学園都市、雪花。

 吹雪学園を中心として展開するその街は、年間平均気温10以下という結構な北の街だ。

 そして今は4月。

 結構寒い。

 そしてちらほらと雪が降っていたりする。

 だから余計に体感温度が下がる。

 ついでに、玄関先で相沢の祐ちゃんを待っている彼女の笑顔も寒い。そりゃもうとっても。

 その顔には漫画でよく出てくる、あの「私怒ってますマーク」がついている、三つほど。

 その割には笑みが一切崩れていない彼女。

 ちなみにそれが余計に怖かったりする。

 彼女を良く知る者ならば、「うわっ、この笑顔を向けられる奴、かわいそうにな……」と思わず同情してしまうほどの怒り度だ。

 そして言うまでもなく、その笑顔を向けられるのは我らが主人公、相沢祐一なのである。




 





 祐ちゃん最強伝説

 第壱話 人生落とし穴、な日。










「はぁ……やっと着いた」

 立派な鉄製の門がまえ。うっすらと雪が積もっているその上には、雪解け水とともに桜の花びらなんかがついている。

 その様子から見るに、今日は春先には珍しく雪が降った日なんだろう。

「よっ…………と」

 そして門をひょいっと飛び越える。

 べったりと、水と共に桜の花びらが手のひらに付着する。

 見ている分には綺麗だと思うが、さすがにこの状況ではちょっと勘弁してほしいと思う。

 ……ああ、ついでに目の前の壮絶な笑顔もちょっと勘弁って事で回避出来たらなーと思う、心の底から。

「お待ちしておりました、相沢祐一さんですね? そりゃもうお待ちしておりましたよ〜」

 そして目の前の彼女が話し掛けてくる。

 実際こーゆー美人に話しかけられるのはやぶさかではない。

 ――が、

 そういうのも時と場合による。

 腰まで伸びたロングな髪、そして綺麗な顔立ちに良く似合う朗らかな笑顔。

 綺麗だと思う。というか激しく好みだ。

 だけどまぁ。

 その笑顔が氷のように張り付いてる場合ってどうすりゃいいんだろう――

「え、と……確かに俺が相沢祐一ですけど、貴方は?」

「ああ、よかった。……これで違うなんて言われたらちょっと、ほんとにちょっとだけ怒っちゃいそうでしたよ〜」

 ……何やら俺の意見をスルーして、目の前の彼女がぶつぶつと言っている。

 その俯いた背中から黒いオーラが立ち上ってきそうで、恐いなぁ……いや、ほんとに。

 で、俺が呆然としていると彼女が俺の様子に気づいたようではっと顔を上げる。

「あ、ごめんなさい。生徒会長に言われて、代わりに貴方を出迎えるようにって頼まれたんです」

「お、俺を?」

「はい、貴方を」

 にこにこ。そんな説明が完璧に合うほど目の前の彼女は笑っている。

 何がそんなに楽しいのか、聞いてもいいのだろうか。……ちょっと聞いてみたい。

 が、そんな欲望は隅っこに置いておいて、とりあえず目の前の疑問を片付けることにした。

「あのー、何でまた俺を出迎えるようになんて?」

「はい、あのですね〜。生徒会長、あ、久瀬宗一さんって言うんですけど、彼が『相沢祐一君は貴重な人材ですから。それに中等部からの持ち上がりは彼だけですので、案内が必要でしょう』って、仰ったんですよ〜」

 目の前の女性は分かりやすく、それでいてにこにこと説明してくれた。

 なるほど。ようするに俺ははぐれメ○ルみたいなもんなんだな。(←違)

