運命の二人

第三話 月夜のデュエット




「それじゃ、璃湖とイムニティ……この世界じゃ、衣夢だったか? は、双子の姉妹なんだな」

 場所は、どこにでもある喫茶店。大河の前にはコーヒー。璃湖の前にはオレンジジュースがあった。

 しばらく商店街のウインドウショッピングを楽しんだ二人は、休憩のために喫茶店に立ち寄ったのだ。

 そこで、大河は璃湖がいない間に出会った衣夢と祐一について話していた。

 そして、その大河の問いに、璃湖はストローを使って上品に飲んでいたオレンジジュースから口を離して大きく頷く。それが、唯一の真実だと告げるように。

「だったら、衣夢が口にしたあの『契約』という言葉が気になるな」

 祐一と去り際に衣夢が口にした単語。『契約』という単語。それは、この世界では紙面上の決まりごとを意味するが、アヴァターではその重要度が違う。それは運命を左右するものである。

「まさか、璃湖みたいに向こうから還ってきているなんてことはないだろうな?」

「それはありません。そうだとしたら、私が気づきます」

「そうか……」

 それはそうである。そもそも、璃湖が記憶を取り戻すきっかけとなったのは大河の持つ赤の書である。もしも、前世というもののような記憶を取り戻す鍵がアヴァターのものであり、縁の深いものが必要とするなら、イムニティの場合、白の書が必要となるだろう。

「だったら、俺の気のせいか……」

「そうともいえないかもしれません」

「え?」

 大河が、他人の空似で結論付けようとしたとき、璃湖が意外な一言を放った。それは、先ほどの自分の発言を否定するような言い方だった。

「どういうことだ? さっきは向こうから還ってきてないって……」

「今はまだ……だとしたらどうしますか? 最後の戦いのときイムニティはダウリーに吸収されました。その力を。しかし、その力は最後、赤の書のマスターである大河さんに流れ込みました。しかし、大河さんは、そのまま、あの異次元で時を越えました。そのとき、大河さんの中にあったイムニティの力はどうなったでしょうか?」

 大河は足りない頭で必死に考える。

 自分の中にあったイムニティの力。それは……

「俺と一緒に時空を超えたのか」

「そうかもしれません。あるいは、そうでもないかもしれません」

 璃湖は最後の一口を飲み干してから大河の仮説に対する回答を示した。

「だから、どういうことなんだ?」

 先ほどから答えが固まっていない。左右にゆれている。だが、それが正直な見解だった。

「分からないんです。もしかしたら、イムニティはこの世界に来て私のように転生しているかもしれない。あるいはあの異次元で消滅しているかもしれない。ただ、もしも大河さんのようにエネルギーでこの世界に来たとしたなら……衣夢はあのイムニティと同じ魂を持つ同一人物といっても差し支えないかもしれません」

「……同じ魂か」

「そうです。平行世界ではよくあることです。衣夢の場合は、同じような魂を持つ私に引っ張られたんだと思います。それで、この世界では双子に」

「なるほどな」

 要するに、あの衣夢がイムニティかどうかは、璃湖にも分からないということである。

「でも、もし、今、この世界でイムニティが記憶を取り戻してもどうにも出来ないだろう? まさか破滅もいないだろうし」

「そうですね。この体は魔力も使えない普通の人間ですし……そもそも、衣夢の場合は白の書のマスターがここにいません。それに、私の時とは違って鍵がありませんから。おそらく一生、衣夢はイムニティだった事を思い出すことはないでしょう」

 それが璃湖の出した最終的な結論だった。もちろん、大河がその結論に異議を挟むつもりはない。

 つまり、それが最終的な結論だった。

 衣夢がイムニティかどうかは分からない。だが、たとえ衣夢がイムニティだとしてもなんら問題はない。それが、結論ということで二人は納得した。

「さて、そろそろこんな時間か」

「そうですね」

 時間を見れば既に日が暮れている時間帯だった。外を見ても日が出ているようには見えない。夜のイルミネーションが明るく街道を照らしているだけだった。

「それじゃ、送るよ」

「お願いします」

 最近のデートの後は決まってそうだった。大河が璃湖を送ってさようなら。それはこのあたりで最近多発している暴行事件の所為もあるが、それを理由に二人はただ一緒にいたいだけなのかもしれない。

