消す事など造作も無いのだろう。
少し考え、望は無防備に木々の方へ前進を開始した。それが七歩に達したとき、空を裂く音とともに右腕に凄まじい激痛が走った。
しかし望は痛みを堪えて反射的に音のした方向へと、左手で長布を振るった。
力が飛んだ木の近くから悲鳴が上がる。
「やった!」
望は歓声を発して悲鳴の上がった木の方へ近付いていく。
バロンたちは決して自分達を殺すつもりが無い事は知っていた。
だから、致命傷になるような場所は狙ってこないだろう。それなら一撃を受けても我慢して、代わりに位置の判明した方向へ必殺の反撃を送ればいい。
肉を撃たせて骨を絶つ、というべきか。右腕はほとんど使い物にならないが、あとでわかばに治してもらえばすむことだ。
「えっ!?」
望が思わず信じられないといった声を絞り上げる。力を放った木の後ろには、誰もいなかったのだ。これは罠だと気付くや即座にそこから飛び退くが、僅かに遅かった。
左腕を狙った石の弾丸は、望の左足首に命中した。
「くううっ!」
骨まで軋む激痛に顔を歪めてその場に片膝をつく望。左手に持った長布を取り落とさなかったのは流石というところか。
別の木の側面から姿を現した霞は、うずくまる少女を見下ろしてくすくすと笑った。
「私のほうが一枚上手だったようね」
石を革に据えて、ゴムカンを構える霞の狙いは望の左腕。
両腕を使えなくしてしまえば、いかな剣客といえども無力に等しい。
「終わりよ」
革のトリガーに指がかかり、万事休すと思われたまさにそのときだった。
耳を劈く雄叫びと共に、木々の隙間から新たな人影が踊り出たのだ。
「なっ!!」
突然の不意打ちに石の弾丸は明後日の方向へ飛翔した。
そのまま自分を羽交い絞めにしようとする曲者に、必死で抵抗する霞。
僅かに眼鏡越しに映ったその相手は、子供の頃からの腐れ縁であった。
「つ、勤!?」
「アホなことやってんと、目ぇ覚ませや紫光院!」
「ちょっ、離しなさいよ!」
「いまや望ちゃん! 今の内に紫光院を――」
「こ、の…………いい加減にしなさいっ!!」
霞の放った肘鉄がまともに脇腹にめり込み、ぐほおぉっ、と蛙の鳴くような声を上げた勤は腰を二つ折りにして悶絶した。
だが、望には十分すぎる時間だった。霞が自由を取り戻したときには、既に長布から解放された得物が弧を描いていた。
「無駄よ、そんなことをしても私を傷つけることは……」
最後まで言い終える事はできなかった。望が力を使って反撃してきたときに気付くべきだったのだ。
何故、思い描いたものを切断する力を躊躇なく振るったのか。
どうして、力を受けた木は真っ二つにならなかったのか。
盆の窪あたりに冷たいものが触れた瞬間、霞はそれが何かを理解した。
空に溶ける断末魔。
望が健在な左手で薙いだもの――それは彩の刀だった。
意識を失って崩れ落ちる霞の身体を、いつの間にか復活した勤が抱きかかえる。
親指をグッと突き出し、にかっと笑う。
「やったな、望ちゃん」
「ええ。ありがとうございます、橘先輩」
「大丈夫ですか、望ちゃん!」
片がついたと見るや、堰を切ったようにわかばが駆け寄ってきた。そして真剣な表情で望の右腕と左足の治癒を開始する。
仄かな光を放つ淡い輝きが包み込むと、見る間に傷と痛みは癒えていった。
現状に至る理由はこうだ。
彩と分かれた後に、独自に調査を行っていた三人の前に、ひとりの少女が接触してきた。
ベレー帽を被り、ゴスロリ風の衣装に身を包んだ、明らかに外国人のそれとわかる顔立ちの、腰まで届くロングヘアーをした謎の少女。
その少女は今日のこの時刻のこの場所に、霞が現れることを伝えると、名前も名乗らず足早に去っていった。
望たちは半信半疑だったが、藁をも掴む状況ゆえ、少女の言葉を信じる事にした。