「なるほど。……あの、すみませんでした」

「ふぇ?」

「待っててくれたみたいなのに、俺、遅刻しちゃって」

「ああ、いいんですよ。私が待ってたのは、入学式が終わった後からですから、30分も居ませんでしたし」

「へ?」

「……その代わり、久瀬さんは壮絶に怒ってましたけどね〜」

 そんなことをにこにこしながらあっけらかんと言う彼女。

 ……まずいなー、どうあがいても生徒会長には説明なんかで一回は会わなくちゃいけないんだけど。

「それじゃあ、行きましょうか」

「あ、あの……」

 いきなり彼女に手を握られて、引っ張られる。

 ……柔らかい。

 い、いかんいかん。気をしっかりと保たねば。

「はい?」

 俺の発言に彼女が振り向く。

 今度はさっきの空寒い笑顔と違って、彼女の本当の笑顔だ。

 ……天使のスマイ、げほんげほん。

 いかん、何か言わねば……間がもたん。

「?」

「名前、そう名前を聞かせてもらえませんかっ!?」

「ほぇ、名前……ですか?」

「はいっ、貴方の名前を」

 ……ふう、危ない危ない。見とれてましたなんて素直に言えるわけないからな。

「あ、そういえばそうでした。ごめんなさい、失礼でしたね」

 ぺこっと、目の前の彼女がかわいらしくお辞儀をしてくる。

 ……い、いかん。ころっといってしまいそうだ。

「あ、いえ。失礼なんかじゃあ……」

「いえ、すみませんでした。私は、倉田佐祐理といいます。……貴方のことは、祐一さんとおよびしてもいいですか?」

「あ、え、はい。じゃあ俺も佐祐理さんって呼んでもいいですか?」

 祐一さんなんて呼ばれるの初めてだから、ちょっと戸惑ってしまった。

「ええ、それで構いませんよ」

 そしてにこっと笑いかけてくる。

 胸の中に灯りがともったようにほっとなる。

 ……いや、別に惚れちゃったわけじゃないぞ?


 /


 そして手を繋がれたまま、校舎の中へ入る。

 ……時間がずれているせいか、周りに人は居ないが、やっぱ恥ずかしい。

「あ、あの……」

「はい?」

「えーと、ですね。何故に手を繋がれちゃったままなのでしょうか?」

 い、いかん、緊張のあまり、口調がおかしくなっているやうな……。

「……あの、いやですか?」

「いぃっ!?」

 何故にそこで眼がウルウル+上目遣いコンボなのですかっ!?

「いいいい、嫌だなんて、そんな、いや、その、むしろ嬉しいぐらいで、って何言ってんだ俺って感じで――」

「よかった、嫌じゃないんですね」

 そしてまた佐祐理さんが微笑む。……ちくしょう、その笑顔には勝てねえよ。(←ちょっとやさぐれ)

 そうやっててくてくと廊下を進んでいく佐祐理さんとその従者の俺。

 ……いや、何かこの状況だと従者っていうよりも手のかかる弟か。

「あのー、佐祐理さん」

「? 何ですか、祐一さん」

「何処に行くんですか? 案内っていっても、早く自分の教室に行かないとやばい気がするんですけど……」

「あはは〜、大丈夫ですよ」

 そういっていつの間にか辿り着いていた扉を佐祐理さんが開け放つ。

「ほら、まだ皆さんこちらにいらっしゃいますから」

 にこっと笑って、彼女が俺に死刑宣告をする。

 ――ワァァァァァァ。

『それでは紹介しよう、本日のゲスト、いや、ゲストというのは失礼か。この学園唯一の外部生、本日から我々の同士となる、相沢祐一君だ!!』

 目の前には千人近くの生徒、そして鼓膜が割れんばかりの歓声。

 そして俺の隣で相変わらず微笑む佐祐理さん。

 ……ちくしょう、その笑顔が憎いよ。

 おそらくマイクを持っているのが、生徒会長だろう。いや、ほら、額に怒りマークついてるしな。

 最初からこういう予定になってはいたんだろうけど、多分に私情が挟まれている気がする。

 ……絶対、当初の予定より派手だ、きっとそうだ。くすん。

「はめられたぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっっ!!!!!!!」

 初春の寒い日に、俺の叫びは千人の歓声に掻き消された――――


 /


「くすん……ごめんよ母さん。俺、汚されちまったよ……」

 入学式からスライド式にずれこんだ俺の歓迎会。いわゆる俺を弄ぼうの会は、その後1時間半続いた。というか、続かされた。

 二千の視線に見つめられる俺。扉を開けたらすぐにステージの上だなんて、ちょっと卑怯だと思う。

 俺のパーソナルデータを全部公開して、って。どっから調べたんだよ、そんなの。

 何で、漢のスリーサイズ公開して女子の黄色い声が飛ぶんだよ、ちくしょう……。

 とにかく色々と汚されてしまいました、天国のお母さんお父さんゴメンナサイ。(←死んでない)

