顔良が死んだ。
 文醜も死んだ。
 そして、『諸葛亮』が負けた。

 あり得べき出ない事態が立て続けに出来(しゅったい)し、袁家は大きく動揺していた。
 皇帝である袁紹は、股肱の臣の訃報に一時失神するという動揺を示し、留守の将として共に詰めていた楼班も腰を定めることが出来ぬという有様である。
 袁家の当主たる袁紹はまだしも、匈奴の王たる楼班については、

――参陣した時点である程度は覚悟をしていたはずであろうにな。

 と、その覚悟の甘さに呆れる思いでいた。
 少なくとも位宮は、想像しうる最悪の事態については想像した上で、覚悟を定めて此処に居る。
 そしてその中で最善を尽すべく、策を謀っていた。

 例えば、位宮の弟であるジ須は、位宮としては先ず良くやったと声を掛けてやっても良いだけの成果を出している。
 彼が率いて行った高句麗貴族を代表する五族の主要人物達は、当初の予定通り悉く討ち死にしていた。
 帰還したジ須には、非常に残念極まりない、と伝えては居るが、これで中央集権化が一気に進むと思えば、位宮は思わず頬が緩んでしまうところであった。

 ともあれ、位宮自身も、立て続けに入る各地での敗戦の知らせに動揺がないと云う訳にはいかなかったが、楼班達程の醜態は晒さなかった。
 人生万事塞翁が馬とは云わないが、戦の中で飛び交う吉報と凶報に一喜一憂する程初心(うぶ)でも短視的でもなかった。

 何より、位宮は王として育てられて順当に即位したのではなく、自らの力で王になったと云う経緯がある。
 王になるまでに幾つもの戦を経験し、幾つもの勝ち戦と、幾つもの負け戦とを経験しているのだ。
 抑(そもそ)もの胆の据え方が、楼班達とは異なっていた。

 そんな中にあって、郭図の落ち着きぶりは異彩を放っていた。

――この状況すら、予測の範囲内と言うのか。

 際だった落ち着きを見せる郭図にそう感嘆しつつ、やはりそうでなくてはなるまい、と云う、奇妙な納得感があった。
 何故なら、位宮は郭図を郭図として見ていないからである。
 詳しく述べれば、郭図は郭図でもあるが、同時に他の誰かでもあると見做しているからであった。

 他の誰か。
 即ち、『諸葛亮』。

 そう見做していればこそ、『諸葛亮』が敗れたことに激しく動揺を示している他の者程事態を重く受け止めていなかった。
 位宮の目の前に、未だ負けていない『諸葛亮』が居るではないか。

 当初、何をそのように焦る必要があるのか、と位宮は思っていた。
 皇帝は当然そのことを知っている筈だし、廷臣も幾人かは知っているものだろうと考えて居た。
 しかし、

