日が、落ちた。
先程まで山の端に掛かって天を僅かに、しかし確かに朱に染めていた日が、完全に落ちた。
薄ら暗いながらも見えていた其処彼処に遺された戦の爪痕も、僅かに篝火の周辺のみで確認できる程度でしかなくなっていた。
それは陣屋の外に立って戦場を眺めていた教経に、漸く諸葛亮を下したのだと云う実感を与える。
──危なかったねぇ。けどまぁ、愉しくもあった。
人の主として、其処に愉しみを見出しているのはどうかと思うが、愉しいと感じていたのは間違いのない事実であった。
本陣北側背面からの騎兵の吶喊に、象兵の無効化。
前者も後者も、それに直面した瞬間肌が粟立った。
後者に限って言えば、身震いしてしまった。
無論、それだけでなく、その貌には酷く嬉しそうな笑み──恐らく人が見れば哂っていると表現するであろうそれを張り付けていたが。
ともあれ、武者震いのような、総毛立ったような、どちらとも言えない感覚。
それを感じた瞬間、確かに自分が生きていると云う事を実感出来た。
殺す為に。
若しくは、殺される為に。
全身全霊で、相手を打ち負かす為に。
ただそれだけの為に、戦場に身を置いている。
その事が、どうしようもなく愉しかったのだ。
しかし夕日に照らされた戦場を眺めていた教経が一番強く感じて居た感情は、寂寥感、であった。
己の意思を、理想を、夢を貫く。
いや、この時代に、押しつけてやる。
教経は其の性格から、そんな風に、己の師のように傲然と生きて行ってやろうと考えていた。
そしてその為に生じる様々な軋轢の内、教経は確かに闘争を好んでいた。
自分が、この時代で何が出来るのか。
自分は、どの程度の者であるのか。
それを手っ取り早く確認出来る手段としての闘争は、嘗て教経が生きていた現代では経験できぬものであり、将に教経の望むところであった。
しかし敵に勝ち続けると云う事は、闘争の機会が減ると云う事である。
そして今日教経が打ち克った相手は、恐らく教経が天下を統一するに立ちはだかる、最後の壁のような存在であった。
その壁を打ち破ったと云うことは、即ち今後このような闘争が行われることは恐らくないであろうと云う事を意味していた。
このような、心躍る闘争が。
それを残念に思う気持ちはあるが、同時にまたそれで良いのだと云う、諦念のようなものもまたその胸の内に抱いている。
己の存在意義や存在価値を確認する為の闘争が無くなる、と云う事が少し残念に感じる一方で、漸く乱世がその終幕をちらつかせていることに安堵を覚えても居るのだ。
自らを阻まんとする敵を打ち倒し、その為に多くの人を死なせてきたことを、教経は自覚している。
だからこそ、闘争が無くなること自体に寂寥を感じるものの、それを受け入れることに否やは無かった。
否やは、無い。
無いが、それでも何とはなしに物悲しいような心持ちになってしまう。
祭りの終わりが近づいて人が疎(まば)らになった会場を眺めていた時に感じた寂しさと同種の、得も言われぬ心持ちに。
そうやって戦場を、日が落ちても暫く眺めていた教経の横に、風がやって来た。
戦が終わった後兵を兵を再編していたが、元来その旗下の兵は紫苑と共に率いていたのであり、ある程度目途が付いたところで紫苑に押し付けて本陣にやって来たという訳だ。
風が横に来た事には気付いたものの、暫くの間変わらず戦場を眺めていた教経に、風が声を掛ける。
「お兄さん、何を見ているのですか〜?」
相変わらずの糸目で、のんびりと声を掛けてきた風にちょっと苦笑して、教経は素直に応えることにした。
「兵どもが夢のあとを、さ」
教経のその言葉で、風は今教経がどういう心情で居るのかを即座に理解出来た。
「お兄さんを含めて、ですか?」
「……まあ、そうかもな。戦が無くなる訳だし、もう俺がこれを目にすることはあと僅か、ひょっとすると後一度こっきりになるかも知れない訳だしねぇ」
「……ちょっと寂しいという訳ですね〜」
「何と云うか、ねぇ……戦じゃ人が死ぬのは当たり前な訳だから戦が無くなるのは別に良いとは思うんだが……」
「お兄さんは物騒な人なので、ですね」
「物騒な人って……まぁ否定はしないが」
「出来ない、の間違いですね〜」
「いやいや風さんや、其処はしないってことにしておこうか。
敢えて突っ込んでも誰も幸せにならない訳で」
「突っ込むと幸せになるのはお兄さんですね」
「そして突っ込まれると幸せになるのは風さんですね……っておい!」
「相変わらずお兄さんは変態なのです」
「話を振ったのはお前さんだろうに」
やれやれ、と云った風情で肩を竦めて見せる風に、教経は苦笑いを浮かべながらため息を吐いた。
流石に、感傷的になっていた自分に気を遣ってくれたのだと云うこと位は理解出来る。
教経は風の心遣いに心中秘かに感謝しながら、
「それで?」
と話題の転換の為、風がどうしてここに来たのか?と云う意味を込めてそう問いかけた。
「いや〜それ程でもあるのですよ、お兄さん」
「……俺の頭ン中覗くのはいい加減やめようか」
「それで、どうして風が此処に来たか、と云うとですね〜」
「おい、話を聞け」
「雛里ちゃんと吉里ちゃん、苦戦している様なのですよ」
「……完全スルーかよ……苦戦している?」
少し意外そうに聞き返した教経に、風が頷く。
「それはそうなのですよ。風や稟ちゃんが孔明さんと同じ状況になったとして、素直に降ろうとは思いませんし。
何より、立場と云うものがありますしね〜」
「立場?」
「はい〜」
「別に気にすることは無いんじゃないのか?
