『諸葛亮此処にあり』。
袁家から発表されたその報を耳にして、最初教経は眉を顰(ひそ)めた。
――恥知らずめが、よく言う。
心中でそう吐き捨てて。
そうではないか。
これまで袁家が紛いなりにも平家とやり合ってこれたのは、偏に諸葛亮の尽力によるものだ。
そして諸葛亮は、刀折れ矢尽きて、平家に囚われた。
その諸葛亮を、これから始まる戦の勝利する為に切り捨てた、と云うことに他ならない。
『諸葛亮』が平家に敗れ、囚われたという状況では士気が奮わない。
それを見越して、そして『諸葛亮』が登用されるかも知れないと云う予断を含ませる為にも孔明を生かして置いたのだが、それを偽物と断じることで不安を払拭しようと云うのだろう。
此処に居る諸葛亮を切り捨てる事。
それ自体は良い。
もし教経があちら側の人間であったならば、十全の状態で戦う為に、諸葛亮が生かされていることを承知の上で、『諸葛亮』は平家に殺されたと喪を発し、此方が諸葛亮生存を公表しようと偽物であると断じ、袁家を宰領していた『諸葛亮』は死んだのだという態度を一貫して採って、復仇心を保ったまま戦に突入させる。
そうであるならば、良かった。
それであればその行蔵に矛盾はない。
だが彼らはやり方は違う。
『諸葛亮』という名声を利用する点では教経が思いつくであろう方法と何ら変わりは無い。
だが、諸葛亮という人間が、死んだのでは無く、別に居たのだというやり方は何ともすっきりせず、苛つかせるやり方だった。
――それが有効なのは認めてやる。
認めるが、釈然としない。
筋が通っていない。
腔内に何とも言えぬ、唾を吐き捨てたくなるような苦みのようなものが広がる。
教経にとっては、気に入らない。
人を否定する際、お前はもう死んだのだ、と云うやり方は、確かにその者の存在を否定しているには違いないが、それは『今』その者は居ないという事を主張しているだけであり、過去その者が確かに、その者として存在していたのだと云うことは認め、受け入れている。
だが、『此処に本物が居る』というやり方、つまり代替となる存在を以て人を否定する場合は、過去・現在・未来の全ての時間軸上からその者の存在を消し去らるやり方に他ならない。
自分達が過去確かに助けられた彼女の存在自体を無かったことに、彼女の功も積みも全てを無かったことにして彼女自身を消し去らんとする、その忘恩甚だしいやり方が心底気に入らない。
何とも阿呆なことを思いついたものだと思ったし、これを思いついた奴も認めた奴もろくでなしだと心中悪態を吐いていた。
そして教経の眼前に控えている者達もまた、面白くないという感情をその貌に露わにしていた。
特に雛里は、無いことに非常に厳しい貌で、そしてはっきりとした口調で劉備と袁紹を非難していた。
何の為に孔明が戦ってきたのか。
何の為に彼女が独りになってまで戦ってきたのか。
何故孔明の心中を慮ることが出来ないのか。
何故、彼女自身が『なかった』ことにされなければならないのか。
その目には涙がうっすらと浮かんでいたように見えた。
その言に、大凡全ての人間が頷いていた。
孔明の報われなさ加減は異常である。
誰もが、そう感じていたのだ。
しかしその一方で、
――これは天恵か。
とも教経は考えていた。
このことが召と孔明とが迎えている状況に良い変化を齎すに違いないという、半ば確信に近い想いを抱いていた。
「ほんで?このことを聞かせる為だけにウチらを態々集めたっちゅう訳でもないんやろ?」
各々が一頻り己の感情や思考を整理したであろう時機を見計らって、霞が教経に視線を向けながら発言する。
その霞の視線に引きずられるように皆が教経の貌を見つめてくる中、
「ああ、そうだ」
と、教経はそれに応じた。
「これは良い機会だ。俺はそう思っている」
「良い機会?」
「ああ」
一つ頷いて、教経は続ける。
先頃ベン池にて対峙し、俘虜として得た有能な人材について、最悪の場合これを討ち果たす事は致し方ないと思っていた。
なぜなら、彼女こそが『諸葛亮』であると考えて居たからだ。
袁家にとって『諸葛亮』とは特別な存在であり、そうであればこそその扱いには気を使う必要があると考えて居た。
つまり世間がそれを許さぬ場合、これを登用することはせず、殺すことを念頭に置いていた。
だが教経にとって幸いなことに、彼が対峙し、激闘の末に虜囚とした手強い敵、この乱世における恐らく最後の好敵手とも言える存在は、なんと巷に名高い『諸葛亮』ではなかったらしい。
そして麗王朝がその身柄を引き取るべく交渉にやって来ない事から考えて、この好敵手は弊履の如く打ち捨てられたと言って良い状況である。
「であれば、この虜囚をどう扱おうと、それは俺の一存で決めて構わない筈だ。
違うか?」
「いやぁ、相変わらず経ちゃんは好き勝手言うてくれるなぁ。
そう云う大義名分を振りかざされたら、それが嘘やっちゅうことがわかっとっても受け容れざるをえん人間が殆どやろうな。
……で、本音ん処は?」
「有能な人間は須く俺のものだ。
俺が楽をする為に、俺の為に精々働いて貰う。
俺にはそれが許されるはずだし、こうなったことで建前も手に入れることが出来た訳だ。
である以上、俺の主張は許されるべき事であると思うが?」
――大体三国志を良く知っている人間が、諸葛亮を登用する機会を得て、それを試みないなんてことがある訳が無いだろう。
心中で思ったその事は口にせず、、教経は文武の官の最上席に位置している星と稟とを交互に見やった。
「……それは許される事である、と思います」
「主の仰る通りでしょう」
教経の視線を受けてそう答えた二人の応えに一つ頷いて、言葉を続けた。
「故に俺はアレを登用する」
「ふむ〜。
登用する、は構いませんが、お兄さん、説得出来ますか〜?