――ひょっとすると『諸葛亮』の真実は、あの少女と郭図との間だけの秘密であったのかも知れぬな。

 と思い直し、自分は暫く静観していようと考えて居た。
 秋(とき)が到れば、全てが明らかになるはずだ。
 そしてその秋は、直ぐそこまで来ているのは明白だった。





「どうするのだ、これから」

 三路同時侵攻に対する、『諸葛亮』立案の戦略は失敗に終わった。
 此処、ギョウの朝廷には、敗軍の将達が顔を揃えていた。

 ベン池で一敗地に塗れた張コウとジ須。
 黎陽から命辛々逃げ帰ってきた劉備に張飛。
 そして青州で完敗した田豊や沮授達。

 そこに位宮達居残り組を加えた面々が、現在の麗王朝の指導部と言って良い。
 今後の動向を決定する為に皆が集った中、ベン池から帰還した張コウがそう口火を切った。

「どうするもこうするも……決戦するしかないであろう」

 その審配の言葉に、張コウを除いて皆一様に頷く。
 一人頷かなかった張コウは、

「決戦すると、白黒はっきり付く事になるぞ?」

 と、言って審配を睥睨(へいげい)した。

「どういうことだ」

 流石にその態度が面白くなかったのであろう、審配が少々気色ばんで張コウに迫った。

「そのままだ。
 今ならまだ降伏できるぞ?」
「馬鹿な。許されるはずがない」
「そんなこともない。
 恥も外聞もなく、その身を平教経の足下に投げ出し、泥に塗れながら這い蹲(つくば)ってその沓(くつ)を舐めれば、或いは家名を保てるかも知れぬ。
 たとえ糞に塗れていようとも、遺せる家名があるだけましというモノだろう。
 決戦を行うと云うことは即ち、敗れて後家名を残すことが恐らく出来なくなると云うことだが、その辺りは分かっているのか?」
「張コウッ!
 貴様儂を馬鹿にしておるのかッ!?
 この審配、家名を残すことに汲々として名誉を失うような真似はせぬぞッ!」

 激高して声を上げた審配に対して、張コウも激高したかのように声を荒げた。

「審配!この戯けがッ!
 貴様は阿呆かッ!?
 誰が貴様の家を案じているのだ、貴様の家をッ!
 貴様の家如き、栄えようと消え失せようと、この張コウには何の関わりもないわッ!
 俺が言っているのは、袁家の事だッ!
 貴様、主家の家名を保つことも考えず、何を戯けたことを抜かしているのだッ!」

 張コウの言に、審配は顔を引っぱたかれたかのような顔をして、押し黙ってしまった。

――張コウの言う通りであろうな。

 それまでの遣り取りを看取して、位宮はそう思った。
 審配自身は忠臣の心算でいるのであろうが、少々視野が狭すぎる。
 その点、張コウという男の方は見事なものである。

 この話し合いで決まるのは、袁家の命運である。
 その下に付き従っている者達の命運は、戦おうと降伏しようと、平教経を首班とする召王朝と出遭ってみない事には分からない。
 その出遭い方が勝ち戦であれば良し、たとえ負け戦であったとしても、戦場で捕縛されて論功行賞の場で出遭うのか、逃げ切って後役人に捕縛されて出遭うのかなどの違いはあるだろうが、その点では気楽に構えていても問題ない。

 だが、袁家としてはそうはいかぬ。
 此処で廷臣達の言う通り平家との決戦に臨むか、それとも継戦を主張する廷臣達を切り捨てて張コウの言うように保身に奔るか。
 現状からの逆転の一手があるにせよ、袁家の前に広がっている選択肢それぞれについて、それを選んだ際の利益と不利益とを秤に掛け、より望ましい選択肢を選び取らねばならぬ。
 このような重大な場面において考えるべきは、やはり利益より不利益についてであるべきだろう。

 何れを選択するにせよ、利益と不利益とは恐らく変わらない。
 
 利益とは名誉の獲得。
 不利益とは家名の損失。

 勝てば利益に国家の権柄が追加されるだけだ。
 されるだけ、と簡単に言ってしまうには少々大きな利益ではあるが。

 ともあれ。
 名誉と家名。
 その何れを重視するのかを今此処で選択しなければならない。
 そして一旦選択すれば、もう二度と戻ることは出来ない。

 それを本当に分かっているのか、と云う問いかけが、先に行われた張コウの発言であったのだ。

 顔色を無くしている審配や、恐らく同類であったのであろう逢紀などは、張コウの言に二の句が継げない様子である。

「で、もう一度問うが……どうするのだ、これから」

 重ねられた言葉に応じたのは、劉備であった。

「……私が麗羽ちゃんを訪ねた時、麗羽ちゃんは未だ元気がなかったよ。
 それはやっぱり、小さい頃からの大切なお友達を喪くしてしまったからだと思う。
 次に麗羽ちゃんが思うのは、家のことかも知れないけど、その二人を……こう云う言い方はしたくないけど、殺してしまっておいて、自分だけが戦わずに降伏しようだなんて思わないと思う。
 きちんと確認をする必要はあるけど、決戦する方向で考えておいた方が良いんじゃないかな」

 考え考え、ゆっくりと、その思うところを語る劉備。
 話している内容は、正直戦略だの戦術だのを無視した、素人の戯言(たわごと)のようなものだった。
 しかし心情的には、少なくとも先程の審配の発言に比べれば理解できた。

