俺がまだ右も左も分からないガキの頃。

 言われた言葉。

 一言、たった一言。

 けど、きっとそれが、俺の一生を変えたんだろう。

「リングも扱えない跡継ぎなんて、価値がない」

 子供には分からないと踏んだのだろう、正座している俺の目の前でその台詞は吐かれた。

 ショックだったかはもう覚えていない。

 ただ、思った。

 強くなろうと。

 辛い台詞にも動じない心の強さなのか、肉体的な強さだったのかは今となっては分からない。

 けど、ただ強さを目指したことだけは覚えている。

 そして、俺はその日から剣の虫になった。

 暇さえあれば、修練をする。

 相沢家の中で落ちこぼれだった俺が与えられたのは、広い庭の一角。

 そこが俺の世界の全てであり、夏の強い日差しの中だろうと、冬の寒さの中だろうと、そこは俺の全てだった。

 そして3年程が経っただろうか。

 覚えている。

 しんしんと雪が降っている日だった。

 かじかんだ指と指をすり合わせて寒さを凌いでいたら、親父が脇に小さな女の子を連れて歩いてきた。

 けどこっちは寒さでそれどころじゃなかったのだろう、あえて視界の隅にそれを捕らえていながらも、見ないようにしていた。

 それに親父の事はあまり好きではなかった。

 元々親子の絆とかそーゆーのは薄かったと思うし、世間体から言っても、実の息子とはいえ落ちこぼれの俺に掛ける言葉なんてなかったんだろう、相沢家の当主としては。

 だから、そのときも無視しようと思った。

 けど、珍しく、本当に珍しく、親父が俺に声を掛けて来た。

「祐一」

 そんな無機質な声に、俺も感情の篭らない声で返した。

「なに?」

「俺の弟子だ、世話をしてやれ」

「は?」

 自分の耳がおかしくなったのかと思った。

 普段から口数が少なく、寡黙で通っている親父だったが、まさかここまで突飛な事を言って驚かせてくれるとは思わなかった。

 そしてその一言だけ残し、妙に暗くおどおどしている少女を残して親父は屋敷の中へ消えていった。

 どうしようかと迷い、とりあえず目の前の少女を観察する。

 本能というやつだろうか、一瞬で分かった。

 その少女は笑わない。

 泣きもしない。

 そして悲しみだけが雰囲気として残る。

 そんな。年に合わずその不幸を小さな肩にしょいこんでいる少女。

 「……」

 二人の間に会話はない。

 目の前の少女は自分を見て、怯えている風だったし、自分も初めて会った少女に何と声を掛けたらいいのか分からなかった。

 だから、とりあえず親戚のおばさんが教えてくれた挨拶の基本ってやつをしてみることにしたんだと思う。

 「相沢祐一」

 「……え?」

 目の前の少女の顔に初めて悲しみ以外の表情が浮かんだ。困惑、迷い、そして怯え。

 「おれのなまえ。祐一っていうんだ。きみは?」

 「……まい」

 やっぱり若干のおびえをみせつつも、目の前の少女は名前らしきものを紡ぐ。

 「そっか、まいっていうのか。かわいいなまえだな」

 「えっ?」

 親戚のおばさんがいっていた挨拶の基本。それは笑顔で名前を言うこと、そして相手の名前を褒める事。

 だからそうした。あの時の俺にはよく分からなかったし、唯一信用できた人の言うことだったから実行しただけだったと思う。

 「……ありがとう」

 そして花のような笑顔。

 悲しみに彩られた雰囲気は消えてなかったけど、花のように可憐で、そしてそのまま消えてしまいそうな笑顔。

 俺は随分と単純な子供だったのだろう。

 その笑顔を見たときに、「もっと見たいな」なーんて純粋な欲求が生まれてしまった。

 あれだ、好きな子をついいじめてしまうあの感じ。

 あれがあの時俺を突き動かしていた原動力だったのだろう。

 ――それから俺の生き方に、強さを求めるのと、目の前の可憐な少女を笑わせることが加わった。


 /


 そして更に二年の月日。

 相変わらず俺の世界は庭の一角にある修練の場だけだったけれど、修行の合間にまいと遊ぶ事でその場が随分と楽しくなっていた、そんな頃。

 あれは春先だった。

 まだ随分と冬の寒さが残っていて、俺の手足はじんじんと痺れていた。(そう、何故か子供の頃は屋外なのに裸足で修練をしていたのだ)