どうやら昔日よりの友人である雛里ちゃんや吉里ちゃんが説得しても靡かなかったようですが〜」
登用するとの言葉に、風が糸目でそう教経に尋ねる。
「知らん。
どうなるかは先方に聞いてくれ。
ただ、俺は全く勝ち目が無いとは思っていないんだよ。
今、俺が、説得を行えば、だがね」
風は自信ありげにそう言い切った教経を暫く見つめた後、それなら良いのです、と言った。
一応だが、教経には成算らしきものがある。
諸葛亮が雛里の説得に応じることがなかったのは、諸葛亮が『諸葛亮』であるという一点において、それを隠したり否定したりすることが出来なかったからだ。
彼女が『諸葛亮』であるが故に、如何ともしがたい状況に陥っていた。
それが崩れ去った以上、後は自分と諸葛亮との間での遣り取り次第でどうにでもなるだろう。
そして、彼女を登用するに与える予定の地位は、恐らく今の彼女にとっては魅力的に映るだろう。
決して権勢を持つ地位とは言えない。
だが、この国の将来のことを考えれば、これ以上の影響力を有し、将来を描く事が出来る地位は他にない。
それを提示して、そのように説得するつもりであった。
平家に囚われてから、もう二十日程が経過した。
朱里は与えられた陣屋に、独り瞑目して座っていた。
これまで雛里や吉里が様子を見に来てくれていたが、最初に誘われて以降一度も勧誘は受けなかった。
それに応じられる立場にない自分に対してそれを言っても仕方が無いし、お互いに未練を思い起こさせる事にも繋がる。
それを避ける為に、勧誘をしないのだということが、朱里にはよく分かった。
自分の真意や現状がどんなものであるのか、完全に理解してくれている二人は、本当に自分に良く気を使ってくれていると思う。
――自分には過ぎた友人達だ。
そう、思う。
そしてそれが過去のものに成り果てるまで、もうあと僅かなのだと朱里は寂しく思った。
何故なら、今朝方いつものように自分の様子を確かめに来た二人から、平教経と面語して貰う事になった、と聞かされていたからだ。
自分はなんと言われても、『諸葛亮』であることを捨てることは出来ないだろう。
そして民は、平家の敵としての象徴である『諸葛亮』が存在することを、決して許すことは無いだろう。
それは即ち、時代が自らの死をこそ臨んでいると言うことに他ならない。
そしてそれに抗うことは、将来のことを思えば差し控えるべきであることは自明であった。
外から聞こえてくる、そして徐々に近付いてくるざわめきを耳にしながら、静かにその秋を待っていた。
平教経が陣屋の入り口に掛かった布をその手で除けながら、先頭に立って室内へ入って来た。
その後ろには、雛里と吉里の二人が揃って従っている。
平教経のことは良く知らないが、何の気負いもない自然な様子であるように感じた。
後ろに従う二人は、少し緊張している様子であったけれども。
その二人の緊張した様が、これから彼が何を言うのかを容易に推測させる。
平教経はそのまま歩みを止めることなく、朱里の目の前までやってきて、腰に差した剣を鞘ごと引き抜いて両足の間に据え、それを杖のように地面に付けながら床几に腰掛けた。
そのまま、陣屋の中を静寂が支配する。
外から、風に煽られた旗がたなびく音が聞こえていた。
「待たせたか?」
「いえ」
さてどう声を掛けて来たものかと様子を窺っていた朱里に対して、平教経は飽くまで気軽であった。
「先の戦で武運拙く敗れ、こうして虜囚となっている訳だが、その点についてどう思う?」
気軽ではあったが、少々皮肉っぽい貌をしてこういう質問をしてくる辺り、一代で、しかも短期間で急速にのし上がってきただけ在って、人間的な灰汁(あく)は強そうであった。
言葉を発してから薄く、そして恐らく態(わざ)と浮かべているのであろう、嫌らしい笑みを浮かべている平教経に、努めて冷静に、
「致し方のないことでしょう。彼方と此方の差を埋め合わせるだけの才が私に無かったと言うだけのことです」
と言葉を返した。
そう答えた朱里に対する平教経の応えは、朱里の予想とは違って、
「ふむ、意外に傲慢だな」
と云うものであった。
「そうですか?」
「ああ、傲慢だ。お前さん一人の才で状況を覆すことが出来ると思っている辺りが、な」
「……」
確かにそれを口にすることが傲慢と呼ばれるに値するとしても、一方でそれは確かな事実では無かったか。
傲慢な物言いが事実を言い表せているのであれば、それは最早傲慢な物言いでは無く真実の吐露に過ぎない。
それを傲慢、と言い切られるのは、少々朱里の癪に障った。
「そうでしょうか。事実を言い表せていると思いますが」
「お前さん一人で状況を覆すことが出来る、と云うなら同意はしてやるさ。
まぁ、現実にはお前さんは負けた訳だが、それでもひっくり返せる所までは来ていたのは間違いない。
だが、お前さん一人の『才』で状況を覆すことが出来る、と云うのは果たしてどうだろうな?」
抗弁した朱里に対して、平教経は何故か嬉しそうにそう応じて来る。
「同じ事でしょう」
「違う、と思うがね。
優秀な頭脳も、その企画を企画通りに実行出来る手足があってこそだろう?