対外的に諸葛亮が麗王朝の宰相であったとか云う訳でもなし」
「ああ、そう云う立場ではないのですよ、お兄さん」
「?どう云う立場だ?」
「天下を相争った二人の内の一人である、と云う立場ですね〜」
風の応えを聞いた教経は、最初風の意図する処が分からなかった。
重ねて、どう云う事かと問いを発しようとした時に、ふと思い当たることが有って思い止まった。
「西楚覇王と漢中王、か」
天下を相争った二人。
三国時代までの史上において、天下を相争った二人として著名な人と言えば項羽と劉邦だろう。
教経はまだしも、諸葛亮は袁家の宰相ですらない。
が、世人の見る処、この二人が天下争覇の主役であった。
片や新時代を切り開かんとする素性の知れない者であり、もう一方はそれに対抗する旧体制を代表する家の実質的な主導者である。
そしてそう云った二人の在り方を見て、最も近しい歴史的事跡の著名さも手伝ってであろうが、今を生きる二人を、嘗て生きていた二人に擬(なぞら)えて見ている。
「そうなのです。それが頭にある以上、皆そう云う帰結を考えているでしょうね〜」
「そう云う帰結ねぇ」
つまるところは、どちらかが死ぬと云う形で決着することを皆考えている、ということであった。
考えている、と云うよりは、寧(むし)ろそれが当然だと思い込んでいる。
「それを裏切れば王朝の屋台骨が揺らぎかねない、と?」
「揺らぎかねないどころか、揺らぐに違いないのですよ。
皆、勝った者が負けた者をそう処することが当たり前のことだと考えているのです。
思い込みに過ぎませんが、その思い込みが正しいと信じ切っている者達にとって、想定外の帰結を見た場合の違和感はそれはもう大層なものになると思うのですよ」
風は、言う。
その大きすぎる違和感は、有耶無耶にしておけるものではないだろう。
必ず、何故自分がその帰結に納得が行かないのかを考える筈だ。
そしてその違和感が、諸葛亮を殺さないでおいた平教経と云う存在にあると結論付けた時、彼や彼女の中に一つの考えが浮かぶかも知れない。
平教経は、間違っている
そしてその平教経が作った召王朝もまた、間違っている。
だから召王朝を打ち倒すべきである。
そう云う、三段論法と云うには少々飛躍しすぎた結論を出す者が出るかも知れない。
間違っているから打ち倒せば良いと云うものではないが、抑々その様に考えることが出来る人間は教経が間違っていると云う結論を、力によって一方的に押し付けるような真似はしないだろう。
秦が行った、焚書に代表される愚民化政策は、未だ中華に暗い翳(かげ)を落とし続けている。
少し頭のまわる人間が扇動すれば、見事に思い描いた通りに踊らされることだろう。
事実を己自身で確認することなく。
これから自分達が為そうとすることの是非を問うことなく。
自分達にそれを為せと説く者の理非を問い質すこともなく。
唯々、踊らされる。
そして落ち着きを見せる筈だった世の中は、再び乱れることになる。
それでは、意味がない。
ここまで乱世を治める為に散っていった、そして散らせていった者達が、何の為に散華したと云うのか。
此処までの犠牲を無駄にせぬ為に。
次に訪れる平穏が、出来るだけ長く、それが叶うならば永く続くように。
そうなるようにこの乱世に幕を引かねば意味がないのだ。
「だからこそ」
「殺されなければならない、か」
「はい。そう考えているに違いないのですよ」
諸葛亮が置かれている状況は、恐らく風が述べている通りなのだろう。
そうなると、雛里と吉里とが思っているように事を進めることは出来ないに違いない。
現状で諸葛亮にどんな言葉を掛けたとしても、翻意させることは出来ないだろう。
教経が諸葛亮であっても、きっと同じ結論を出すに違いないからだ。
「それで、お兄さん。
お兄さんは孔明さんをどうするつもりなのですか?」
「ん?まあ……活かしたいところだ」
──どうやら演義なんざ遥かに超えるチート様らしいからねぇ。
心中で、口にしても理解されないであろうことを思いながら、教経がそう答えた。
「活かす、ですか」
「ああ」
「孔明さんを翻意させることが出来るかどうかがまず問題ですが、それは一旦措いておくとしましょう。
ですが、お兄さん?
孔明さんの優秀さから考えて、それなりの地位を与えることを考えているのだと思いますが、あまりに高い地位に付けると元々お兄さんに従っている人達が不満に思う事になるのです。
と言って、周囲が不満に思わない程度の地位に付けるなら、抑々孔明さんを登用する意義そのものに疑問を抱かざるを得ません。
孔明さん自身の危険性や彼女を取り込むことによる体制の揺らぎなど、周囲にどう納得させていくかと云う問題はありますが、まずその辺りを解決して貰わない事には孔明さんを登用する事に風は賛成出来ないのですよ」
教経に対する風は、持ち前ののんびりとした雰囲気を変えることは無かった。
しかしその口を衝いて出たのは『賛成できない』と云う消極的な反対であった。
「あぁ、それなら大丈夫、というか、何と云うか……まあ腹案がある。
官途に就いて貰うには貰うが、高位に就かせようって訳じゃ無い。
と言って、登用することに意味がないような地位に据え置こうって訳でもない」
教経は風の苦言とも言うべき言葉に苦笑を浮かべた後、
「しかしまぁ……風の言った通りで、孔明を翻意させることが出来なきゃそれも無駄な画策になる訳だが」
と言葉を継いだ。
「具体的には何をさせるつもりなのですか、と聞きたいところですが、教えてくれそうにないのでやめておくのです。
それで、お兄さん。
孔明さん、翻意させることが出来そうですか?」
「雛里と吉里で苦戦中ってんなら、現状じゃ俺が出て行っても難しいんだろう。
諸葛亮の置かれている状況が劇的に変化しない限り、向こうがうんとは言わないだろうからな」
「つまり、状況が変化するのを待つ、と云う事ですか?」
「ああ、そういうことになるな」
その教経の返答に、風が少し眉を顰めた。
「どうした、風。意見があるなら言ってみてくれ」
「らしくないのです」
「らしくない?」
「はい。お兄さんらしくありません」
「どのあたりが、と訊いても良いか?」
「成り行きに任せよう、と言ったに等しいのですよ、お兄さんは。
今までのお兄さんであれば、何が何でも従わせて見せる、位の事は平気で口にしたはずなのです。
それが、この件に関しては状況を待つ等と受動的な事を言う。
普段のお兄さんを知る者としては、らしくない、と言わざるを得ません」
そう言って、風は口を噤(つぐ)んだ。
言うべきことは言った、と云う表情をしている風を見て、教経は二度苦笑を浮かべる。
「そうだな。確かに俺らしくないのかも知れない」
「……」
「だが、風。これは流石に俺が自力でどうこうできる問題じゃあないだろう。
俺に従って俺の為したい事を為す事を、本人が納得してやるかどうか、なんて、完全に諸葛亮の問題であって俺の身分や権力の高に拠らない問題だ。
現状で俺が努力したところで、それこそ条件反射的に断られるのが関の山だろう。
俺が奴にやらせたい仕事は、主体性が無きゃ成り立たない仕事だ。
奴自身が俺に従って、艱難辛苦に満ち溢れているであろう今後の人生を送るとも構わない、と納得しなきゃ抑々登用の意味が失せるんだよ」
教経はそこまで口にすると、両手を開き、おどけて肩を竦めてみせた。
「だから、秋を待つ」
「……来ますか?その秋が?」
「さぁな。来るんじゃないかね?
