いつからだろうか。
「今日は舞の好きな、牛丼だ」
 私の『力』が暴走を止めた時から、両親のいない私の為に祐一と佐祐理がご飯を作りに来てくれる様になった。エプロンを付けて台所に立つ祐一は何だか場違いに思えたのは最初だけで、もう既に日常の一部と化している。包丁の扱いに不慣れな彼は何度も何度も指を切り、手を傷だらけにしてまで料理を作ってくれた。その腕は私の目から見ても見違える程に上達し、今では切り傷を作る事も少なくなっている。それでも三日に一回は絆創膏を探して走り回るのだから、本人はまだまだ満足していない様である。
 目の前に牛丼を出されても私は無言、今更いただきますと言うのが気恥ずかしいのだ。それでも作ってくれた人に感謝の意は表したい。だから私は妥協策として、ご飯を目の前に手を合わせる様にしている。食生活を支えてくれる祐一と、佐祐理に対して私が出来るせめてもの行動と言ったらこれくらいしかないから。
 箸で具とご飯を一緒に掬って、口に入れる。
「美味しいか」
 焦らず咀嚼し、嚥下してから言葉にする。以前これで祐一に怒られた事があるのだ。
「はちみつくまさん」
 夜の学校で祐一と私で決めた、肯定の意を表す符丁である。祐一の顔が綻ぶ。私も感情表現が少ない方だが、彼だって負けていない。しばらく一緒にいないと、彼の感情を読み取る事は困難に違い無い。嬉しい。祐一が嬉しい事は、私だって嬉しいのだ。
「祐一さん、本当に料理上手になりましたね」
 この発言は佐祐理、私のもう一人の親友である。屈託の無い笑顔は、とても眩しい。裏表の無い彼女に、私は何度救われた事か。彼女は頚椎を損傷した時の後遺症で、左手が殆ど動かない。彼女を診た医師は奇跡だと言った。不幸中の幸いだ、と。彼女の左手は、私の拭えぬ罪悪感の証である。
「佐祐理さんの指導のお陰だよ」
「いえ、祐一さんの実力ですよ」
 私にしてみれば、二人が同じ空間で笑いを共有している事こそが奇跡であると言えた。二人とも、私の『力』の巻き添えを食らって生きている。祐一は数箇所の骨折と内臓の損傷を、佐祐理は先の説明通り頚椎に損傷を負った。祐一も佐祐理も、死すらあり得る状態に追い込まれた。それなのに、私のせいで酷い目に遭っているにも関わらず一緒にいてくれる。正に奇跡。
 満ち足りた生活である。
 一つ気になる事と言えば。
「まだまだ佐祐理さんの腕には及ばないよ」
 いつからか祐一が見せる様になった、底冷えする程に寂しい笑いくらいだ。


奇跡の代償


 快晴の日曜、昼。
 公園の芝生の上で、木刀を持って対峙する私と祐一。後の先を取られるのを防ぐ為に、不用意に飛び込む事はしない。この訓練は剣道では無い為、明確なルールなど無い。ただ降参したら負け、あからさまな急所狙いはしない、芝生の上から出てはいけない、くらいしか決めていないのだ。例えば持っている木刀をいきなり投擲してもルールには抵触しないし、鍔迫り合いの際に拳で相手の顎を打ち抜いても良い。ただし前者は無手でその後の戦闘を継続出来る度胸が、後者は片手で鍔迫り合いが出来る程の腕力や技量があれば、の話ではあるが。
 邪道をも含めての剣術ではあるが、あらかたこの戦場で出来る邪道を究め尽くしてしまった今となっては両者共に正攻法が主な戦闘手段となっている。技量に勝る私と、腕力に勝る祐一。魔物を倒す為に祐一が始めた訓練だったが、今では二人で身体を動かす楽しさの為に行っている。傷も癒えて退院し、祐一が模擬戦を再開した時はまだ彼の連戦連敗だったが今ではそうでもない。身体の動かし方が分かってきたのか、随分と体捌きが洗練されてきている。十回に一回くらいは私が降参する事もあるのだ。
 覚悟を決めて私の刃圏へと踏み込む祐一。タイミングを計り、木刀を振るう。当たる前から分かる。それは必殺の距離だ、と。真剣ならば生命を終わらせる距離であり、勢いのついた祐一には絶対回避不可能な一撃だと確信する。
 その瞬間、祐一の顔が歪んだ。
「!」
 木刀が祐一の胴に思い切りめり込む。瞬間を違えてよろけ、彼は芝生の上に折れた。
 得物を手放し、彼は打ち据えられた箇所を手で庇う。その首筋に木刀を当てると、彼は両手を自分の頭より高く上げて頭を左右に振る。降参のサインだ。私はようやく木刀を地に向け、臨戦態勢を解いた。
 胸に手を置き、たっぷり一分間使って呼吸を整えてから彼は言葉を紡いだ。
「舞はやっぱり強いな」
「祐一も強くなってる」
 彼はそうか、と言ったきり黙った。嘘は付いていないが、彼は納得しているだろうか。最早腕力では彼に敵わないので、訓練を始めた頃の様に真正面からぶつかる事はしなくなった。初撃を外して一撃を加えるか、初撃に合わせて一撃を加えるかで何とか勝っているに過ぎないのだ。タイミングは即ち経験と技量の差、修練でどうとでもなる領域である。私を超える日も、そう遠い未来ではないだろう。
 その時私は本当に護られるだけの存在になってしまうのだろうか。少々、寂しい。
「でも今日の戦績は五戦五敗だったぞ」
「それは」
「分かってる。言ってみたかっただけだ」
 何を分かっていると言うのか。何も分かっていない、何も分かってはいないではないか。私も、祐一も他人を思い遣るには分からない事が多過ぎたのだ。
「佐祐理さんが昼飯を作って待っている筈だ、帰ろう」
「佐祐理のご飯」
「多分舞の好きな和食だろうな」
「嫌いじゃない」
 こう歩きながら対話しても、祐一の冷たい瞳が頭から離れない。何かを哀れむ様な、惜しむ様な、それは故人を見る眼だ。口調と顔が一致しない。それは何処か私に似ている様な気がして、不快な気分を増幅させる。相手は祐一なのに、腹の奥がざわつく様な居心地の悪さを感じずにはおれなかった。

