第2話「ひなたの憂鬱」
「バロンとは様々な冒険で名を馳せた英雄にして、伝説の冒険王です。かつて、トルコ軍に包囲された町を四人の家来と共に救ったと言われています。そして……バロンは、彼を求める時代が到来する度に、何度も蘇り、伝説にその名を刻んでいます」
勤と藤宮姉妹が、真剣な顔で語る月代彩をテーブル越しに見据える。
彩は一旦口を休めて、寿司屋にあるような魚の漢字が沢山書かれた湯飲みを手にとると、番茶を軽く喉に流し込んだ。
やや熱めの液体が口腔を潤すのを感じると、徐に言葉を続けた。
「そして、街に力が戻ったのは彼らが現れたからということで間違いないでしょう」
言い終えて、薄く目を伏せる彩。
暫しの間、重苦しい無言の空気が出口を求めて室内を通り抜けた。
いま三人が集まっているのは丘野宅の一室。
昨夜、意識を取り戻した勤を介抱すると、その場はとりあえず別れ、それぞれの家に帰宅したのである。そして一晩明けた本日の午後、こうして丘野家に集まって彩から現状で判明している事を耳にしているわけだ。
「なんで、そのバロンっちゅうやつらがこの街で蘇ったんや?」
「蘇った理由については大方の見当がついています。ただ、何故それが実現に至ったかまでは分かりません」
「じゃあ、彩ちゃんが襲われたワケは?」
「それは私が彼らを倒せる力を持つ、唯一の邪魔者だからですよ」
彩の刀による、相手の精神を直接攻撃できる力。それこそがまだ精神体である彼らを傷つけることが可能な手段なのだ。
また、憑依先では本来の力を発揮する事が出来ないのも、彩にとって有利な点である。
逆を言えば、それだけ強い能力の持ち主たちであるということなのだが。
「ただ、私を殺すつもりはないはずです。彼らは悪しき人間ではありませんから。私の動きを封じて、自分たちが完全に復活するまでの間、邪魔を出来ないようにしようと思ったんでしょう」
「事情は分かりましたわ。それで、彩ちゃんはこれからどうなさるおつもりなんですの?」
「そうですね、バロンを倒して真さんを取り戻します。彼がいなくなれば、残りの家来に憑依された人たちも、街も全てが元通りになるはずです」
彩の真紅の双眸には、絶対に諦めない強い意志の炎が宿っていた。
その言葉を聞いた勤が、突然ガッツポーズをして気合を入れる。
「それならわいらも協力させてもらうで!」
「いけません、皆さんに危険が及ばないとは限りませんから……!」
慌てて勤を制止する彩だったが、望が割って入った。
「彩ちゃんならそう言うと思ったけどね……でも、水臭い事は言わないで。大切な彩ちゃんと丘野先輩のために、私たちにも力を貸させてほしいの」
「そうですわ。一人より二人、二人より大勢ですわ」
「そういうことや。自分ひとりでなんて虫が良すぎるで、彩ちゃん」
三つの真摯な眼差しを振り切ってまで、今の彩に断る道理はなかった。
胸に熱いものがこみ上げ、その瞳には涙の粒が溢れた。
「……ごめんなさい」
「違いますわ」
「えっ?」
「こういうときは「ごめんなさい」やのうて、「ありがとう」や」
わかばの言葉を継いで、勤がちっちっちっ、と人差し指を振った。
思わず彩は目を見開く。
「…………ありがとう、皆さん」
涙で霞んだ微笑みに、それまで漂っていた重苦しい空気が露と消えた。
「それにしてもアレやな、さっきの発言」
場が和んだ途端、勤がいつものノリで話し出した。
「バロンを倒して真さんを取り戻します――。しっかり自分のもの扱いなんて、彩ちゃんも意外と独占欲が強いんやなあ〜」
「え……っ!」
「こんな可愛い女の子にそないなこと言わせるなんて、真も罪作りな男やで!」
突然そっち方向の話題を振られ、彩の顔がみるみる赤く染まっていく。