俺はこの天下を、自分の為だけに、自分だけの欲望に基づいて、自分だけに都合の良いように、思うが儘に改変してやりたいって訳じゃ無い。
無論俺の好きなようにしたいと云う想いが無い訳ではないがね。
だが、あまりこういうことを声高に主張したくないが、天下万民の為に、とか、そう云う殊勝な気持ちだってある訳だ。
要するに、完全な独り善がりじゃなく、一定以上の民意の沿った形の俺の我が儘のようなものだと思ってる。
そして、俺は此処まできっちりと、恥ずかしくない手段に基づいて、恥ずかしくない道を歩いて来た心算だ。
それなら、この件に関して天佑があったって良いじゃないか。
この先の世の中をより良いものにする為に、俺は諸葛亮の才能を欲している。
油断も慢心もするつもりはないが、俺がこの天下を手につかんだと言っても良い状況だろう。
天に、地に、人に。
それらに望まれて、俺は次代の天下を、巨大な権柄を握ったに等しい訳だ。
そしてその俺が、諸葛亮の才能を欲しているんだぞ?
切実にって訳じゃ無いが、そうなったらより楽が、いや、良い世の中が作れると、そう云う理由でアレを欲しているんだ」
教経は一旦言葉を切って目を瞑り。
「その俺の望みを叶えないで、誰の望みを叶えると云うのだ、天は?」
再度その目を見開いて、右手の人差し指で遥か頭上を指し示しながら、不敵に嗤って言い放った。
そこにあるは、自らが時代の覇者であると云う強烈な自負。
民に望まれて帝位に就き、今また天下をその手に握ろうとしていると云う己に対する自信。
そう云った存在である自分の望みを、天が叶えるのは当然である、と云う、傲慢とも言える発言であったが、その様は風の目から見て、『らしい』教経の姿であった。
「……やっぱりお兄さんはお兄さんなのです」
「だろ?ま、上手い具合に理由が出来なかったら、理由なんざ創り出せば良い。
無理矢理にだがね。
だがすんなりと、無理なく周囲に受け入れられる方法があるなら、そっちの方が良いだろう。
だから、時機を待つ」
教経はそう言いながら風の方へ向き直り、しかし風を観ずにその奥、陣屋の向こう側に向かって改めて声を掛けた。
「そう云う訳だから、時間は腐るほど、という訳には行かないまでもそれなりにはある筈だ。
孔明の信条と心情を揺さぶり、その真情を吐露させるに相応しい時機は将来(さき)にある。
お前さんもそう信じて、じっくりやる心算でその機会を待って居ろ、吉里」
その言葉に、陣屋の陰からゆっくりと人影が現れる。
「……いつから気が付いていたワケ?」
「ついさっき来たばかりだろうに。
俺を無駄に試すような真似をするな」
「悪かったね、御使い君」
「ハッ。
まあそう云う訳だから、気を落とさずに根気よくやれ」
「……一つ、良いかな、御使い君」
「あん?」
「どうして朱里を殺さないワケ?」
「さっき言ったはずだ。
必要だからだよ。
俺が考えていることを為すのに、丁度良い奴だからだ。
世間が望むから殺さなきゃならない、なんて、強要されるのは好きじゃないンだよ。
たとえ世間が望むことと同じことを俺がするとしても、それは俺がそれをしたいと思うからするのであって、世間から押し付けられた必要性に従う訳じゃない。
ましてや、今回意向って面じゃ真っ向から対立している訳だ。
俺が唯々諾々と従わなければならない理由何ざ存在しないだろうが」
「要するにお兄さんは天邪鬼なのですよ」
「……何か納得したワケ」
「ちょ、お前ら俺の事を何だと思ってるんだ」
「甲斐性の有りすぎる種馬……兼皇帝なのです」
「見境なし……という訳でもないけど、息するように女を誑かす女誑し……兼皇帝」
「……今そう云う話の流れじゃなかっただろうが……というか、皇帝を先に言えよ、皇帝を!」
その場に出てきた際には少し思いつめていたような吉里の表情が、いつも通りの小憎らしいものに変わっているのを見て、
──まあ、吉里はこうじゃないとねぇ。
と密かに独りごちる教経だった。
ベン池で教経と諸葛亮がぶつかりあい、最終局面を迎えようとしている正にその時、黎陽(れいよう)でも平家と袁家とが河水を挟んで向かい合っていた。
河水の向こう側に林立する袁家軍の旗を眺めていた碧は、ホッと息を吐く。
対峙を初めて一月近く。
此処まで幾度か瀬踏みをしてきたが、相手もそう易々と付け入る隙を見せる様な事はなかった。
劉備を主将とする袁家軍の士気は高いものが有る。
それもそうであろう。
もし此処を突破されれば、他方面の戦の結果に拠らず、ギョウが危険に晒されることになる。
国元に家族を残して来ている兵達にとって、黎陽は平家と云う強勢の濁流から家族たちを守る最後の堤であり、これが決壊するようなことが有れば皆が難儀することが分かっているからである。
その高い士気を維持する袁家軍の中にあって、特に平家にとって脅威となっているのは顔良と文醜、袁家の誇る武の二枚看板であった。
皇帝・袁紹の股肱の臣にして、袁家家中に並ぶ者なしと目されている武人。
その主君を守る為に、正しく獅子奮迅の働きを見せている。
それに対する平家も、娘である翠を筆頭に優秀な武人が揃っている。
単純に数だけであれば、此方の方が優秀な人間が揃っていると言い切れるが、形勢は未だ互角と言った処であった。
此処が最後の砦であると云う自覚が、袁家の将兵に普段以上の力を発揮させているのであろう。
──ただ、それもこれまでの事さね。
相手の心情を慮(おもんばか)れば、此処までよくやったと云う賛辞さえ湧いて出て来るようであったが、彼らと碧とは利害の対立しない第三者ではなく、利害どころか存在そのものが対立している敵同士である。
手心を加えるつもりは更々(さらさら)なかったし、これから始まる作戦において殲滅することを心から願っていた。
これから始まる作戦は、華琳の配下である桂花が考え出したものである。
此処まで形勢が互角であったのは、偏に桂花が慎重策を唱えた為であった。
此方が攻め、彼方が守る。
これは戦が始まる前から決まっている、約束のようなものであった。
誰が見ても、そう云う形で戦が推移することは目に見えている。
それは此方も、そしてあちらも、双方共に理解していることであった。
それが最初から分かっていて、守勢に回ると分かっている側が何の準備もなく唯此方が戦場に到着するのを待っているだけと云う事が、果たしてあるだろうか。