 劉備が問題にしているのは、袁家ですらなく、皇帝が何を為したいと願うのかと云う唯その一事についてのみであった。

「仇を討ちたい、と、そう言い出すと言うのか?劉備殿は」

 位宮がそう問いかけると、劉備は力なく首を振った。

「ううん。仇討ちをしたいとは言わないと思う。
 そうじゃなくて、何というか……そう、逃げたくないって云う事だと思う」
「逃げたくない?」

 馬鹿みたいに鸚鵡返しした位宮に、劉備は頷いて言葉を継ぐ。

「戦うって決めたのは、麗羽ちゃん。
 朱里ちゃんがそれを引き出したにしても、最期に決めたのは麗羽ちゃんなの。
 そう、麗羽ちゃん自身も言っていた。
 そして皆戦って、敗れて此処でこうして集まっている。
 そんな中、戦うことを決めた自分は後方で戦わずに皆に任せていた。
 もし、そんなことをせず、最初からどこかの戦場に自分が赴いていたら、こうならなかったかも知れない」

 そこまで言った劉備は、唾を嚥下した後、少し言いにくそうに続ける。

「……斗詩さんも、猪々子さんも、死なずに済んだかも知れない。
 もちろん唯の推測に過ぎないけど、きっと麗羽ちゃんはそう思っているんだと思う。
 そうでないと、あんな顔をして、『大丈夫だから、もう少し時間を下さい』なんて言わないと思うから」

 その時の皇帝の様を思い出しているのか、劉備は目を閉じていた。

「その麗羽ちゃんが、自分が戦うことなくこの戦争の幕を引くなんて、あり得ないと思うの。
 負けるにしても、自身で戦った上で負けたいと、そう願うと思う。
 戦うことを決断した自分が戦うこともせずに降伏するだなんて、逃げるみたいだし、何より自分の為に死んで行った人達への裏切りみたいなものなんじゃないかって、そう想っていると思う。
 だから、決戦する方向で考えておいた方が良いって、そう思うの」

 辿々(たどたど)しく、しかもほぼ劉備の想像だけで語られた内容であったが、不思議に位宮は納得感を感じていた。

 そうであるかも知れない、と。

 周囲を見れば、皆神妙に話を聞いている。
 どうやら話の方向は定まったとみて良いのだろう。

「では、決戦するとして、だ。
 現在我々は多くの問題を抱えているが、一番の問題は士気が全く奮わないことだろう。
 兵数も少ないが、抑もギョウに待機していた遊軍30,000に敗残の兵を糾合すれば、まだ70,000から80,000の兵が組織できる。
 だが、幾ら数ばかりを揃えても士気が奮わないでは端(はな)から戦にならない。
 その辺りをどうするか、皆で意見を戦わせるべきだと思うが、如何?」

 そう口火を切った位宮が周囲を見渡すと、他の者が皆何やら物思いに耽(ふけ)っているのを尻目に一人腕を組み、目を瞑っている郭図が目に入り、そのまま目を奪われた。

――『諸葛亮』は死なず、此処に在る。

 さて何を考えて居るのか、と注目している位宮の視線に気が付いた人間から徐々に郭図を見始め、気付けば皆が郭図に注目していた。
 皆の視線に気付く素振りも見せない郭図に、痺れを切らした張コウが声を掛けた。

「……郭図。
 何やら先程から卿は余裕の表情でいるが、腹案があるなら此処で晒してみる心算はないか?」
「……ふむ」

 問いかけに対し、郭図は一言発した後、また口を噤(つぐ)んでしまう。
 張コウは再度問いかけようと口を開きかけたようだが、暫く待ってみようとでも思ったのか、再び問うような真似はしなかった。