そして昨夜そのことを彩に話すと、彩は自分の刀を望に手渡したのである。もちろん自分以外の人間にも扱えるように、特別な処置を施して。
彩にしてみれば、必要なときは即座に手元に取り寄せられるので問題はない。
望がアドルファスとの闘いの最中に刀が取り寄せられる事態もあるわけだが、そのときは彩がバロンを倒したということになるわけだから、心配は無用だ。
「望ちゃん、わかばちゃん。紫光院のことはわいに任せて、二人とも早う彩ちゃんのところへ行ったってくれ!」
刀が手元にある以上、まだ彩とバロンとの決着はついていないという事だ。
望とわかばは勤に頭を下げると、一目散に山中へ駆け出し、風音神社へと向かった。

暮れなずむ赤い世界に、剣撃の打ち合う響きが生まれては消える。
きいん。きいん。きいん。と。弾ける火花は終わりのない花火のようにも見えた。
激しく斬り付ける彩に、流れるような動作で受ける真。素人目には息の詰まるような剣舞にして、死闘だと感じるだろう。
事実、戦いを見守るみなもとひなたにはそう映っていた。
しかしここに望がいたならば、そうは受け取らなかったに違いない。
それは茶番だ。
一見ふたりの闘いは互角に切迫しているように見える。
だが、ある程度の技量がある者ならば、それがまやかしであることに気付く筈だ。
本気で刃を振るっているのは彩だけ。真は反撃もせずに無造作にそれを受け流しているに過ぎない。剣の心得のある大人が、子供のチャンバラの遊び相手になってやっているようなものだ。
そして悲しいかな、彩にもそれが実感できるくらいの技量はあった。
剣を打ち合えば打ち合うほど、それがはっきりと分かってくる。理解できてしまう。
識ってしまうことの恐ろしさを誤魔化すように、糊塗するように、彩は剣を打ち続ける。
それは決して闇雲ではなかったが、蝋の翼で太陽に挑んでも、至れず堕ちるだけだ。
闘う前から勝敗は明らかだったのだ。ふたりの実力には覆すことのかなわない開きがあったのだ。
もともと彩の剣技はそれほど卓越したものではない。
剣道大会で優勝する腕前を持つ望と互角に渡り合う技量はあるが、達人には程遠い。
千年の時を生きてきた彩だが、それを純粋な修練に費やす心の余裕など無かった。
もちろん長い時の中で彼女が同化体にしてきた人間の中には、熟練した実力を持つ者も存在した。彩がそれらをことごとく屠り、返り討ちにしてこれたのは、偏に彼女の「力」に拠るところが大きい。
単純な剣術による勝負では、彩は常人より多少腕のある少女だ。
そして相手は幾多の冒険を成してきた英雄にして、伝説の冒険王バロンである。
トルコ軍との決戦では、馬上からの剣の一振りで十数名のトルコ兵の首が撥ね跳んだ。
「はあああっ!!」
どよもすような絶叫とともに、彩は渾身の一撃を繰り出した。
呆気なく躱された。ここで真は初めて剣を攻撃のために振るう。
「あうううっ!」
右肩に痛烈な一撃を受け、彩は苦鳴を上げて無様に転がる。
「彩ちゃん!!」
みなもとひなたの叫びは殆ど同時だった。
彩はもんどりうった身体を起こし、苦痛に顔を顰める。制服の右肩はじっとりと血に塗れていた。それでも真は手加減したのだと彩は理解した。
本気なら右腕が肘ごと無くなっている。
「こんなの……こんなの……やっぱり駄目だよ……っ」
蒼白の表情でひなたが震える拳をぎゅっと握る。
唇を強く噛み締めたとき、少女の想いは濁流となった。
「情けない。その程度の腕でよく千年も罪のない人間を殺し、儀式を続けてきたものだ」
「っっっ!!」
一瞬にして頭に血が昇り、物凄い形相で彩は歯を噛み締めた。
真はそ知らぬ顔で剣を下段から上段に移す。
彩に躱す術はない。それでも彼女は強い眼差しを真に向ける。
諦めたら終わりだ。諦めが人を殺す。だから――――絶対に諦めない。