 午後八時。不安な時、私はいつも夜の学校に来る。静寂の支配する、喧騒の眠る空間に。もう何をするでもないが、思い出の詰まった大切な場所にいると悩みが溶け消えて体外へ流れていく様な気がするのだ。学校の思い出、ススキ畑での思い出。どちらも大切で、どちらも私にとって無くてはならないものである。そして、私の分身である剣。
 役目を終えた兇刃は今、私の傍らにある。最早これも私から切り離せない程に強く、結び付いていた。だがもし襲い来る敵がいたとして、私は兇刃を振るえるのだろうか。殺す為だけに繰り出される斬撃を行使出来るのだろうか。
「……!」
 生き物の気配が私の五感を刺激する。もう魔物などいない筈なのに、と訝るが気配は消えない。私は正体を確かめるべく顔を上げる。
「本当にいたんだ」
 祐一だった。だが私は何故彼が学校に来るのか、よりも彼の手に持った物の方が気になった。
 日本刀だ。以前祐一に貸したままだった私の元・愛刀、それは良い。だが彼にそのままになっていた刀を引っ提げて夜の学校へ来る意味はあるのだろうか。幾ら夜とは言え月明かりで慣らされた私の目には、三年も夜の戦場に身を置いた私には分かる。その顔に張り付く、殺意に満ちた酷薄で残忍な歪みが。
 彼の殺気が、久しく使っていなかった感覚を呼び起こす。肌が粟立ち、私の内部が瞬く間に臨戦態勢へと作り変えられていく。何故と言う疑問を置き去りにしつつも、鞘から剣を抜き放つ。
「忘れられないよな」
 殺意の衣を身に纏いながらも、しかし彼はまるで場違いな陽気さで私に語りかける。昔語りをするには余りに剣呑な刃を手に持ち、笑顔を絶やさない。間違いがあるのなら、それは今の彼そのものだろう。踏み越えてはならぬものを超えてしまった、彼の様相はあたかも快楽殺人者のそれだ。
「思い出の場所だからか」
 何を言っているのか。私が答えあぐねていると彼は何事も無かった様に話を先に進めた。
「舞は倒した魔物の数を覚えているか」
 臨戦態勢を解かず、間合いに注意しながら答える。
「四体」
「いや」
 嘲る様に歪みを深くすると、祐一も鞘から刃を解き放った。抜き身が月光を浴びて怪しく煌く。
「三体だ」
「嘘」
「嘘じゃあないさ。……ここに、舞が倒し損ねた一体がいるのだから」
 祐一が、自らを親指で指す。冗談の類では無いだろう、夜の学校で刀を持って行う冗談とは流石に性質が悪過ぎる。
「魔物は五体。お前が倒した三体、許した一体、俺を頼った一体だ」
 一呼吸を置き、祐一は言葉を続ける。
「剣を棄てた事で右手の魔物は拠り所を失い、俺を頼ったんだよ。笑い話さ。魔物を作り出したきっかけとなった俺が舞を救い、自らを化け物にしちまうんだから」
 私と祐一、どちらとも無く得物を構える。疑う余地は無い、例えそれが嘘だとしても彼からは懐かしい気配がするのは確かなのだ。慣れ親しんだ、魔物と呼称した私自身の『力』の気配が。血に飢えた獣、復讐に燃える暗殺者、認めて欲しいと泣き叫ぶ幼子。いずれであろうと関係が無い。
 最初の一歩目から全力で疾る。屠るのは自分自身、祐一は被害者だ。せめて一撃で終わらせようと決める。一撃で戦闘不能にして、終いにするのだ。
 祐一はその場から動かずに迎撃の構えを取る。彼との距離を必殺の間合いにするのに、コンマ五秒と掛からない。彼の迎撃が私を捉える前に身体を捻って溜めを作る。それが彼のタイミングをずらす効果を生み、私の斬撃の攻撃力を増幅する。繰り出されるのは何の技巧も工夫も無い、渾身の一撃。
 交錯する瞬間祐一が笑い、私が思うより少し前に刃を突き出す。甘い。その様な防御では躱す事は愚か、防ぐ事すら出来はしない。自慢するつもりなど更々無いが、私の一撃は気の抜けた防御でどうにかなるものでは無いのだ。祐一の刀を弾き飛ばし左から右に、袈裟懸けに刃は通り抜けるだろう。相手の刀ごと斬り付ける為、死ぬ事は無いだろうが腕の一本くらいは覚悟して貰うしかあるまい。
