既に手の届く所に無い日々が
渇望して止まないあの光り輝く幼き日々が
容赦無く頭に浮かび上がる。
ズキリ
改めてまじまじと見る必要もない。
一度見れば理解出来る。
目の前の女は
ズキリ ズキリ
頭が疼く。
右手が疼く。
在る筈も無い感覚が脳に送られる。
ズキリ ズキリ ズキリ
端からおかしいとは思っていた。
何故、この街に自分が態々来なければならない程の事態が起こりえるのかと。
しかし成程と、今なら思える。
この娘がここにいるから。
ズキリ ズキリ ズキリ ズキリ
疼きを止める。
脈拍を制御する。
無駄な思考を遮断する。
再度、目前の女を見据えて
言葉には出来ない想いを反芻する。
『ひさしぶり なっちゃん』
「桐子、卯月。試合終わったのか?」
「どうも〜相沢さんに香里さん〜。試合はまだ始まってもいないですよ〜」
「「始まっていない?」」
「そうなんですよ。なんかちょっと変な雰囲気といいますか……」
「どうしたの? 何か凪君が変な事を口走ったとか?」
祐一と香里が北側の競技場に到着した時には、既に試合が開始されていてもおかしくない時刻であった。
その為、先に到着して試合を観戦していたであろう桐子と卯月に戦況を聞いてみたのだが。
「……確かに。止まってるというか固まってるな」
「ええ。卯月さん、何時からこの状態?」
「えっと。凪さんがリングに上がってからずっとです」
観客席から見ても様子がおかしいということが分かる。
先程から全くといっていいほど動かない人物が二人。
残された一人が固まっている二人を呆れた表情で眺めている。
「ど〜したんでしょうね〜」
「お前が言うと緊張感が零なんだが……でも確かにあれはなぁ」
「そうね。どうしたのかしら、凪君と」
整った眉を僅かに寄せて言葉を続ける。
「……石橋先生」
D
第12話
(なんでこんな朝早くから私程の実力者が予選なんかに出なければならないのですの
ちっともこれっぽちも理解が出来ないわ実施委員会の御馬鹿さんたちー
どうせ大した事無い奴なんでしょうからさっさととっとと終わらせて
甘味でも食したい所ですのになんでこの二人はさっきからちっとも動かないんですのー
そんなにこの薙刀で刺し殺されたいのですかーとっとと動かないと刺しますよー
ああああもう尻の穴からぶっ刺して差し上げましょうかぁぁぁぁ!)
と半ば暴走しそうな思考を理性を総動員して必死に堪えている聖木那美。
得物である薙刀を片手でクルクル回しながら、目の前で固まっている審判と対戦者を眺める表情は
既に怒り、呆れを通り越して、また怒りに戻ってきてしまっている。
怒りのゲージが可視化出来れば、間も無くゲージの限界を越える事が容易に分かるであろう。
「もし。石橋先生と対戦者さん?」
二人が固まってから幾度か声を掛けているが反応無し。
対戦者である小柄な青年は、気だるそうにリングに上がり那美を一瞥すると、瞳を閉じて微動だにしなくなった。
(私が美しいからと言って固まらないでくださいなー!
あそれとも瞳を閉じて私のあられもない姿を妄想しているのですね! やめてくださいましぃ!)
対戦者が固まった理由を勝手に妄想捏造し、益々不機嫌になっていく那美。
心なし薙刀の回転速度が上がっている。
その一方で、試合を始めるべき審判は対戦者の姿を見て、金魚の如く口をぱくぱくさせている。
(日頃から筋肉馬鹿だと思っていましたがとうとう脳まで筋肉になってしまったのですね!
若しくはヒトではなくなってしまったのですね! 言語を操れないなんて!)
と、憐れみの視線を審判に向ける。
終に怒りのゲージが限界まで溜まってしまったのか、
クルクルからグルグル、そしてギュルギュルへと薙刀の回転速度が急速に上がり唸りをあげる。
大根を近づければ、みじん切りにすることも可能かもしれない。
「あの! お二人さん! そろそ」
「な、なんで『Cutlas』がここに!?」
那美の怒号は石橋の驚愕に塗り潰される。
聞き慣れない『Cutlas』という単語に那美は眉を顰め、そう石橋に呼ばれた青年に眼を向ける。
青年の閉じられていた眼は開かれ、無表情に石橋を捕らえていた。
その横顔が何処か懐かしく、那美の眉間にはますます皺が寄っていく。
「まぁえーと、なんだ。イシバシ先生とやら。
俺はアンタのことなんて知らない上に、そんな訳の分からない名前で呼ばれたこともない。
人違いでしょうよ、申し訳ないが」
「だが」
「だがもしかしも無いですよ。そもそも俺がここに居るのは、あそこで高みの見物をしてる
暇人共に脅迫されているからですし、もしも俺がそんな名を冠する傭兵だったら……
こんな場所にいないでしょうよ。そうじゃないですか? イシバシ先生?」
そう言って、くいっと指を観客席の方へ向ける。
那美が釣られてそちらの方を一瞥すると、確かに暇そうにこちらを見ている知り合いとその友人らしき人が数人。
「……確かにお前の言う通り、傭兵ならこんなイベントには顔を出さずに仕事をしているだろうが。だがお前の顔は」
「まぁ人の記憶など当てには為らないですよ。記憶も突詰めれば、シナプス間の複雑なインタラクションですからねぇ……
それより、イシバシ先生」
「な、なんだ」
「いや、ほら。そろそろ始めないと俺より先に殺されますよ、彼女に」
「え゛」
青年の一言で、背中にこびり付く様な、五臓六腑を侵食していく様な殺気に気付き、
その発生源があるだろう背後を恐る恐る見やる石橋、三十五歳独身。
「筋肉馬鹿♪」
「……今侮辱されたような」
「先生♪」
殺気の発生源たる那美は壮絶な笑みを顔に貼り付け、石橋を呼ぶ。
その笑みは、見ただけで赤子を失神させ、ついでにトラウマを植えつける様な笑みであった事をここに記しておく。
この遺伝子レベルで恐怖を与える笑顔の仮面が石橋に試合の開始を要求し、
石橋が拒否する理由も忍耐力もある訳がなく
「すまん! すぐに始めるから、刃をこちらに向けるな、な? って何故ににじり寄ってくるぅぅぅ!?」
娘と言っても差し支えない年齢の生徒に対して、恥も外聞もなく謝り倒し、且つ脅されていた。
哀れ石橋、三十五歳独身。
「まぁいいでしょう。ところで、貴方のお名前は? 対戦者さん」
「名乗るほどの者で」
那美の質問に対し、さらりとボケをかまそうとするチャレンジングで無謀な青年。
皆まで言わせず、間合を詰めて薙刀の刃が青年の鼻先を掠めた。
青年は「ホールドアップ」と肩を竦め、両手を挙げたまま、おどけた風に続ける。
「…分かったよ。凪龍平だ。あんたは?」
「私の名を知らないんですか? 貴方本当にここの生徒?」
心外ですわ。
言葉にしないまでも、鋭い視線が龍平にそう語る。
袴に手をかけ、袴の皺や乱れを直しながら、龍平の問に応える。
「聖木那美ですわ。自己紹介も終わりましたし、もう始めても宜しいでしょうね」
「ああ、お手柔らかに」
「それは無理ですわ。だって……」
頃合を見計らい、石橋がここに試合の開始を宣言する。
「はじめっ!」
「一瞬で終わらせてあげますから!」
袴の裾を翻し、リングに砂埃を撒き散らさんばかりに、那美が一直線に跳躍した。
To be continued...