 そのまま待つこと暫し、漸く郭図がその重い口を開いた。

「最初に言っておく。
 士気が奮わない問題は、即座に、簡単に解決可能だ」
「……どういうことだ」

 軽い口調で為された郭図の発言に、張コウが眉間に寄せながら、しかし言葉だけは穏やかな言葉でそう問い掛ける。
 それに対し、あくまで軽い口調で、郭図が応える。

「言葉のままだ。
 現状の士気低迷の原因は明白だ。
 『諸葛亮』が負けたこと。
 弘農で平家を向こうに回して勝利を演出して見せた、稀代の軍師『諸葛亮』が負けたこと。
 それが原因だ」
「そんなことは分かっている。
 俺が聞きたいのは、その最低まで落ち込んだ士気をどう浮揚させるのか、その手法についてだ」
「原因そのものを払拭すれば全く問題が無いではないか。
 意外に貴様は頭が固いな、張コウ」
「何だと?」
「『諸葛亮』は負けていない。
 それを兵らに知らしめてやれば問題ないではないか」

 そう言われた張コウだけでなく、審配や逢紀、田豊、沮授らも面食らって居るようだった。

 何を言っているのか。

 その表情が、雄弁にその真情を語っていた。

 そんな中、位宮は心中で一人ほくそ笑んでいた。

――成る程、漸く秘事を明かす心算になったか。

 確かにそれであれば、士気は回復するだろう。
 何せ本物の『諸葛亮』は、別にいたと云うことが明らかになるのだから。

「郭図、何を言っているのだ?」
「審配、卿もあの場に居たから知っているだろうが、弘農を攻め落とすのに主体的に動き、策を以て平家の撤退を遅延させ、その後尾に食らい付いて損失を与えるという戦略を描いていたのは誰だ?」
「……」

 そう郭図から問われて考え込んだ審配を、皆が見つめる。
 審配が記憶障害を発症しているのでなければ、審配はその問い掛けから何かを感じ取り、それについて脳内で検証しているのだろう。

「……まさか」
「どうした、審配。
 誰であったのか、漸く思い出したのか?」

 まさか、と声を発した審配に対し、郭図は知らぬ振りをしてそう問い掛けている。

――良くやる。

 芝居のようでまるで芝居になっていないが、それで察しろと、そう言っている心算なのだろう。

「……ああ、思い出した。
 郭図、卿の思い描いていた通りに、卿があの戦を主導していた」
「そうだ。
 袁家ではあの戦で勝ったのは孔明と云うことになっているが、その実私があの戦を主導していたのだ。
 つまり、私が『諸葛亮』であると強弁できる下地はある。
 何せ戦場まで出向いて采配を振るっていたのは他でもない、この私なのだからな」

 事実の暴露に、一同声を無くしている。

「そしてそれは張コウ、貴様も知っている筈だ」
「……」

 話を振られた張コウは、一つ、深い息を吐いて黙り込んだ。
 その張コウの代わりに、田豊が発言する。

「要するに卿は、『諸葛亮』とは孔明殿ではなく卿であった、と世間に向けて主張すると云うのか?」
「そうだ」
「主張するのは良いが、果たしてそれを幾人が認める?」
「その為に、色々と調整をしておかねばならぬ。
 それ故此処で雁首揃えて鳩首凝議しているのであろうが」
「……調整、とは?」
「先ず劉備殿。
 卿の配下であった『諸葛亮』の正体は、私であったと云う事実を認めて貰いたい」
「……それは」
「必要なことだ。
 陛下の想いが卿が言った通りなら、もう一戦しなければならぬ。
 その為には、どうしても士気を回復させねばならないことは分かっているはずだ。
 卿がそれを認めるだけで、ほぼ策は成ったも同然ではないか。
 卿はこれまでの孔明の尽力やその存在そのものを否定することになると考えて居るのかも知れぬが、そうすることに拠る利点もまた存在する」
「……どういうこと?」
「囚われの孔明が『諸葛亮』ではないと宣言することで、平家は孔明を処刑する口実を失う。
 卿に対するこれまでの孔明の献身を完全に裏切る形ではあるが、孔明の助命に繋がるやも知れぬ。
 それが現時点で卿が孔明に対してしてやれる唯一の事であるとは思わぬか」
「……」
「それから、審配、張コウ。
 卿らも同じ事だ。
 弘農の戦いを主導していたのが私であると云うことを追認して貰わなければ困る」
「……それで、士気が回復するのか?」
「いいや、それだけでは駄目だ。
 これらの事実は私の口からではなく、陛下の口からそれを明かして貰う。
 それを卿らで追認するのだ。
 そうすれば、少なくとも袁家内部においてはそれが事実になる。
 たとえ平家が孔明を引き出し『諸葛亮』として処刑したとしても、それは負けた片割れの方だ。
 弘農で勝利した『諸葛亮』は未だ健在であり、回天の策を練っている。
 そう印象付けることこそが肝要なのだ」