「よっ、さっきは大活躍だったな、おい」

 そんな俺が暗い感情に囚われていると、誰かが後ろから肩を叩いてくる。

 ……ほほう、今の俺に話しかけるとはいい度胸だ。

 ちなみに今俺が居るのは講堂のステージの上。で、一千の観衆は10分ほど前にHRのため、教室へ戻っていった。

「……それは皮肉か? それとも褒め言葉なのか、ええっ!?」

 言ってみろと言わんばかりに俺の肩を叩いてきたやつの首を持ってがくんがくんとシェイクする。

「まっ、まて……そ、れじゃあっ、いい、たいっ、ことも……い、えんっ」

「うっさいわ!! 今この瞬間俺より幸せな奴は死んでしまえっ!!」

 がっくんがっくん。……お、いい感じで藍色に顔が染まってきた。

 さすがにこの年で人殺しにはなりたくないので、手を離してやる。ふん。

「げほっ、げほっ……」

「どーだ、自分の身の程を思い知ったか」

「……身の程ってなぁ、お前。いきなりそれはないんじゃないか?」

「うっさい、この祐ちゃんの繊細な心を更に抉った罰だ」

「……まあ、確かにあれはひどかったな」

「うぅ……分かってくれるか、どこぞの人よ」

 目の前のアンテナ漢が気の毒そうな顔をする。

 ちょっぴりそれに感動して涙なんかを流してしまった。

「あぁ、同情するぜ。でだ、俺は北川潤。生徒会の書記なんだが……」

「む?」

「会長に頼まれてるんだ、着いてきて、くれるよな?」

 にっ、と。

 目の前の金髪アンテナが笑った。

 ……くそぅ、一瞬でも気を許した俺が馬鹿だった。

 とりあえず、目の前のこの漢は殴っておくことにする。


 /


 ――生徒会室。

 その中で待っていた男は、講堂で見た人物とは別物だった。否、正確に言えば、同一人物だが、纏っている雰囲気が反転しているのだ。

 久瀬宗一。吹雪学園二年、そして、生徒会会長。

 ――不敵、不遜。そんな言葉が似合う男。

 その評に違わず、目の前の男は偉そうに椅子にふんぞり返っている。

「やあ。済まなかったね、呼びつけたりして」

「……いや、別に構わない。どの道アンタには一回会わなくちゃいけなかったしな」

 そう、目の前の男に、寮などの書類を貰う予定になっていたのだ。

「で、うちの書記はどこかな?」

 くいっと、ふちの細い眼鏡を指で上げて、目の前の男が俺に問う。

「……ああ、アイツなら講堂に捨ててきた」

 その台詞に奴の顔が訝しげになる。

「……それは、どういう?」

「言葉通り。後ろから一発小突いて、気絶したんでそのままほっといてきた」

 くくっと、面白そうに奴が笑う。

 ……いやな笑みだ。正直こういう類の人種は好きになれそうに無い。

「そうか、北川君を……。失敬、君の力を疑っていたわけではないが、これで得心がいったよ」

「……何?」

 こんどは嫌な笑みではなく、漏らすような笑いをする。

「いや、相沢家から、直接ウチの理事に話がいったようなのでね、君が転入してくると聞いたときは驚いたものだ」

「理事……?」

「ああ、不肖ながら、僕の父親でね。……金にしか興味が無い、矮小な男さ」

 そう言った奴の顔が曇ったのは、見たくなかったけど見逃さなかった。

 なるほど、高校からの転入が認められたのは、そういう事か。……母さんも権力の使い方を激しく間違ってるよな。

「高校からの中途入学が何故ないか、君には分かるかい?」

「……いいや、全然」

 俺があっけらかんという風に言うと、また少し面白そうに奴が笑う。

「厳しすぎるのさ。中学から、才ある者達が切磋琢磨して、三年間で辿り着くレベル。それは、常人の予想を遥かに越えたところにある」

「……今まで、一人も居なかったのか?」

「居たには居た。だが、一ヶ月持つ人間は居なかったね」