真がゆっくりと剣を振りかぶった。彩を昏倒させ、決着をつけようというのだろう。
「彩ちゃん!」
みなもが叫ぶ。二人の周囲を瞳に映し、みなもは咄嗟に精神を集中した。
途端、真の足下にある枯葉や砂利が、一斉に舞い上がったのだ。
「ぬおぅっ!?」
突然の出来事に、さしもの真――バロンも数歩、たたらを踏む。
それはみなもの力。そよかぜを起こす力。
みなもの風によって緩やかに舞い上がった枯葉と砂利は、意志あるもののように真の前にだけ覆い被さったのだ。
訪れた最大級の好機を、彩は逃さなかった。
「はああっ!」
気合一閃。
真の剣は見事に弾き飛ばされ、境内を転がった。
「しまった!」
「バロン!!」
怒号を乗せて、彩は右上段から剣を振りかぶる。
夕陽を受けた白刃が、袈裟懸けに紅の軌跡を描いた。
柄を握る手に何ともいえない嫌な感触が伝わってくる。真剣で人を斬る感触だ。
ぴぴっ、と血飛沫が彩の顔にかかり、白い肌に朱の洗礼が注がれた。
瞬間、彩は違和感を覚えた。
「ひなたちゃん!?」
みなもの絶叫は悲鳴に近かった。
血飛沫とともにどっと倒れて横たわる小さな体躯――それは丘野ひなただった。
「なんと!?」
「ひなたさん!!!」
思わず目を剥く真。彩は頭の中が真っ白になって血塗れのひなたを抱き起こした。
ひなたは彩の腕の中で、ぜえぜえと荒い呼吸をついて、安堵の笑みを浮かべた。
「バートおじさんが……最後の力を貸してくれたんだよ……」
「どうして、どうしてこんなことを!!」
「これ以上……お兄ちゃんと……彩ちゃんが…………傷つけあうのを、見たくなか……った」
息も絶え絶えで声を絞り出す。
大切な人同士が傷つけあうなんて、そんなことがあっていいはずがない。
ひなたの強い想いは、バートホールドの心を動かしたのだ。
俊足は途中で尽きたが、それでも真と彩の間に割って入ることは出来た。
「ごめん……だよ……ひなた、彩ちゃんに……嫌な思いさせちゃった……ね」
「ひなたさんっ!」
苦笑いのような表情を残し、ひなたの瞼は閉じた。
どっと力が抜けた身体の重みを腕に感じ、彩は半狂乱になって喚く。
「み、みなもさん……ひなたさんが……ひなたさんが! わ、わたっ……私のせいで、私がひなたさんを……っ!」
「彩ちゃん、落ち着いて! ひなたちゃんは意識を失っただけだよ。だから落ち着いて!」
取り乱す彩をなだめるように、みなもは彼女をぎゅっと抱きしめた。
みなもの胸から響く、とくん、とくん、という鼓動が、彩の心を和らげていく。その優しい抱擁は、彩を少しずつ落ち着かせていった。
確かにみなもの言うとおり、ひなたは斬られた痛みで気を失っただけだった。
だがこのままにしておいたら危ないのは言うまでもない。何とか応急手当をと思ったときである。
境内に駆け込んできた二つの人影は、一組の姉妹の形をとった――

「これでもう大丈夫ですわ」
わかばの治癒の力で一命を取り留めたひなたは、安らかな寝息をたてていた。
彩の振るった剣は、殺すつもりではなく重症を負わせるために力加減がなされていたことが幸いしたらしい。
その場にいる全員が、心底ホッとしたように、安堵の吐息を漏らした。
「わかばさん……本当にありがとうございます」
「構いませんわ。私にはこれくらいしかできませんもの」
淑やかに微笑んで、今度は彩の右肩に治癒の力を向けるわかば。
「あっ、私はいいです……私のせいでひなたさんが傷ついてしまったんですから」
「いけませんわ。それでは逆にひなたさんが悲しまれますわ」
「…………ごめんなさい」
あっさりと諭され、彩は素直に従った。淡く仄かな輝きに包まれると、傷口は見る見るうちに塞がっていった。
ふと見渡すと、空は既に群青色に染まっている。
