右翼に在って平家軍右翼を拘束すべく損害を省みない戦闘行動を行っている張コウは、自分達が戦闘を継続できる限界線に迫っていることを肌で感じていた。
「まだか。まだ、孔明殿は平教経を仕留められぬのか」
乱戦の最中であるにも拘らず、つい敵本陣の辺りに目をやってしまう。
この戦に臨むまで、そして戦の最中においても、朱里の策の冴えは衰えることが無かった。
国力比で言えば恐らく勝負にならないはずの戦を、この戦場に限って言えば五分にまで持ち込んでいる事が朱里の才能の巨大さを表していると言えるだろう。
その朱里が子飼いを含む本隊を率いて、平教経の首級を獲るべく突出したのだ。
平教経の首級を獲る為に、何としても平家両翼を押さえて欲しいと言い残して。
勝算あっての、計算ずくの行動。
それであれば、きっとそうなるに違いないと信じていた。
遠く左翼側を見れば、あちらもそろそろ限界を迎えそうな様子であった。
「……いや、既に限界を超えているか」
秩序を保って攻勢を掛けているのであればまだしも、最早無秩序に敵陣に斬り込んで行っているように見える。
あれでは、組織だった抵抗をされれば各個撃破の良い的でしかない。
──そろそろ崩壊しますぞ、孔明殿。
流石に口に出すことを控えて心中でそう呟いたその時、張コウに向かって駆けて来る兵が見えた。
恐らくは、伝令。
やって来た方向から考えて、本陣からの伝令であると思われた。
途中で馬を喪い、全力疾走して来たのであろう。
フラフラに成りながら此方を目指して走っているが、如何せん時機が悪い。
敵と乱戦の最中に、策を以て近づいて来、刺殺すると云う事がありうる。
恐らく真正の伝令であろうと思うが、張コウの周囲はそうは思わず、その兵を押し止めるべく行く手に立ちはだかっていた。
「貴様、何者だ!?」
「此処は通す訳には行かん!」
警戒心も露わに厳しく問い質した周囲の者達に、やって来た兵は少し苛ついた顔をするも、息も絶え絶えで返事が出来ない様子であった。
「怪しい奴め!」
「待て」
打ち据えようとした者を、張コウが制止する。
「ちょ、張コウ様、危険です!」
「大丈夫だ、通してやれ」
「し、しかし!」
「しかしも案山子もあるか。大丈夫だと言っているのだ。
通してやれ」
「は、はあ」
怪しくはない、と判断して、張コウは兵を通してやるように命じた。
あそこで身分をすらすらと答えられる方にこそ違和感を覚える。
兵は必死の形相で駆けて来、身元を問い質されて苛ついた顔をしたが、返事を返すことをしなかった。
返事を返さなかったのは、息も絶え絶えであったことが主な原因であろうが、それより何より自分が真正の伝令であればこそであるだろう。
正真正銘朱里が発した使者であると自覚していればこそ、自分が張コウに見(まみ)える事を味方に妨害されるとは思っていず、またたとえ妨害されたとしても後刻それを朱里に伝えればそれ相応の報いを呉れてやれると無意識に思っていたに違いないのだ。
幾ら張コウの側近とは言え、総大将たる朱里に派遣された自分を高圧的な態度や手段で以て押し止めることが出来る程、自分より偉い訳ではないと知っている。
むしろ自分の方が遥かに張コウの側近に比べれば優先されるべき立場にある、とすら思っているだろう。
そうであればこそ、この場合自分より目下に当たる側近の高圧的な態度や問い掛けに不快感を露わにしたに違いない。
抑々これが平家の仕掛けた罠であるなら、身元を直ぐに答えるはずだ。
何の確証もないが、そう張コウ自身の勘が告げていた。
「ほ、本陣より、で、伝、令……です」
「申せ」
「ぜ、全軍……全軍、て、撤退せよ、との、こと」
「……すまぬが、もう一度申せ」
「ぜ、全軍、撤退せよ、と」
──敗れたのか、孔明殿が。
それ以外に全軍撤退を命じる理由は考えられなかった。