「……なるほど」

 拳を握る。爪が手のひらに食い込んで血が染み出る感覚があるが、気にしない。

 ……これだ、こういうのを待ってた。

「あぁ、脅すつもりじゃないんだ、ただ、知ってもらって欲しくてね」

 俺が押し黙ったのをびびったのと勘違いしたのか、少し表情を崩して、そんなことを言ってくる。

「……とにかく、北川君に不意とは言えど、一撃を入れることが出来るレベルなら十分だよ。吹雪学園にようこそ、相沢祐一君」

 そう言って握手を求めてくる。最初のイメージと少し違う目の前の男は、まあ、多少なら好きになれるかもしれないと思った。

「……ああ、よろしく」

 ――で、男同士の友情っぽいものを確かめ合っていた所で、後ろの扉が勢いよく開いた。

「かいちょ〜〜〜〜!!」

「ん? 波瀬君、何か?」

「彼をくれるっていったじゃないですかぁぁ!!」

 そして、扉から現れた女性は、勢いよく久瀬に向かって飛びつき――その首を絞め上げた。

「……うわ」

「ま、まて。落ち着け、波瀬君」

「う〜そ〜つ〜きぃ〜!!」

 がくんがくん。

 おお、締まってる締まってる。

「……あの」

「なんですかぁ!!」

 俺がとりあえず仲裁に入ろうとすると、彼女は般若のような面持ちで俺を睨んでくる。

 ……ま、まさか。俺が鳥肌を……。

「う……」

「用がないんなら黙っててください!! 今はこの嘘つき泥棒を締め上げなくちゃいけないんですからっ!!」

 いや、締め上げるってなぁ……。

 物事には限度というものがある、現状、それは超えていると言えよう。

「いや、そのままだとほんとに死にますよ?」

「へ?」

「……(がくっ)」

「きゃぁぁぁぁ!! 人殺しぃぃぃぃぃ!!」

 ――いや、それは貴方です。

 なんて突っ込みたかったが、それは命がなくなりそうなのでやめた。目の前の男のように。


 /


 ――で、それから半時間。

「げほ……。なるほど、扉の傍で話を聞いていて、勘違いした、と」

「……ふぁい」

 額に怒りマークを三つほど付けた久瀬が、さっきの彼女のほっぺたを引っ張りながら言う。

「まったく、確かに彼はいい戦力にはなりそうだが。あいにくと、生徒会は粒が揃っているのでね、文化部の方に譲渡しようと思っていたのだが……」

 それも考え直さねばいけないな、と久瀬が呟き、彼女のほっぺたを離す。

「ええっ!? そ、そんなぁ……」

 そしてがくっと肩を下ろして俯く彼女。

 ……うーむ、何かよく分からんが、ここはひとつ。

「久瀬、話が分からんのだが……」

「ん、ああ。そうだね、話しておかなければ」

 そして俺の問いに答えて、吹雪学園の説明が始まる。

「ここ、吹雪学園は部活中心で構成されている。……月に一度の対抗戦も、部単位だし、個人戦は、年に四度しかないからね」

「なるほど」

「故に、部で派閥のようなモノが出来上がるわけだ。中立組織の生徒会。少数だが、精鋭を有する文化部。多数を有し、数の上で勝る運動部」

「ふむふむ」

「そして、勝ち数が多い部活には、部費が多く入るし、卒業後の進路も有利になる。……勿論、個人で勝った分にはそれだけの賞金が手に入る」

 なるほど、だから新人獲得は懸命にするのか。

 下調べなんかせずに、行けって言われて入ったからなぁ、全然知らなかった……。

「で、この人は何部なんだ?」

「……波瀬君は料理部だよ。ただ、今年は部員が少なくて、来年は廃部予定の部なんだけどね」

 ……なるほど、それであの必死の形相なのか。

「うう、この学園で廃部になるって事は、ものすごく不名誉な事なんです。私も、先輩方から受け継いだこの部を消したくはないですから……」

 ――ん?