 帰りの二人の間に会話は少ない。別れの時が近づいているからかもしれないが、物寂しさが募って口数が自然と少なくなるのだ。

 それはいつものこと。そう、いつものことであるはずだった。

 だが、今日は違う。会話がないのは寂しい所為ではない。それだったら二人の顔はもっと悲愴めいた顔になっているはずだ。だが、二人の顔は真剣そのもの。意識は互いに向いていなく、その意識は後方へと向いていた。

「大河さん。気づいていますか」

「当然。四人ぐらいか」

 二人が感じていたのは、明らかに自分たちの後をつけてくる四人組だった。

 いつから、というのははっきりしていない。ただ街中を歩いているころから尾行されているような視線を感じていた。大河も璃湖もアヴァターから時をさかのぼって、アヴァターのことがなかったことにされても経験だけは残っている。あの戦いの最中で培った経験は、その素人じみた視線を感じさせた。

「明らかに俺たちだな」

「そうですね。ニュースにあった暴行事件とは違うでしょう」

 まだ時刻は日が暮れて間もない。人通りもそれなりにある商店街で暴力行為に走るような奴は、逮捕されるのが目的としか思えないような奴であり、普通ではない。そもそも、尾行されはじめて数時間が経っている。一目をはばからず襲うつもりなら既に襲われているだろう。

「どうしますか?」

「流石に、街中でやるわけにはいかないしな」

 それでは逆に大河たちが警察に捕まってしまう。だが、このまま尾行され続けるのも気分が悪い。

 一番よい結果は、正当防衛になるように上手いこと誘い出し、一網打尽にしてしまうことである。

 大河は普段あまり使わない脳みそを全力で回し始めた。

 アヴァターでは習うより慣れろがモットーだった大河だ。このように策略を考えるのは相当苦手だった。策略が一番得意だったのは――

「璃湖。何か良い案はないか?」

 リコ・リス――その人である。

 大河に提案を求められた璃湖は歩きながら腕を組んで考え始めた。大河が考えるような最良の案を。


 相手は四人。私たちは大河さんと私。でも、私は魔法が使えないから実質は大河さん一人。一人と四人。大河さんがこの世界でどこまで鍛えているか分からないけど――


 璃湖は、大河の顔をじっと見る。

 それなりに整った顔立ち。璃湖より頭二つ分ぐらい高い身長。おそらく長い茶色い前髪さえ切ってしまえばアイドルにも勝るとも劣らない容姿になることは璃湖にも容易に想像できた。

「ん? 璃湖。何か良い案でも?」

 じっ、と見られていることに気づいたのだろう。大河が不思議そうな顔をして尋ねてきた。

 見つめていたことを指摘されて恥ずかしくなり、思わず頬を染める。そして、ばっと視線を逸らすと、その恥ずかしさを払拭するように、慌てた口調で大河に尋ねる。

「た、大河さんはこの世界で武術かなにかしていますか?」

「いや。正式に習っていないけど、喧嘩は強いぜ」

 それもそうか。と璃湖は納得した。思えばアヴァターでいきなりゴーレムと戦わされた大河は、なんの訓練もなしに暴走したゴーレムと互角の戦いをしていたのだ。喧嘩が弱いわけがないだろう。

「それじゃ、一対一では負けることはありませんね?」

「おう」

 確認のような璃湖の問いに大河は自信満々に胸を張って答えた。

 大河のこの自信は過剰でもなんでもない。アヴァターという場所での戦いの経験は間違いなく大河を強くしていたし、そもそも筋力は同年代と比べるとはるかに鍛えられていたからだ。