敵本陣辺りで、双方の兵が激突しているのは此処から見て居た限り確認している。
あそこまで漕ぎ着けて、最後の最後に力が及ばなかったと云うのか。
天は、袁家を滅ぼさんとしているのか。
俺は、約定を守ることが出来ないのではないか。
様々に思いが去来するが、今はそれよりも先に確認すべきことが有った。
「それで?」
「は、はあ?」
「それで、孔明殿はどうなさるのだ?」
そう、朱里がこの後どうするのか。
それが張コウにとって、一番の関心事であった。
戦場に、本当に全兵力を投入して戦っている状況で、しかも兵達は疲弊している。
この状況で撤退戦をやるなど、はっきり言って無謀すぎる。
少ない可能性ではあるだろうが、このまま戦場に残って平教経の首級を狙い続ける方が、まだ気が楽な分だけマシというものだ。
撤退戦、と言えば聞こえは良いだろうが、要は敵に背を見せて逃げると云う事に他ならない。
神経をすり減らして逃げながら戦い続け、しかも打つ手を間違えればあっという間に全滅の憂き目に遭いかねない。
逃げながら、遂に逃げ切れずに死んだと言われるよりは、戦場に残って最後の一兵まで平教経の首級を狙って戦った方が、同じ死ぬにしても上等な死に方である。
そう考える輩は、数多く居るだろう。
無論、張コウはそうは思わない。
そして朱里もそう思っていないからこそ、撤退しろと言っているのだろう。
と云う事は、全軍撤退について、誰かが便宜を図らなければならない。
乱戦になっている戦場からやや離れて逃げる体制を整え、そして実際に逃げ始めるまでの時間を確保すると云う便宜を。
そして張コウが考えていることが正しければ、それは──
「……せ、戦場に留まり、全軍の、て、撤退を、支援すると、との、ことでした」
「……そうか」
──やはり、総大将である自分が最後まで戦場に残る事を考えていた、か。
平家から見れば、張コウたちは所詮枝葉に過ぎず、大木と言えるのはこの戦場では朱里だけである。
その枝葉を切り落とすことよりも、確実に大木の方を倒すことを優先した方が良いのは自明であった。
故に、朱里が戦場で抵抗を続ければ続ける程、多くの兵がそちらへ割かれることになる。
確実に、これを切り倒す為に。
朱里に対し、これまで親しく関わって来た張コウの脳裏に、これまでの出来事が、それこそ走馬灯のように駆け巡る。
だがその走馬灯をのんびりと眺めることは、張コウには許されない状況であった。
そしてそれが分からぬ張コウでもなかった。
「分かった。全軍撤退する」
「ちょ、張コウ様!?」
「急げ。我らが撤退する時間は、孔明殿が稼いでくれる。
但し、我らがのんびりとして居れば、孔明殿は離脱できぬことになる。
我らの躊躇が、孔明殿を殺すと知れ」
張コウは我知らず、射殺すような目で反論しようとした兵を睨め付けていた。
張コウ程の武人に睨め付けられて平然として居られる訳もなく、兵は顔を真っ青にして張コウの云う事に黙って頷きを返した。
「分かったらさっさと撤退だ。
通達を出せ。即座に動くぞ」
「は、ハッ!」
「それから、伝令。貴様もついてこい」
「いえ、自分は……」
「これは命令だ。拒否は許さん。
息も絶え絶えの貴様が孔明殿の傍に帰りつける筈もないし、無事帰りつけたとてその態では役に立てることはない。
……命を、無駄に散らすな。それが孔明殿の真意であろう」
そう声を掛けると、伝令は苦しげに顔を歪めた後、一度本陣の方に向き直って一礼した。
恐らくは、別れを告げる為に。
一足先に行っていると、後からやってくるはずの戦友たちに対して。
そして、二度と会う事がないかも知れない戦友たちに対して。
その様を視界に収めながら、張コウもまた心中で頭を下げていた。
自分達を逃がして、袁家が最後の決戦を行うだけの余力を残そうとしている朱里に対して。
