第3話「疾風怒濤」
少女の声が風に舞った。
「彩ちゃん、これは……強襲だよっ!」
呆気にとられる傍らの少女の腕を引いて、空色のツインテールが揺らいだ。
真冬の日常の中、久々の快晴と日差しが公園を包み込んでいた。それはまさしく麗かな午後という表現がピタリと当て嵌まる。
並木道沿いに並ぶ木製のベンチに座る二人の少女。
手元に置かれた小箱からは、鼻腔をくすぐるソースと青海苔の匂い。
ふと彩が隣に目をやると、そこにはアンビリーバボーな光景があった。
「たこ焼きは別腹だよ〜♪」
鳴風みなもの横には平らげられた5箱もの空箱が積み上げられていたのだ。
1箱八個入りなので、既に40個はお腹の中に消えている計算になる。
そして平然と6箱目の包みを開ける仕種に、彩は世の中には常識ではとても測れない出来事もあるのだということを思い知った。
丘野真の行方を捜索中の彩が、公園を歩いているときに、たまたま通りかかったというみなもに声をかけられたのは太陽が天高く輝いている時刻だった。
「彩ちゃん、そういえば制服姿だね」
みなもは暖かそうなグレー系の上衣とロングスカートである。
「結構、この制服には愛着がありますから……たまに普段着として着ているんです」
膝上のたこ焼きに目を落としながら、彩は口元を緩ませた。
制服を持っていても、一度も学園生活をおくった事のない彼女の気持ちは如何なるものであっただろうか。
薄い笑みを見せる彩の横顔からは、それを窺うことはできなかった。
「あっ、彩ちゃん。頬に食べカスがついてるよ」
みなもに指摘され、口元を拭おうとする彩。
膝上の小箱を横に置いてハンカチを取り出そうと思ったそのときだった。
「え……っ」
鼻元を漂う清潔なシャンプーの香り。柔らかな唇が自分の唇の真横に触れられる感覚。
それが何か知覚できたとき、彩の頬はほんのりと桜色に染まった。
みなもが舌で口元の食べカスを舐め取ってくれたのである。
「やだ、そんな赤くならないで。私まで恥ずかしくなっちゃうよ……」
「あ、あ、ごめんなさいっ!」
思わず取り乱して不必要に謝ってしまう彩。
気を紛らわそうと、ぱくぱくとたこ焼きを口の中に放り込む。
そんな彩の様子にくすりと微笑みながら、みなもはぽつりと呟いた。
「ねえ彩ちゃん……彩ちゃんはもう、まこちゃんと寝たの?」
「っっっ!!?」
盛大に口から噴き出る咀嚼中のたこ焼きだったモノ。
ごほごほと激しく咳き込んで胸を叩く少女の姿に、みなもは驚いた。
「わわっ、彩ちゃん大丈夫?」
彩の背中をさすりながら、缶のお茶を差し出す。
みなもに手渡されたお茶をぐびぐびと喉に流し込んで数十秒、彩はようやく落ち着いて呼吸を取り戻すと、胸を楽にした。
「み、みなもさん……」
「ごめんね、ちょっと聞いてみたかっただけなの」
ぱたぱたと手を振って苦笑いするみなもの顔は、どこかバツが悪そうだった。
「何言ってるんだろうね、私。あれから半年近くも経ってるんだから、そういう関係になってないほうがおかしいよね」
「…………」
少し間を置いて、彩はこくんと頷いた。
「でも、まだ数えるくらいです」
うつむきながら紅潮。
だが、みなもの複雑な視線に気が付いて、頬から赤みが引いていった。聞かれたからとはいえ、傍から見ればただの惚気に過ぎないだろう。
ましてやみなもの気持ちを考えると尚更心苦しい。
しかし、それでも彼女は穏やかな表情をしていた。
「気にしなくてもいいよ。好きな人同士がそうなるのは、とても自然な事だと思うから」
「みなもさん……」