「――では、誘い込みましょう。このまま、尾行されるというのも気持ちがいいものではありませんし、もし、私たちを襲う目的でないなら誘いこまれはしないでしょう」

「そうだな」

 璃湖にしては随分と直球勝負だと思ったが、短時間で決着をつけるつもりならば確かに多少のリスクを背負うことは必要なのかもしれない。

「そこの路地がいいですね。あの先は行き止まりになっていたはずです。挟み撃ちということはなくなるでしょうから」

 さすが璃湖だ、と心中で呟く。自分なら誘い出すということは考えても地理的なものまで考えない。璃湖が差した路地は確かに行き止まりになっている。しかも、狭さで言えば四人通るには余裕だが、二人以上が暴れるには狭い広さ。つまり、そこに入ってくれば必然的に一対一の状況に持っていけるというわけである。

 そうと決まれば行動は早いに越したことはない。少しだけ早足で路地裏へと入り込む。

 予想通り後を追ってきたのか、四人分の足音が自分たちの後を追ってくる。

 少しだけ奥に入ったところで大河たちは示し合わせたように後ろを向いた。

 背後には、如何にも悪いですっ! と自己主張している四人組がいた。ここまで如何にもという格好だと逆に笑えてしまうのはなぜだろう。

 四人組はまさか、尾行がばれているとは考えていなかったのか、大河たちが後ろを向いたことで明らかにうろたえていた。そんな、状況を大河が見逃すはずがない。

「さて、どうして俺たちを追っていたか教えてもらおうか」

「な、なんのことだか? 俺たちはここに用事があっただけだ」

 実に白々しい口調で、四人組の一人が言う。

 あまりに白々しい態度に呆れるを通り越して笑えてくる。

「……行き止まりの路地の何の用事があるっていうんだか。まあ、なんにしても理由は俺たちだろう?」

 挑発するように大河が言う。

 ここで先に手を出しては後々厄介な問題になる。だが、最初に手を出させればこちらの勝ちだ。最初の一撃さえ耐え切れればそれで十分だ。

 そして、相手はバカなのだろう。大河の思惑通りに動いてくれた。

「……まあ、いいか。手を出すなとは言われてないからいいだろう。こっちも好都合なんだよっ!!」

 四人のうちの一人、体が一番大きなやつが、大きく振りかぶって殴りかかってきた。

 今の大河には目を瞑っても避けられるような一撃。その後ろでは、それを口火に三人で殴りかかってくるつもりなのか構えた三人の姿が見えた。

 大河は、そんな状況の中、手で璃湖を背後に押す。璃湖は大河を信じきったような表情をして大河に従った。

 そう、彼女の脳内ではすでに結果は見えているのだ。それに何に恐怖するというのだろか。それに、恐怖を感じるのはきっと―――

 ガッ、という拳が頬を殴った音が狭い路地に響いた。

 殴ったのは不良の内の一人で、殴られたのは大河。

 一人はやってやったというような得意気な表情をしており、後ろの三人もニヤニヤと笑っていた。

 四人はここで気づくべきだったのだ。

 後ろの三人と同様に大河も笑っているという事実に。

「……最初の一撃ぐらい喰らっておかないと後々面倒なことになりそうだからなっ!」

 その大河のうれしそうな声が、反撃の狼煙であった。

 一番手始めに、一歩後ろに下がり、適当な距離をとってから大河は右の拳で殴る。それは立派な右ストレート。だが、それを捕らえられたものはいない。

 偶然で、しかも今ではありえないパラレルワールドだとしても彼は確実にアヴァターで破滅と戦ったのだ。しかも、その武器は変化自在のトレイター。その中には当然グローブもあり、右ストレートは、大河の得意な技でもある。