……まぁ、良い。此処でその辺りを論じたところで何の解決にもならん」
右手の人差し指と中指とで、でその顎を摩りながらそういった平教経は表情を改める。
どうやら彼は、最初から決定的な『何か』を投げかけるつもりであるらしい。
――さて、なんと言ってくるのか。
これが最期になるであろうが、曹操や孫策が認め、また自分も認めている時代を代表する一人の大器であるに違いない人物と、知恵を絞って言葉を交わす事が出来ると云うのは、このような状況にあっても朱里にとっては愉しみであった。
そしてその朱里に対して平教経が言った言葉は、
「で、そろそろ本名を明かす気になったか?」
であった。
――流石に面食らって居るようだな。
眼前でやや呆気にとられた諸葛亮を見ながら、それならばまずは成功と言って良いんだが、と教経は内心で呟いた。
現状の諸葛亮がどういう状況にあるのかを推し量るには、先ず相手のペースを乱さなければならない。
どうやら演義以上のチート様らしい諸葛亮が、平常心で表情を出さぬように努めた場合、その内心を教経が推し量るのは非常に難しい。
が、動揺を誘うなり、気安い雰囲気を作るなり、とにかく内心が表情に僅かでも出てくれるようであれば話は変わってくる。
無論、驚いたことで思いも寄らない事を口走ったり、此方の意図している処を誤解したりすることもあるのだろうが、教経としては、たとえ一時驚いたとしても今の諸葛亮ならば容易く教経が言いたいことを察することができるであろうと思っていた。
教経を見据えている目には、彼女を捕らえた際に雛里と吉里から報告されていたゾッとさせられるような空虚さは既になく、并州で初めて見(まみ)えた時と近い雰囲気を感じ取ることが出来たからだ。
「……どういうつもりでしょうか、と言っても?」
「構わんよ。まぁ、お前さんにとっては面白くない話になるのかも知れないがね」
「構いません」
「ふむ……実は俺が対峙したお前さんは諸葛亮であって諸葛亮ではない、と袁家の連中が頻りに宣伝をしていてなぁ」
教経がそう言った刹那、諸葛亮の目に浮かんだのは理解の色であった。
その前にほんの僅かだけ、微かに浮かんだ感情の色があったが、それがどういう感情の色であったか、教経には判別出来なかった。
「……そうですか」
「あぁ。
つまり、お前さんは何処の誰だか分からない、袁家の宿将『諸葛亮』を演じていた唯の一武将に過ぎないことが判明してな」
「敢えてその話に乗る、と?
世間は騙せても家中は騙せますまいに」
「何も騙す必要はない。
俺が見、感じ、述べることが、即ち国の見解、所感、布告となる。
後は知らず、少なくとも一代で国を興した俺に限ってはそれは正しいと思うがね。
いずれ全土を掌中に収めることを思えば、世間も家中も俺の主張をを認めざるをえん」
「それを繰り返せば道を誤ることになるでしょう。蟻の一穴になりかねませんが?」
「俺にとっても民にとっても幸福なことに、そうなる前に嫁さんにどやされることになるだろうさ。こわい嫁が多いからな」
「怖い、ですか」
「そっちじゃなく、『強い』の方があらゆる意味で相応しかろうが……まあ、俺と嫁さんの心暖まる話は置いておいて、だ」
話が脱線しそうになったのを修正すべく、一旦言葉を切って続ける。
「お前さんが『諸葛亮』でないなら、俺に使われる気はないか。俺ならお前さんを使いこなせるとは言わんが、今より遥かにマシだろう」
「……それは」
「覇権を賭けて戦い、勝った方が中華を、この時代を好きにする権利を得ると云うのが暗黙の了解であったと思うが、それは俺の勘違いかね?」
「……いえ、私もそう考えていました」
「ならば問題あるまい?
俺は俺に与えられた当然の権利を行使しようと云うだけだ。
この時代、この中華に生まれた以上、お前さんは俺のものだ。好きにできる対象には、当然俺達自身も含まれる訳だからな。
俺の願望は叶えられなければならないのではないかね?
