幻想永夜譚
第二譚 神隠し
眩暈を起こしている彩は頭を押さえて平衡感覚が戻るのを待っていた。
先ほどの変な感覚の残り香のように、まだふらふらする。
(座れば眩暈が落ち着いたはず…)
気持ち悪さが大半の思考を埋めている中で、何とか古い知識を引っ張り出してきた。
どこか醒めた思考に感謝しつつ、座り込もうとした。
そこで違和感に気付いた。
自分が体調を崩せば、必ず声をかけてくる人物が声をかけてこない事に…。
「真さん……?」
ぐらつく世界で彩はあたりを見渡した。
斜めに世界が曲がり、まっすぐとした光景がない中で真の姿は見当たらなかった。
(いない……んですか?)
立っている事が辛くなった彩は自分の知識に従い、座り込んだ。
約一分、そうしていただろうか、眩暈が落ち着き、改めてあたりを見渡した。
やはり、真の姿は傍にない。そして世界もどこかおかしかった。
夕暮れ時にはまだ早すぎる時刻だったにもかかわらず、空は茜色に染まっていた。
そしてその空と同じように世界もまた茜色に染まっていた。
赤より紅い世界。
かつての自分の罪状を突きつけられるような鮮明な赤。
不在の真に恋焦がれる気持ち。
二つが彩を不安な気持ちさせる。
だからこそ孤独感がよりいっそう強まった。
しかし、立ち止まってはいられない。真と会いたいなら探さなければ。
彩はまず気持ちを落ち着けるために深呼吸を数回繰り返す。
不安な気持ちも孤独感も消えた。
一瞬の気の迷いから産まれた幻想だ。
そう思い、普段のようにしっかりとした意識をもち、すぐ辺りに意識を向けた。
彼女がすぐに気付いたものはそこが現実世界ではないことだった。
長い間、人々が夢を見ている中、彼女だけが夢を夢として捉えていた。
だからこそ、気付いたこの世界の異常性。見た目は普段と変わらないが、その裏にある“何か”に気付いた。
だからと言って今はどうしようもない。とにかく現状把握を一に考えてあたりを見渡した。
そこはどうも町外れの様で、彩は四つ辻の中心に立っていた。
後ろを見れば大きな森が広がっていたが、明らかに不自然な印象を与える森だった。
左右はどちらも霧に遮られ、先が見えない。
そして唯一、開けている正面の道の先には小さかったが町が見えていた。
明らかに誘うような雰囲気。
「見え透いた誘導ですね」
あまりにも露骨すぎる誘導に呆れを越えて感心した。
手を閉じたり開いたりと自分の存在を、手のひらに伝わる感触で確かめていた。
ゆっくりと瞳を閉じて、再び開ける。
紅い瞳には先ほどまでの揺らぎを隠すような強さはそこになく、昔の『狩人』としての瞳が広がっていた。
唯一、開けていた道を彩は歩いていた。
舗装されていない砂利道。
左右に広がる田園風景。
古風なその雰囲気に彩は懐かしさを憶えながら、町のほうに向かって歩いていた。
時間と共に空気というものは変化を示す。
しかし、彩が感じたものは一切の無だった。全く変化のない空気の中を歩いていた。
風がなく、無風の道を歩いていた。
“ゴォッ…”
その時、一陣の風が彩の傍を駆け抜けていった。
思わず強すぎる風に目を閉じる。
「……一体…?」
無風だった道にいきなり風が吹くなどおかしい事だった。
人肌ぐらいの生ぬるい風。
そこで彩は自分の左手に目をやった。そこには何もしていないにも関わらず、大きく切り傷が現れ、血が少量、垂れていた。
「何が……」
風の過ぎ去ったほうを見ると、そこには一匹のイタチが首を上げてこちらを見ていた。
ただ、普通のイタチと違っている。
後ろ足と胴体は普通のイタチだった。しかし、前足が二本とも鎌状になっていた。
「イタチ?」
彩の知識の中から、今まで起きた事の状況に合うものを探していた。
風が通り過ぎた後に、イタチがこちらを見つめていた。そのイタチは手が鎌状であった。
どこの世界にそんな生き物が居るだろうか?
普通に考えれば今の状況は異常である。まぁ、この世界自体が異常なのだが…。
キーワードだけを考える。
風、イタチ、鎌……
カゼ、イタチ、カマ……。
再び、そのイタチは動きを見せた。
ゆっくりと上体を下げ、すぐにでもトップスピードに乗れる姿勢だ。
ここで初めて、彩はそのイタチの正体に思い当たるものがあった。
(もし、予想があたりなら……次は危ない…)
彩はイタチに背を向けた。自分の感覚のみで何とかしようという魂胆か?