 かじかむ指で木剣を握り、巻藁に打ち込む。

 正眼の構えから、袈裟懸けに切りつける。

 先程までまいと一緒にやっていたのだが、親父に呼ばれて行ってしまった。

「……あいつ、だいじょうぶかな」

 一度、まいがひどい怪我をして帰って来た時に、必死で親父に噛み付いたことを思い出す。

 親父は俺の剣幕に随分と驚いていた。普段感情を表に出さないのを考えると、それは非常に珍しいことだったのだろう。

 だがそれはそれ。親父は俺の話を真剣に聞いてはくれたものの、修行に関しては改めることはないと、きっぱりと言い切った。

 ついでに、「そんなに心配しなくてもいい。」なんていって俺の頭をぐりぐりと撫で回したのだが。(言葉通り、頭の撫で方なんて知らない不器用な親だったのだ)

 そのときの親父の様子を顧みるに、たぶん心配はいらないのだと思う。

 自分の親ながら分かりにくい人物だが、嘘と虚勢が大嫌いなのは知っているから。

 そうして、まいの事を頭の隅で心配しつつ、何とか集中して打ち込みをしていた。

 そんな昼下がり。


 /


 二日程前から屋敷の中が慌しいのは知っていた。

 誰かが門の前に行き倒れていたのだと言う。

 だが、命には別状はなく、今もその人物が屋敷のどこかで眠っている事は情報として頭の隅には置いてあったのだ。

 けれど、その頃の俺にとってその事は重要ではなく、まいを笑わせるための次の手の方がよっぽど気に掛かっていた。

 行き倒れの人間の情報なんて吹けば飛んでいく紙みたいなもんだった。まあ、数分後にその考えは180度改めることになるのだが。

「この前は、てれびでやってたげいにんのネタで笑わせたから、今度は……」

 そして休憩がてら俺はう〜んと首を捻る。

 変な顔……駄目だ、それはこの前やったら泣かれてしまったし、ちょっとおとことしてのそんげんって奴が傷ついた気がする。

 動物のまね……駄目駄目、サイの鳴き真似は随分と不評だった。

「だったら次は……」

 と、そこまで考えた所で、屋敷の方からこちらに向かって一直線に誰かが向かってくるのが見えた。

 一瞬まいかとも思ったけれど、即座にその考えを否定する。

 時間が早すぎるし、なにより今日の修行先は屋敷の中ではなかったはず。

 だから、眼をこらしてその人物を見たときに、思わず『げっ!?』と呟いてしまったのは不可抗力だと思う。

「ゆ〜う〜〜〜ちゃん? 『げっ!?』なんて言われたらお母さん傷ついちゃうわ〜」

 そしてその人物が俺の発した言葉を聴いて一瞬で近寄ってくると、腰をめひょうのようにクネクネさせながらそんなことを言ってきた。

 はっきりいって。小さく、それも一瞬の呟きを20M以上先から聞きつけるなんて、常人のすることじゃないと思う。

 そして一瞬でその距離をつめる脚力。正直この人物が自分の母親かと思うと頭が痛くなってくる。

「な、なんだよかあさん。ここに来るなんて珍しいじゃんか」

 そんな痛みをごまかしつつ、ついでにさっきに台詞の事もごまかせないかな〜なんて儚い願いをもって目の前の完璧超人に語りかける。

「ゆ〜う〜ちゃん? まさか、そんな事でこの私がごまかせるとでも……」

「あの……」

 笑いながら怒ってみせるという器用な真似をしながら近づいて来た母さんの後ろから声がかかる。

 鳥が囀るような凛とした美声。

 その声に母さんも正気に戻ったのか、こほんと一つ咳をついて仕切りなおす。

「あ、そうね。ゆうちゃん。ちょっと頼みがあるんだけどぉ」

 そして相変わらず腰をめひょうのようにくねくねさせながら母さんが俺に迫ってくる。訂正、この人はこれが正気だったようだ。

「何だよ? ちなみに、夕飯のおかず一品頂戴とか、まいの寝起きの写真撮ってきてとかなら即座に却下させてもらうからな」

 親父とまるで正反対で、いつも俺が驚くような突飛な事をするのが目の前の母親なのだ。

 朝起きたら何故かまいと一緒に寝てたりとか、なぜか素っ裸で母さんの抱き枕にされたりとか。

 俺も面白さを追求する変わった人間だとは思うけど、この人は次元が違う。

 そしてその次元の違う人が、にやっと悪戯好きの猫みたく笑ったかと思うと、くるっと向きを変えて、そしてまた誰かを抱きかかえて俺の方に向き直る。

 そして、

「この子、私の弟子にするから。世話、してあげて?」

 な〜んて事をそりゃもう楽しそうにのたまってくれちゃったわけだ。

 いやぁ、このときばかりは似たものの両親なんだって事を思ったね、うん。

「は? 」

「……初めまして」

 そして母さんに抱きかかえられた美声の持ち主が、恥ずかしそうに呆然としている俺に挨拶してきた。

 恥ずかしいというか、そっぽを向いているというか。