そんな様子を見て藤宮姉妹が楽しそうに笑った。
「ち、違います! 私はそんなつもりで言ったんじゃ……」
「いやいや、気にすることはないで、彩ちゃん。早う真と二人っきりのラブラブな生活を取り戻したいんやもんな〜、分かる、分かるで、その気持ち!」
「…………」
別の意味で涙目になりながら、彩は真っ赤な顔で俯いた。
結局、彩が恥ずかしさで死にそうになるくらいにエスカレートしたところで、わかばの丁寧口調の強烈な突っ込みが入って収束したのであった。
「うにゅ! 彩ちゃん!?」
「こんにちは、ひなたさん」
風音市内の某マンション、鳴風みなもの部屋のインターフォンを押して待つこと数分。
応対に姿を見せたのは明朗快活で人当たりが良さそうな少女だった。
今はみなもの家に厄介になっている、丘野ひなたである。
突然やってきた彩に少々びっくりしている様子が見て取れた。
「こ、こんにちはだよっ。今日はどうしたの」
「ええ、大した事ではないんですが……」
玄関口に目をやると、どうやらみなもは外出中のようだった。
「真さんがこちらに伺っていませんか?」
「お兄ちゃん? ううん、来てないよー」
「……そうですか」
ひなたが若干不審な顔付きになったのは、質問が不躾だったからか。
案の定、すぐに不安げな表情を切り出してきた。
「彩ちゃん、お兄ちゃん何かあったの?」
「何でもないですよ。気にしないで下さい」
「うにゅう、気になる……」
御尤もだと思った。
昼食の帰りに近くを通ったついでに立ち寄ってみたのだが、これではひなたを心配させるために来たようなものだ。少し軽率すぎたと彩は心の中で自分を窘めた。
「そういえば、急に力が戻って、ひなたびっくりしたよ!」
聞いても無駄だと思ったのか、不意に話の矛先が変わった。
玄関口ということも気にせずの大声だ。
「彩ちゃん、街に何かが起こってるの?」
「そうですね……まだ明確な事は分かりませんが、現在調査中です」
「ふーん。何だか探偵さんみたいだねー」
ひなたが面白そうに両手を頭の後ろで組む。
「探偵、ですか?」
「そうだよっ! そして、ひなたはワトソン君なんだよーっ♪」
「私はシャーロック・ホームズなんですね」
腕に肘を乗せて、彩がくすりと微笑んだ。
いつものひなたスマイルを前に、心が和んできた証拠である。
「そして二人でドジな悪役のモリアーティ教授の悪巧みを毎回解決するんだよーっ♪」
「……ドジ。犯罪界のナポレオンが、ですか?」
「うにゅ?」
「……少しお聞きしますが、それはどういったホームズなんです」
「もちろんアニメの名探偵ホームズだよっ。前に友達ちゃんの家に行ったときに見せてもらったんだ」
顔を綻ばせるひなたに、彩は合点がいった。
「すみません、私はそっちの方は詳しくないので……」
「そうなんだー」
「それでは、そろそろ失礼しますね」
ぺこりと頭を下げて踵を返す。そんな彼女の背中に「彩ちゃん!」と呼び声が響いた。
振り向くと、戸惑った様子の双眸が自分を見つめている。
「なんですか」
「えっと……がんばってね!」
「…………はい」
すぐに元気な顔を見せ、明るく手を振った。
彩は小さく微笑を返すと、その場を後にしたのだった。
「うにゅ〜、彩ちゃんに嘘ついちゃったよ」
気まずそうにソファに腰を下ろすひなた。
そんな少女を瞳に映し、対面のソファでくつろいでいる青年が軽く頭をかいた。
青年――丘野真は気をほぐすように、声をかける。
「嘘ではなかろう。現に真という少年はここにおらぬ。わしはかのバロンこと、カール・フリードリッヒ・ヒエロニムス・フォン・ミュンヒハウゼンであるのだからな」
