「酷い目にあった……」



 寺原四姉妹からようやく開放された祐一はげっそりとした様子で雨の道を歩いていた。

 折原兄妹や澪と別れ、一人で帰宅の途につくがその足取りは重い。

 雨は段々酷さを増し、視界もどんどん悪くなっていく。



 (……ん?)



 ふと、祐一の目が前方で揺れるピンク色の傘をとらえた。

 その色自体は決して珍しいものではなかったが、その傘を持つ人物に心当たりがあったのだ。

 祐一は目を凝らしながらゆっくりと前方へ歩いていく。

 ピンク色の傘もゆっくりと近付いてくる。

 その距離が五歩分くらいに近付いた時、祐一は自分の予想が正しかったことを確信した。



 「今晩は」

 「こんばんは。奇遇ですね」



 ピンクの傘の中から現れた亜麻色の髪の少女は、無表情な顔を少しだけ和らげて祐一と目を合わせた。






























 DUAL ONE’S STORY     第14話   七月、織姫の願い事B






























 「本当に奇遇だな」

 「そうですね、祐一は?」

 「俺は友人宅で七夕だ。見ての通り雨が降り出したんで意味はなくなったけどな」

 「それは残念でしたね」

 「ああ。茜の家は?」

 「うちではそういうことはしませんから。しい……私の幼馴染の家ではやっていますけど」



 僅かに表情を綻ばせる茜。

 表情の変化が少ない茜がここまで反応するということは、その幼馴染とやらは余程大切な存在なのだろう、と祐一は察した。



 「今年は?」

 「誘われました。でも、もうそういう歳でもありませんし……」

 「俺は一つしか違わないんだが……」



 祐一は軽く茜を睨むフリをした。

 茜が本気で言っているわけではないとわかっていたし、何よりも茜の言葉の裏には何かが感じられた。

 そう、それはまるで初めて出会った空地での彼女を連想させるような―――――



 「……ところで、茜はどうしてこんな時間に?」



 言外に、夜分女の一人歩きは危ないぞという意味を含ませて祐一は問う。

 まさかまたあの空地に? と考えてしまったのだ。

 だが、その考えはあっさりと否定される。



 「食材が足りなくなったんです。スーパーはまだ開いていますから」

 「それにしたって」

 「いえ、ボディーガードはちゃんといます」



 茜はそう言うとチラリと後を気にするそぶりを見せた。

 祐一はその動作に気が付き、そちらに視線を向ける。

 そこには、中学生くらいの少年が口をあんぐりとあけて立っていた。

 雨のせいか、茜と話していたせいか、祐一はその少年の存在に気がつけなかったようだ。



 「弟です」

 「どうも。あか……いや、里村先輩の後輩の相沢祐一です」

 「祐一、今更呼び方を変えても意味がないです」

 「反射だ、気にするな」



 少しばかりのからかいの意を含めた茜の言葉に祐一は憮然と返事を返す。

 茜の弟はそんな二人のやりとりを珍獣を発見したかのような目で見つめていた。

 ただ、祐一に対しては、驚き以外にも―――――「この人どこかで見たことがあるような?」的な視線を向けていたのだが。



 「俺に、何か?」

 「……空(そら)?」

 「……え? あ、す、すみません。里村空です、中二です。姉がいつもお世話になっております!」



 びしっと敬礼をしかねない勢いで空は直立する。

 理由はよくわからないが、緊張しているのだろう、と祐一は察した。

 中二にしてはやや低めの身長だが、真面目っぽさの中にも確かに茜の面影を感じる顔立ち。

 男子にも女子にも好かれそうな物腰の少年。

 それが祐一の空を見た第一印象だった。



 「いや、そんなに固くなられても困るんだが」

 「は、はい、すみません」

 「責めているわけじゃないんだが……」