イタチが姿を消す。
それは彩には分からない。しかし、イタチが消えると同時に彼女も地面を蹴った。
風が彼女に襲い掛かる。
右へ無理やり跳躍。バランスを崩すが、すぐに姿勢を制御。正面を見据える。
視線の先にはあのイタチが立っていた。
威嚇するように鎌を掲げて彩をにらみつけていた。
「やはり、カマイタチでしたか…」
風と共に何もしていないのに皮膚が切れる現象。
今でこそ、それは空気の断層によって生じる傷ではないか、といわれているが昔はイタチが通り過ぎて出来たものだと信じられていた。
その昔の迷信が目の前に具現化されていた。
「昔の人は厄介なものを考えましたね」
再び、イタチが動いた。
彩もイタチと距離を縮める。そしてまた見えないものに対して己の感覚のみで対応する。
次は右へ跳躍。
スカートの裾が切り裂かれたが、気にも留めず走る。
トップスピードに乗っていた彼女は少しでも町に近づこうと背を向けたまま走っていた。
彼女の後ろに現れたイタチは再び襲い掛かる。
その繰り返し。
“ビュッ!”
「んっ……!」
“ビュッ!“
「……くっ…!」
“ビュッ!”
「…くぅっ…!!」
紙一重で避け続ける彩。
容赦なく切りかかるカマイタチ。
その争いは始まったときと同じように、唐突に終わった。
彩が町に入った途端、風は止んだ。
あのイタチが起こす風が止まったのだ。振り返れば、何事もなかったかのように普通の砂利道が続いていた。
スカートの裾と羽織っていたブラウスの裾の裂けた様子が、イタチとの戦いの証拠であった。
「……真さんの身に何事も無ければいいんですが…」
血の止まった腕を見つめ、そう呟いた。
一瞬の停滞のあと、彩はさらに町の中心に向けて歩き出した。
空の太陽に動きは無かった。
そんな時の止まった世界を一人、歩く。とにかく、また変なものと出会う前に真と再会したいと願っていた彩は、近くの建物に入っていった。
(避難しているかもしれませんね)
古き良き日本の家屋、と銘打って世間に売り出せそうな典型的な建物が傍に建っていた。
門扉を開けて、入っていく。
こんな世界に人など居るのだろうか? と思うところだったが、律儀に彩は戸を叩いた。
「すいません」
「……」
返答は無い。居ないのか?
「すいません」
「…はい」
二度目の問いかけに返答があった。
彩はその問いかけを信じて戸を開けた。
「ひゃぁっ!!」
彩は思わず、へたり込んだ。
戸を開けた瞬間に、目に飛び込んできたものは女の顔だった。
その点では特に問題は無い。相手が覗き込んだときにあければ、そうなることだって有り得る。
しかし、この場合は決定的に違った。
顔だけだったのだ。
ただ、女の顔だけがそこに存在し、胴体は座敷に鎮座していた。
首だけを戸まで伸ばしてきていたのだ。
「どうしました?」
「……っ!!!」
ずいっ、と首を伸ばして彩に顔を近づけた。
女性の黒い瞳の中に彩の顔が映る。
「どうしました?」
それはニタリ、と歯を見せるように笑った。異様に伸びた犬歯が写る。おそらく、血を吸うためだろう。
彩は恐怖に駆られながらも、間合いを取ろうと、身体を転がし距離を置いた。
そして立ちあがる。
と、目の前に女の顔があった。
「どちらに?」
「……っ!!!」
また、ニタリと笑みを浮べる。そして大きな口を開けて彩に襲い掛かってきた。
普通の人ならここで襲われて終わりだっただろう。
しかし、伊達に千年も生きてきたわけではない。
『狩る』という行為には逆に『狩られる』といった行為も内包されている。
相手の左側頭部を思いっきり叩いた。一瞬だけだが、視線が彩から逸れた。
隙が出来たところを彩は逃さず、門扉に向けて走った。
閉まっている門扉を開けている暇など無い。手を掛けると、一気に飛び越えた。
そして、すぐさま反転。
そこには一軒の古風な日本家屋が建っているだけであった。
先ほどの女の姿は無く、ただ閑散とした雰囲気の建物だけであった。
彩はとにかく脅威が消え去って事に安堵して、とりあえず息を吐いた。
(こんなに危険があるなら……早く真さんと合流しないと…)
戦闘能力も瞬発力も彩に劣る真が、このような事態に遭遇すれば助かる確率などかなり低いレベルだろう。
とりあえず、彩はまた次の家に向かって歩き出した。
この世界の法則を見つけたとき、この世界を抜け出す事ができる。
この世界は何で出来ているか?
この世界とは一体何なのか?