「それに私は嬉しいんだよ。彩ちゃんが素直に自分の気持ちを出せるようになったことが」
その声は彼女の名前に相応しく、透き通った水面のように安らかに聞こえた。
「彩ちゃん……私、あのとき彩ちゃんの頬を引っ叩いたよね」
あのとき。千年の夢から街が目覚めたとき。
決して消せない罪を背負った少女が無限地獄から開放されたとき。
明日への扉を開く鍵となったのが、みなもの張り手だった。
「はい、あのときは驚きました……一瞬何が起こったのか分からなかったくらいです」
「だって本気で頭にきたんだもん。まこちゃんは彩ちゃんへの気持ちを正直に伝えて、彩ちゃんを助けるために身の危険も顧みずに一生懸命闘ってるのに……なのに彩ちゃんは自分の気持ちを押し殺して、まこちゃんの想いを無駄にしようとした。そればかりか、まこちゃんを私に譲って、運命に抗う事から逃げようとした。私、許せなかった……だから叩いたんだよ。彩ちゃんの本当の気持ちが知りたかったから」
「みなもさん……」
「もしあれでも彩ちゃんが自分に嘘をついていたら、もう片方の頬も引っ叩いているところだったよ?」
突然みなもの手の平が目の高さまで上がったのを見て、彩はびくっと肩を竦めた。
が、その手は優しさを持って少女の可憐な頬を撫でたのだった。
「でも、彩ちゃんはまこちゃんへの気持ちを正直に言ってくれた。だから私も自分の気持ちにケジメをつけることができたんだよ」
みなもの指先が、いつの間にか彩の瞳から零れた一筋の雫を掬い取る。
「だから約束して。もう二度と自分を犠牲にして、まこちゃんを悲しませたりしないって……まこちゃんと二人で、このきれいな空の下をいつまでも歩いていくって」
「…………はい」
強く、とても力強く、想いを込めて彩は頷いた。
それを確認すると、みなもは頬から手を離し、ベンチから腰を上げた。
陽光に照らされた笑顔が彩を見下ろして言った。
「ちょっと歩こうか」
心地良い潮騒の香りが少女ふたりの心を安らげる。
砂浜には寄せては返す波が緩やかな自然の音を奏で、濁りなく澄んだ水面は日差しを受けてきらきらと幻想的な反射を映し出す。
風音海岸。風音市随一の人気を誇る名スポットで、夏ともなれば家族連れやカップルが多く集まって賑わう風光明媚な場所だ。
だが今はシーズン外――それも真冬の時期であるため、人影はまったく見当たらない。
半ば貸し切り状態ともいえる海岸を歩く彩とみなも。
天気の影響か、海から届く風はさして強くなく、寒気も控えめだった。
みなもが背伸びするように両腕を左右に伸ばして立ち止まると、後ろをついて歩く彩へとクルリと身体を回転させる。
「気持ちいいね、彩ちゃん」
「そうですね」
彩も足を止めて微笑む。波が運んでくる風に、二人の髪がさわさわとなびいた。
「そういえば、ひなたちゃんから聞いたよ。彩ちゃん、街に力が戻った事の調査をしているんだってね?」
「……はい」
「どうして力が戻っちゃったんだろうね」
「どうしてなんでしょうね」
いま起こっている事を話すわけにもいかず、疑問系で返す彩。
そして、その先は心の中で続けた。
どうしてこの事件が実現に至ったのか。どうして真と勤が憑依されたのか。
そんな彩の考えに合わせるかのように、みなもが紡ぐ。
「何か、そうならないといけない理由でもあったのかな?」
「そうですね……何らかの理由が……。――――――――はっ!?」
反芻して、彩の脳裏に一筋の線が走りぬけた。
「彩ちゃん、どうしたの?」
よほど呆気に取られた顔をしていたのだろう。みなもが心配げにきょとんと首をかしげる。