 力強く言い切った郭図に、張コウが最後の抵抗とばかりに、

「……果たして兵達はそれを信じるかな」

 と、短く疑問を呈した。

「信じるかどうかは問題にならない。
 信じざるを得ないのだ。
 そうでなければ、これまで袁家に対して尽してきた自分達が余りにも報われないではないか。
 人はな、張コウ。
 自分にとって都合の悪い真実より、都合の良い虚構を信じるものだ。
 卿とて、本当は分かっているのだろう?
 分かっていて、野暮な質問はしないものだ」

 その郭図の反論に、張コウは声もなく目を瞑った。

「他に、異見ははあるか?」

 郭図の視線が皆の顔の上を滑っていく。
 口の端をやや吊り上げていた位宮と目が合うと、小さく鼻を鳴らして視線を外した。

――これも、予測済みという訳だ。

 これなら、郭図の言う所の『回天の策』とやらにも期待が出来そうだ。

 位宮はそう思いながら、薄ら笑いを納めて神妙な顔つきを取り繕った。















 教経の身辺警護をケ忠に任せた高順は、親衛隊を十数名ばかり引き連れて戦場を見て回っていた。
 今回の戦がどういうものであったのかを、自分の目で確認しつつ考えてみよう、と思ったからだ。
 高順が自分でも意外に思う変化を齎したのは、瑛であった。

 長安で瑛と良く話をする機会があったが、その中でこれまでの戦を振り返って意見を戦わせる事が多かった。

 自分達が戦っていた場所でどのように戦が推移したかはよく分かっているが、全体のこととして自分達がどういう役割を果たしたのか、と云うことについては、高順はあまり意識をしてこなかった。
 しかし瑛と会話をする中で、瑛から、

「少なくとも、高順殿は戦場における要所を把握することが出来るだけの才があると思います」

 と言われたことで、その気になったのだった。
 自分でも単純なものだと思うが、瑛にそう言われると不思議とそれが出来るのではないかという気になる。

――まあ、何だ。これが大将の言ってたやつか。

 『男にとって見栄とは、勇気や向上心の代替たり得る』。

 高順は、教経がそう言っているのを知っている。
 勇気については人後に落ちるとは思っていないが、頭脳労働に関することで自分が真面目に取り組んでみようと思い、そしてそれを現実に実践するとは思ってもみなかった。
 この巡察にしても、それを申し出た際に教経に意味ありげな笑みを向けられて送り出された身としては、後で何を言われたものやら、と少々憂鬱な心持ちでは居るが、回ってみて初めて見えてきたこともあり、非常に有意義であった。

 もう少し早くこうしていれば、とは思うものの、やはり瑛から何か言われない限りはこうは成っていなかったのだろうことは間違いなく、教経の言葉の正しさを実感させられていた。

 その高順が袁家本陣が設営されていた辺りにさしかかると、先の方で何やら人数が集まっているのを発見した。
 然程近付いている訳でもないのに、ガヤガヤと騒がしい様が直ぐに見て取れる。
 どうやら平家軍の兵達が大きな荷を荷車に乗せて運んでおり、またその周囲を物珍しそうに取り囲んでいるようであった。
 それだけでなく、時折囃し立てるような、軽躁な雰囲気を醸していた。

――戦場で散逸物を収集してやがったのか?