そう桂花に問われた時、皆そのようなことはありえないと考えた。
相手の備えが何であるのか、それが分かるまでは積極果敢に攻めかかる事は避けた方が良い。
そう云う方針に基づいて、これまで戦を、それこそご主人様が戦場に連れて行った象の歩みのように一歩一歩足元を確りと踏みしめながら進めてきた。
その甲斐あって、此処より上流で河水の流れを分けて水を溜めている箇所を2箇所発見できたのだ。
今思えば、斥候に抑々貯水池を探し出すように命令をしていたこと、そしてそれ以外にもう一つ準備を行っていたことから考えて、桂花は最初から敵の策が嚢沙之計(のうしゃのけい)かそれに類するものである事を見抜いていたのだろう。
もし当初碧や白蓮が主張したように早い段階で全軍を渡河させていたならば、その兵の多くを濁流に飲み込まれて相当数の軍兵を喪うか、或いは対岸で主立った将が孤立して敵の虜囚となっていた可能性すらある。
飽くまで少数精鋭の部隊で、敵の士気と指揮とを確かめるに止めておくべきだと云う桂花の主張が正しかった訳だ。
相手の方針や思惑、器量の程度を探る為にも先に挙げた二つを確認せざるを得ないことは間違いない。
そしてもし、相手側に此方を遣り込めるのに有効な策が無いのであれば、平家軍の全軍で渡河に懸かった際これを完全に禦ぎ止めるだけの力は無い。
それは、今すぐであろうと後からであろうと、前提さえ間違っていないのであれば必ずそう云う結果が齎されることになるだろう、という、およそ間違いのない予測であった。
そして今であろうと後であろうと導き出せる結果が同じであれば、此処は地歩を固めてじっくりとやるのが良い。
前提が誤っていた場合、即ち相手に策があった場合には、この方面からの袁家征討は一旦頓挫することになる。
それだけの策を用意できるだけの時間は十分に与えられていたはずだ。
俯瞰して眺めれば、三軍の内一軍が敗北するだけの事かも知れないが、最終段階における計画の頓挫が王朝と教経に何を齎すか想像がつかない。
彼我を比べれば、此方の兵が多く、あちらの兵が少ない。
此処に至っては奇策も、拙速すらも不要である。
『兵は拙速を聞くも、いまだ巧久なるを睹(み)ず』と云うが、此れだけの戦力差があれば戦が泥沼の様相を呈することはまずもって在り得ない。
攻め込んでいるのは此方である。
故に此方が攻めると云うのもまた必然である。
が、無理に攻めずとも他方面で圧倒的な勝利を収め、敵本拠を衝けば最終的な勝ちが確定するのも此方である。
他方面の軍を宰領しているのは皇帝たる教経と孫呉の猛虎たる雪蓮であり、彼らを押し止めることが出来るとは到底思えない。
つまり、此方は無理に攻める必要性が無い。
この方面の戦線が膠着したとしても、教経か雪蓮の軍が相手を叩きのめせば問題ない。
だからこそ、相手に付け入る隙を寸毫も与えぬように、じっくりと絞め殺してやれば良い。
大兵の利を、嫌と言う程、まざまざと見せつけてやれば良いのだ。
そう言って無様な敗走を理詰めで回避せしめた桂花と、その桂花の進言を無碍に扱うことなくそれを調査するだけの時間を皆との交渉でもぎ取ってみせた華琳とは、やはりこの時代を代表する才能であるのだろう。
そう云う思いを抱きながら、今眼前を通過している白蓮の隊を眺めていた。
華琳達曹家の面々で2箇所の貯水池を襲撃する手筈になっている。
貯水池は何れも河水の対岸側にあるが、これを攻め落とすのは然程難しくは無い。
そして恐らく、攻めかかった時点で、貯水池を決壊させる事もまた間違いない。
それによって残りの兵が渡渉する事を防ぎ、平家軍をこの黎陽に惹き付け続けて諸葛亮が教経の死命を制する時間を稼ぎ出す為には、彼らの策が露見した時点で貯水池を決壊させるしか方法がないからだ。
確かに河水の水面の上昇と押し寄せる濁流は、平家軍の渡渉を阻むことになるだろう。
だがそれは同時に、策が此方に看破され、それが本来目的としていた平家軍へ打撃を与えるという目的を果たせなかった事も意味している。
必然、今よりは士気は下がる。
そして眼前の濁流が、暫くの身の安全を保証してくれると油断もするだろう。
貯水池を襲撃したと云う事は、渡渉を目論んでいる、その確かな証であるのだから。
その平家の目論見を阻む河水の濁流が落ち着きを見せるまでは、此方の動きに関しては先に渡渉をしている筈の華琳達にだけ注意を払っておけば良いと考えるだろう。
そこを、その油断を、衝く。
嘗て袁家軍は白蓮の身代わりを戴いて戦い続ける易京を地中から攻め落とした。
高い城壁を越えるために労力を費やすよりも、遥かにそちらの方が兵の損耗が低く済むからだ。
そしてそれは、今この場に居る平家軍にも言えること。
河は渡渉するものであると永久不変の定理として誰かが定めた訳でなし、此方から彼方へ移動するその方法が渡渉に限られている訳ではない。
地下から越えること、いやこの場合は潜(くぐ)ると言うべきなのだろうが、それこそ最も労少なくして益多い策であり、恐らく相手が予測していない事であるだろう。
その備えあるを避け、その備えざるを攻むる。
心理的にも、物理的にも、備えが有ろうはずもなし。
故にこの策が採用されたのだ。
誰一人、反論を述べることもなく。
そしてその準備は、既に桂花が調(ととの)えている。
つい昨日の軍議を思い出すにつけ、見事だ、と云う思いが、碧の胸を満たしている。
天下を制すに値する勢力には、やはりそれに相応しい大才が、綺羅星の如く集っているのだ。
そんな思いを胸に佇んでいた碧に、
「お母様、何やってるんだ。
白蓮の隊が行ったら、直ぐあたし達も出立なんだからさ〜」
「そうだよ叔母様。ぼーっとしてたら遅れちゃうよ?」
と、翠と蒲公英が後ろから声を掛けてきた。
「分かっているさ、いつまでも落ち着きのない娘らだねえ」
「落ち着いてるよ、お母様」
「そうかい?ま、此れで漸く長かった膠着状態を打開出来る訳だから、少々逸(はや)るのは仕方がないさね」
「だから逸ってもないってば〜、叔母様」
「ま、それなら良い」
「ったく、なんだってんだ、お母様は……」
「だよね、お姉様」
そうぼやく二人。
どうやら、本当に落ち着いているらしい。
それは重畳、とばかりに一つ頷いた碧は、しかし表情を改めて、
「翠、蒲公英」
と話し始める。
その碧の表情に、二人もそれまで見せていた親族間特有の気安い雰囲気を改めて耳を傾けた。
