第1話「英雄の帰還」
「面白かったですね、真さん」
茜色に染まりゆく夕暮れの街路を歩きながら、小柄な少女が傍らの青年を見上げる。
背後には今しがた二人が後にしたと思しき映画館が、夕陽を受けて照り返っていた。
少女の名は月代彩。
白みがかった銀色に近いボブカット状の髪と、真紅に輝く紅玉のような双眸が、どこか浮世離れした不思議な雰囲気を醸し出している。
隣を歩く青年は丘野真。サッパリとした風貌の、ごくごくどこにでもいるような好青年だ。
「そうだな。でも女の子と一緒に見るようなものでもないけどな」
言って、少し苦笑してみせる。
確かに、天下の素浪人である主役の三人が、悪党どもを斬って斬って斬りまくる勧善懲悪の痛快時代劇など、異性とのデートのときにチョイスする映画ではないだろう。
友人の橘勤が、商店街の福引で当てた映画のペアチケットだった。
最初は自分が誰かを誘って行く気満々だったらしいが、紆余曲折を経て計画は前倒しになり、結局期限切れも間近とのことで真の手元に渡る事になった。
勤が計画を断念した理由は不明だが、紫光院絡みであろうことは容易に想像できる。
「まあ彩ちゃんが楽しんでくれたならいいか」
「ええ、面白かったですよ。多少時代考証が間違っているところもありましたけど」
「そうなのか・・・・・・俺にはよく分からなかったけどな」
口に出してから真は、ああ、と納得した。
彼女は千年間も時代の移り変わりを現実にその目で見てきたのだ。
それなら相違点を指摘できるのも頷ける話だ。
「じゃあ、やっぱりちょっとつまらなかったか?」
「そんなことはないですよ」
ふるふると首を振って、くすりと笑う彩。
「娯楽作品は人を楽しませるものですから。史実に忠実でなくとも、見た人が面白いと感じることが出来ればそれでいいんです」
「そうか、そうだな」
「ところで真さん」
不意に声のアクセントが変わる。上目遣いに見上げてくる彩に「何だ?」と聞き返す。
「映画館に入るとき、少し躊躇するような素振りを見せましたよね。どうしてなんですか?」
ぴたりと、まるで示し合わせたかのように二人の足が止まった。
彩の口調は問い詰めるというよりは、確かめるような感じだ。
誤魔化すべきか迷ったが、やがて真は、はぁ、と軽い溜息をついた。
「いや、こういう内容の映画だとは知らなかったからな。彩ちゃんに嫌な思いをさせるんじゃないかと思って・・・・・・」
「・・・・・・あっ」
思わず声を上げた。
街を守るため、望む望まざるに関わらず、数え切れないほどの人を斬ってきた彩。
赤いものが嫌いになるくらい、千年もの間、心の中で泣き続けた。
「真さん・・・・・・真さんは本当に、優しいです」
「そんなことはないけどな」
「大丈夫です。数ヶ月前のあの日、私は救われました。真さんと、皆さんの想いで」
「彩ちゃん・・・・・・」
「私の罪も痛みも全部、真さんが背負ってくれました。私がこれまでに懐いた悲しみも苦しみも・・・・・・全部解き放ってくれました。だから、心配しなくても大丈夫です」
目を伏せて僅かに顔を俯かせる。
それからハッとして「でも、気遣ってくれて嬉しいです」と慌てて訂正する仕種が可愛らしかった。
「真さんには、どれだけ感謝しても足りませんね」
「感謝なんてしなくていい」
そっと、真が彩の身体を抱き寄せる。夕陽に照らされた二人の影法師が街路に伸びた。
「これからも俺のそばにいてくれればそれでいい」
「真さん・・・・・・」
彩は頬を赤く染めて、大好きな人の胸に顔を埋めた――――
季節は冬。
数日前に元旦の初詣を終えたばかりだった。
丘野邸。
彩はあの事件の後、真の家に住んでいる。
最初の頃は真、彩、ひなたの三人で共同生活していたが、やがて二人に気を使ってか、ひなたは自分から家を後にしたのである。
今はみなもの家にお世話になっているらしい。
だから会おうと思えばいつでも会えるので、さしたる問題もなかった。加えて言うなら真は学園で毎日のように顔を合わせるわけである。
そんなわけで、現在の丘野邸は半ば二人の同棲生活の場となっていたりする。
夕食を終えてお風呂を済まし、就寝の時間。パジャマ姿で廊下に立つ二人。