丘野真は蒼茫の彼方を見つめながら、無言で立ち尽くしていた。
まるでずっと昔からそこに立っているような、そんな風に彩は感じた。
「饗宴も終わりのようだな」
と、真は言った。
「少女の真摯な想いを犠牲にするなど、ミュンヒハウゼンの名が廃る。そんなものはバロンの世界ではない」
「……!」
彩が目を丸くして立ち上がる。
一瞬、真の顔に立派な口髭を生やした紳士の顔が重なって見えた気がした。
真は何処からか一輪の花を取り出すと、恭しく彩の胸元へ差し出した。
受け取った彩が、思わず「あっ」と漏らしたのも無理はない。
暮れなずむ冬の夕空の下に青く染まる、それはトルコキキョウであった。
「バロン……」
「伝説へ還り、わしはまたいつか目覚めるときを待つとしよう。――さらばだ」
真の全身が仄かに発光すると、ひとつの光球がふわりと浮かび上がった。
それは数度、ふわふわと周囲を巡り、そして空の彼方へ溶けていく。
次の瞬間、望の手に持たれた彩の刀が淡く輝き、翡翠色の粒子に分解すると、無数の風蛍となって群青色の空へ舞い上がっていった。
やがて、はらはらと、はらはらと、天から真っ白なものが降ってくる。
「雪……」
空を見上げ、みなもがぽつりと呟いた。

「つ〜と〜む〜? どうして私がこんなところにいるのか、きっちりと説明してもらえるかしら?」
「ぐぉぉっ! ギブや! ギブギブ!!」
風音山の麓で霞に容赦なく締め上げられる勤は失神寸前だった。
そんな二人のもとにも、はらはらと白い小さな結晶が降ってくる。
霞は締め上げる手を解放すると、辺りを見廻した。
「雪……?」
「雪やな……」
それまでのやりとりも忘れたかのように、街全体を覆う雪に見惚れる二人。
と、霞の身体がぶるっと震えた。すると勤の手が肩にかかり、身体が抱き寄せられた。
少し驚いた顔で見ると、勤は無言でそっぽを向いていた。
霞は微笑すると、肩に乗った手に自分の手を重ね、そっと顔を寄せる。
直に伝わってくる体温に、勤の顔は真っ赤に染まったのだった。

舞い散る雪が頬に当たり、立ったまま眠っていた青年が目を覚ます。
「ここは……風音神社?」
雪の降り続ける境内を見廻して、真はキツネにつままれたような顔になった。
家のベッドで寝ていたはずが、目が覚めたら山の中の神社である。重度の夢遊病者とてこうはいくまい。
居並ぶみなもたちに気付いて、また、きょとんとした。
「みなも……何だ、みんなしてどうしたんだ?」
「まこちゃん!」
「丘野先輩、もとに戻ったんですね!」
一斉に上がるどよめきに、真はただただ首を傾げるばかりだ。
「真……さん」
傍らから掠れ出た声に振り向くと、そこには愛する少女の姿があった。
心なしか小刻みに震えているように見える。
「彩ちゃん、これはいったいどう――」
「真さんっっ!!」
どんっ、と強い衝撃。彩は身体ごと飛び込んでいた。
真の胸に顔を埋め、背中に両手を伸ばして強く強く抱きつく。
唐突過ぎて面食らったものの、真はしっかりと彩の全身を受け止めた。
堪えきれなくなったのか、彩はぼろぼろと涙を流し、堰を切ったようにしゃくりを上げた。
「真さん……真さんっ……うわああぁあぁぁっ!!」
「……彩ちゃん」
「真さん、もう……もうどこにもいかないでください! ずっと……これからも……ずっと私のそばにいてください……っ!!」
心の奥底からとめどなく湧き出る想い。
何が何だかよく分からないが、それでも真は震える華奢な身体を抱きしめた。
「ああ、俺は彩ちゃんを離さないよ。ずっと一緒だ……この先もな」
「真さん……」
彩が涙に濡れて潤んだ顔を上げる。
真はそっと両肩に手を置くと、彩の唇に優しく口付けした。
辺り一面は見渡す限りの銀世界。
舞い降りる白雪は、ふたりを包むようにいつまでも降り注いでいた――