幻想永夜譚
第一譚 現と夢
“ガタンッ、ゴトンッ”
規則正しいリズムで揺れる電車の中で真と彩は外を眺めていた。
随分と北に来たなぁ、と真は微かに暖房の利き始めた車内から、外の寒そうな景色を見つめていた。
外と車内の温度差ってどれくらいだろうな、と考えながら隣にいる彩に視線を向ける。
飽きもせず、眺めている姿はどこか愛くるしい。
しばらくその後姿を眺めていると視線に気付いたのか、こちらに向き直った。
「どうしたんですか?」
「ん、いや、何でも。随分と北に着たなぁ、って思ってな」
「そうですね。外の景色も随分と冬らしくなりました」
旅行に出かけ始めた頃に比べれば随分と厚着になった二人。
互いの格好を見てそう感じた。
駅の間際になったのだろうか、少しばかり身体が進行方向にひっぱられる感覚に襲われた。
「そろそろみたいだね」
「はい」
真は少し大きめの旅行鞄を、彩は愛用の画材道具が詰まったバックを手の届く範囲に持ってくる。
急激な左右のゆれ。
そして電車は止まった。
二人してホームに降り立つ。そこは降りるためだけに存在しているコンクリートの塊だった。
売店も無ければ待合室も無い。あるのは駅名が書かれた看板と安全のための柵。
その柵に命を救われたものは居るのか?
改札口は有人で初老の駅員が一人、立っているだけ。出入り口も一つしかない。
切符を手渡し、通り抜ける。
二人の背中に「お気をつけて」と一言、声が掛かった。今では少なくなった人と人の触れ合い。
少しの温かさを感じた彩は「ありがとうございます」と振り返り、言葉を返した。
真も遅れて「ありがとうございます」と返す。
初老の駅員は嬉しそうな笑顔を浮べて二人を見送った。
“ジャリッ、ジャリッ”
舗装もされていない砂利道を二人は歩いていた。
目ぼしい風景は見つかっておらず、彩の画材道具はまだここにきて活躍していなかった。
木々に囲まれた森林の中の道を歩いていると何となく異界に来たような錯覚を与える。
軽いめまいのような感覚を受けながら歩いていた。
高すぎる木たちは太陽光をさえぎり、その道を暗澹とした雰囲気に変貌させていた。
視覚からの情報は人が入手しえる情報の70%を占めるといったのは誰だったろうか。
少し暗い、というだけで雰囲気をここまで変貌させるのは、視覚に頼りすぎる人の性質だろう。
「少し冷え込みますね」
「そうだね…。この道は影だから」
道の真上は青空が見えていたが、少しでも視線を横にすれば木々が邪魔をして、空が見えなかった。
冷たい風が駆け抜ける。
北国に来るには少し軽すぎる装備だったかな? と思いながら身を縮めた。
彩も同じように上着の襟を立てて少しでも風を避けようとした。
木々が風にざわめく。
そんなざわめく木々の音の隙間から歌声が微かに聞こえてきた。
“とおりゃんせ、とおりゃんせ……”
「ん…?」
彩も真も立ち止まった。
どうも二人ともその歌声を聞き取れたらしい。聞き耳を立ててあたりを探る。
「……真さん」
どうやら彩にも聞こえたらしく、真のほうを見つめていた。
「大丈夫だよ」
不安げな彩を空いている腕で抱き寄せる。
気味の悪さか、それとも寒さからか、どちらにせよ少し震えていた。
“ここはどこの細道じゃ……”
聞き間違えでは無かった。
やはり声が聞こえてくる。子供たちの楽しげな歌声。
その声だけなら問題は無かった。しかし、聞こえてくる場所が場所だった。
こんな森の中の一本道の中で、森の中から声が聞こえてくることが不気味だったのだ。
“天神様の細道じゃ……”
歌は終わらない。
そこに立って聞いている事に我慢が出来なくなった。
不気味さを背中に貼り付けたまま、二人は少しだけ歩みを速めてその場を立ち去ろうとした。
ただ、それは立ち去っても変わらなかった。
“ちょっと通してくださんしぇ……”
その歌声は耳にこびり付いて離れなかった。
さらに続く『とおりゃんせ』
ただ、遊びで聞く分には問題なわらべ歌。
しかし、こんな異常な状況下で聞けば怖いと感じた。