そして恐らく、自分は戦場を離脱するつもりがないであろう、朱里に対して。
後ろ手に縛りあげられた朱里が、兵達と引き離されてただ一人、縄を引かれて陣屋に入ってきた。
土に塗れているその身形が、つい数刻前まで行われていた血で血を洗う大戦の、その戦いの激しさを雄弁に物語っていた。物語ると云うよりは、見せつけているという表現の方が相応しいのかも知れない。
その朱里の身形を見て、横に立っていた雛里の雰囲気が一瞬だけ揺らぐのを吉里は感じた。
呼気が少しだけ、ほんの一瞬だけ止まり、そして何事もなかったかのように再開されたことに気が付いたのは、その真横に、寄り添うように立っていた吉里だけだっただろう。
そして雛里の動揺が一瞬で終わったその理由は、朱里の表情にあったに違いない。
「縄を外して」
「ですが」
「この期に及んで僕達を害したとしても、何の影響もないことは分かっている筈。
そんな無意味なことをする人間じゃないワケ。
それと縄を外したら、声を掛けるまで外に居て欲しいワケ」
吉里の言葉に、縄を引いていた兵は渋々縄を外して陣屋の外へ出て行った。
「……久しぶりだね、雛里ちゃん」
「……うん。久しぶりだね、朱里ちゃん」
雛里から聞いていた朱里の変貌ぶりからは考えられない程、その表情は穏やかなものであった。
その内心は兎も角、外貌に暗い影を落とす程何かに執着している様には見えなかった。
「吉里も、久しぶり」
「そうだね。久しぶり、朱里」
表情だけでなく、言葉も、身に纏う雰囲気も。
その全てが、朱里を見る者に穏やかな印象を与えるだろう。
何も知らなければ、何の違和感を覚えることもなく朱里をそう云う人だと思い込むだろう。
だがこれまでの経緯を知っている雛里はそう思っていないようだ。
その横顔に張り付いている、朱里の内奥を見抜こうとする緊張感を隠しきれていない表情がそれを物語っている。
朱里は、今の彼女は、どこかおかしい。
そう考えているに違いない。
そしてそれは、吉里もまた意見を同じくするところであった。
──突き抜けてしまったんだ。
此方を穏やかに見やる朱里の双眸。
その相貌に宿っている、底抜けに明るい絶望の色を見て、吉里はそう思った。
どこに、とか、何が、とか、そう云う問題ではなく、ただ『突き抜けてしまったのだ』と感じた。
自分の夢も、親友も、何もかもを投げ捨てて、最後には己の命まで賭して臨んだ決戦に敗れた。
その事で、朱里は今此の世の理の外に生きている。
いや、生きているのではなく、居る。
ただそれだけの存在として、其処に居るだけに成り果ててしまっている。
夢も欲も持ち合わせない人間など、この世に居る筈もない。
誰しもが、その規模に違いはあるとはいえ、何かしらの夢や欲を持って生きている。
世間に対して斜に構えて生きている吉里でさえ、夢と、そして今では多少の欲とを抱えて生きている。
そうやって、この世界は成り立っているのだ。
だが今吉里の目の前に居る朱里は、それらを持ち合わせていない。
全てを擲(なげう)って勝つ心算の戦で負けるとは、即ち全てを喪うと云う事に他ならない。
そしてその喪失感が、朱里を人間ではない、何処か突き抜けた印象を与えるナニカにしてしまって居る。
この朱里を、救い出すことが本当にできるのか。
雛里はただ、彼女が浸っている泥沼から掬い上げれば良いのだと考えていたのだろう。
だが彼女が浸っているのは、彼女が自分の物だと思い込んでしまった劉備と云う人が抱いていた、何の覚悟も伴わぬままに立てられた『皆が笑って暮らせる世の中を創りたい』という毒沼などではなく、それを己の全てと引き換えに実現させることに失敗して残された、一条の光すら差し込まぬ深すぎる絶望の泉だ。
掬い上げるだけでは、救えないかも知れない。
それを実感しているに違いない。