そんなことを言われても、ひなたは複雑な気持ちだった。
部屋を流れる暖房が、温くもあり暑くも感じる、そんな気分。
「お兄ちゃんから離れてくれるんだよね?」
「お前は何度その質問をすれば気が済むのだ」
「だって……」
「心配いらん。然る時がくれば、わしらは完全に復活し、このような借り物の身体とはおさらばする事になる」
昨夜から幾度となく交わされたやりとりであった。
俯いて涙目になる少女の頭を、これもまた複雑な表情で真が撫でた。
やがて落ち着いたのか、ひなたは目の前のテーブルに置かれたココアを口につける。
少しぬるくなっていたが渇いた喉を潤すには十分。口腔に広がる程よい甘さが心を楽にした。
「ところで、バートホールドはまだ寝ておるのか?」
頃合いを見計らい、今度は真が質問を発した。
ひなたは困り顔で首を縦に振った。
「うん、もうぐっすりさんなんだよーっ」
「やれやれ、暢気な奴じゃ」
呆れ気味に肩を竦めると、鼻の下に手を持ってくる。しかしある筈の立派な髭はなく、指先は空を掴んだ。
目的を失ったそれはワイングラスへ伸び、琥珀色の液体を口に含ませた。
ワインはないので単なる麦茶だったりする。
「気ばかり焦って憑依に失敗し、宿主と精神を共有してしまうとは」
愚痴をこぼす真に、被害者であるひなたは苦笑いするしかなかった。
そのとき、ドアの開閉音とともに機嫌の良さそうな鼻歌が流れてきた。
二人の目と耳がその方向へ向く。
「グスタバスが帰ってきたか」
真の視線の先、部屋に入ってきたのは容姿の整ったツインテールの少女だった。
「ただいま。まこちゃん、ひなたちゃん」
可愛らしく会釈して、鳴風みなもは買い物袋の詰まったトートバックを床に置いた。
隙間からは洋服やら今晩のおかずの材料やらが申し訳程度に顔を覗かせている。
「ええい、その呼び方はやめんか! 気色の悪い」
「え〜、それは無理だよ。だってそれだけ上手く同調してるってことだもん」
にこにこと真の隣に腰を下ろす。ひなたは目の前の少女にただ、きょとんとするばかりだ。
何しろ違和感がなさすぎて、とても誰かが乗り移っているとは思えない。
「おかえり、みなもお姉ちゃん」
「…………」
目をぱちくりとさせるみなも。
真意の是非を確かめるように、ひなたをまじまじと見つめてくる。
「ひなたちゃんは、どっちのひなたちゃん?」
「ひなたはひなただよっ」
「……」
隣の真と顔を見合わせると、納得したように溜息を吐いた。
「お寝坊さんだね」
「まったくだ。ひなた、そろそろバートホールドを起こしてやってくれ」
真に促され、ひなたは両目を閉じて沈黙した。
精神内で呼びかけているのか、傍目には瞑想しているようにしか見えない。
数十秒が経過したとき、丸い双眸がパッと開かれ、夢から覚めたような形相で小首が左右にぶんぶんと振られた。即席の寝惚け顔が見知った人物を視界に捉える。
「おっ、バロンの旦那、グスタバス、おはようさん」
妙に調子のいい口調で片手を上げての挨拶ときた。
「何がおはようか。もうとっくに正午を過ぎておるわい」
「ひなたちゃん、言葉使いが乱暴だよ。いつものひなたちゃんらしくしないと」
「無茶言うな。俺はお前達と違ってうまく同調できないんだ。誰もいないんだから普通に話したっていいだろ」
「それは憑依に失敗したお前が悪いのであろう」
ワイングラスの麦茶を嗜みながら、真が正論を放つ。
流石に反論できないのか、ひなたはみなもの揚げ足を取ってこう言った。
「おいグスタバス、バロンはいいのかよ? 思いっきり素の言葉使いだぞ」
「まこちゃんはいいんだよ〜♪」
「うわっ、とんでもない差別だ畜生!」
間髪いれずの即答に、不貞腐れてソファに寝転がるひなただった。