少なくとも当事者の一方であるお前さんが出来ることであれば、そうなるように努めてみせるのがお前さんの義務ですらあると思うが」
「そこまで言い切られると反論したくなるのですが?」
「してくれて一向に構わんが?」
「……止めておきます」
「まぁ、それが賢明だろう。思っても居ないことを並べ立てるのは時間の無駄でしか無いからな」
そう言うと、諸葛亮は小さく溜息を吐いた。
その貌には、苦笑が浮かんでいる。
――分かっていることだろうに。
諸葛亮も教経も、そう云うものであると云うことは分かっている。
分かっていて、敢えて反論を試みるというのは、只の徒労に過ぎない。
何故なら、既に自分自身が納得してしまっているからだ。
自分が『ああ、そうだな』と納得してしまっているものを、自ら覆すことは難しい。
結局相手の正しさを認めざるを得なくなるだけだ。
それに時間を費やして、あわよくば自分の納得感も含めて、全て無かったことにならないか等と起こりもしない事態が発生することを漫然と期待して反論をするなど、理知的な人間のすることでは無い。
「兎に角、俺の目の前に居るお前さんは、『諸葛亮』では無い訳だ。
麗にとっても、そして勿論召にとってもだ。
であれば、俺がお前さん程の才幹を有する人間を勧誘しない理由が在るまい?」
「……試みに問いますが、私に何をさせようというのですか?」
――来たな。
諸葛亮の反応に、魚が仕掛けに掛かった時に釣り人が覚える様な興を覚えた。
ここからが、教経の腕の見せ所であった。
「そうさな」
平静を装ってそう言った後、一拍置いて、
「人を、いや、国を育てて貰おうか」
と、ニヤリと笑いながら言った。
『人を、いや、国を育てて貰おうか』。
その言葉を耳にして、最初に朱里の胸に去来したのは純粋な驚きであった。
今の平教経の発言から、彼の思想の一部が知れた思いがしたからだ。
つまり国という器があり、そこに人を当てはめるのではなく、人を束ねて国を作るという教経の発想は、中々に新鮮なものがあったからだ。
これまで中華にあった王朝を模倣するのではなく、全く新しい何かを創り上げようと云う心算であることまで、朱里には分かった。
「質問させて頂けますか?」
「ああ」
「国を育てる、とはどういうことです?」
「その言葉の儘さ。国家の礎を創り上げて貰おう」
「国家の礎とは?」
「先も言ったが、人だ。
人こそが国家にとって欠くべからざる貴重な資源だ。
金と物資を幾らため込んでも、有能な人間は育たない。
だが有能な人間は金と物資を生み出すことが出来る。
どちらが優先されるべきか、自ずと知れた事だろう。
そして金も物資も、それを使う器量がある人物が居て初めて有効に活かされる。
活かされた金や物資は国を発展させることだろう。
つまり、人を育てれば、それが即ち国を育てることに繋がると言っても過言ではあるまい」
国家の礎は人である。
そう、平教経は言っている。
そしてそれは、朱里の思うところでもあった。
しかし、育てる、とはどういうことなのか。
「……どう、育てるのです」
「俺はな、来る天下で科挙を行うつもりだ」
「科挙、ですか」
「そうだ。
全国で試験を行い、有能な人材をかき集め、それらを束ねて行政機関を創り上げる。
だが……」
そう口にした平教経が、首を横に振る。
足りない、と。
その表情がその思いを雄弁に語っていた。
「……」
「だが、それでは十分とは言えない。
野に在る有為の人材をただ捜し求めるだけでは、この中華にある才能をかき集めたとは言えないだろう。
才ある者には、自ずから伸ばす者と人によって伸ばされる者と、二種類の者がある。
自ずから伸ばす者だけを集めたのでは、片手落ちと言わざるを得ない。
人によって伸ばされる者の中から、俺、はまぁ正直たいしたことは無いから置いておくとしても、ウチの軍師連中やお前さんのような存在が出てこないとは限るまい」
目の前で持論を述べる平教経の言葉に、熱が籠もっているのを朱里は感じた。
今この瞬間に、この平教経という人が述べていることは、恐らく彼の本心であるだろう。
「故に、大学を創る」
「大学?」
「そうだ。
惜しくも科挙突破が叶わなかった者達で、一定の基準を満たしている人間を選抜し、彼らを教え育てる機関だ。
郷里の有力者に推薦させ、確かに見所がある者達を育て上げる為の機関でもある。
大学で国家を運営する術(すべ)を教え込み、彼らを官僚として登用することで円滑な王朝の運営を行う。
それを目的として大学を設け、人を、国家が育成するんだ」
語る声は然程大きくなく、滔々と紡がれるその言葉は、彼がその旨の内に抱いている情熱とも言える想いに満ちていた。
「そしてその大学の責任者に、お前さんを任じたい」
そう言って口を閉ざして此方を見据えてくるその目に、抗いがたいものを感じた。
しかし、ここでそれを肯定するには、決定的な何かが足りなかった。
それは朱里がこだわっている『諸葛亮』としての業であるのか、はたまたそれ以外のものであるのかは不明瞭ではあるが、はいそうですかと受け容れる事は未だ出来ない。
平教経に従うなら、従うだけの何かが。
己という存在を捨て去るだけの何かが、決定的に足りない。
目の前の男に才幹があることは十二分に思い知らされた。
が、朱里は目の前の男がどういう人であるかを確かには知らない。
何を思い、何を望み、何を為そうとしているのか。
それを本人の口から聞いたことは一度としてない。
それが分からぬ以上迂闊なことは言えぬと思っていた。
死にゆく人間が先に繋がることを知る必要は無い。
己が考えて居ることが、既に死人のそれでは無くなってしまっていることを自覚せぬままに、朱里は言葉を紡ぐ。
「何故私に、そのような国家の将来を担う仕事を任せるのです?」
「何故、ね」
そう一言口にして、平教経は一度口を閉じ少し考えるような様であったが、直ぐにその理由に思い立ったらしく、一つ頷いて答えを口にした。
「ふむ……信じて居るから、だな」
「私を、ですか?」
この短時間で、朱里を信頼するに足ると判断した、と云うのであれば、それは妄言も良いところだ。
そのように己の言葉に責任が持てない人間であるのなら、抑(そもそ)も人として尊敬に値しない。