雛里が用意した手札だけではどうにもならないかも知れない、と考えていた吉里ですら、もしかすると教経が如何こうしても何とかならないのではないか、と思ってしまう。
──ううん、出来る筈だよ。
不安に襲われた吉里は、自分自身を鼓舞するかのように心中そう断じた。
少なくとも教経が朱里と話をする際に、先ずこの、全てを諦め達観してしまったかのような朱里の心を揺さぶって、人間味を取り戻させておかなければ、話にならないだろう。
人間味を取り戻して、少なくともこの世の理の内に居なければ、教経がどんな言葉を掛けようともそれが朱里の心に響くことはないのだから。
自分の物だと信じていたその夢が実は自分の物ではなく、全てを喪ったと感じているその喪失感が虚ろなものに過ぎないと云う事に自ら気付くことが出来れば。
そうすれば、朱里は持ち前の聡明さを以て自らで自らを救うことが出来る筈だ。
盲いていたという事に一つでも気が付くことが出来れば、後は芋づる式に気付くことが出来るだろう。
「朱里ちゃん、お話、いいかな」
「……うん、良いよ、雛里ちゃん」
「……」
話を、と云った雛里に、朱里がそれを受け入れると返事を返した。
しかし返事を返された雛里は、中々次の言葉を紡ぎだせないでいる。
どう、言ったものか。
何から話を始めるべきなのか。
どうすれば、その目を啓かせることが出来るのか。
それを考えているのだろう。
「……朱里ちゃん。私が朱里ちゃんを残して、白連様と袁家を、ううん、桃香様の下を去った理由が分かる?」
暫く続いた静寂を破ったのは、雛里の直言であった。
朱里の前で、真っ直ぐにその瞳を見据えて、真正面から斬り込んでいった。
──流石に雛里は良く分かってるよね。
此方が朱里の信条を圧し折る事によって、朱里を屈服させようとしているという意図が見え透いているその問いは、他の人間が発したのであれば上手く躱されて終わるはずのものだ。
そう、雛里以外の人間が発したのであれば、朱里は真面に応える必要がない問いだ。
だがその問いを発したのが、他ならぬ自分と袂を分かった雛里であったからこそ、朱里は応える。
いや、応えなければならない。
自分の親友であり、自分が乱世に呼び出し、自分と共に歩み、自分と共に失望し。
そして終には、自分と道を違えることになった、雛里であるからこそ。
朱里と雛里との関係が、正しく『朱里と雛里』としての関係であるが故に、朱里は雛里と向き合わざるを得ない。
「……うん、分かるよ」
その雛里の直言を真正面から受け止めて、朱里はそう返事を返した。
「家臣の心情を汲み取ることが出来ない、応えることが出来ない主君に付き随う事が苦痛だから。
覚悟と、そして器量に欠ける主に尽くしても、報われることがないことを理解してしまったから。
違う?」
「それもあるよ」
「……それもある?」
言っていることが、分からない。
そんな風情で朱里が言葉を繰り返した。
それに対する雛里は、沈痛な面持ちで言葉を継ぐ。
「もしそれが理由なら、連合軍として戦い終えた後、桃香様から話を聞いた時点で出奔してるよ。
私は、朱里ちゃん。
朱里ちゃんが歪んでしまったから、それを正す為に朱里ちゃんと袂を分かったんだよ」
「歪んでしまった?」
朱里のその表情は、固まったまま何の動揺も示さない。
恐らく、まだ気が付けていないのだろう。
その胸に抱いた夢とやらが、元来自分が抱いていたものとは異なると云う事に。
ジッと様子を注視する吉里の前で、雛里の言葉の意味を朱里なりに理解したのか、一つ頷いて言を上げる。
「私は平教経を斃(たお)さんとして非常の手立てを講じたこともあるし、確かに歪んでしまって居るかも知れないね」
「ううん、そうじゃないよ。
暗殺しようとしたことに関してなら、それは誰だって考えると思う。
むしろご主人様は感心していた位なんだから。