真はそっと彩の唇に口付けすると、照れたように言った。
「おやすみ、彩ちゃん」
「おやすみなさい、真さん」
彩も恥ずかしそうに、しかし嬉しげに微笑んだ。
真が部屋に入るのを見送ってから、彩も隣の部屋に足を向けた。
彼女は今、ひなたの部屋を使っている。
あの三日間のときは悪夢に魘されたことで、真と一緒にベッドで寝た事もあったが、今ではそんな悪い夢を見ることはなくなった。
明日の夕食はどんな料理にしようか、そんなことを考えながら彩はベッドの中で眠りに落ちていった。
その夜、風音市に何処から一筋の光条が降り注いだ。
それは五つの光球となり、まるで意思を持っているかのように、それぞれが街の上空を彷徨いながら、やがて何かを見つけたようにバッと分かれると、見る間に別々の方向へ飛び去った。
「ん・・・・・・」
不意に、彩はうっすらと目を覚ました。
薄闇に視線を彷徨わせて枕もとの目覚まし時計に目をやると、蛍光のデジタルは深夜の2時を提示していた。
こんな時間に目を覚ますことなど滅多にない。
もう一度眠りに就こうかと思ったとき、不思議な感覚を肌に覚え、一気に意識が鮮明になった。
眠気など一瞬にして吹き飛んでいた。この感覚は初めて体験するものではなかった。
何故なら――ほんの数ヶ月前までは当たり前のように感じていた事象だからだ。
「そんな、まさか・・・・・・」
有り得ない想像に、ごくりと喉を鳴らす。
肯定したいためか、否定したいためか、彩は躊躇わず右手の五指を広げた。
「・・・・・・」
だが、何も起こらない。
当然だ。あれはあのとき、街に縛られた想いを、風を解き放つために粉々に砕け散ったはずなのだから。
だが。
だがしかし。
「そうだ、真さん!」
弾かれたように彩は部屋を出ると、隣の部屋の前に立った。
何度かノックして呼びかけてみるが、返事は無い。
不安に駆られ、彩がドアを開けてみると、そこに真の姿はなかった。
いつの間にいなくなったのだろう。ベッドには脱ぎ捨てられたパジャマが丁寧に折り畳まれて、無造作に置かれていた。
「真さん、真さーん!」
必死に呼びかけながら家の中を探し回るが、徒労に終わる。
玄関を見ると、やはり真の靴はなくなっていた。
いてもたってもいられなくなった彩は、自分の部屋に戻ると、動きやすい風音学園の制服に着替え、玄関に鍵をかけると一目散に外へ飛び出した。
冬の冷気が街を覆い尽くす夜の世界。息が真っ白に凍結しそうなアスファルトの上。
人気の少ない裏道に、その男は立っていた。
薄縁の眼鏡をかけ、見るからに陽気そうな風貌をした青年。
「いまいち、なじまんなぁ・・・・・・」
妙にイントネーションのズレた、おかしな関西弁を操るその青年は、紛れもなく丘野真の友人の橘勤に他ならなかった。
その彼が、こんな夜中に夜道で何をしているのだろうか。
「こんなんじゃ、わいの本当の力の半分も出されへん」
愚痴るように呟き、何とはなしに傍にあったレンガを手の甲で「コン」と小突く。
と、見る間にレンガが砕け、拳大の穴が開いたではないか。
「はあ、あかん。ほんまあかんわ・・・・・・ん?」
大袈裟に溜息をついて、ふと目をやると、通路の向こうでこちらを見ている人影があった。
少し近付くと、それは彼にも馴染みのある一人の少女だった。
「橘さん・・・・・・?」
怪異にでも遭遇したような、そんな表情で、月代彩は恋人の悪友に向かって困惑の視線を投げかけた。
「なんや彩ちゃんかいな。こんな夜更けにどないしたんや」
気さくに片手を上げて挨拶して近寄ってくる勤。
これが真昼のうららかな公園や街路なら、どこにでもある日常の1ページとして映っただろう。
だが、この時間のこの状況では、それこそとんだ茶番である。
目の前で立ち止まり、見下ろしてくる勤の顔は、やはり普段と何ら変わらぬムードメーカーのそれを湛えていた。
それが逆に不気味だ。
「彩ちゃん、こんな夜中に散歩なんかしたら、真が心配するで」
茶化すような声を無視して、彩は無言で通路の奥を勤の肩越しに指差す。
そこには先程、彼がノックで穴を開けたレンガの残骸が散らばっていた。