「それで、何でさっきの話と繋がるんだ?」

 ……くれるとかくれないとか。

「ああ、そうだったね。相沢君、君には料理部に入ってもらおうと思うんだが、どうかな」

「――は?」

 この時俺は知らなかった、この選択が、後に運命を分けるだなんて――

 というか、半強制的に入れさせといて、選択肢も何もあったもんじゃなかったとは思うんだが……。


 /


 んで結局、俺は料理部に入部することになった。

 美女の涙目の嘆願と、性悪会長の些細な脅しに屈したのだ。

 ……ああ、この世に正義はないのか。などと、無駄に嘆いてみる。

 で、今。俺は波瀬先輩と共に調理室へと向かっているわけだ。

「ありがとうございます」

 ぺこっとお辞儀をしてくる先輩。その姿は可愛いと思う、さっきの般若とは大違いだ。

 ――肩骨のところまで下ろしているダークグリーンの髪、そして落ち着いた年上を思わせる柔和な笑顔。

 なんか今日は美人と縁があるなぁ……。

「いえ、波瀬先輩こそ、大変そうで……」

「祐一君」

 俺が返事をした途端、彼女の顔がむぅっと膨れ上がる。

「私の事は沖華って呼んでください」

 めっと人差し指を立てて、そう言ってくる。

 ……なるほど、人にはどう呼ばれたいかってのもあるよな、うん。

 波瀬沖華。吹雪学園三年、料理部部長。

 86・52・84。

 久瀬に見せてもらった彼女のパーソナルデータには、何故かスリーサイズまで明記されていた。

 ……いや、それはまずいだろうと思いながらも、きっちりと網膜と記憶に焼き付けてしまったのは秘密だ。

「分かりました、沖華先輩」

「それでいいんです♪」

 先輩は嬉しそうに笑って、俺の少し先を走る。

 そして目の前の扉を開ける。その扉の上部プレートには「調理室(はぁと)」と書いてある。何故かピンクい文字で。

「着きましたよ、祐一君」

 少し呆然としていると、沖華先輩がどうしたのかと声を掛けてきた。

「ああ、いえ、なんでもないんですが、その、このプレートは?」

「え!? あ、ああ……それは、ですね」

 その表情に迷いを見せる先輩。聞いたらまずい事なのかも……。

「ああ、いえ。少し気になったもんですから、言いにくいならいわなくても……」

「そ、そうですか。ごめんなさい」

 ぺこっと彼女が頭を下げる。

「先輩、駄目ですよ、下級生に頭ばっかり下げたら」

 だから、俺はそんな些細な事で負担にしたくなくて、いたずらっぽく笑った。

「あ、え……? 祐一君は、優しいんですね」

 ――先輩も笑った。ちょっとその笑顔にぽーっとしてしまったのは、秘密だ。

「――部長」

 その時、調理室前の廊下に声が響き渡った。

 ――冷たくも、凛とした声。

 温かみを感じさせないその声は、少し――ほんの少しだけ、寂しげに聞こえた。

「あら、美汐ちゃん?」

「……はい。あの、その方は?」

「ああ、そうそう。聞いて、美汐ちゃん、この人――相沢祐一君、料理部に入ってくれるって!!」

 室内から顔を出した彼女に、沖華先輩が笑顔を向けながら言う。

 ――が、

「相沢――――祐一」

 彼女が反応したのは、その事実にではなく、俺の名前に――だった。

 昼の陽光が差し込み、陰影を見せるその情景。

 影に染まった彼女の顔は、その名を聞いて、険を帯びたようだった――

 そして、彼女は俺に歩み寄ってくる。

「貴方が――――」

「……初めまして、相沢、祐一です」

 彼女は俺を知っているようだったが、俺は彼女を知らない。

 ――ならば、初対面の挨拶をするのは道理であり、真理だ。

「初めまして、相沢の方。天野美汐と申します――」

 彼女が挨拶したのは、相沢家に。俺に、ではない。

 まいったな……どうも含むところがあるみたいだ。

 正直、家の事はよく知らない。長男と言えど、力無き者に家を継ぐことはできないから。

 だから、俺が相沢ではなく、祐一だと分からせてやる事にした――

「俺さ、昔、家出した事があるんだ」