それが一番効率的で、人死にが少なく済む方策だって」
少し頑なさを感じさせる態度を、朱里は採っているように見える。
その朱里に、雛里がゆっくりとにじり寄っている。
いきなり核心を衝く話をしても、朱里には効果がないと考えているのだろう。
先ず、逃げ道になりそうなものは全て潰しておく。
例えば今やったように、暗殺を謀った為に御使い君に恨まれているであろうから自分は従えないのだ、等と云うことを言い出させない為に、御使い君自身がその手法を認め、褒めていることをさりげなく伝えることによってそれを言い出すことは出来ないのだと知らしめるのだ。
それをやってから、核心を衝くのだ。
その核心を衝いた雛里の言葉を正面から受け止めざるを得ない状況に追いやる為に。
「烏丸や高句麗を大戦に巻き込んで、使い捨ててやろうとしたことを?」
「巻き込んだのは間違いないけど、使い捨てるとか、使い潰そうっていう使い方じゃ無かったよね?」
確かに烏丸に単独で後背を衝かせ、結果としてほぼ玉砕したに等しい状況になっている。
だが、それは平家の本陣を陥れようと云う戦略の一環として、必要な行動であったのだ。
平家軍に気取られず大きく戦場を迂回するように移動し、その後背を急襲する。
其方に大きく兵を振り向けた隙に、満を持して攻勢を掛ける。
極めて論理的な、そしてあの状況では最も勝率が高いであろう策であり、そして袁家の中では烏丸がそれに最も適していた。
いや、選択肢としては、烏丸を使う以外他に途は無かった。
だから、烏丸を使った。
それだけのことだ。
「でも犠牲が必要であるなら使い潰しても構わない異民族を、と思ってやったのかも知れないよ?」
「もしそれが本当なら、朱里ちゃんは戦場に最後まで殿として残る事はないよ。
高句麗の将兵を殿にして、出来るだけ袁家の兵を損なわないようにするよね?」
「じゃあ、民衆を撃殺しようとしたことを言っているの?」
「朱里ちゃんがやろうとした訳じゃないよね?」
「そうかも知れないよ?」
朱里の言葉に、雛里が顔を横に振る。
仕方のない事を言う人だ、と言わんばかりに。
「そんなこと無いよ。集めた情報からは、寧ろ反対していたって分かってるから」
「……」
朱里の雰囲気が、一瞬だけ何かを躊躇しているかのような、そんな感じに揺らいだのを吉里は感じた。
「……分からないよ、雛里ちゃん。
私は、歪んでなんて居ないよ?」
「そんなこと無いよ、朱里ちゃん。
朱里ちゃんは、取り違えているの」
「取り違えている?」
「そう」
「何を?」
「夢を」
「夢?」
「そう、朱里ちゃんの、夢」
雛里に、夢、と言われた朱里は、思い当たる節が無い、と言った風情で問い返す。
「私の夢の何処が歪(いびつ)だって言うの?」
「朱里ちゃん、朱里ちゃんの夢は、何?」
その雛里の問いに、分かりきったことを、とばかりに即座に朱里が切り返した。
「私の夢は、戦争が無くなって皆が笑って、仲良く手を取り合って生きていける世界を作ること。
それの何処が歪んでいるって言うの?雛里ちゃん」
その答えに、雛里が哀しそうに目を瞑って顔を何度も横に振る。
「ううん、違う──違うよ、朱里ちゃん。
私は、その夢が歪んでいるなんて一言も言っていないよ?」
「でも夢って」
反論しようとした朱里の言を遮るように、雛里が矢継ぎ早に言葉を続けた。
「私はね、朱里ちゃん。
朱里ちゃんの夢が歪だなんて一言も言ってない。
私が言ったのは、ただ一つ。
朱里ちゃんは、夢を取り違えている、だけだよ」
「そんなことは無いよ」
「そんなことが有るの、朱里ちゃん。
女学院時代から聞いていた朱里ちゃんの夢は、そして私を桃香様に仕えるように誘ってくれた時に聞いた朱里ちゃんの夢は、そう云った理想のようなものじゃなかったよ?」
「何を言っているのか私には」
さっぱり分からない。