一旦そちらを向いた顔が、徐に戻った。
「なんや、見られてたんか。覗き見なんて趣味が悪いで」
「橘・・・・・・さん」
思わず後退しようとする彩だったが、一足早く伸びてきた勤の右手に左腕をぐっと掴まれてしまう。
途端。
「っ、きゃあああっ!?」
凄まじい激痛を感じ、悲鳴が零れる。
その反応が予想外だったのか、勤は慌てたように手を離した。
「あー、調整もままならんわ。軽く力を入れただけやねんけどなぁ」
「うあっ、ああああ・・・・・・」
涙目でその場にうずくまる彩。それもそのはず、彼女の左腕は見事に骨が折れていたのだ。
片手でパサパサと頭を掻きながら、勤が彩を見下ろす。
「まあしゃあないな。あの方にはわいらの邪魔が出来ない程度にやればええ言われてるしな・・・・・・もう片方もポキンとやらせてもらうで」
「えっ!」
「ちょい痛いけど、殺しはせえへんから逃げんといてや」
そんなことを言われて逃げない人間などいない。
よろめきながら後ずさる彩だが、猛獣から逃げる傷ついた小動物のようなものだ。
無慈悲な魔の手が獲物を捕らえようとしたそのときだった。
「はあああああああっ!!」
闇を貫く気合一閃。
突然に勤が苦鳴を上げて胸を押さえて後退し、数メートルの距離をとった。
「彩ちゃん!」
背後から駆け寄ってくるふたつの人影が視野に入る。
「望さん、わかばさん!」
「大丈夫ですか、彩ちゃん。すぐに治療いたしますわ」
竹刀を手にしたポニーテールの少女が藤宮望。
眼鏡をかけた丁寧語の少女がその妹の藤宮わかばである。
わかばが両手を彩の左腕に添えると、淡く仄かな発光が瞳に焼きつく。
優しく暖かい輝きは、見る見るうちに激痛を和らげ、骨折を修復してゆく。
それは、わかばの「治癒の力」だ。
彩は確信した。
「やはり、『力』が戻っているんですね・・・・・・」
勤にダメージを与えたのも、望の「思い描いた物を切断する力」に違いない。
「夜中に目が覚めたら、急に力が使えるようになっていて・・・・・・それで彩ちゃんなら何か知っているかと思って」
おそらく驚きのあまり電話で確かめればいいということも失念していたのだろう。
わかばと一緒に丘野家を目指す途中で、偶然この事態に遭遇したわけだ。
「いきなりごっつ痛いでぇ〜。あんまりや、望ちゃん」
「橘さん!?」
「そんな・・・・・・手加減したとはいえ、私の力を受けて平然と立っていられるなんて!」
望の力は強力だ。普通の人間が食らったら、しばらくは意識を失って昏倒するはずである。
なのに眼前の似非関西弁男は、さして効いてないようにおどけていた。
「たぶん、橘さんに何者かが憑依しているんだと思います」
冷静な彩の指摘に、藤宮姉妹は目をぱちくりとさせた。
「ばれてもうたかー」
「貴方は誰なんです!」
「わいは・・・・・・アルブレヒトや」
親指で自身を指してニカッと笑う。
きょとんとする望とわかば。聞き覚えの無い名前だ。
ただひとり、彩だけがその名前を耳にして首をかしげていた。
再び一歩を踏み出した勤に、望は竹刀を構えて威嚇した。
「近付かないで! 今度は本気で斬りますよ!?」
「そんなことしたら、わいの身体がお陀仏やで。ええんか?」
「・・・・・・くっ!」
言葉の意味に気付いて歯噛みする望。
そう、攻撃しても傷つくのは勤本人の肉体だということだ。
これでは全く手の出しようが無い。
「一体どうしたら・・・・・・」
「簡単ですよ」
「彩ちゃん?」
どうやら左腕が完治したらしく、彩が颯爽と望の横を通り過ぎて、勤と対峙する。
「橘さんに憑依している存在そのものを直接斬ればいいんです」
「・・・・・・彩ちゃん、まさか!?」
「大丈夫ですよ」
ハッとする望に笑顔を贈ってから眼前に向き直ると、彩は右手を中空に上げた。
街を守るため、大勢の人々を犠牲にしてきた力。
でも、今度は大事なものを護る為に。
そして、大切な人たちを救う為に。
「今一度、蘇れ――――我が魂の依代よ!!」
眩いばかりの翡翠色の輝きがその手に集まる。
無数にきらめく風蛍の群れは、見る間に棒状の輪郭を形成していく。
やがてそれは、目にも鮮やかに研ぎ澄まされた、一振りの刀となった。