 挨拶をしているはずなのに何故か俺の目を見ていない。

 ……だからまあ、俺は俺の正義に従って、

「初めまして、相沢祐一って言うんだ。君の名前は?」

 にこやかに挨拶しながら目の前のウェーブのかかった髪の少女の顔を両手で挟み込んで、ぐりっと俺の方を向かせたわけだ。

 ああ、ちなみに目の前の少女は母さんに拾われた犬猫みたくしっかりと抱きかかえられてるから、身動き一つ取れない状況。

「ちょっ、何を――」

「名前は?」

 にこにこ。有無を言わせない笑顔ってやつで、お気に召さない様子の彼女に名前を再度問う。

 あ、ちなみにその笑顔のコツは親戚のおばさんに教えてもらった。うん、おばさんの教えてくれることは役立つことばっかりだな。

「……香里。美坂香里」

「香里、か。いいなまえだな、よろしく」

 そうして顔を挟んだままにこっと笑って挨拶をする。あ、ちなみにその笑いはもう有無を言わさないほうじゃなくて、心からの笑みだぞ。

 そしたら、目の前の香里の顔がぼっと真っ赤に染まった。

「ちょ、もういいでしょ。離してよっ」

 ……なんかかわいいかも。

 母さんに体、俺に顔を掴まれ、じたばたしても身動きがとれない彼女。

 しかも何故か顔が真っ赤。

「ね、ゆうちゃん。かわいいでしょ、この娘。」

 そして今度は口裂け女みたくにやっと笑って俺に問いかけてくる母さん。蛇の舌が出てるぞ、蛇の。しゃーって。

 人を玩具にするのが大好きなこの人に同意するのはちょっと癪だったけど、この時ばかりは、

「……うん」

 なんて思わず答えてしまった。

「でしょ、でしょ〜?」

 そして更にぎゅーっと抱きしめる母さん。

 そして香里は更に顔を赤くして俯いてしまう。

 俺と母さんにとっては甘美な、しかし香里にとっては拷問のような仕打ちはその後10分ほど続いた――


 /


 そして奇妙な生活が始まった。

 まいと香里はあまり話さないし、そんな感じの二人の世話を同時に焼かなければならない俺。

 香里は最初のイメージとは違ってずいぶんとクールな感じだし、まいは今まで見せなかった拗ねるなんて高等テクニックを使用してくる始末。

 この前なんて。

 夕食後、風呂上りに闇色の帳が落ちている廊下を歩いていると、くいっと袖を引かれる感触。振りかえってみれば、くまさんのパジャマに身を包んだまいが立っていた。

「……ゆういち。一緒にねよ」

 俺がうんと言おうとしたその瞬間、後ろからよく通る声が聞こえてくる。

「相沢君? 私の修行の相手、してくれるんじゃなかったかしら?」

 そしてまた振りかって見れば、そこには美坂のかおりんが魔神の如き形相で立っているではないか。

 それは明日じゃなかったかと、俺が口に出す前に、何故かまいが俺の前に立ちふさがって香里をにらみつけている。

 そして二人の少女の中間で飛び散る火花。

 ちょっと勘弁してほしいと思う。

 そりゃ、おとことしてはやぶさかではない状況だが、あまり耐えていける状況でもないのだ。

 そしてそんな緊迫した状況のど真ん中ストライクに飛び込んでくる母さん。

「なになに? 修羅場? 修羅場ってやつ? やーん、母さん困っちゃう〜」

 困っちゃう割には表情が楽しそうなのは気のせいか、おい。

 そして、どちらかを立てればどちらかが立たないといった状況。

 そんな毎日。

 そんな日々が楽しいと思えるようになったのはいつからだったか――

 とにかく、それは俺が13歳になるまで続いたのである。


 /


 春のある日。

 最寄の中学校に入学予定の俺は、相も変わらず庭の一角で修行を続けていた。

 今では二人は修行の合間をぬって別々の時間に会いに来る様になった。

 それでも昔に比べて二人の仲は良くなった様だ。睨み合う回数が減ったからな。

 香里のクールビューティーな表情を崩すのは楽しいし、まいの笑顔を見るのは俺の日課だ。

 そしてそんな日々が続くと思っていた。

 忘れていたのだ。

 舞は親父が身寄りのない子供を引き取ってきたのだという事。

 彼女の能力は周りから忌み嫌われていた。

 そして香里は妹を守りたいといって相沢家の門を叩いたという事。

 今や彼女は門下生の中でもピカ一のリングマスターだ。

 そして――

 相沢家は代々優秀なリングマスターを輩出し続けてきたという事。

 俺は彼女達と違ってリングを扱うことが出来ないという事。

 だから、その日が二人との別れとなった。


 /


「……母さん、今なんて言ったんだ?」

「だからね、ゆうちゃん。二人は吹雪学園に入学するの」

 信じられなかった、けれどそれが現実だった。

 考えれば当然のこと。