そう続けようとしたのであろう朱里の言葉が終わる前に、雛里が一気に斬り込んでいく。
朱里の言葉を鋭く切り裂いて。
「朱里ちゃん。
私が聞いていた朱里ちゃんの夢は、『この乱世を終熄させることが出来る英傑を見出し、その志を援ける』こと。
『自分が好ましく思える主君を戴いて、後世管仲や楽毅と並び評される人物になる』こと」
次々に、言葉を叩き付ける。
二の句を継がせることなく、己の言葉を押し止める暇も与えず、唯只管に追い込んでいく。
此処が、勝負。
雛里がそう考えているのは明白だった。
「『戦争が無くなって皆が笑って、仲良く手を取り合って生きていける世界を作る』なんてものじゃなかった筈だよ?」
「それは雛里ちゃんの勘違いだよ。
私の夢は、今も昔も変わらない」
「勘違いなんかじゃ」
「勘違いだよ」
雛里の言葉を遮って、朱里が雛里の言葉を否定する。
「それとも、雛里ちゃんはそれが勘違いじゃないって断定できる証拠でも持っているの?」
そんなものが、あるはずがない。
そう確信しているかのような朱里の物言いに、吉里は強い違和感を抱いた。
──面妖(おか)しい。
そう、朱里の言動は、どこかおかしい。
頭脳明晰な朱里らしくなく、相手の意図する処を上手く汲み取ることが出来ていない。
今吉里の眼前で繰り広げられている舌戦は、互いが互いの信念なりその想う処なりを戦わせ、互いの事を理解し合い、その上で相手の言い分を否定し、一人は自分が選んだ道が正しかったことを証明する為に、そしてもう一人は親友が選んだ道が誤りであったことを証明する為に、行っているものだ。
そうであるにも拘らず、目の前で舌戦を繰り広げている朱里の様は、まるで相手と意思疎通させることを拒否しているかのように見える。
いくら盲いているとしても。
理解が及ぶのが、遅すぎはしないだろうか。
態度が、少し頑なに過ぎはしないだろうか。
そして言動が、矛盾してはいないだろうか。
朱里はここまで、雛里が何を言っているか分からない、と云った態度を一貫して取り続けて来ている。
それなのに、夢を取り違えているというその一点については、断言できるだけの確証を示せと言っている。
まるで、其処を崩されると、全てが崩壊することが分かっているかのように。
「あるよ、朱里ちゃん」
「証拠が?どこに?」
「私達が女学院を出る時に、三人の決意を寄せ書いた竹簡。覚えているよね?」
言いながら自分の方を見て来る雛里に、頷いて肯定の意を示した。
「その竹簡を、水鏡先生にお願いして女学院の庭に埋めて貰ったワケ」
「……確かに、そんなことがあったね。
じゃあ、その埋めた竹簡を私に見せてくれるってことだよね?雛里ちゃん」
「それは……」
言葉に詰まる雛里に対し、勝ち誇ったような表情の中に何処かホッとしたような雰囲気を醸し出しながら、
「どうしたの?それを見せてくれるんじゃないの?雛里ちゃん」
と、朱里が雛里に声を掛けた。
「それとも、その竹簡、もうなくなってしまって居たりするの?」
「……」
「どうなの?雛里ちゃん」
「……そうだよ、朱里ちゃん。
戦乱のどさくさに紛れて、誰かが掘り返してしまったって水鏡先生が」
「……そっか」
今度は明らかにホッとした表情を浮かべ、朱里がそう応える。
「でもね、心配しないでも良いよ、朱里ちゃん」
「……え?」
「水鏡先生が埋めたのは、抑々写しだから。
ホンモノは、もっと別の処に保管してあったんだよ」
「え?」
困惑気味の朱里の様子に全く気にも掛けず、雛里が次へ次へと話を進めて行く。
此処で朱里の逃げ道を全て塞いでしまおうと云うのだろう。
そして此処で、朱里を完璧に追い込んでしまおうと云うのだろう。
「ほら、朱里ちゃん。
私たち三人の筆跡(て)で、それぞれの夢が書いてあるでしょ?」
「どういうこと?雛里ちゃん」