「彩ちゃんの・・・・・・刀」
唖然と見守る姉妹の視線を背に受け、彩は自身の刀をぎゅっと掴んだ。
構えは八双。夜闇にきらめく刀身からは、風蛍が飛沫を上げて飛翔した。
「その刀は・・・・・・うおおおおおおおおおおっ!!!」
驚愕の雄叫びを上げて勤が突進してきた。
彩はすぅっと刃を上段に移す。
次の瞬間。
「はあっ!!」
縦一文字に振り下ろされる刀。見えない衝撃波のようなものが、勤を真っ二つに貫通した。
望と同じ、思い描いた物を切断する力。
だが、彩の刀を介して放たれるそれは、相手の肉体ではなく「精神」そのものに直接ダメージを与える。
勤に何者かが憑依しているというなら、いま彼の身体で活動している精神は、その何者かということになるわけだ。
つまるところ――
「にゅわあぁぁぁぁぁーーーーーーーっ!!」
それは断末魔の絶叫に聞こえた。糸の切れた操り人形のように、その場に倒れる勤。
望とわかばが駆け寄ってくる。
抱き起こして脈を取ってみると、どうやら命に別状はなく、気を失っているだけだということが分かった。
「やったの、彩ちゃん」
「断言はできませんが、たぶん目を覚ましたら、もとの橘さんに戻っていると思います」
「・・・・・・よかったですわ」
広がりかけた安堵の空気。
しかしそれは、突如として遮られた。
「遅かったか。いくら本来の力を出せぬとはいえ、アルブレヒトを倒すとは大したものよ」
その声は、彩たちを驚かせるには十分だった。
何故なら彼女達にとって聞き慣れすぎている声であり、彩にとっては誰よりも大切な人の声であったからだ。
三つの双眸の先、つい先刻まで勤が立っていた通路の角に現れた青年。
「丘野先輩!」
「丘野さん!」
「真さん!!」
それは、見間違えようもなく、丘野真その人だった。
「残念だが、そうではない」
「・・・・・・まさか、先輩も?」
真はこくりと頷いて肯定した。
そして演劇役者のように大袈裟に両腕を広げてみせる。
「俺は――」
言いかけて、何故か急に咳払い。
「やれやれ、ついうっかり粗野な若造の一人称などが口を突いてしまった。他の連中など面白そうに「同調」しておるが、気持ち悪いことこの上ない。とくにグスタバスのやつ、何が「まこちゃん」じゃ、寒気がするわ」
渋面でぶつぶつと、小声で何事か愚痴をこぼし始める真。
ぽかんと見つめてくる視線に気が付くと、またひとつ咳払いし、キリリとした表情を向けた。
「お嬢さん方に名乗り申し上げよう。わしは――」
優雅に胸に片手を当て、
真と同じ姿で、
真と同じ声で、
「わしはかのバロンである!」
――と、言った。
あまりのことに呆気に取られる面々。その中で、少女は小さな肩をふるふると震わせた。
「真さんから・・・・・・真さんから出ていってくださいっ!!」
怒号を含んだ一閃。
相手の精神を切り裂くはずの見えざる飛翔は、しかし真に届く前にあっさりと露散霧消してしまった。
驚愕に目を見張る彩。それから愕然としたように思い至った。
「真さんの・・・・・・力」
丘野真の力――「力を吸収する力」。
自分に向けられるあらゆる力を弱め、吸収して無効化する。
「そんな、そんなっ」
思わず刀を取り落としそうになる彩を映し、真の鳶色はやや哀しげな翳を佩びた。
「プケパロス!」
そう叫ぶや否や、何処からともなく一頭の白馬が踊り出る。
まさか、こんな場所に、前触れもなく。
「よおし、よく来たプケパロス」
真は白馬の顔を撫でると、颯爽とその背に跨ってのけた。
一流の騎手のように馬を制するその様は、まるで御伽噺に登場する白馬に乗った王子様のようだ。
「さらばだ」
馬上からそう告げると、勢い良く手綱をひく。
高らかに上がる鳴き声を響かせ、真を乗せた白馬が悠然と走り去っていった。
「真さーーーーん!!」
夜闇の彼方にその姿が消えた後、彩の絶叫が虚しく木霊する。
「丘野さん・・・・・・」
「一体、どうなってるの」
望とわかばが、訳がわからず立ち尽くす。
彩は茫然と夜空を見上げながら、拳を強く握り締めた。
「英雄バロン・・・・・・バロン・ミュンヒハウゼン」
その唇からただ一言の呟きが、冬の夜風に乗って流れていった――