 それゆえに、その動きは洗練されている。洗練された右ストレートは出す瞬間と殴りかかった瞬間が見えるほど甘いものではない。

 事実、殴りかかってきた不良は、大河の右の拳を見ることはなく、顎を殴られ、軽く脳を揺すられてあっけなく気絶した。

 確実に気絶したことを確認して、大河は後ろの三人に狙いを変更する。

 アスファルトの路地を強く蹴りだし、一気に後ろの三人との距離を詰める。距離が縮まると同時に、左を軸として、駆けたときに得た力を一気に右足へと流し、魔法使いの癖に体術が得意だったリリィ直伝の回し蹴りを一番右にいた不良に喰らわせる。

 不良たちは最初の一人が倒れ瞬間から我を失っており、あっさりとそれは右のわき腹をえぐるようにして決まる。

 そのまま、追撃。すぐさま右足を戻して、一歩踏み出し、超接近による左拳の突き。それは確実に人体急所の一つ水月を抉る。

 ぐはっ、という肺から空気を吐き出すようなそんな嫌な音を吐いて一人脱落。

 まさしく瞬殺。何が起きたかも分からないうちに二人が昏倒した。この事実が人間に突きつける現実はそう軽くない。群れていたときには感じなかった確実ともいえる恐怖心が残りの二人を襲った。ひょっとしたら、最初に標的にされて、気絶したほうがましだったかもしれない、と考えるほどに。

「さて、次はどっちが相手だ?」

 それを見越してか、大河は不適に笑う。

 その余裕の笑みが止めだ。普通なら逆上するかもしれない。だが、この二人の心は、先ほどの瞬殺された二人と大河の不適な笑みで完全に折れていた。ならば、残った二人が取る行動も咎められないだろう。

 すなわち、この場からの即刻の退却である。

 おそらく考えたときは同時だったのだろう。まるで示し合わせたかのように二人は顔を見合わせ、そして、踵を返して全力で走り去った。

 逃げるなら、この二人を持っていけ。

 心の中でぼやくがぼやいても仕方ないことは分かっている。かわいそうだが、この二人にはしばらくの間、寝てもらうとしよう。その間、どんな被害にあおうとも自分には関係ない。なぜなら、こっちは完全な被害者だからだ。

 後は、二人が完全に逃げ出したのを確認して、ゆっくりと璃湖と帰ればいい。

 その考えは、残りの二人が大通りへ消えるのをしっかり確認してから実行された。













 月夜の夜はなんとも侘しいものがある。それが、愛しい人と別れた帰りなら尚のこと。

 大河は、何も入っていない鞄を脇に挟んで家路へと着いていた。

 もちろん、璃湖は大河が責任を持って家まで連れて帰っている。そのとき、璃湖からお茶に誘われたが、大河は断った。家で待っているであろう未亜が怖いからだ。もう、月も見える時間なのだ。こんな時間まで連絡を入れなかったら、未亜が怒髪天をつくの状態になっているのは目に見えていた。

 だから、大河はそれを理由にして名残惜しそうに見送る璃湖に後ろ髪引かれる思いながらもそれを振り切って家路に着いた。

 ――――もっとも、本音は璃湖の父親と会うのが怖いだけだが。

 たとえアヴァターで死線を超えようと、彼女の父親というのは破滅よりも恐ろしいものなのだ。大河にとっては。

 その家路の途中、近道になるという理由だけで公園を通っていた。あの璃湖との想いを互いに確認したあの公園だ。今まではなんの変哲もない普通の公園だったが、今の大河にとっては大切な思い出の一ページとなっている。

 ――――だから、その綺麗で、大切にしたい思い出に土足で入ってくる奴を大河は許せない。しかも、こんな一人になるにはうってつけの月夜の晩に。それだけで大河にしてみれば万死に値する。