 これではまるで彼女ないしは女友達の家族に初めて会った時の男のようだ。

 普通、立場的にはこっちが向こうの態度を取るべきなのだが、と苦笑する祐一だった。



 「じゃ、じゃあ姉さん。俺が買い物してくるから!」

 「え?」

 「空?」

 「二十分くらいで戻ってくるから! ご、ごゆっくり!」



 傘が折れるんじゃないかと思うくらいに腰を曲げて祐一に一礼。

 そして次の瞬間、空は一気に走り出した。

 空はあっという間に視界から消える。

 残された二人は、ただただ突然の展開にぽかんとするだけだった。















 「ええと……」

 「気にしないで下さい」



 なんともいえないといった風情の祐一を横目で見つつ、茜はこっそりと溜息をついた。

 恐らく弟は気を利かせたつもりなのだろう。

 つまりは自分と祐一の関係を恋人かそれに近いものだと勘違いしたのだ。

 それがはっきりとわかった茜は弟の余計にしてあからさまな気遣いに頭を抱えるのだった。



 「けど、いいのか?」



 心配そうな祐一の声。

 一人で行かせて大丈夫なのか? という意味と、誤解されたようだけどいいのか? という二重の意味での言葉。



 「メモは空が持っていますから、大丈夫だとは思います」



 茜はあえて後者の返事はしなかった。

 どうせ家に帰れば説明することになるのだろうし、弟は早とちりこそするものの話を聞かない人間ではない。

 ただ、問題なのは



 「ふむ、それじゃあ……とりあえず待つか?」

 「……ですね」



 空が戻ってくるまで二人で待っていないといけないということだった。

 このまま空を追えば空が気まずいだろうし、かといって引き返すわけにもいかない。

 祐一を帰し、一人で待っているのも問題外だ。

 祐一が茜一人を夜道に残すはずがない。



 「……すみません」

 「いや、気にしないでいい」

 「普段はしっかりしているんですけど……」

 「だろうな、そんな感じがする」



 苦笑をもらす祐一。

 茜はふと思った。

 祐一が表情を崩すところを初めてみた、と。

 表情を崩したといっても祐一のそれは微かなものであり、一見しただけではわかりにくい。

 それは茜にもいえることなのだが、不思議と茜はそれを察することができた。

 実の所、祐一も茜の表情の変化を察することができるので、この二人はある意味で似たもの同士といえる。



 (不思議な人……)



 茜の祐一に対する印象はこの一言に尽きる。

 雨の日にあの空地で出会い、ほんの少しだけ話した。

 彼は笑いもせず、怪訝な顔も見せずに話をしてくれた。

 そして、一つ年下だけど今も対等な口調のまま接してくれている。

 第三者から見れば自分達は大したことのない関係に見えるだろう。

 だが、茜は目の前の少年と話すことは苦痛ではなかった。

 それはきっと彼が『司』を知っていた人ではなかったから。



 (ううん……それは、違う)



 それだけではこんな風には思えなかっただろう。

 自分に似ているから?

 興味本位だけで自分に構ってこないから?

 茜は、自分でもよくわからない何かが心の中で生まれ始めていることに気がついていた。



 「そういえば、弟さんは何かやっているのか?」

 「……え?」

 「いや、歩調というか……雰囲気が武に携わる人間のそれだったからな、少し気になったんだ」

 「あ、はい。剣道を小学校の頃から」

 「……そう、か」



 ふと、祐一の声のトーンが落ちたように茜は感じた。

 雨のせいか、俯き気味のせいか、祐一の表情は見えない。

 茜は、なんとなく祐一の表情が見たいと思った。

 理由はない、ただそうしなければならないような気がしたのだ。



 「祐一?」



 茜は一歩祐一に近付く、しかしまだ彼の表情は見えない。

 二歩目、まだ見えない。

 三歩目、微かに見えた。



 (泣いて……いる?)