 雑念があったからだろうか。慣性の法則を無視して折れ曲がる様に空中で進路を変え、床に叩きつけられたのは私だった。
 あれだけの一撃を受けて剣を離さなかったのは僥倖だろう。祐一はこちらの斬撃がトップスピードに入る前に刃を合わせ、スピードを殺しその隙に拳を私の顎に叩き込んだのである。向かって行った私の勢いを利用した、見事なカウンターだった。
「……っ」
 視界が歪むと同時に襲い来るのは咥内に広がる胃液の苦味である。顎に入ったカウンターは吐き気と、一時的な三半規管の機能障害と言う重いハンディを負わせた様だ。立つ事すら容易では無い。剣を杖代わりに無理矢理立ち上がると、祐一が弾き飛ばされた刀を拾っている所だった。勝ち目どころか、命の保障すら危うい。
「訓練の時に俺は散々予行演習をしていたんだが、気が付かなかったのか」
 今日の昼間、五回目の手合わせの際に笑ったのはそう言う意味だったのだ。彼は私の一撃のタイミングを推し量っていたに違い無い。全てはこの一撃を決める、ただそれだけの為に。
「まあ、良いさ。俺が出来るのはここまでの様だ」
 祐一が片膝を付き、右手から刀が滑り落ちる。何を、彼は何を言っているのだろうか。
「もうそろそろ死なせろ」
「祐一、何を、言って、る」
 平衡感覚を失った私の足は、なかなか祐一の下へ行かせてはくれない。それが酷くもどかしく、恨めしい。一刻も早くと願うも、それは届かない。目測五メートルも離れてはいない筈なのに、遠い。
「俺は魔物と戦った最後の日に死んでるんだ」
「……!」
 声にならない。何を言葉として良いのかが分からない。
「今こうしている事自体が奇跡なんだよ。有償だけどな」
 咳き込み、鉄の臭気を帯びた粘性の液体を吐き出して言葉を続ける。
「右手の魔物は、舞が剣を棄てた事が許せなかったらしい。棄てろと言ったのは俺だけどさ、ともかく死ぬ筈だった俺を生かして目的を果たそうとした」
「……嘘」
「これで納得するのかどうかは知らん。それでも我慢してもらうさ、心臓に穴開けられたまま生きているのはしんどいんでね」
 祐一はあの日、数箇所の骨折と臓器を損傷した。その臓器と言うのが、心臓だったと言うのだろうか。彼は重力に従い、満身創痍の身体を仰向けに倒れさせた。胸の上下動がだんだん小さくなり、口からは鮮烈な紅色が零れる。体内から溢れ出る極彩色はそのまま彼の命そのものであり、刻限だ。
「おやすみ、舞」
 それが彼の最期の言葉となった。
 夜の学校に静寂が還る。赤色に装飾された祐一の身体が月明かりに照らされる。祐一が、死んでしまった。私のせいだ。祐一は動かない。眠っている様に安らかで、だが永久に目覚める事は無い。その時、私は迫害を受ける本当の理由を理解した気がした。私が持っているのは大切だと、守りたいと思うものを壊す力なのだ。
 今更悔やんだ。
 今更泣いた。
 今更、後悔した。
 佐祐理は私が撒き散らす災厄の本質を知っても、親友でいてくれるだろうか。堪らなく怖い。佐祐理に同じ様な事があった時、護り切れる自信など無い。私は、生きていてはいけない存在なのだ。
 剣を己の喉元に突き付ける。佐祐理と会えなくなるのは嫌だけれど、祐一の様に彼女が傷付くのはもっと嫌だった。佐祐理との思い出が、祐一との思い出が脳裏を駈ける。
「……っ」

 その日より、川澄 舞は町よりいなくなった。生きている、死んでいる、憶測ならば事欠かないが真相は誰も知らない。彼女の風評が悪かった為に悪い噂にも事欠かないが、やはり噂の域を出ない情報ばかりである。

ともあれ、彼女の親友だった倉田 佐祐理の仕事が一つ増えた事は確かだった。いつ帰ってきても良い様に、彼女の部屋を掃除する事である。左手に麻痺の残る彼女には少々きつい作業ではあるが、本人は苦にしていない。
 彼女は舞が生きている事を信じて疑わない。幾ら時間が掛かろうと、必ず戻って来てくれると思っている。何故、と彼女に聞くのは愚問であろう。
「舞とは親友ですから」
 彼女ならば、そう答えるに違いないのだから。