「これが恐らく、最期の戦になるだろう。
アンタ達はどうか知らないが、私にとってはそうなるだろうさ」
「お母様……」
「叔母様……」
少し感傷に浸っているような碧の表情に、思わず二人も胸に何かがこみあげて来る様だった。
「だからこそ、負けられない。
これまで生きて来て、異民族相手に大立ち回りを演じてみたり、義姉妹と血みどろの殺し合いをしてみたりして来たけど、最期であろうこの戦だけは、絶対に負けられない。
私が馬寿成として生き、積み上げてきた此処までの戦歴を、最期の最後に勝利を添えて彩る心算なのさ。
勿論、相手だって私らに勝つ心算だろう。
無いとは思うが此方が思っている以上の器量を相手が有していて、私の最後の戦を負けで穢してくれるかも知れないがねえ。
けど、それならばそれでも良いのさ。
互いが死力を尽くした末に負けるのならね」
「……」
「だから、翠。蒲公英」
そう口にしながら一旦目を閉じた碧は。
「油断して足元を掬われるなんて醜態、晒すんじゃないよ」
静かな口調で、しかし目は、カッ、と見開いて、二人を見据える。
其処には一個の完成された武人が居た。
勝利も、敗北も、栄光も、汚辱も。
戦から得ることが出来るであろう、大凡考えられる全てを経験した、犯すべからざる威厳を備えた武人が。
その碧に、翠と蒲公英とが無言で首を垂れる。
偉大なる先人に対する、多大なる敬意をその胸に抱いて。
「……来るか」
第一陣として敵中に進出した白蓮の目に、砂煙をあげながら近付く一団が映りこんでいる。
──まあ、そうだろうな。
平家軍は、河水に築いている陣と黎陽とを分断すべく、その中間あたりに坑道の出口を設定していた。
そうすることで河水の陣には退路を断たれると云う恐怖感を、黎陽の城には直接攻撃を加えられると云う圧力を与えることが出来るからだ。
しかしそれは同時に、河水に浮かぶ孤舟さながらに敵中に孤立しているとも言える。
此れが、突如平家軍全軍が現れたと云うのであればまだしも、白蓮達が先ず先陣として先行しているだけの現状であれば、先陣を壊滅せしめてこちらの意図を挫こうとするのは常道であるだろう。
河水の陣の兵も黎陽の兵も、白蓮目掛けて一斉に掛かって来る事は間違いない。
だが、それこそ白蓮の望むところであった。
無意識のうちに、白蓮は両手で、その両腰に一本ずつ差している二振りの剣の鞘を撫でていた。
向かい合うは袁紹股肱の臣であり、武の二枚看板と名高い顔良と文醜。
袁紹が幼い頃から、ずっと共に過ごしてきた二人。
袁紹にとって、恐らく掛け替えのない存在であろう二人。
──この、二人だけは。
そう心中に期して先陣を願い、その瞳の中に不退転の決意を感じたのか、碧も華琳もそれを許可した。
私的な想いから願い出てそれを許可された身としては、何が何でも此処は死守しなければならない。
白蓮は己の身命を惜しむことなく、唯只管に敵を打ち倒すつもりであった。
そして白蓮がその心算であろうと云う事を見越して、碧も華琳も白蓮に先陣を任せたのだ。
その白蓮に、
「白蓮様」
と、しわがれた声を掛ける者があった。
その声の調子で、直ぐに誰であるかが分かった白蓮は、振り返りながら声の主に向き直る。
「張任か」
「ハッ……」
白蓮からの呼びかけに短く応えながら、その年老いた外見に相応しいゆったりとした動作で歩み寄って来る。
尤も、ゆったりしているのはその動作だけで、それが内包している雰囲気は力強いものであるが。
「どうなると思う?」
その張任へ白蓮が敢えて漠然と発した問いに、
「フム。
我らが中入りを行った事もあり、前後から挟撃されることになりましょうな。
が、後詰の碧様の軍が来るまで坑道出口を守りきれば我らの勝ちでしょう。
此れより始まる戦は、一連の戦における序盤の山場にして戦全体を決する、正に切所と呼ぶに相応しい戦になるでしょうな」
と、その髭を扱きながら答えた。
「守りきれそうか?」
「なに、守り切って見せますわい」
力強い張任の言葉に、白蓮が一つ頷きを返す。
そこへ、
「守り切って見せますわい、ではない。
意気込みだけでどうにかなる訳でもあるまい」
と、桔梗がやって来て張任に否定的な意見を投げかけた。
「そうは言うがの、桔梗。
そう長い間守らねばならぬ訳ではないのだ。
気力が充溢していれば、短期間であれば数の不利に耐えられる。
この際はその短期間が最も重要なのではないかの?」
「じゃから意気込みだけあっても仕方があるまい、と言うておるのじゃろうが。
釣り出されぬように冷静さを兼ね備えておくべきじゃ」
そう言い合う二人を目にした白蓮は、また差料の鞘に手をやっていた。
張任と桔梗の言い合いが、白蓮に忘れがたい二人を思い起こさせる。
自分を育ててくれたと言っても過言ではない二人を。
常に自分に付き随い、仲良く喧嘩をしていた二人を。
終には自分を生かす為に、揃って命を捨てた二人を。
自分にとって掛け替えの無い、いや、掛け替えの『無かった』二人を。
思い出して、ギリッ、と歯を食いしばる。
──必ず、仇を討ってやるからな。
決意も新たに、白蓮は迫る敵を睨み据えていた。
第一陣を務める旧公孫家の軍と敵とが激しくぶつかり合う中、焔耶は戦場の坩堝で己が得物を振るいながら白蓮を探していた。
敵と接触した当初、後方に在って状況を眺めていた白蓮であったが、その目に顔良の姿を認めると敵に向かって遮二無二突き進んで行ったのだ。
当然焔耶も白蓮に従っていたのだが、途中進行を妨げようとする敵の圧力が強く、立ち往生しそうになった。
流石に戦場の只中で第一陣の司令官に当たる白蓮が立ち止まっては拙い状況であった。
まだ顔良など、白蓮の周囲の兵では押さえがきかない存在が遠かったこともあり、焔耶が敵中へ飛び出して敵を動揺させたのだが、その事で白蓮から引き離されてしまったと云うのが現状である。
「クソッ、そこを退け!」
周囲に群がる敵を、言葉通り薙ぎ払いながら、ひたすらに顔良が居るであろう方へ進む。
しかし、薙ぎ払って出来た空白を敵兵が素早く埋めてしまい、思った程に前進出来ない。
──やはり白蓮様から離れるべきではなかったか。
既にここでかなりの時間を費やしている焔耶は、つい先だっての己の判断に疑問を一瞬持って、しかしそれを振り払うかのように頭を振った。
──今考える事ではないな。