だが、彩の中では二つの謎のひとつが、音を立てて組み合わさっていた。
推理モノの二時間サスペンスの後半で何気なく口をついた言葉から、事件の謎を解く重大なヒントが浮かび上がったときの表情――それだ。
「そうですよ。どうして真さんと橘さんが憑依されたのか、ではなく……どうして真さんと橘さんである必要があったのか、なんです」
「あの、彩ちゃん?」
「みなもさん……たったいま、疑問の一つが解けました」
明確な意思を乗せて自分を見据えてくる彩に、みなもの眉根はさらに混迷の皺を寄せた。
「私は以前まで、この世に偶然なんか存在しない、起こった事の全てには必ず何らかの意味があるものだと思っていました。ですが、真さんと出会ってから……真さんに救われてから、本当の偶然もある――中には無意味な事象もあるのだと思えるようになりました。でも、バロンたちが憑依先に私たちの身体を選んだ事は、偶然ではなく必然です」
「彩ちゃん……何を言ってるのかさっぱり分からないよ」
困惑の意思表示を呈するみなもを無視して、彩は淡々と言葉を続ける。
「バロンたちが憑依先で自身の能力を振るうには、それに適応した宿主が必要不可欠です。記憶の結びつきはそれ自体が大きな意味と成り得ます。つまり、この街の力と事件に関する記憶を持っている、真さん、みなもさん、ひなたさん、望さん、わかばさん、紫光院さん、橘さん……そして私を含めた八人が、唯一その条件を満たしている人間ということになるわけです」
「…………」
「さらに、どうせ憑依するなら自分の能力が最も発揮しやすい力と性質を持った相手を選ぶのが道理ですよね。バロンが真さんを選んだのは、真さんがこの街の事件を解決した、いわば物語の主役というべき人間だったから。アルブレヒトは残念ながら能力的にも性質的にも似合う対象がいなかったので、少しでも力を発揮できるように、真さんを除けば唯一の男性である橘さんを選んだんでしょう。そして――」
鋭い眼差しを突きつけてくる彩に、みなもは一瞬たじろいだ。
構わず彩は右手を中空へと伸ばす。
「そして、例えばみなもさんは、風を起こす力と最も類似性の強い能力を持つ……」
何もない空間から事象化した一振りの刀が、その手に握られるのを見たとき、みなもの耳がぴくぴくっと反応した。
「グスタバス!!」
勢いよく振り下ろされた刃から放たれる、思い描いたものを切断する力。
しかし、一足早く動いていたみなもにそれが命中する事はなかった。
彩の攻撃を難なくかわしたみなもは、不敵な表情で笑みを浮かべた。
「油断させて隙を突こうと思ったんだけど……失敗しちゃったね」
「みなもさん……」
「ふふふ、まだみなもって呼んでくれるんだね……嬉しいよ。そうだ、ひとつだけ弁解させて。さっき公園のベンチで私が言ったことは、彩ちゃんを油断させるためについた出任せじゃないよ? あれは私の本物の気持ちだから、それだけは分かってほしいの」
「……はい。それに関しては一切否定するつもりはありません」
むしろ、それさえも疑うようなら、かつての人との関わりを避けていた自分に逆戻りしてしまうだろう。
みなもは心底、嬉しそうに笑った。
「ありがとう、彩ちゃん。それじゃあ――――いくよ」
真面目な顔付きになるや、みなもがすうっと息を吸った。
深呼吸? 否。否。否。
否である。
なれば彩が直線状を避けて真横に飛ぶわけはない。
そして、息を吸えば、吐く。当然だ。
みなもの口から吐かれた吐息は、彩のもといた場所を通り過ぎた。
――通り過ぎた?
二人の距離は数メートルあった。それを、通り過ぎたとは?