「どう云う事も何も、私は水鏡先生に埋めて貰うとは言ったけど、水鏡先生が庭に埋めたものが本物だなんて一言も言わなかったじゃない。
大切な思い出になるものだから、もっときちんと保管しておいてくださいって先生にお願いしていたの」
想定していなかった事実を告げられたのであろう、朱里の顔面が蒼白になっていた。
吉里でさえ、それと告げられるまではそんなことは知らなかった。
雛里と水鏡先生だけが知る、戦乱で紛失したりしないように良かれと思って講じた善後策であったのだから。
当然、朱里も知らなかっただろう。
「ねえ、朱里ちゃん。目を逸らさずにここを見てよ。
『この乱世を終熄させることが出来る英傑を見出し、その志を援ける』。
『自分が好ましく思える主君を戴いて、後世管仲や楽毅と並び評される人物になる』。
これは全部、全部朱里ちゃんの筆跡(て)で書かれたものだよ?朱里ちゃん」
この状態からは、もう、逃げられない。
追い詰めている方も、追い詰められている方も。
酷く哀しげな顔をして、互いの目を、その奥底に潜んでいる何かを、必死に読み取ろうとしていた。
そのある種の膠着状態を打ち破ったのは、朱里の、先程までとはガラリと変わった雰囲気で発せられた言葉だった。
「……やっぱり、駄目だったね、雛里ちゃん。
それに、吉里も、かな」
「駄目……って?」
「うん。誤魔化そうって思ってたんだけど。
やっぱり、誤魔化せなかったね。
雛里ちゃんは逃がしてくれなかったし、もし此処を逃れても、吉里からは逃れられそうにないし」
朱里は、吉里の方を見て苦笑していた。
「そうだね。
もし雛里から言い逃れたとしても、僕は多分逃がさなかったと思う」
「参考までに聞くけど、どうやって私を追い詰めるつもりだったの?」
その質問に対して、吉里は思う処をありのままに述べた。
朱里の態度が、一貫して居なかったこと。
『夢を取り違えている』と云う一点に関してのみ、それを否定する為の確証を求めたことで、朱里の現状に対して疑念が湧き起っていたこと。
そこから、一つの結論に至っていたこと。
「それは?」
「……朱里、アンタは、もう勘違いなんてしていない。
自分が描いていた夢が、実は他人の描いていた夢でしかなかったって、ちゃんと理解出来ている。
けど、何かしらの理由があって、どうしてもそれを認める訳には行かない。
だから、頑なに過ぎる態度を取って、雛里の言葉に耳を塞ぐに等しい態度を取り続けている。
……違う?」
ゆっくりと、しかしはっきりと、朱里を断じるその言葉を、朱里は静かに受け入れていた。
「……違わない」
「じゃあ、朱里ちゃん」
『目が醒めたなら、私達と一緒に』。
そう続けられた誘いの言葉に柔らかく微笑みながら、
「そう出来れば良いね」
と朱里が答えた。
その答えに、雛里が喜色を浮かべる。
しかし、喜んだのも束の間、直ぐに現実はそんな甘いものではないと云う事を思い知らされた。
「……でもね、雛里ちゃん。
私は、平教経さんに殺されなければならないの」
共に歩むことは出来ない、という言葉であったなら、これほど衝撃は受けなかっただろう。
そう云う答えは予測済みであったし、その場合どう説得するかは既に考えてあったから。
それが、『殺されなければならない』とは、何と激烈な言葉であったろうか。
そして、目が醒めている筈の朱里がその言葉を投げ掛けたと云う事実が、二人に不吉さを感じさせる。
朱里を、説得できない、と云う不吉を。
「ちょっと待つワケ。
御使い君は朱里の事を助命しても良いって言ってるワケ」
「そう云う問題じゃないよ」
「朱里ちゃん、ご主人様は朱里ちゃんの才能を認めてた。
他の人達だって、きっと朱里ちゃんのことは認めてくれると思う」
「違うよ、雛里ちゃん」
「違わないよ、朱里ちゃん!」