いずれにせよ、眼前の敵を屠らねば敬愛する白蓮の下へ辿り着くことは不可能な状況である。
「ならば押し通るまでのことだッ!」
此処で無理をせず、白蓮に追い付けないよりは、此処で無理をしてでも白蓮の下へ駆け付けた方が役に立てるだろう。
たとえ傷付き思うように力を奮えないとしても、敵の刃から白蓮を遠ざける肉の壁には成れるはずだ。
そう考えて敵中に突っ込もうとした瞬間、後方から騎馬が2騎、敵に向かって突っ掛かって行った。
その後を追って、数百騎、それもかなり練度が高い者達が続く。
先頭を行った二人は、一通り敵中を騎馬で掻き回した後を後続の者達に任せて焔耶の傍へ馬を寄せてきた。
「ね、お姉様!敵が一杯いたでしょ?」
「確かにいたけどいきなり突っ掛けるなよ蒲公英。
まあ、好きに暴れて来いって言われてるから別に良いんだけどさ〜」
翠と蒲公英。
白蓮に遅れること暫く、漸く戦場に到着した碧は、翠と蒲公英に自由に暴れ回るように指示を出し、自らはその二人によって叩かれ混乱している敵を掃討することに専念した。
碧から自由裁量を与えられた二人は思う儘に戦場を暴れ回る内に、敵中で前進しようと藻掻く焔耶を見出してやってきたのだった。
「誰かと思えば猪じゃん」
「……」
猪ではない、と反論しようとして、グッと堪える。
口論をしている余裕はない。
それが己に対する評価が原因なら尚更だ。
己のことに構った挙げ句、白蓮を護れないなど愚の骨頂であった。
「こんなとこで何してるの、脳筋?」
「……」
重ねられた暴言に応じることなく、我慢する。
何度も言うが、ここで蒲公英と争っている暇はないのだ。
今一時的に敵は混乱を来している。
翠や蒲公英が部隊を率いてまた余所へ行ってしまえば、時間がかかるとはいえ敵も落ち着きを取り戻してしまうだろう。
前進の機会は、この時をおいて他にはない。
「ふ〜ん。
ま、いっか」
「……蒲公英。
助けて貰う形になっているワタシがこんなことを言うのは失礼だとは思う。
しかし、お願いだ。
話なら後にして貰えないだろうか。
後であれば、幾らでも罵倒してくれて構わないから」
なにやら感得したらしい蒲公英に、焔耶は頭を下げた。
恐らくだが、蒲公英は自分が猪武者のままであるのかどうかを確かめに来たのだろう。
その為に、挑発的な言葉を投げつけてきている。
そう見える。
だがそれに素直に付き合っていては、白蓮がどうなるかわからない。
一刻も早く白蓮に合流し、その身の安全を図らなければならない。
蒲公英の機嫌を損なわずに会話を早く切り上げるには、真摯に向き合うしかない。
そう思ったが故に、頭を下げた。
その焔耶を前に、蒲公英は少しだけ目を見開いて、しかし脈絡のない言葉を紡ぎ出した。
「ここに居る敵はさ、私とお姉様が貰うことにしたから」
「は?」
「だから、ここの敵は私とお姉様が貰うことにしたの。
ここで武勲を挙げて、ご主人様に褒めて貰うんだ〜。
アンタは邪魔だからどっか行きなさいよ」
蒲公英が何を言っているのか理解できず、焔耶は蒲公英をじっと見る。
一見これまで焔耶が見てきた蒲公英と差が無いようであったが、声がやや堅く、邪魔だからどこかへ行けという辛辣な言葉の割にそこはかとない好意を感じた。
そして、ここではないどこかへ行け、という言葉は、焔耶にとって有り難い言葉だった。
ここではない、白蓮の元へ。
そこへ行くことこそ、焔耶が望んで已まないことであった。
蒲公英は、焔耶に気を遣ってくれているのだろう。
普段の自分達の関係を考えると、これが精一杯の、蒲公英なりの好意の示し方なのだろう。
辛辣な言葉で示されたその好意が、今は唯々有難かった。
「……済まない。恩に着る」
「何馬鹿なこと言ってるの?
蒲公英はアンタが邪魔だからどっかに行けって言ってるの。
ほら!さっさとどっかに行きなさいよ!」
「わ、わかった」
目の前の蒲公英の剣幕に押されて思わずそう答え、敵が少ない場所を目掛けて走り始めようとした焔耶に、
「……頑張りなさいよね、焔耶」
と蒲公英が声を掛けてきた。
その蒲公英の言葉に焔耶は肩越しに少し振り返り、一つ頷いて駆け始める。
白蓮を、己の主を守るために。
敢えて自分の代わりに敵を押さえることを買って出てくれた蒲公英のためにも、それを成し遂げなければならないのだから。
「行ったか?」
駆けていく焔耶を眺めていた蒲公英に、翠はそう声を掛けた。
「そうだね、清々した〜。
ここは蒲公英とお姉様の戦場だって言っているのに、物わかりの悪い猪はこれだから」
その翠に対して、蒲公英らしい憎まれ口を叩いて応じてくるが、少々調子がおかしかった。
まあ、そうだろう。
これまでの蒲公英と焔耶の関係から考えれば、恐らくあり得ないことを蒲公英はしてのけたのだ。
蒲公英のしたことは、焔耶の置かれている立場やその目的を慮って、その目的を達成させてやるべく協力を申し出たに等しい。
それが何とも気恥ずかしくて、こんな態度をとっているのだろう。
――やれやれ。これがご主人様の言う『つんでれ』ってやつか。
普段はツンツンしている癖に、大事な局面では相手を気遣い、傷付かないように配慮をする。
相手に対するそういった好意的な対処をした事実を指摘されることを嫌い、それが表沙汰になることが何とも気恥ずかしく、何かにつけて罵倒しながらその真情を隠そうとする。
そういう、実は甲斐甲斐しかったり慎ましかったりする性質を備えて居るにも関わらず、残念なことにそれを素直に表現できない人種。
平家にも何人か、いや、何人も――それも教経の嫁に多く居る気がするが――どうやら焔耶に対しては翠の従妹もその手の人種だったらしい。
未だ目の前で焔耶に対する罵詈雑言を繰り返している蒲公英だが、そう思うと可愛らしく、思わず笑みが漏れてしまった。
「……何?お姉様。
どうして笑ってるの?」
その笑みを見た蒲公英は、機敏にこちらの心情を察したのか、牽制するようにそう話を振ってくる。
放っておけば良いのに、態々話題にしてくる辺りがまた可愛らしいものだと翠は思う。
気を遣ったという事実が気恥ずかしく、もし翠が蒲公英の真情を正確に言い当てるようであれば、それを否定する必要がある。
そう考え、敢えてその話題を振ってきているのだろう。
だから、
「なに、お前が焔耶に協力してやるなんてな」
と、恐らく蒲公英が期待している通りの反応をしてやった。
その翠に、
「お姉様、何見てたの?