とんっと着地した彩は見た。
自分がさっきまでいた場所の後方にあった一本の木が倒れているのを。
理屈は簡単だ。
みなもが吹いた息が、突風となって木まで吹き飛ばしたのである。
「やはり……」
呟いた彩のこめかみに汗の珠がにじむ。
グスタバスの能力――人智を超えた肺活量によって放たれる吐息。吸い込まれた大量の空気は、凄まじい突風と化して解放される。
伝説によれば、その力は森一つを吹き飛ばした事すらあるという。
本来の力を発揮できないとはいえ、まともに食らえば只ではすまない。
「はあっ!」
再び彩が力を振るう。
「当たりはしないっ!」
不可視の斬撃を紙一重で回避してのけるみなも。
その口から反撃の吐息が繰り出される。
「くっっ!!」
飛びのいて範囲から逃れるも、下半身が引っ掛かって砂浜に転がる。すぐさま起き上がると、続けざまに迫り来る疾風から身をかわす彩。
余波を受けて帽子が空に舞った。
彩は体制を立て直すと、立て続けに刀を振り回す。
一太刀、二の太刀、三の太刀。
見えざる衝撃波は精密な機械のごとく対象を捉えて飛翔する。
「無駄だよ」
それはまるで美しい円舞のように――
リズムに乗って踊るようにステップを踏むみなもが、彩の放った攻撃の全てをすいすいと蝶のように避けて余裕の笑みを浮かべた。
舌打ちする彩。グスタバスのもうひとつの能力、それが驚異的な聴覚だった。
数十キロ先の相手の寝息をも聞き取るとされる聴力は、彩が刀を振るう僅かな空気の振動を聴き取り、不可視の衝撃波が飛んでくる軌道を正確に読み取ることが可能なのだ。
「やはり至近距離から斬り付けるしかないようですね」
だが、どうするか。不用意に近付こうものなら、吹き荒ぶ暴風の餌食となるだけだ。
彩は注意深く周囲を見渡した。
水色の絵の具を流し込んだような淡い空。どこまでも蒼く澄んだ、きらめく水面。
まばらに立つ木々。さらさらとした品のいい砂浜。そして――
「そこっ!」
放たれた衝撃波を軽くかわすみなも。
その足下にあった少し大きめの石が跳ね上がるのと、みなもが息を吸い込むのとは、ほとんど同時だった。
「ごほ……っ!?」
拳大の石を口腔に吸い込み、苦しげに胸を叩くみなも。
思わず窒息しそうになるくらいに紅潮したところで、無理矢理息を吐いて押し出した。
勢いよく吹き荒れた暴風は、見当違いの方向に砂漠の砂嵐を巻き起こす。呼吸を取り戻したみなもが気付いたときには、彩の姿は既に目前にあった。
「くっ!」
「これで終わりです!」
大上段から振り下ろされる刀。この距離ではかわしようがなく、彩は勝利を確信した。
――――だが、心せよ。
闘いとは勝利を確信したときにこそ、何より慎重にならなければいけないということを。
敵もまた、自身の危うい状況を想定していない訳がないということを。
心せよ。心せよ。心せよ。
突如として青天にも霹靂が訪れる事があるということを――――
振り下ろした刃が、みなもに届く前に止まった。
何だ? 何だ? 何なのだ?
それは手だ。小さな手だ。自分とさして相違ない少女の両手だ。
其れは割って入ったのだ。彩とみなもの間に。刀が振り下ろされる刹那に。
丘野ひなたという名の少女による、ソレは真剣白刃取りであった。
「ひなたさん!?」
「うにゅっ!」
愕然とした彩の力が一瞬緩んだのを感じると、ひなたは白刃取りのままの状態で器用に刀を奪い取り、その場で跳躍。華麗に空中でトンボを切った体躯は、危なげなくみなもの後ろに着地したのだった。
今のはひなたの力である跳躍力であろう。
だが、その口から元気よく放たれた言葉は――
「ひなたは、バートホールドだよーっ♪」
それこそが彼女の中にいる存在だった。
そして、バートホールドの能力は音速をも凌駕する俊足。
疾走中は弾丸すらスローモーションに映るのだから、振り下ろされた刃を両手で挟み取る事など造作もなかったに違いない。
息を吸うみなもに気付き、彩は飛びのこうとしたが遅かった。
刀を持たない彩は只の非力な少女に過ぎない。無防備な小柄な身体へ、荒れ狂う突風が容赦なく叩き付けられた。
「きゃああああああっ!!」
悲鳴は尾を引いて、後方へと流れていく。