「それよりグスタバス。先程、例の娘――月代彩がここを訪ねてきたぞ」
その名前を聞いた途端、みなもの耳がぴくぴくっと反応した。
「彩ちゃんが? もう嗅ぎ付けてきたのかな……」
「いや、応対に出たひなたの言によると、たまたま立ち寄っただけのようだ」
「ふーん…………でも、油断は出来ないね。今の内に何とかしておいた方がいいかも」
みなもが真剣な顔で腕を組む。
そして何か決意したかのように、すっくと立ち上がった。
「うん、決めた。私が彩ちゃんをやっつけて、時が来るまで身動き取れないようにするよ」
「ほほう」
「彩ちゃんはまだ、私やひなたちゃんが憑依されていることは知らないだろうから。気付かれる前に隙をついて倒す……先手必勝の極意だよ」
何が極意なのかはよく分からないが、みなもは両手を握り締めてやる気満々である。
対照的にひなたはかったるそうに手を振った。
「そうかそうか、まあ頑張ってくれ」
「なに言ってるの。ひなたちゃんも手伝うんだよ?」
「げっ、何で俺まで!?」
寝耳に水といった感じで飛び起きる。
「万が一ということもあるからね。用心に越した事はないよ」
「それなら俺よりアドルファスの方が役に立つだろ」
「紫光院さん? 残念ながら紫光院さんは家の事情で今日と明日は自由に動けないって言ってたの」
「そりゃまた随分と都合のいい事情だねえ」
面倒くさそうに悪態をつくひなた。
それでも何を言っても無駄と分かったか、どうやら観念したようだ。
「分かった分かった、手伝えばいいんだろ。今からいくのか?」
投げやりな返事に、みなもはにっこりと微笑んだ。
「ううん。今日はお買い物で疲れたから、明日」
おいおい、とずっこけかけるひなた。
みなものやや天然なマイペースは今に始まった事ではないのだが。
「まあいいや。それじゃ俺はまた寝るから、行くときになったら起こしてくれよ」
二人が止める暇もなく、少女の目は閉じられた。
数瞬後、目を開いたひなたはひなたに他ならなかった。
呆れたような二対のジト目が集中する。
「もう、ぐうたらなんだから……いけないよ、そういうの」
「如何ともし難いやつじゃな」
「……うにゅ〜、ひなたに言われても困るんだよ」
あまりの居心地の悪さに自分も寝てしまいたい衝動に駆られるひなたであった。
「月代彩君」
帰路を辿る途中、背後から厳かに名前を呼ばれた。
振り向くと、一目見て日本人ではないと分かる顔立ちの、杖をついた老人がそこにいた。
聞き覚えのない声、見覚えのない顔。何故、自分の名前を知っているのか。
「……なんですか?」
警戒心を眼差しに乗せて、彩は応答した。
「そう怖い顔をしないでくれたまえ。私は君に危害を加えるつもりはない」
この国で生まれたといっても誰も疑わないであろう、流暢な日本語。
眼鏡の奥から覗く、穏やかだが剣呑な光を湛えた双眸に見つめられていると、何か全てを見透かされているような焦燥感が胸を駆り立てる。
「用件があるなら、早く言ってもらえませんか」
「なに、君とは近いうちにもう一度会うことになるから、先に自己紹介を済ませておこうと思ってね」
「自己紹介?」
最初の意味深な言い回しはとりあえず無視して、後半の言葉を聞き返した。
彩がそう返してくるのが分かっていたかのように、老人が頷く。
「私の名はリオ・フセスラフ。リオと呼んでくれていい」
「リオさん……ですか」
「そうだ。では彩君、また会おう――」
颯爽とコートを翻して、老人は何処とも知れぬ方角へと歩み去っていく。
その後ろ姿は、それ以上の詮索を一切遮断するかのような空気を纏っているように見えた。
彩は不可解な気持ちを胸に残しながらも、そのまま帰路に着くしかなかった――