 涙を流しているわけではない。

 だが、茜には祐一が無表情のまま泣いているように見えた。



 「ゆう―――――」



 茜は自分の心の赴くまま、もう一歩を踏み出し―――――

 瞬間、泥に足をとられた。















 『七瀬っ!?』

 『あ、はは……ドジっちゃった……ごめんね……』















 ドクン



 祐一の脳裏に、倒れ行く少女の姿が映った。



 ドクン



 目の前でゆっくりと横に倒れていく茜の姿が目に映った。



 ドクン



 二人の姿が『重なった』















 「―――――っ!!」

 「きゃっ」



 間一髪、転倒間際に祐一は茜の体をキャッチした。

 そして、そのすぐ後を一台の車がクラクションを鳴らしながら走っていく。



 「あ……」



 茜は祐一にお礼を言おうとして、固まった。

 何故なら、抱きしめられたから。

 祐一の胸の中に、自分の体がおさまったのを自覚したから。



 「ゆう、いち……?」



 かあ、と胸が熱くなった。

 その熱は上へ上へと移動し、頬を真っ赤に染める。

 耳には自分と同じように早いビートを刻む祐一の心臓の音が聞こえる。

 心臓は早鐘のようにうるさく鼓動を刻み、茜の思考を真っ白にさせた。



 「あ、あの……っ」



 なんとか祐一から離れようと茜はもがく。

 だが、祐一はかなりの力で抱きしめているのか、女の身である茜にはその腕を外すことは不可能に近かった。



 「よかった……」

 「え……?」



 頭上から祐一の言葉が聞こえた茜は、初めてそれに気がつく。

 祐一の手は、体は震えていた。



 「大丈夫か……?」

 「は、はい。祐一のおかげです」

 「そう、か……」



 祐一の返事は茜の言葉に反して安堵のものではなかった。

 祐一の両腕に更に力がこもる。

 少しばかりの痛みに顔をしかめる茜だったが、今度はそれを外そうとはしなかった。



 「悪い……」

 「……いえ」















 「姉さん、じゃあ俺は寝るから」

 「ええ、おやすみなさい」



 そして二時間後、茜は自宅のリビングで料理の本を読んでいた。

 あの後、戻ってきた空が抱き合っていた祐一と茜を見て大騒ぎになったのだ。

 顔を真っ赤にした空はやはり盛大に誤解したらしく、物凄い勢いで走り去っていったのである。



 「空、わかってるとは思いますけど」

 「う、うん。誤解なんだよね? わかってる!」



 語尾が震えている空を見て茜はまた一つ溜息をついた。

 事情自体は帰宅後に懇切丁寧に説明して理解してもらったのだが、やはりあのシーンはインパクトがあったのだろう。

 現に空は今も顔が真っ赤に染まっている。



 (赤くなりたいのは私のほう……)



 祐一に抱きしめられた自分を思い出し、茜は頬に熱が帯びてくるのを止められなかった。

 男の人に抱きしめられたのは初めてだった。

 だけど、嫌ではなかった。

 助けてもらった結果のことだったし、何より祐一に邪な気持ちがあったわけではないのだ。

 どうして嫌な気持ちを持つことが出来ようか。



 (それに……)



 思い出す。

 祐一は震えていた。

 あれは自分のことを助けることが出来たから、というだけのことではない。

 きっと、何かを思い出したのだろう。

 そしてその何かが彼の体に影響を及ぼしたのだろう、と茜は察していた。



 「け、けど祐一さんには感謝しないとね! 助けてもらったんだし、今度会ったら俺からもお礼を言うよ」

 「……空、逃げたから」

 「し、仕方ないだろ!? 普通あんなところ見たら……!」



 あたふたと手を振る空を見て、茜は両親が既に寝ていることに感謝した。

 こんなことを聞かれたらただではすまない。



 「それに、姉さんが歳の近い男の人と話してるの、滅多に見たことなかったし……」

 「……それは否定しないけど」



 一瞬、茜の心に鈍い痛みが走った。

 滅多どころではない。

 おそらくは祐一が初めてだ。

 そう、自分の幼馴染の男の子―――――司を除いては。



 「けど、どっかで見たことあるんだよな……祐一さんの顔。うーん、喉まで出かかってるんだけど…………って、あ!!」

 「?」



 そんな茜の様子に気づかず、空は大きな声をあげる。

 そして、茜の怪訝な視線を無視して自分の部屋へと走り去っていった。



 ドタドタドタ―――――バタン! ドタドタドタ



 「……空、うるさいです」

 「あ、ご、ごめん。って違う! 姉さん、これ、これ!」



 息を切らせて空は茜に一冊の本を差し出した。



 「これが、どうかしたの?」



 それは空の愛読している剣道関連の雑誌だった。

 取り上げているものが取り上げているものだけにマイナーな雑誌だったが、茜は空がそれをよく読んでいるのを見ていたので覚えていたのだ。



 「これ、二年前の奴なんだけど……ここ見てよ」

 「…………え?」



 そこに目を向けた茜は驚きの声をあげる。

 空の指した部分には一人の少年が写っていた。

 満面の笑みで微笑む剣道着姿の少年。

 そしてその写真の下の記事にはある名前が記してあった。















 そう―――――『相沢祐一』という名前が。




 あとがき

 七月編終了、少しずつですが話が動き始めます。
 そして弟君こと里村空登場。ノベルで弟がいると判明しているのでほぼオリキャラですが出してみました。
 彼は結構真面目な性格の剣道少年です。イメージ的にはときメモ2の穂刈純一郎ですかね、知ってる人少なそうですけど(笑
 名前の由来は茜色の空ってイメージで(意味わかんねーよ)
 茜と祐一の会話がなかなか難しいです、端的に要点だけで喋る感じが。短い会話で相手の言いたいことがわかるっていいですよね〜

 次回からは八月編。ついに『彼女』が登場します。