「……おい、何か言いたいことがあるなら姿を現せよ」

 少し視線を走らせ、街灯から影になっている部分に話しかける。

「……」

 そこからすぅ、と一人の男が現れた。

 大河は男が現れたことに特に驚かない。そこにいることが分かっていて、声をかけ出てきた相手に驚く必要性がどこにあるだろうか。

 現れた男は大河を親の敵のようににらみつけていた。もちろん、大河にはそんなことをされる記憶も覚えもない。

「で、何か用か?」

 この後、未亜に言い訳しなくちゃいけないんだから早くしてくれよ、と付け加えてやれやれと呆れたようにその言葉を口にした。

 だが、相手にはその言葉が聞こえていないのか、はたまた理解していないのか、何も応答がない。

「……おい、いつまでもそんな風に睨みつけられても気分がいいものじゃないんだ。何か返事しろよ」

 大河もイライラが溜まってきた。後をつけられ、出てきたと思ったら睨みつけられ、それで穏便に済ませられるほど大河は聖人ではない。

 このまま、何も言わなかったら背を向けて帰ろうか。

 本気でそう考えた。といっても、こんな不気味な奴に背中を見せるのもどうかとも思うが。

 どうしたもんかな?

 悩み始めたところで、ようやく男が口を開いた。

「璃湖さんから離れろ」

「あん?」

 大河には男の言っていることは聞こえていた。だが、理解は出来ない。何を訳の分からないことを言っているんだ? と、小一時間ほど問い詰めたいほどだ。

「なに言ってるんだ?」

「彼女のような花の隣を歩くのに君のような雑草では、話にならないと言ってるんだ」

「―――ずいぶんなことを言ってくれるじゃないか」

「事実だろう」

 ふん、と鼻を鳴らす見知らぬ男。

 ああ、もう限界だった。目の前の男が視界に入っていることも、訳の分からない会話をしてくるこいつにも。

 だから、大河は堂々と宣言してやった。目の前に立つこの大馬鹿野郎に。

「誰が、てめぇなんかに言われて璃湖と離れるか」

 大河は覚えている。アヴァターで一人過去に戻れと言われたときの胸の痛みを。心の中の何かを引き裂かれたような痛みを。

 だから、大河は誓った。この世界で奇跡とも思える再会をしたときに。

「俺は、一生璃湖から離れるつもりはない」

 目の前の大バカ野郎の目を射抜くようにまっすぐと見つめて、大河はそう宣言した。嘘も偽りもない本音だ。

 だが、そんな大河の真面目な顔を信じられないようなものを見るかのような視線でしばらく見た後、右手で顔を隠すようにして、月明かりの照らす夜空を仰ぎながら笑い始めた。

「ははははっ! 愚かだ。愚かすぎるっ! 彼女の何も知らないおまえのような人間が一生傍にいる? 考えただけでも吐き気がするね」

 好き勝手言いやがって。

「まったく、本当に馬鹿だ。大馬鹿だ。素直に退けば、明日から幸せな日々が待っているというのに……仕方ないな」

 本当に仕方ないと思っているのだろうか。その顔は、これからのことを想像して悦に入っているようにしか思えない。