“御用の無いもの通させぬ……”
不意に彩は思い当たった。
魔術とは相手に暗示をかけるようなもの。
だからこそ、魔術師相手には耳を貸してはならない。気付けばその言葉に捕らわれ、真実が見えなくなる。
魔術師は一定のリズムで一定の言葉を出す事により、相手をトランス状態に追い込み魔法をかける。
もし、この流れているわらべ歌が、魔術とするならば。
“この子の七つのお祝いにお札を上げにまいります……”
この歌が終わったとき、何かしらの魔術が発動してもおかしくない。
ただ、それは魔術師が魔術を唱える際の事であって、今がその状況かどうかは分からない。
しかし、良い方向に転がらない事はわかっていた。
『とおりゃんせ』もあと一節
“行きはよいよい帰りは怖い、怖いながらもとおりゃんせ、とおりゃんせ……”
歌が終わった。
不思議な子供たちの声もそこで終わる。
するとある種の不気味さを含んでいた空気が消し飛び、あたり一帯の雰囲気が変容した。
清々しい不気味さ。
度が過ぎれば何事も不気味に変わる。
何かが完全に欠落したような清々しさに二人は言い知れぬ恐怖が湧いてきた。
ただ、それも一瞬の恐怖。
まるで麻酔を受けたような
どこが抜け落ちたか分からない喪失感を胸に秘めながらその森を抜けた。
そこには一本の川とそれに架けられた橋があった。
随分と古い代物のようであちらこちらが壊れかかっていた。
元々、朱色の建造物だったようで微かにその面影を残している。
その橋の向こう側に人の居そうな村があった。それほど昔に建てられた訳では無さそうなものである。
ただ、若干の違和感をその村は内包していた。
鳶が一羽、空を駆けており、地面には鬼灯の花が咲いていた。
そして橋の横にはまだまだ青い柳がしだれていた。
「…ここは」
「どうやら何とか着いたみたいだね」
何も知らない真は人の居そうなところに着いたことに安堵していた。
ただ彩は長年かけて手に入れた知識が村の異常性に感付いた。
「ここは危険です」
「えっ?」
「鬼灯の花が咲くときに柳が青々と茂っているはずがありません。何より、鬼灯が冬に花を咲かすはずがないんです」
紅玉の瞳が細められ、目の前に広がる村を睨みつけていた。
「でも、彩…」
真が声を掛ける。
確かにここを去っても良かった。
しかし、天はそれを許すまいとして空を曇らせていた。
「……戻れませんよね」
「多分、電車の本数も少ないから次がいつ来るか分からないし」
真は空を見上げる彩もつられて見上げた。
どんよりとした空に彩も諦めたのか
「雨も降りそうですし、仕方ありませんね」
彩も空が曇り始めた事を気付いていたようでしぶしぶ、同意をみせた。
ただ、普段の彩ならこのような不可思議なことには徹底抗戦の姿勢を見せるはずなのだが。
そして随分と長い間、付き合ってきている真も彩のこの態度に疑問を持っていなかった。
そこが二人の間違いであり、歌に魅せられた証拠だった。
“トントントン”
古ぼけた橋を二人は歩いていた。
先ほど見たときはかなり老朽化が進んでいるように思っていたが、見かけほど実際は脆くないらしく、二人が歩いても耐えていた。
ところどころ、ギシギシと軋む音を立てるのは仕方ないだろう。
“トントントン”
怪しげな雰囲気の中を二人は歩いていた。
傍から見れば間違いなく止めるだろう、その怪しすぎる雰囲気もなぜか二人には感じられなかった。
あと少しで橋を渡り終える。
“トントントン”
渡り終える前に二人は立ち止まり、目の前の光景に目をやった。
やはり、景色に変化は無かった。
何処にでもある普通の小さな村だった。
家があり、畑がその周りにあり、そして少し時代遅れの雰囲気を持つ店が並ぶ。
別に取り立てて問題はない。
そう、初めに言った鬼灯と柳の共演以外は…。
最後の一歩を踏み出した。
橋から大地へ。
此方から彼方へ。
此岸から彼岸へ。
その時、二人は軽いめまいを起こし、何かに包み込まれていく感覚を最後に二人の姿は消えていった。