そう考えて、己に打ち勝って見せた平教経と云う人の器量に失望しかけた。
「いいや」
発せられた否定の言葉に、改めて平教経に目を向ける。
では何を、と考えてそれを目で問い掛ける前に、彼が発した言葉は、
「俺の目を、だ」
と云うものであった。
それは、独善的とも言える回答であった。
しかしその回答は、これまで敵として向かい合ってきたこの眼前の男が為す回答として、最も相応しいもののように朱里には感じられる。
これが並の人間であるならば、朱里の才幹について言及し、朱里のみの為にもなるからと、お為ごかしを抜かす事もあるだろう。
もしそうであるならば、それは朱里にとっては取るに足りない答えでしか無い。
だが、自分の目を信じているから、というその答えは、何とも新鮮で、心地よく、そしてこの男はそうあるべきだろうという、納得感を朱里に齎していた。
そしてこの教経の回答は、朱里の外面にも劇的な変化を齎していたらしい。
見れば、平教経が呆気にとられたような顔で朱里を見つめていた。
「どうかなさいましたか?」
平教経の顔を見て不審に思い、何かあったかと思いつつ質問した。
見れば平教経の横に控えている二人の親友は、その貌に驚きを露わにしていた。
一体何が、と重ねて疑問を抱いた朱里に対して、
「いや、お前さん、気がついていないのか?」
と教経が応じた。
「気付く?」
「ああ」
「何にです」
教経の発言に、今一つピンと来なかった朱里が再度問いかけると、教経が少し呆れ気味に答えた。
「……お前さん、今笑ってるぜ?」
そう言われて初めて、朱里は自分の表情に気が付いた。
確かに、今、自分は笑っている。
それは、先程の回答に、好感を抱いたことが原因であるだろう。
平教経の言動は非常に彼らしいと感じることが出来る。
其処に嫌悪は感じない。
その器量は、己に打ち勝って見せたことで実証されている。
嘗て自分が思い描き、胸中に掻き抱いていた、夢。
もう二度と手に入れることは無いだろうと諦めきってしまっていた、自分の夢。
その夢を実現出来たであろう人物が、今己の目の前に、手の届く所にいる。
そしてその人物が自分に提示して見せた、自分に与えんとしている仕事は、その難易度から見ても規模から見ても、正しく女子一生の仕事と云うに相応しい仕事であった。
この誘いを受け入れたい、と、そう願っている自分が確かに此処に居た。
そう云う心情が芽生えていることに、驚きを感じる。
だが、しかし。
考えて、表情を引き締める。
魅力的ではあるが、同時に、どうしてもそれを素直に受け入れようと声を上げることが出来なかった。
喩え自分が『諸葛亮』と云う名の呪縛から解放されることになったとはいえ、今まで自分が行ってきたことを無かったことにはどうしても出来なかった。
それは、浅ましい考えではないか。
少々自分に対して甘い考えではないか。
そんなことが、許されるはずが無いではないか。
いや、他でもない自分が、この自分を許して良いはずが無いではないか。
「……失礼しました」
「いや、別に構わんがね」
「いえ、取るべきで無い態度でした。
失礼しました」
言葉を交わしながら、目を閉じ、浮かべていた笑みを収めて、もう一度自分を平静な状態にする。
何とも面倒な人間だと自分でも思うが、やはりけじめというものは付けなければならない。
己の行為に責任を持たぬ人間には、なりたくなかった。
「答えですが」
「ああ」
「お答えした方が宜しいですか?」
「そうだな」
「お断りしようと思います」
「それは、何故?」
「私が今までにやってきたことをご存知でしょう。
貴方を暗殺せんとして刺客を放ち、平家の力を殺(そ)がんと伴侶を亡き者にする為に民を殲滅しようとしてきたのです。
それらについて、何の責も負わぬという訳にはいかないと思います」
この言葉で、恐らく平教経は理解出来る筈だ。
私は自らの行いに対して、責を負うべきであるのだ。
だからこそ、彼の提案を受ける訳にはいかない。
こう云えば、全てを察することが出来る筈。
私は、断罪されなければならないのだから。
そう思っていた朱里に対して平教経は、
「……何の責だね?」
と返してきた。
先の言葉で全て理解出来ているはずの平教経は、しかしまだ朱里に対して云いたいことがある様であった。
「……何の責だね?」
――さて、ここからが正念場なんだろうな。
そう、教経は思う。
今の今まで為されてきた会話。
言葉によって互いの意思を疎通させてきた、その道程が。
それが、相手の真情を教経に教える。
諸葛亮の発している、『責を負う』、いう言葉が含んでいる意味合いを。
『何が何でも罰せられなければならない』。
そう、この目の前の少女は思っているのだろう。
そしてその考えは、教経に拠れば、間違っている。
だからこそ、話をしなければならない。
「え?」
「だから、何の責を負う、と云うのかね?」
「私は私の思うところの正義に従って、他者の命を恣(ほしいまま)にしてきたのです。
ですから、その責を負う必要があります」
「それなら俺も同じ様に責を負うべきだろう」
「私と貴方とが負うべき責の、何が同じだというのです」
「そんなもの、考えるまでも無かろうが。
同じだ。
戦の無い、誰もが平凡な人生を歩める様な世の中を作りたいと抜かしながら率先して戦を仕掛け、
家族だ何だと云いながら俺は結局兵を死地に向かわせ、
戦で死んでいった者達を悼みながら、また次の戦のことを考えてきた。
そしてお前さんを下したことで、漸く戦が無くなろうとしていることに安堵をしながら、どこかで戦が無くなることに寂しさを覚えている。
これを恣にしていると云わずしてなんと表現するつもりだね?
同じだよ。
何も変わりはしないじゃないか。
お前さんと同じだろうが」
「ですがその行いは、確かに民を、そして国を救うことになります」
「そうだな。
そしてそれはお前さんが勝っていたとしても同じはずだ」
「……ですが私は負け、貴方は勝った」
「だから俺は何の責も負わなくとも良いと?
俺が勝者で有り続けさえすれば、何の責も負うことが無い、と云うのか?
何の責を負うことも無く、恣にし続けても構わないと?