 それにしては軽躁に過ぎる。
 その軽躁が、何によって齎されたものであるのかがこの場合の問題である。
 戦場の散逸物は、基本的に遺品に該当するものになるだろう。
 なにせ、あれだけの死傷者を出して麗軍は撤退したのだ。

 教経に言われて、遺品に該当するものを私物化する為に拾得する事は固く禁じられていた。

 『遺品は遺族のものであり、我々が恣(ほしいまま)にしてはならぬ』。

 戦の後、教経からそう強く言われていたからだ。
 その代わり、拾得したものを申告すれば、その拾得物の価値に見合った金子が与えられることになっている。

 もしその禁を破り、禁を破る危険を冒すに割に合うだけのものを皆で拾得・隠匿しようとしているのだとしたら、どうだろうか。
 それであれば一応、あの軽躁さの説明は付く。
 此処は行って何をしていたのか、糺さなければならないだろう。

 そう考えた高順は、進路をその集団の方へ取って近付いていった。





「おいッ!お前ら何やってんだッ!?」

 高順が声を掛けると、釜を乗せた台車を牽(ひ)く人足の指揮を執っていた役人が高順の方を見て、駆け寄ってきた。
 その顔色は少々悪い。

「これは、高順様。
 お勤めご苦労様で御座います」

 そう言って頭を下げた役人に、

「ああ、別にそう畏まることはない」

 と、手を挙げて抑える仕草をして見せる。

「なに。ちょっと騒がしかったから、何をやっているのかと気になってな」

 呼びかけられた際の大音声から、自分達の行為に何か問題でもあったのかと肝を冷やしていた役人は、思いの外穏当な受け答えに安心したのか、ホッと息を吐いた。

「ええ、釜を運んでいるのです」
「……カマ(・・)だあ?」
「はい」
「カマってのは、あの(・・)釜か?」

 戦場で耳にするに凡そ似つかわしくない言葉に、高順は思わずそう訊き返した。

「ええ。ご覧になられますか?」
「見せて貰おう」
「では、此方へどうぞ」

 先導するつもりであろう、自らの前を歩き始めた役人の後ろを付いて行った高順の目に、彼らが運んでいる釜が目に入ってきた。

――随分と大きい釜だな、これは。

 確かにこれであれば、物珍しさから人足達が囃し立てるのも理解が出来る。

 これほど大きな釜は生まれてこの方目にしたことがない。
 こんな重いものを運んだことはない。
 いったいこれは何に使っていたものであるのか。
 これを運ばせて何をするつもりであるのか。

 積み荷の重さを紛らわす意味でも、また純粋な好奇心を刺激されるという面でも、そのように人足同士で口々に話をし、躁がしくなるのは当然といえば当然の話と言えた。
 高順はそのまま歩みを進めながら、前を行く役人に

「成る程、大きいがアレは確かに釜だな」

 と、声を掛けた。

「ええ、釜です。
 長い間人足達の纏めとして務めてきましたが、あれほど大きな釜を運ぶのは初めてですな。
 単品での大きさでもそうですし、抑(そもそ)も釜をこれだけの人足で運ぶこと自体が初めてですが」

 声を掛けられた役人は、そう言って戯けてみせる。

「で、これは何だ?」
「はあ、麗軍の本陣付近に放置してあったものです。
 うち捨てられた際に少々拉(へしゃ)げてしまっていたようで、直すのに苦労しました」
「直す?」
「ええ。人足達がその手に鎚を持っておりましょう?
 アレで叩いて直したのです」

 指差された人足達の内の数人が、此方に気付いてその手に持った鎚を掲げて見せた。

「大変だったのは分かったが、これをどこに運ぼうって言うんだ?」
「陛下から本陣に持ってくるように、との命が在って運んでおります」
「陛下から?」
「ハッ」
「……何に使うんだ?これ」
「はあ、どうやら諸葛亮はこれを使って軍紀の引き締めを行っていたようです」
「どういうこった」
「その、気の緩んだ兵をこの釜に入れて、茹で殺したとのことです」
「……茹で殺し、か」

 天下一統へ向け意気上がる平家軍に対抗する為に、と云うことなのだろうが、余り良い気はしなかった。

「それでその、陛下が、これを上手く使えば罪を犯すものが減るだろう、と仰ったようでして」

 役人が告げた言葉に一瞬理解が追いつかなかった高順は、少し間を置いて

「陛下が、なんだって?」

 と、訊き返した。

「はあ。
 これを上手く使えば罪を犯すものが減るだろう、と」

 繰り返された言葉に、高順は反射的に命を下した。

「おい、貴様ら!
 今からその鎚でこの釜をぶっ壊すんだッ!」
「こ、高順様!?それは困ります!
 と申しますより、これは陛下の命によって為されている事で御座いますぞ!?」
「五月蠅いッ!黙っていろッ!」