 相沢氷牙と相沢霧狐の直弟子ならば、リングマスターが集う場所に行くのは当然なのだから。

「だったら、俺も――」

「……それは、出来ん」

 静かな声で親父が否定する。

 そう、俺はリングを扱う事が出来ない。

 だから親父も母さんもうんとは言わない。

 今まで、リングを扱えなくても強くなれるとたかを括っていた。

 けれど、幼い頃に言われたあの台詞は相沢という檻の中では正味真実な話だったのだ。

 だから俺は、目の前で苦々しく俯く二人に背を向けて、自分の世界である修練場へ引き篭もった――


 /


 それから、一週間。

 手の皮がずり落ちるほど、打ち込みをした。

 目の前がぐるんぐるん回るほど、転んでは立ち上がって、修練を続けた。

 何度か二人が尋ねてきた気がしたが、それもよく覚えていない。

 けれど、母さんが来て、二人が出発すると言ったから、俺は門へと向かった。

「……祐一」

 二人が心配そうに俺を見つめてくる。

 ……馬鹿だな。心配なのはそっちだろう。

 だが、弱りきっていた俺はその台詞を口にすることは出来なかった。

 だから、一言だけ、誓いを口にした。

「行くから」

「……?」

「相沢君?」

「かならず、行くから」

 最初は分からないといった顔をしていた二人だが、納得いったという風に顔を綻ばせた。

「……待ってる」

「期待しないで待ってるわ」

 だから、俺もそれで十分だった。

 悪い、もう限界っぽい――――

 そして俺は眠りについた。

 だからかもしれない、あの時の事なんて、いや、昔の事なんて、その時から遥か北の地で再開するまで微塵も思い出さなかったんだ――


 /


 三年の月日が流れ、相沢祐一16歳。

 相沢家より遥か北。

 雪降る町、雪花。

 大陸一の学園都市であり、リングマスターが集まる学園としては一番の規模。

 俺は今、その学園、特に門なんかを目指して爆走しちゃってるわけだ。

「うぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお、ち〜〜〜〜〜〜〜〜こ〜〜〜〜〜〜〜〜く〜〜〜〜〜〜〜だぁ〜〜〜〜〜〜〜!!」

 前日まで泊まっていたホテルの目覚ましが何故か鳴らず、『ぽんこつめっ!! 』なーんて悪態をついている時間もおしい今日この頃。

 とりあえず雪が積もってそりゃもう滑る道を走っている。

 あれだ、きっとタイム図ったら世界新だぞ、これ。

 そして、今日は吹雪学園高等部の入学式、現在時刻は9時15分。

 結構、シャレにも笑いにもネタにもならない始末である。

 そんな状況下において、ひたすら走る俺の姿。

 微妙に周りの人の視線が痛いなぁ……。

 ちなみに、俺は今、南のメインストリート、初雪通りを走っている。

 この吹雪学園ってやつは、学校を中心として一つの都市が成り立っている。

 少し高台にある学園から扇状に街が広がっている。

 そして東、南、西に伸びるストリート。

 深雪通り、初雪通り、華雪通りと名づけられたその三つの通りを中心として形成されている寮や商店街。

 ということで、とってもひろーいわけである。

「はぁ、は、ぁ……。な、なんで見えてるのに、全然近づかないんだよ……」

 一度立ち止まって息を整える。初春とはいえ、北の地であるこの土地はまだ結構寒い。

 纏わりつく冷気は肌寒く、運動によって火照った体に心地よい感覚を与えてくれる。

 そして今まで体と共に火照っていた頭も少し冷えて冷静になる。

「あれが……俺が通う学園か」

 吹雪学園を遠目に見つめる。

 予感がしていた。

 母さんから転入を進められた時から、何かを思い出したかのように、あるいは俺の中の何かが叫んでいるように。

 そこに行けば、何かが変わる、何かが始まると。

「さて、と……。気合入れて行きますかっ」

 そうして俺はまた走り出す。

 ……おかげで、日に三回も転ぶ(雪の上)なんて貴重な体験もさせてもらいましたとさ。


 /


 この日より始まり、そして終わりは遠き未来。

 少年が望んだ理想は叶えられることはなく、しかしそれでも似て非なるものは手に入れた。

 だからそれは奇跡、秘蹟と呼ばれるほどの伝説となった。

 故に、この後相沢祐一という少年が敗北といった結果を手にすることは一度もなく、彼の者は伝説と呼ばれたのである。





 祐ちゃん最強伝説 第零話

 過去、そして始まり。





 ここより始まるのは、少年の伝説。

 ちょっとこっぱずかしい、愛とか友情とかそんな青春の一ページみたいな伝説。

 ま、主人公が相沢の祐ちゃんである限り、そんな感じで進んでいく物語なのである、まる。