 半身になって拳を構える。ボクシングでも習っているのだろうか。その格好は非常に様になっていた。

 相手は明らかにボクシングの経験者。そう分かっても大河の心には一部の恐怖心も感じられなかった。

 感じられない? いな、感じる必要がないだけだ。目の前の人間は所詮、ただ大河を痛めつけよう、なんていう軽い心しか持ってない。

 大河が、向こうの世界で戦ってきたのは相手を殺そうという気迫を持った相手だ。それが、たとえモンスターだとしても。

 そんな奴らと比べたら……否、比べることすら向こうで大河が殺した連中に失礼である。

 だからといって向こうが殴りかかってこようというのを見過ごせるほど大河の心は広くない。

 何より、大河は頭にきている。

 一世一代の宣言を笑い飛ばされたことに。あれは大河にとっては神聖な誓いなのだ。この世界では二度と璃湖を手放さないという誓いなのだ。

 それを――――笑い飛ばしたこいつを許せるはずもない。

「いいぜ。来いよ。大馬鹿野郎」

 手招きすと同時に持っていた鞄を投げ捨てる。

 それが相手にとってのゴングだった。

 クンッ、と頭が下がったのと同時にボクシング独特の歩法であるスウェーを使って端から見れば驚異的なスピードで間合いをつめてくる馬鹿男。

 その顔は、反応できないであろう大河の頬を殴っている姿でも想像しているのか、笑っていた。己の拳が大河の頬にめり込むことを微塵も疑っていなかった。

 だが、男が拳を振ったその刹那、彼が持っていた自信は木っ端微塵に砕かれる。

「おせぇよ」

 間違いなく頬を捉えたはずの拳は、パシンという軽い音で大河の手のひらを打つ。

 え?

 小さく男が、驚きを表した音を漏らしたような気がする。

 普通の人間なら避けられないスピードで飛んだはずの拳。現に彼は、この拳で不良たちを手ごまにしたのだ。痛みは何者をも縛る鎖となるから。

 だが、今はどうだ? 大河という目障りな男に自慢の拳はいとも簡単につかまれていた。しかも、拳を手のひらから外そうとするが、外れない。捕まれたまま、ピクリとも動かない。握力だけでその拳は動けなくなっていた。

 大河が、この男の拳をつかめた理由は単純だ。

 遅い。遅すぎる。アヴァターでの戦闘は、大河に確かな感覚を身体にしみこませていた。

「まあ、俺が相手で残念だったな」

 ニヤリと大河が意地の悪い笑みを浮かべる。

 余裕だった。

 これだけで、男は完全な敗北を悟っていた。

「もっとも……大笑いしてくれたお前をただこのまま帰すなんてことはしないけどな」

 そう、目の前の馬鹿には制裁が必要だった。大河の誓いを笑ったこいつには。

 ポンッと拳を握る手を緩め、すでに近すぎるほどに間合いに入っていた男の額をこずく。拳が受け止められていた時点で茫然自失となっていた男は、そのまま押された勢いで後ろによろめき――――

「手土産だ。俺の弟子の技で盛大に逝ってくれ」

 アヴァターから持ち帰れたものは記憶と赤の書……そして―――師匠と慕ってくれた弟子が教えてくれた体術だけだった。その内の一つが、今、大河の身体で体現されようとしていた。