己が欲求に従って、全ての事象を、人を、命を、この俺の恣にしても構わないと?」
「それは……」
「そう、違う。
そんなことが許されるはずが無い」
諸葛亮の言葉を待たず、そう断ずる。
「俺にはこの先の世を、正しく俺が思い描いてきた、そして世の人々がそう云う世を作ってくれるだろうと信じてきた世界に近づける為に努力する責がある。
それがこれまで俺がやってきたことによって死んでいった者達に対して、俺がしてやれる唯一つのことだ。
そう云う世を作らんと努力を積み重ねることが、俺が負うべき責というものだろう」
その教経の言葉に、諸葛亮は教経が言わんとしていることを察してか、神妙な貌をした。
「翻ってお前さんを見れば、どうだ?
お前さんは『責を負う』と口にするが、その実お前さんが真に望んでいるのは断罪じゃないか。
俺は、お前さんを哀れんで情けを掛けてやろうって訳じゃ無いんだよ。
勿論そう云う気持ちだって幾分はあるが、そんなモノは枝葉に過ぎないんだよ。
お前さんは、お前さんの才を以て、責を果たすべきだ。
お前さんの才は、この先の世を作るのに大いに役に立つ。
そう考えているんだよ、他でもない、この俺が。
その俺がお前さんに押しつけてやろうとしている責から逃げるんなんざあり得ないだろうが。
断罪されたい?
大いに結構だ。
だが結局それは逃げでしか無いだろうが。
いや、唯の甘えでしか無いじゃあないか。
お前さんには、確かに果たせる責があるんだよ。
この先の世で。
この先の世の為に果たせる責が、お前さんの才を以て果たせる、いや、果たすべき責が確かにあるんだよ。
それが目の前に転がっているのに何故それから逃げる?
どうしてここまで来てその責から逃れようとする?
それは、少々甘いんじゃないかね?」
逃げるんじゃない。
楽になりたいなんて、そんなことが許されるはずが無いじゃないか。
目の前で静かに目を込めた諸葛亮に向けて、想いを届ける為に言葉を紡ぐ。
「お前さんが自分のことをどう思っているのかなんざ知ったことじゃない。
ただなぁ、お前さんの才は、確かに、今、ここに存在しているんだよ。
その才がどれほどの広がりと、そしてどれほどの深みとを備えているかは分からんが、それでも巨大なモノだろうって事だけは分かっているんだよ。
天が、それ程の人材を生ぜしめた訳だ。
そこには必ず要があるはずだ。
必要だからお前さんはこの時代に生を受けた。
俺の当て馬として袁家を宰領するだなんてちっぽけな、そんなくだらない糞みたいなことをする為だけに生まれてきたはずがある訳が無い。
お前さんの才は、もっと大きな事、世人の役に立つ為に生じたに違いないんだよ」
そこまで語って、一旦口説を止めて一息入れる。
孔明は、未だその目を閉じたままだ。
――少し熱くなりすぎたかもな。
しかし。
構わず、続ける。
思っていることを、思っている通りに、口にする。
「お前さんが憧れ、肖りたいと思っている人物は管仲と楽毅だろう。
その二人は名臣であり、また忠臣でもあったが、片や最初からそうであった訳ではなく、もう一人も最期までそうあった訳ではあるまい。
二人とも、前半と後半とで仕える相手が違っているがな。
特にお前さんが強く意識している管仲は、お前さんと同じような略歴を辿っている。
仕えている主から信用されても信頼されず、それでも斉公になるに対抗馬となる公子小白を殺さんと一人で策を練り、成功したと油断した結果足を掬われた。
その足を掬ったのは、公子小白の下に居た親友である鮑叔であり、これと管鮑の交わりと呼ばれる程の友誼を持っていた。
そして管仲は鮑叔によって桓公に引き合わされ、その去就を定めることとなった訳だ。
……俺が何を言わんとしているか、聡明なお前さんには分かるだろう?」
管仲の下りで目をそっと見開き、それから食い入るようにして此方を見つめてくる諸葛亮に手応えを覚える。
もしこの機会を逃せば、諸葛亮は死ぬだろう。
近い将来この国で最大の権力を持つであろう人間の要望を素気なく断った人間の居場所が、中華にあろう筈も無い。
諸葛亮を生かしてやる機会は、此処しか無い。
その想いで、畳み掛けるように言葉を継いだ。
「管仲が桓公を殺せなかったのは、言わば天意だろう。
毒矢で確かに射貫いたのだから、死んでいるのが当たり前だ。
だが、死んでいなかった。
その鏃が帯鈎(たいこう)に当たっていたからだ。
万全とは云えぬにしても周到に、出来る限りの準備を尽して殺そうとし、襲撃自体が成功したにも拘わらず終に桓公を殺せなかった。
これを天意と云わずして何を天意というのか。
そしてそれは、逆もまた然りだ。
生きようとしても天意に沿わなければ死ぬのでは無いか?」
眉を顰め、今一つ教経の発言の真意を掴み損ねている様子の諸葛亮に、更に言葉を重ねる。
「無理に死ななくても、天がそれを許さぬなら天に殺されるんじゃ無いかって事だ。
自ら己を裁かずとも、天意によって滅せられるのではないかね?