蒲公英は猪が邪魔だから、どっかに行けって言ったの!
それ以外に特別な意図は無いの!
大体アイツは……」
と、先程焔耶に対してそうしたように、もの凄い剣幕で翠の言葉を否定する。
「分かった、分かったって蒲公英」
「本当に分かってるの?お姉様?」
「ああ、十分理解できたよ」
「……まあ、それなら良いんだけどさ」
「それより、ここはあたし達の戦場なんだろ?
精々気張って殲滅してやらないとな」
「そう、そうだよ!お姉様!」
翠の言葉に、早くこの話題から離れたいのであろう蒲公英が何度も頷く。
翠はその蒲公英と轡(くつわ)を並べて敵を眺めながら、思う。
蒲公英には、今まで本当の意味で気安く話せる友人は居なかった。
教経と話をする時でさえ敬語など使わない蒲公英だが、全く気を使っていない訳ではない。
それが本当に必要とされる部分や場面においては気を使っているからこそ、教経は蒲公英の言動を問題視していないのだ。
気の置けない相手となると、教経はそういう関係だから当然のこととして、翠と碧位のものだろう。
しかしそれは蒲公英にとっては家族であり、蒲公英の意識として己の内側にいる人間だ。
己の外側の人間として認識されるべき他人の中には、気の置けない友人は高順位しか居なかった。
その従妹に、どうやら気の置けない友人がもう一人、新しく出来たらしい。
そして従妹は、その新しい友人の為にこの場を預かることにし、友人の本願を達せしめんと奮闘しようとしている。
「あたしも久しぶりに暴れるか」
素直になれない可愛い従妹の、健気な、微笑ましい友情の為に。
その為に己の槍を振るうことに、翠に否やはなかった。
己を斬り裂かんと迫ってくる一撃を、その身を翻して躱し、直ぐさま突きを放つ。
しかし相手も然る者、必殺の心算で放った一撃を躱し、距離を取った。
「やるじゃないか」
「クッ……」
余裕のある声で話しかける白蓮に対して、それを受ける顔良には余裕がなかった。
つい先程まで、白蓮は攻めに攻め立てられ、その命は宛(さなが)ら風前の灯火と言ったところであった。
戦場を遮二無二突っ切っていた白蓮の目に顔良と文醜の二人の姿が入った時、白蓮は我を忘れてその二人を討たんと敵前に躍り込んだのだが、流石に袁家が誇る武の二枚看板を一人で向こうに回して戦うのは無謀以外の何物でも無かった。
譲り受けた宝剣を以て二人と対峙した白蓮ではあったが、徐々にその身に傷を受け始め、ついに文醜の一撃が白蓮の死命を制するかというその時、白蓮の前に焔耶が奔り出して文醜だけでなく顔良の一撃をも弾き返した。
それからは随分展開が楽になった。
抑(そもそ)も一人で二人を相手に戦うことが出来ていたところへ、元来の武勇に沈着さが備わった焔耶がやってきたのだ。
相手を分断し、白蓮は殺すべく、焔耶は負けぬべくその力を振るえば、負けるものではなかった。
――これなら、仇を討てる。
そう意気込んで剣を振るっているが、その悉くを避けられてしまっている。
しかし相手の顔色は悪く、動きもまた冴えを見せているとは言いがたい。
このまま続ければ、遠からず白蓮の一撃が顔良を、そして文醜も、殞命させることだろう。
そう確信していた白蓮に、焔耶が文醜を抑えながら、背中越しに声を掛けてきた。
「白蓮様、普段通りに剣を振るわれませ!」
どういうことか理解しかねた白蓮は、そのまま顔良に斬り付ける。
普段の白蓮からすれば遅い剣速。
しかし、その剣に宿る殺気は凄まじいものであった。
焔耶から見ると、それは白蓮の真骨頂ではない剣であった。
白蓮の真骨頂は、その双剣による息も吐かせぬ連撃にある。
今振るっている、一撃必殺の剣ではない。
『一撃必殺の剣』。
非常に聞き心地の良い言葉であるが、それを志す以上代償が存在する。
一部の、特別な才能を持っている人間は別にして、一撃必殺を為すためには相応の力が必要だ。
それを為すためには、腕力だけでは為し得ない。
体全体を使い、重心すら傾けて、触れれば死ぬしかない凄惨な一撃を繰り出すことになる。
その一撃を思いも寄らない避け方で回避された際、白蓮が重心を大きく崩しているようなことがあれば、己が振るった兇刃は己が身に反ってくる。
そして焔耶の目に、顔良はそれを狙っているように映っていた。
今はその剣に宿る殺気に当てられて相手の動きが精彩を欠いているようであるが、一度は勝負をかけてくるはずだと考えていた。
そして焔耶が心配していたその瞬間が、どうやらやってきてしまったようであった。
「待って、居ました、よ!」
「何!?」
顔良が白蓮の、一撃を当てるために大きく踏み込んだ一撃を、金光鉄槌を投げ捨ててその股下に転がり込むことで躱した。
白蓮は、顔良が自らの獲物である金光鉄槌を投げ捨てて躱すとは思わず、自分の懐に対して有効な攻撃を直ぐさま繰り出せる体制にはなかった。
――しまった。
白蓮の眼前に転がり込んだ顔良は、その体を回転させながら腰の辺りに手をやっている。
恐らく、そこに取り回しの良い小剣が仕込んであるのだろう。
白蓮の目には、全てがゆっくりと映っていた。
顔良が、その腰から小剣を抜き放ち、白蓮の腹へ突き刺さんとした将にその時、横合いから飛んできた土石に二人して吹き飛ばされた。
何があったのかと吹き飛ばされつつ土石が飛来してきた方向を見やると、焔耶が鈍砕骨で地面を大きく陥没させているところであった。
眼前の文醜を牽制しつつ、顔良の致命的な一撃から白蓮を救うには、白蓮ごと巻き込んで攻撃をするしかないと判断したのだろう。
吹き飛ばされ、地面を転がった白蓮は、直ぐさま体勢を立て直してその身を起こす。
見れば、顔良も同じく体勢を立て直したところだった。
やや離れた箇所では、焔耶が申し訳なさそうな顔をして此方を見た後、文醜を相手取るべく再度獲物を構え直していた。
「うっ……あと少しだったのに……」
「危なかったな……」
今己の身に迫った危機を思い返し、白蓮は思わずそう口にする。