「朱里、僕達二人が、平家の皆に対しては朱里の安全性を、朱里に対しては朱里の身の安全を保証する。
だからあまり心配しなくても大丈夫だと思うよ」
「そうだよ、朱里ちゃん。
だから、頑なにならなくても良いの。
朱里ちゃんは、これから朱里ちゃんとして、漸く歩みを進めることが出来るんだよ」
「違うよ!」
説得できないかも知れないと云う不安から、代わる代わる声を掛ける二人に対して、朱里が叫ぶように否定する。
その態度に、雛里も吉里も声が出なかった。
今までのように頑なな拒絶の姿勢ではなく、どうしようもない遣り切れなさのようなものを感じ取っていたから。
「……違うんだよ、雛里ちゃん、吉里」
重ねて否定するその声は、力ないものであった。
『諸葛亮』は最早袁家に残された最後の精神的支柱であり、反平家の最後の旗頭と言っても良いだろう。
『諸葛亮』は、平家とは互いに相容れることがない、決して認められるべからざる存在だ。
その『諸葛亮』を殺さずして、平家の世が安定を見ることは無い。
樹立された平王朝に、人は何処かすっきりしないものを感じるだろう。
民を撃殺せんとした袁家の、旗頭。
これを生かす事は即ち、これまでの平家の志操を穢すことに他ならない。
民衆が如何わしさを感じる王朝が長続きするはずがない。
長期に亘って安定した世の中を現出させようと云うのであれば、此処で『諸葛亮』は討ち取る必要がある。
今を生きる民の為に。
そして将来を生きる民の為に。
だから、どうにもならない。
自分はどうしても殺されなければ、そうでなければこの先の世が成り立たない。
その始まりがどうあれ、互いに惹かれあい、また互いを認め合うように競い合っていた平教経と曹操の関係とは違い、互いに互いを殺そうとして競い合ってきた自分達が、相手の死と云う結果が齎されずして互いを許容出来る筈がない。
当事者である二人がどう考えているかと云う次元で留まる話ではなく、時代がそう云う終焉(おわり)を求めている。
人と、そして時の流れとがそれを揃って望んでいる中、敢えてそれに抗えば、たとえ民に望まれて誕生した平王朝と雖(いえど)も安泰という訳には行かないだろう。
そう言いながら、朱里は話を進める内に双眸から溢れそうになっていた涙をその小さな手で拭った後、雛里と吉里とに笑って見せた。
「二人とも、有難う。
でも、そう云う訳だから、私は殺されない訳には行かないの」
「でも、だからって!」
「ううん」
なおも抗弁しようとした吉里に、優しく、そして哀しげに朱里は笑いかけた。
それが、朱里が選び取った未来だから。
自分がしてきたことの結果が気に入らないから、それを受け入れないなんて子供じみた真似をすることは、朱里には許されないことだから。
「朱里……」
「でも」
「でも?」
もしあの時、徐州から幽州に逃げるのではなく、天の御遣いの噂が聞こえ始めていた并州に逃げていたのなら。
もし無事に并州に辿り着き、教経に仕えることが出来ていたのなら。
もし桃香様が、己自身の力で乱世に立つことを決断してくれていたのなら。
もし。
もし。
もし。
≪もし自分がそうで在りたい時に、そう在りたい自分で在れたなら≫。
仮定をいくら積み重ねても満たされないのが分かっていても、それでもその空想を止めることは出来なかった。
その幻が、自らの魂を惹き付けて止まない程に魅惑的であったから。
朱里が居て、雛里が居て、吉里が居て。
その幻の中で生きる自分は、とても楽しそうで。
そしてとても生き生きとしていて。
そうなれば良いと思っていた、まだ学生だった頃三人で語り合った、夢のような幻。
それが、叶っていたとしたら。
「そうなっていたら、もっと別の生き方が出来たのかも知れないね」
朱里から発せられたその声が明るかった事が、朱里の絶望の深さを表しているようで。
雛里も吉里も、朱里に掛ける言葉を喪ってしまった。