 こんな事は、認められない。
 自分達が仕えている平教経という人は、こんな事はしてはならない。
 その想いが、高順を衝き動かしていた。

 高順の剣幕に、人足達はどうすれば良いものかと高順と役人とを交互に見比べ、戸惑っているようであった。

「壊し方が分からねぇのか!?
 貸せッ!」
「あっ!高順様ッ!」

 近くで棒立ちしていた人足から強引に鎚をもぎ取り、釜に力一杯に打ち付けた。
 ゴッ、と鈍い音がし、釜はその形を変じてしまっていた。

「そらッ!サッサと壊さねぇか!
 それともテメェらの頭にもコイツをお見舞いして貰いたいのかッ!?」
「ヘ、ヘイッ!」

 鎚を振りかぶって脅す高順に、人足が泡を食って動き始める。

「そっちもッ!」
「や、やりまさぁッ!」

 高順の余りの剣幕に驚いて命に逆らえず、人足達は次々にその手に持った鎚を釜に振り下ろしていく。
 その様子を、高順は満足そうに見守っていた。

「あ……あぁ……ど、どうなっても、知りませんぞ……」
「ああ。俺がやったって、そう報告しといてくれ」

 教経の命として運搬を請け負っていた役人の声に、高順はそう答えた。





 ベン池に居る将と軍師の全てが招集され、教経の前に勢揃いしていた。
 ケ忠の目に映る壇上の教経の表情は、硬い。
 その原因である高順は、階下で頭を垂れてその言葉を待っていた。

――なんともまぁ、拙いことをした。

 ケ忠にはそう思える。
 皇帝の命を、近衛の長が妨害したのだ。
 その命自体が許すべからざる過ちであるとはケ忠には思えない。
 それを高順は、一方的に、己の判断のみによって妨げた。

 本来であれば法に則って厳罰に処されて然るべきではあるが、本人の立場やこれまでの献身を慮って弁明の機会が与えられたのだった。

――何だってそんな馬鹿な真似をしたんだ。

 心中でそう零す。
 横に居る魏越を始めとした近衛の主立った面々も、複雑そうな心中を覗わせる貌をしていた。

「頭を上げよ」

 それほど大きな声ではないにも関わらず、そこに込められている感情の迸(ほとばし)りを感じさせる低い声で、教経が声を掛ける。
 その言葉に、高順がその頭を上げた。
 その貌に、どことなく決然とした印象を受ける。

「今回の件、何を思って斯様(かよう)な真似をした?
 皇帝たる寡人の言を軽んじるが故にか?
 それとも、己の身分に慣れた結果、狎れてしまったが故にか?」
「いえ、違います」
「では何故にか。それを明らかにせよ」

 そう命じられた高順は、一度俯いた後、眦(まなじり)を決して再びその貌を教経に向けて語り始めた。

「陛下。陛下には考え違いをされておられます」

 あからさまに間違っていると指摘された教経は、面白くなさそうに高順を見やりながら、

「……あの釜の由縁を明らかにし、罪人共をその罪に相応しく煮殺してやろう、と言ってやるだけではないか。
 その恐怖があれば酷い罪を犯す者が減るだろうと、そう見越してのことである。
 それのどこが間違っているのか」

 と答えた。
 その視線は半ば睨み付けるような強い視線であり、その心中の憤懣を容易に想像させた。

 しかしその視線を受けても、高順は表情も変えずに恬淡としている。
 その肝の太さには感嘆する思いであるが、流石にこの場でその態度は拙いのではないかと、ケ忠は自分が階下に跪いている訳でもないのに戦々恐々としていた。