そして同時に、焔耶が何を言っていたのかを理解した。
――こんな態(ざま)じゃ、またお前達に叱られるのかもな。
随分とらしくない剣を振るったものだ、と自らを振り返ってそう思う。
田楷からは、力ではなく技と速さを磨けと云われ、関靖からはたとえ怒りに燃えていようと頭の中だけは冷静であれと云われ続けたはずなのに。
未だに自分はそれを確りと実践できないで居る。
――だから、お前達が居なきゃ駄目なのに。
それなのに、お前達が私を置いて先に逝ってしまうから。
だからこんなことになっているんだと、白蓮の思い出の中でいつも快活に笑いつつ喧嘩をしている二人に、心中そう愚痴をこぼした。
斗詩が公孫賛をあと僅かで討ち取れたはずの所だった。
その僅かな差を埋められなかったのは、自分がこの目の前に居る強敵を抑えきることが出来なかったからだと、猪々子は反省していた。
あの時まで、この女は只管に守ることに重点を置いた戦い方をしていた。
だからこそ、一転攻勢――それもそれまでからは考えられない程強引な――に転じられた際、一瞬反応が遅れてしまったし、己の守りを全く無視した攻撃を繰り出してくるとは思わず、アレを許してしまった。
だが、もう二度と同じ失敗はしない。
既に目の前の敵の力量は測り終えている。
もう自由にはさせない。
そうすれば、斗詩は先程の要領で公孫賛を討ち取れる。
その筈だった。
斗詩と公孫賛が、何度も剣を交えていた。
公孫賛の動きが、先程までと全く違っている。
一撃必殺の、当たれば間違いなく絶命するであろうというすさまじい殺気を秘めた、将に凄惨な一撃と言えるがどこか重々しいそれを繰り出していた筈の公孫賛は、しかし今では一転してその双剣を以て変幻自在の連撃を繰り出していた。
――このままじゃマズい。
猪々子の目から見て、公孫賛の剣捌きは驚嘆に値するものだった。
徐々にではあるが、斗詩が捌ききれずにその鎧や衣服を傷つけ始めている。
「クソッ、そこを退けろよ!」
「白蓮様に仇為す者は、何人たりともワタシが通しはしないッ!」
猪々子は斬山刀を大きく振り上げ相手に向かって叩き付けるが、相手もその大金棒で完璧に猪々子の斬撃を弾き返してみせる。
「チッ……あたいの斬撃を弾き返すなんて、やるじゃないか」
猪々子は自分の武勇には自信を持っている。
少なくとも、自分と斗詩とが揃っていれば、相手があの呂布であってもそう易々と負けはしないと思う程度には。
その自分と互角に打ち合うことが出来ている時点で、相手もまた一流であると認めざるを得なかった。
「フン。一流の斬撃には違いないが、上には上が居るのでな。
ワタシを打ち倒したければ、アレと同等の斬撃を繰り出して見せろ」
『上には上が居る』。
つまり、この女は猪々子の斬撃を超える斬撃を放つ人間を相手に戦ったことがあると云うことだ。
この女が言う所の『アレ』とは、呂布を始めとした所謂『超世の傑』が放つ一撃のことだろう。
「おお、やってやろうじゃんか!」
そうでなくとも、ゆっくりしている暇はない。
早く敵を排除して斗詩の所へ駆けつけないと、斗詩が死んでしまうかも知れない。
斬山刀を再び振りかぶり、敵へ叩き付ける。
しかし相手は、今度は斬山刀の軌道を見極めて左に体を躱しながら、大金棒を横に薙ぎ払ってきた。
それを斬山刀で受け止め、いなして体勢を崩そうとしたが、相手もそう簡単に重心を崩さない。
ならばと、一転大剣による連撃を繰り出す。
――これだけの大剣で連撃を振るってくるとは思っていない筈……ッ!
そう見込んでの連撃。
しかし、それに対する相手の対処の仕方は、猪々子の想像を超えていた。
「舐めるなぁッ!」
「!?」
乱れ飛ぶ剣戟に向かって来つつ、その全てを大金棒で弾き返してくる。
直感的に拙いと感じた猪々子が、相手を突き放すべく全力で剣を振るったが、その一撃を完璧に弾き返されてしまった。
かなりの衝撃に後ろへ吹き飛ばされる猪々子の目に、斗詩が両膝を地に着いて居るのが映り込む。
その斗詩を、公孫賛が双剣を構えながら見下ろしていた。
「そこをッ!退けろォォォォォォッ!」
斗詩が、危ない。
斗詩が、死んでしまう。
斗詩が。
斗詩が!
斗詩がッ!
「ワタシを前にして、ワタシを見ないとは……ッ!」
斗詩の危機を前に、敵を捨て置いてその脇を駆け抜けようとしてしまっていた。
それは、ほんの一瞬、目の前の敵のことを忘れてしまっていたからだ。
そして勝負を決するには、その一瞬で十分であった。
猪々子の脇腹を、激痛が襲う。
進行方向、斗詩の方へ吹き飛ばされる程の、致命的な隙に叩き込まれた、致命的な一撃。
それほどの一撃を受けながら、しかし猪々子にはその激痛よりも、自分の目に飛び込んできた光景に魂を鷲掴みにされたようだった。
公孫賛が、剣を振るった。
そして斗詩は、一瞬猪々子の方を見て微笑んで。
そして、倒れた。
「うぁ……あ……あぁ……と、斗詩……」
立ち上がって駆け寄ろうとして、それが出来ない程に傷付いている自分に気がつく。
それでも、何とか近付こうと、這い寄る。
少しずつ、ゆっくりと、斗詩に近付く。
斗詩は、動かない。
此方にその顔を、ここ最近見たことがない程安らかな顔を、見せたままに。
砂利を踏みしめる音が、誰かが自分の側に立ったことを教えてくれる。
「……文醜。お前も、私の仇だ」
耳元で、誰かが、何かを喋っている。
「……済まないな。
全部、私の自己満足なのかも知れない。
けど、こうしないと、私は私を始められないんだ」
前方で地面に倒れ伏している斗詩に、手を伸ばす。
届かない事は分かっている。
それでも、何故だか、手を伸ばさずには居られなかった。
「斗……詩……」
自らの躰の中を、受け入れがたい何かが刺し貫いた。
「……これで、終わりだ。
お前も……私の、復讐も」
目の前を、昏い、闇が覆う直前。
猪々子の目に映っていたのは、最後まで映っていたのは、斗詩の、顔だった。