ならば理屈は一旦脇に置いておいて、生きてみてはどうかね?」
そう口にすると、教経の言わんとする逆説の意を掴んだのであろう、諸葛亮の表情が平静のそれに戻った。
そしてそのまま、再び俯いてその面を教経の視線から遮った。
「生きてみたとして、そして幸いにもそれが天意に沿っていたとしても、俺にはお前さんを管仲と同じように登用することは出来ない。
お前さんも管仲と同じように天下に功名を顕わすことは出来ないだろう。
だが俺がお前さんに与える仕事は、顕彰されることが無いだけで、この国の将来を大きく左右するものだ。
お前さんが、国家の根幹となる『人』と云う最も重要な資源を、お前さんが死んだ後もずっと送り出し続けるんだ」
「……」
「管仲は国を富ませ賢俊を推挙したが、後進を自ら育てることが出来ず、結果斉はその覇権を一代限りで晋に譲り渡すことになった。
跡目争いが原因とはいえ、佞臣共に牛耳られる程度の人物しか育っていなかったことがやはり一番の問題だろうよ。
だからお前さんは、後進を育てるんだ。
権力に阿(おもね)らず、朋輩を妬まず、必要とあれば皇帝にさえ強諫してみせる管晏の如き社稷の臣を。
そうして、管仲を越えて見せろ。
俺が思うに、それこそがお前さんという才が生じた要に違いないんだよ」
言い切って、教経はホッと息を吐き出した。
そのまま静かに、諸葛亮の出方を待つ。
言いたいことを言った。
そして恐らく、自分が伝えたいことは全部伝わったはずだ。
此処で教経が急かしたところで、出る結論が変わるはずが無い。
断を下すのは諸葛亮でしかなく、その諸葛亮が今目の前で考えを巡らせている以上、教経に出来るのは邪魔をせずに待ってやることだけだと、そう思っているからだ。
左右を見れば、雛里がジッとと、そして吉里は教経と諸葛亮とを交互に、それぞれ見つめている。
彼女らにしても、此処が親友の生死の切所であることが分かっているからこその態度だろう。
教経としては、何故吉里が此方をちらちら見やってくるのかがよく分からないところではあったが。
どれほどの時間、そうしていたのか分からない。
ふと、諸葛亮がその面を上げた。
話し始める前に聞こえていたはずの、平家の旗が風にたなびく音は、いつの間にか已(や)んでいた。
それは、諸葛亮の内心に渦巻いているはずの葛藤が已んだことを象徴しているようであった。
そしてそれを確信させる静かな、しかし確かに明るい意思が、その瞳に宿っていることを教経は感じた。
陣屋を支配する静寂の中、吉里の目の前に居る朱里は、ずっと思い巡らせている様子であった。
その朱里を前に、教経もまた静かに彼女が口を開くのを待っている。
――逃げるな。断罪されたいと云う想いは甘えだ、か。
厳しい言葉だと思う。
自分では、重責を担い、ずっと一人で歩みを進めてきた朱里に対して、そんな言葉を吐けなかった。
しかし教経は、その言葉を目の前で軽々と放って見せた。
恐らく、教経とて吉里と同じように、朱里の心情や境遇が分かっているにも拘わらず、だ。
そして朱里にとっては、それは必要な弾劾であっただろう。
『殺されなければならない』。
そう、確かに朱里は言っていたのだ。
世論がそれを許さないからと言っていたが、それは建前であり、本心自分がそれを望んでいるからでは無いか。
そしてそれは、責を負うとは言えないのでは無いか。
そう教経は主張したのだ。
そしてそれは正しいだろう。
吉里が思うところに拠れば、朱里が言っていることも正しい。
しかし、教経が言っていることもまた正しい。
これらのことは、背反しているようであるが、二つながらにして正しい。
物事をどのように捉えるか。
ある一つのモノが目の前にあった時に、それをどう眺めるのか。
切ってその切り口を見るにしても、どう切って、そしてどの角度からその断面を眺めるのか。
縦に切るのか。
横に切るのか。
斜めに切るのか。
上から見るのか。
横から見るのか。
将又(はたまた)、斜めから見るのか。
そのモノ自体に何ら違いは無いが、それをどう観照するかで何を感得するかは変わってくる。
責を負う、と云う言葉を、どう使うのか。
いや、『何に対して責を負うのか』。
それを考えろと、教経は言ったに等しいのだ。
朱里は過去に対して。
教経は将来に対して。
それぞれ、その言葉を使っている。
そして先の戦の勝者である教経は、朱里に将来に対して責を負え、と。
そう言ったのだ。
――それに、管仲の話を織り込むなんてね。
上手いやり方なワケ、と危うく口に出すところだった。
話を聞いていて思わず膝を打ちそうになった程に、上手いやり方だと感心させられた、と言った方が良いだろう。
教経が言った通り、図らずも管仲と朱里とは同じような状況に置かれている。
それを口にし、受け容れる用意があると、そう言っている。
いや、自分の下で、『自分が好ましく思える主君を戴いて、後世管仲や楽毅と並び評される人物になる』と云う朱里の夢を、実現して見せろと、そう言っているのだ。
本当に、この男は。
なんて奴だ、と思う。
ちょうど似ている状況に置かれているからと、知識として唯それを用いただけであったなら、端で聞いているだけだった吉里の心がこうまで揺さぶられることは無かっただろう。
本心から、真性(ほんとう)にそれを望んでいるからこそ、こうまで心を揺さぶられたに違いないのだ。
そしてそれは、目の前の朱里も同じであるだろう。
何より、直截自分に語りかけてきているのだ。
なまじ才能があり人を見る目が優れているが為に、今の教経の言葉が、心底彼が望んでいることであることがよくよく理解が出来てしまう。
そこには、なんの衒(てら)いも無い、平教経というその人の赤心がある。
だからこそ信じられる。
だからこそ揺さぶられる。
だからこそ、欲が出てしまう。
嘗て抱いていた夢に対してではなく、これから描かれるであろう将来に対する欲が。
それを観るだけでなく、それを創る側に回りたいという欲が。
そして出来れば、教経自信が描く夢の終着点を見届けたいという欲が。
そう云う欲が、朱里に出てくれば。
そしてそれに抗うことが出来なければ。
そう思って朱里を見ると、ちょうどその貌を上げた処だった。
――来る。
朱里が何を言うのか。
それを思って、思わず唾を飲み込んだ。
「……もし」
「うん?」
「……もし、ですよ」
「ああ」
朱里は言いにくそうに、言葉を発しようとしている。
何故、言いにくいのか。
それは、自分の先程までの態度と、異なることを、一貫性の無いことを言おうとしているからでは無いのか。
それは、即ち。
「……私がこの先を生きていくとしたら、どうやって生きていくのです?」
――朱里!