 よろめいた男に向かって、一歩だけ大きく踏み込み掌を重ね合わせた一撃。

 ―――――紅蓮掌

 本来なら忍術である紅蓮と共に吐き出すこの技は、大河用に紅蓮なしの衝撃を内臓に伝えるだけの技になっている。

 その威力は折り紙つきだ。

 中腰になった大河の本気の一撃を喰らった男は、まるでゴムマリのように地面を数回跳ね上がり、公園の隅にある茂みへと突っ込んだ。

 おお〜、と大河は自分が放った技の予想外の威力に驚く。

 確かに何度も魔物に使った記憶はあるのだが、このように人間相手に使ったのは今回が初めてだ。

 まさか、これほどの威力があろうとは思わなかった。だが、罪悪感はまったく存在しない。あんな馬鹿にはいい薬だと思っている。

「あ〜、無駄に時間を使ったな。……あっ! 早く帰らねぇと未亜に怒られちまうっ!!」

 今の馬鹿よりはよっぽど妹からの叱咤のほうが怖い大河は、投げ捨てた鞄を回収すると少し駆け足で公園を後にした。










「う……ぐっ」

 大河がその場から去って時間に換算して一時間後、茂みの中に頭を突っ込んでいた―――最後まで大河には馬鹿として認識された――――高橋は、ようやく意識を取り戻した。

 意識を失う瞬間のことはよく覚えている。

 笑った大河の顔。直後に襲った信じられない衝撃。ボクシングで鍛えていた高橋でさえ、まったく感じたことのない痛みだった。

「………ちくしょう。ちくしょうっ!!」

 初めてだった。

 いつだって、自分の拳と金の権力で誰もを従わせていた。従わなかった人間はいなかった。

 だが、あの男は……あの男だけは、従わなかった。従えさせられなかった。

 それが、異様に悔しかった。

「くそっ! くそっ! こうなったら……」

 高橋の頭の中には、いくつもの陰湿な案が浮かんでいた。

 大河に家族がいるなら、そいつらを脅しにかけてもいい。住所が割れれば、そこに嫌がらせを続けてもいい。大河がかよっている学校が私立なら、そこから圧力をかけてもいい。

 とにかく、高橋が出来る範囲の世間では最悪といわれても仕方ないことを実行しようと携帯に手を伸ばした―――そのとき、高橋を照らす公園の街灯をさえぎる様に影が現れた。

「……あなたは何をやっているのですか?」

「え?」

 その声は、彼にも聞き覚えがある声だった。

 当たり前だ。その声は、彼が求めてやまない、彼女―――木本璃湖―――の声だったのだから。

 突然の出会い。そのことに驚きながらも高橋の頭はすごい勢いで計算を始めていた。どうやれば、大河というあの男を失望させられるか。どうやれば、悪印象を与えられるか。

 必死で頭を回す。だから、気づけなかった。璃湖の纏う雰囲気がいつもと違うことに。彼女が手に持つ赤い書に。

 高橋が解を出すために要した時間は僅か数秒だった。

「聞いてく「黙りなさい」

 だが、それを口に出すことはかなわない。

 もはや逆らう気すらなくなるほどの絶対零度の声で命じられたから。彼が聞いたこともないような恐怖という感情を根源から思い出させるかのような声だったから。

「貴方は、マスターを傷つけようとしました」

 ますたー?

 高橋にはその言葉が異界の言葉のように理解することが出来なかった。

 そんな高橋をまったく気にすることなく、目の前の彼が恋している少女は淡々と言葉をつむぐ。

「だから――――これは、罰です」


 ――――直後、高橋は頭に直接電撃を喰らったような痛みを感じ、完璧に意識を手放した。











 パタン、と手に持った赤の書を閉じる。

 本当に出来るかどうか不安だった。だが、どうやら成功したらしい。

「この人も余計な手間をかけさせますね」

 璃湖が使ったのは記憶を操作する魔法だ。大河が殴ったという事実をちょっと歪曲させた魔法。そして、大河と璃湖に対して絶対の恐怖心を感じさせる魔法だ。

 心を操る魔法は璃湖が本の精霊だったときには普通に使えていた。今の人間になってから、もとい、この世界では魔法が使えるか心配だったが、どうやらその心配は杞憂だったようだ。

 もっとも、大河には使えないと告げてしまったが。

 現に魔法は使え、高橋は頭をいじる魔法の影響で失神している。時折、電流を流された蛙のように痙攣しているが、そんなことを心配する璃湖ではない。

「……大河さん」

 そんなことよりも、璃湖は愛しいマスターであり恋人である大河の名を口にした。

 璃湖がこの場にいたのは偶然ではない。

 あの不良たちの一件が気になって後をつけていたのだ。どうして気になったかは、もはや乙女の直感としか言いようがない。なんとなく、あれで終わる予感がしなかったのだ。

 そして、あの誓い。

 璃湖が、一時間も経過した今、高橋に魔法をかけたのは、起きるのを待っていた訳ではない。ただ、大河の誓いを聞いてトリップしていただけだ。

「私もあなたのずっとお傍に」

 ――――愛しています。マイマスター。

 そんな恋する乙女の密かな呟きは、地上を照らす月だけが聞いていた。



 続く


あとがき

どうも! てる です!

ながらく更新しなくて申し訳ありません。

色々、寄り道していたら、いつの間にか……こんな時期に……

この話のプロット的には実は、後一話で終わりなんですよね(汗

というわけで、次回は最終回です。

それでは! BY てる