岩肌に背中から激突し、どっとその場に尻餅をついた。
「あ……ぐっ……!」
苦痛に顔を歪める彩。強打の痛みにより、すぐには身体を動かせない。
「ナイスタイミングだったよ、ひなたちゃん」
「グスタ……みなもお姉ちゃん、来るのが遅いよ〜。俺……ひなた、お昼御飯も食べずに待ってたんだよー」
うまく同調できないためか、呼称の段階で地が出かかっている。
「ごめんごめん。これが片付いたら、たこ焼き奢ってあげるから」
苦笑しながら彩の方へと歩を進めるみなも。
「く……っ」
よろよろと。よろよろと。
激痛に顔を顰めながらも、彩は必死の形相で立ち上がったのだ。
その気迫にみなもの額から冷や汗が流れる。
「すごいね、彩ちゃん。でも……武器もないのにどうするつもりなのかな?」
「あの刀は……私の刀ですよ」
「……?」
意味ありげな微笑に、みなもが訝しんだそのときだった。
「うにゅっ!?」
素っ頓狂な声に振り向くと、信じ難い光景が目に映った。
ひなたの手に持たれた彩の刀が見る間に掻き消えたのである。
はっとしてみなもが顔を戻すと、刀は本来の持ち主の手元に戻っていた。
そう、それは彩の刀。彩が念じれば、何処からでも取り寄せる事ができるのだ。
「くうっ!」
みなもが慌てて息を吸い込む。
だが――
「それでは駄目なんです」
淡々とした一言。
次の瞬間、彩の刀は深々とみなもの胸を刺し貫いていた。
がくがくと痙攣するみなもの全身。無論、身体に傷はつかず、血が流れ出る事もない。
刃が傷つけるのは肉体ではなく精神そのものだから。
「どんなに強くても……どんなに凄まじい力を持っていても……気付いてから行動に移していたのでは遅すぎるんですよ!!」
刀を垂直に右横へ薙ぐと、彩は再び大上段から刃を振り下ろす。
今度はひなたの助けも間に合わない。
気付いてから行動に移していたのでは遅すぎるからだ。
「きゃあああーーーーーーっ!!!」
断末魔が風に乗って空へ溶けてゆく。
みなもは意識を失ったようにがくりと砂浜に崩れ落ちた。
「まさか、グスタバスが負けるなんて……」
ひなたが茫然と立ちすくむ。その瞳に彩が刀を自分に向けて構えるのが見えた。
「わわっ、冗談じゃない!」
すかさず助走状態に入るひなた。だが、彩にしても逃がすつもりは毛頭無い。
ひなたに――バートホールドに走られたら追い付くのは不可能だ。
彩は痛む体を圧して刀を振るう。
「うにゅっ!」
思い描いたものを切断する力が命中し、ひなたは悲鳴を上げた。
そのまま倒れるかと思いきや、踏ん張ってよろよろと歩き出す。命中はしたものの致命傷には一歩及ばなかったようだ。
「でも、もう逃げられませんよ」
トドメを刺そうと彩がもう一度力を振るおうとした瞬間――
大きく轟いた咆哮に、彩は耳を疑った。それは聞き覚えのある馬の鳴き声だった。
だが、それは何処から響いた? どうして水音を伴っている?
答えはすぐに訪れた。海面から盛大な水飛沫を上げて白馬が浮上したのだ。
それに跨るはひとりの青年。
片手で自身の頭の髪を一掴みして、馬ごと海面から持ち上げたのである。
もはや物理法則など歯牙にもかけない行為だった。
彩が呆気に取られている内に、白馬――プケパロスは水面から跳躍すると、優雅な放物線を描いて砂浜に降り立った。
すかさず馬上の青年が、既にぐったりしているひなたの腰元を掴んで身体を引っ張り上げた。
ようやく我に返った彩は、ありったけの声で青年に向かって叫んだ。
「まこ……バロン!!!」
青年――丘野真はひなたを腕に抱きかかえながら、彩を見下ろした。
「やれやれ、仕方がないな。明日の夕刻、風音神社にて待つ……そこで決着をつける事としよう――――さらばだ」
そして、白馬は颯爽と駆け去っていった。
「まこと……さん」
力も身体も限界にきていたらしく、彩はがっくりと両膝をついた。背後で横たわっていたみなもが、むくりと上半身を起こす。
寝惚けまなこで周囲を見渡し、彩と目が合うと、ぽつりと声を発した。
「おはよう彩ちゃん」
「…………おやすみなさい、みなもさん」
精根尽き果て、彩の意識は急速にブラックアウトしていった――