「……は?」

 心底分からない、という風に、彼女が顔を曇らせた。

「でさ、線路沿いにずっと歩いて、歩き続けて、やっと海に出たんだ」

「はぁ……?」

「でさ、そこには何もなくて。ただ、波だけが引いては寄せ、引いては寄せ。……で、思ったわけだ。」

 少し、そこで言葉を切る。

 相変らず、彼女の顔は冷たく張り付いている。だが、その瞳には興味の色が顕れていた。









「――――波って冷てえぇぇぇぇぇぇぇぇ!!」








「――は?」

 あ、呆然としてる、ちょっと面白いかも。

 その彼女に優しく微笑んで、

「実際に触れてみないと分からない事ってある。一面に囚われてると、人生面白くない。ようするに、俺は相沢家の一員ではあるけど、相沢家長男って一面だけじゃないって事」

 ……今の俺の精一杯。それをこの一言に込めた。

 陳腐だが、どんな言葉でもその根っこにある部分で語ればいい。

 聡明な彼女は、分かったのか分かってくれてないのか、幾分か理解した面持ちで、一度頷いてから、

「……相沢祐一さん。天野美汐と申します」

 『俺に』挨拶をしてくれた。

「うふふ。じゃあこれにて初顔合わせは終わりですね。昼食にしましょうか?」

 ――部長がにっこりと笑って、俺達二人の肩に手を掛けた。

 ああ、纏め役って大切だなぁ……。

「あ、そうでした。部長、用意は出来ています」

「ありがとう美汐ちゃん。……でも、私の事は沖華先輩って呼んでくれなきゃ駄目ですよ?」

 有無を言わせない笑みで、沖華先輩が彼女にずずいっと迫る。

「う……。分かりました、沖華先輩」

「うふふ、じゃあ、行きましょうか」

 そういって天野の手を取る先輩。……と、ちょっと待てよ。

「――沖華先輩。昼食って? ここで食べるんですか?」

 素朴な疑問だったが、俺はまだ知らなかった。

 ――吹雪学園は全寮制。

 ならば、その答えは自然と導き出さねばならなかったのだ。

 が、俺は新天地への応対で精一杯だった。

 ――故に、その悲劇は起こるべくして起きたのだ。

「はい、祐一君も今日から家族ですから」

「――は?」

 キョウカラカゾクデスカラ――

 い、いかん。耳がおかしくなったかな?

 不遜な言葉が聞こえた気がする、そりゃもう激しく。

「あ、そうだ。部屋はいっぱい余ってますから、どこに住みます?」

「沖華先輩。相沢さんは男ですから、私達とは違う階の方が……」

 ……ああ、見るからに純情で奥手そうな天野までもが、何か言っている。

「あ、そうですね。じゃあ二階に住んでもらいましょうか」

「ええ、それがいいでしょう」

 俺がくらくらしている間にも、話は進んでいく。

「あ、あの……せんぱい? 部屋って、それに二階とか……」

「はい? 祐一君が入る部屋の事ですけど。私達料理部に割り当てられているのは、桜花寮といってですね……」

 そして、先輩の寮の説明が延々と続いていく。

 一つ、寮は部ごとにわけられていると言う事。

 一つ、大きな部活なんかは、男女別々に建物自体が分けられているが、弱小の所は一つの建物に階を分けて男女で生活しているということ。

 一つ、勿論料理部は極小の部活なので、同じ建物だと言う事。

 一つ、ここではそれが当たり前なので、誰も今更恥ずかしがって居ないと言う事……。

 そして最後、桜花寮はとてもいい場所だと言う事――

「よ、ようするに……。一緒に住むって、事、ですか……?」

「はい、今日からよろしくお願いしますね?」

「……お願いします」

 二人がぺこりと頭を下げてくる。

 ――ならば、俺もよろしくをせねば。

「は、い。よろしくお願いいたします……」

 そして限界――

 わたくし、相沢祐一は、教えてくれなかった会長とか、その他もろもろに暗い感情を燃やしながら、そのまま前のめりに倒れこんだのでありました――。














 …………人生って、落とし穴だらけだよね、きっとさ。