朱里の言葉に横を見れば、雛里もちょうど吉里の方を見てきていた。
その目には驚きが、そしてその口元にはどうしても抑えられない笑みがあった。
自分達ではもうどうしようも無かった。
教経のこの説得が、最期だと思っていた。
そして、それは成功したのだ。
「簡単なことだ。
飯食って働いて家に帰って風呂入って寝てれば良い」
「いえ、そう云う意味では無く……」
「分かってるよ。
『私は誰なんですか』、と訊いているんだよな?」
「ええ」
「……お前さん、従姉妹は居るんだっけ?」
「いえ、居ません」
「んじゃ従兄弟は?」
「それも居ません」
「成る程」
そう言った後、しばらく教経が下に目線を遣って何やら考え始める。
『私は誰なのか』。
それを教経に訊くと言うことは、要するに将来に対して責を負う、と云うことを選んだのだろう。
過去を無かったことにするのでは無く、それが確かにあったことだと分かった上で、それでも将来に対して責を果たそうというのだろう。
「諸葛誕」
「え?」
「諸葛誕、でどうだ。
流石に姓を捨てる訳にはいかんだろう」
「……諸葛誕」
繰り返した朱里の様子に、それを受け容れたものと判断して、教経が言葉を続けた。
「では諸葛誕。
袁家に仕えていたお前は、これから平家に仕えることになる。
それで良いな?」
「……はい」
「……旧交を温めるが良い。
いきなり自由の身、という訳にはいかんが、ある程度自由がきくようにしておいてやる」
「……有り難う、御座います」
「朱里ちゃん!」
「……雛里ちゃん」
「良かった……本当に良かった、朱里ちゃん」
「……有り難う、雛里ちゃん」
「うん……うん!」
万感の思いで互いに声を掛け合う二人を余所に、教経が陣屋を出るべく床几から腰を上げた。
教経は、泣きながら互いに声を掛け合っている二人に目を遣って、薄く笑みを浮かべた後、
「……良かったな」
と、一言だけ呟いた。
恐らく無自覚に口にしてしまったのだろうその言葉を、読唇して反応した吉里に気が付くと、少しばつが悪そうに右手で頭を掻き毟ると、じゃあなと一言残して陣屋の外に出て行った。
――照れているんだね、御使い君は。
らしい反応だ、と吉里は思った。
自分の感情を誰かに完全に把握されるのを、教経は嫌っている。
嫌っているのは、それが心底嫌だからではなく、何となく気恥ずかしいからだろう。
気恥ずかしいのだ、ということを、最初風や稟などから聞いた時には、何を馬鹿なことを言っているのか、と思ったものだった。
『あの男に、其処まで繊細なところがある訳が無いワケ』、と応えた吉里に対して、風も稟も、何故だか嬉しそうに、『そうですね』、と返してきたものだった。
ただ今では、教経が実は繊細さの裏返しとして、普段ああいう自分を演じているような部分があることに気が付いていた。
繊細な教経が本当の彼の為人(ひととなり)である、と云うと少し違う気がするが、人としての根元の部分に根ざしているのは、豪快さでも老獪さでも不敵さでもなく、繊細さ、それも人に対する優しさを含んだそれであるのだとは云える。
現に今目の前で『良かったな』と呟いた教経の瞳は、慈愛で満ち溢れていた。
普段の教経では考えられないだろう、その慈しみにあふれた瞳は、教経が確かにそう云った情愛を持っている事を示している。
そしてアレが、アレこそが素の教経なのだろう。
普段どれほどいい加減に見えようと、どれほど巫山戯たことを言っていようと、ここぞと云う時に見せる人に対する真摯さは、本当に素晴らしいものだと思う。
――あの、御使い君の表情。
それを思うと……腹立たしい。
本当に腹立たしい。
自分が、あの男に魅了されていると云うことが、本当に腹立たしい。
腹立たしくて、そして本当に嬉しかった。
よく分からない感情であるけれども、兎に角嬉しかった。
憎まれ口を叩く自分をあやすかのように頭を撫でてくる処も。
朱里に勝てないと諦めていた自分を叱咤してくれた処も。
先の戦で、最後の最後まで自分を信じて全てを任せてくれた処も。
そして、自分の心情を知られて、誤魔化すようなことをする処も。
その全てが、吉里の心を掻き毟るような、何とも言えない衝動を引き起こす。
居ても立っても居られないような。
舞い上がるような。
そして、とても幸せな衝動を。
教経が朱里を説得している最中、これで朱里に欲が出てくれば、と、考えた。
これから描かれるであろう将来に対する欲が出てくれば。
それを創る側に回りたいという欲が出てくれば。
教経自信が描く夢の終着点を見届けたいという欲が出てくれば。
そう、考えた。
そしてその時同時に、吉里自身のこととして、ふと、思ってしまった。
――御使い君の横で、御使い君を支えながら、それを見ることが出来たなら。
なんと素晴らしいことだろう、と。
そう思ってしまった。
そしてそう云う想いが湧き出てきたのを、吉里はもう否定する気にもならなかった。
――僕は、御使い君、ううん、教経のことが、きっと……。
好き、なんだろう。
それは吉里にとってとても忌々しく、そしてとても幸せな事実だった。