「陛下。やはり陛下は間違っておられます」

 より一層強い口調で、そして大きな声で、高順がそう繰り返す。

「だから何が間違っているのか、と言っている」
「陛下。陛下がお治めになるのは、天下で御座います。
 天下を治めんとする人間が、恐怖でこれを従わせるような真似をしても良いものでしょうか」
「方法としては検討に値すると思うが?」
「そこが、間違っているのです。
 私が聞いたところに拠れば、王朝と云うものは、その開闢(かいびゃく)した人物とその親(ちか)しい者達の性質(たち)が反映されるものであるそうです。
 この召王朝の始祖である陛下が、そのように恐怖で以て人を従わせようという方策を採られるのは如何なものでしょうか?」

 高順は、普段の傍若無人な口調と打って変わり、丁寧な言葉で懇切に教経を説いている。
 ケ忠はその事にも少々驚いたが、それ以上に、高順がこれだけの弁舌を振るえると云うことに驚いていた。
 かねてより高順は知識が不足しているだけで頭は悪くないと教経から聞いていたが、どうやらその知識を瑛との付き合いで埋め合わせてきた結果、このような事を言ってのけることが出来るようになったらしい。

「それで世が治まるのであれば、それでも良いではないか」
「そうではありません。
 陛下、今一度良くお考えください。
 酷薄な刑を制定するが故に世が治まるのでしょうか?」

 そう、高順が問い掛けた。
 階上に座る教経は、少し眉をひそめてその顎に手をやり、少々伸びた髭を擦っている。

「陛下。そのような酷薄な刑を定めねばならぬような罪人が出るようで、どうして天下を治め国家を安んじることが出来ましょうや。
 私が陛下にお考え頂きたいのは、唯それだけで御座います」

 そう言って、高順は階下に平伏した。
 自分が言いたいことは言った、と云うことだろう。
 微動だにせず、その額を床につけている。

 高順の発言を聞いた教経は、最初その目を大きく開いた。
 瞳孔が開いたような感があり、恐らく『天下を治めることが出来ましょうや』という言葉に、己の器量が不足していると云われたのだとカッとなったようであった。
 そして恐らく怒声を浴びせようと口を開いて大きく息を吸い込んで、しかし浴びせることなく息を吐き出した。

 今教経は目を閉じ、ジッと物思いに耽っている。

――高順の言っていることの方が、正しい。

 ケ忠は、そう思う。
 もし、今日、この場で高順の意見が容れられ無かった場合、次は自分が争臣にならねばならない。
 見れば皆同じような顔つきをしているように見える。

――高順の言を容れる事が出来るだけの器量を持った人であって欲しい。

 ケ忠は、それこそ祈るような想いで、固唾を呑んで見守っていた。

 その固着を破ったのは、教経の、教経らしい言葉であった。
 そしてその教経らしい言葉が、ケ忠のこうあって欲しいという望ましい将来が齎されたことを教えてくれた。

「……高順。いや、ダンクーガ。どうやら寡人が……俺が、間違っていたらしい」

 皇帝としての言葉遣いでなく、普段の話しかけ方。
 それを敢えて使うことで、自分が高順の言を受け入れると言うことを先ず悟らせようという心遣いなのだろう。

 その言を受けて、高順は言葉を発せずより一層頭を低く下げたようだった。

「よく、言ってくれた。
 これからも俺が間違うことがあれば、遠慮無く言って貰いたい」

 そう言って、頭を下げた。
 言葉を掛けられた高順は、感極まって泣いているのか、少々くぐもった声で、

「有難き言葉を賜り、面目身に余る程で御座います」

 と、漸く教経に聞こえるであろうと云う程小さな声で述べ、そのまま肩を振るわせながら平伏していた。

 片ややはり姉がその身を任せるだけの人であり、片や己が支えようと決意させただけの漢であった。

 眼前で今行われた風景の、なんと美しいことか。
 それが己の親しい人物達によって齎された風景であると云うことが、何とも言えぬ誇らしさを以てケ忠を陶然とさせた。

――きっと俺は幸せなんだろう。

 この時代に、これだけの人物達に囲まれて、創業の時を、創業を扶ける立場で迎えている。

 生きる甲斐があるというものだと、しみじみした心持ちで、この風景をその目に焼き付けておこうと眺めていた。