ひたひたと寄せて来る袁紹軍に対し、本陣が陣取っていた丘の南側へ隠し置いた象兵がこれを殲滅すべく向かっている。 その様を、吉里は本陣で教経の傍に在って眺めていた。

──此処までは予想の範囲内。

 これまでの戦を、そう評している。
 今のところ、朱里は吉里の想像を超えるようなことをしていない。
 そうであればこそ、戦前に吉里と雛里とで描いていた幾つかの絵図の内の1つに沿った戦が展開されているのだ。

 この十日間朱里と向かい合って知を競い合ってきたが、これまで何度も繰り返された盤上での模擬戦と違って、これ程精神的に余裕のある状態で居られたのは初めてであった気がしていた。
 それは、朱里にとっての勝利が、教経の死によってのみ齎されるものであると云う事を理解しているからであろうと自分で自分を分析している。
 経過はどうあれ、最終的に朱里は必ず教経を殺すべく兵を動かさなければならない。
 それがはっきりしているからこそ、却って朱里の考えていることを読み易い。
 それ故の、余裕であった。

 吉里はふと気になったことが有って、先ず雛里、次いで教経に視線を移す。

 このまま吉里の予測通りに戦が進むのであれば、朱里はその身柄を拘束されることになる。
 雛里は朱里を説得する、と言っていたが、果たして雛里が用意した札だけで朱里を説得できるかと問われれば、否であると吉里としては答えざるを得ない。

 確かに雛里が用意した札は、現状で用意できる最良の札であるだろう。そしてその札は確かに朱里の心を揺さぶるに違いない。
 だがそれだけで朱里が翻意するようであれば、抑々最初からこうはなっていないはずなのだ。
 水鏡女学院時代、他と比べて近しく、また親友と言われていたとは言え、雛里に比べると少し距離を置いて付き合っていた吉里とは違い、雛里はそれこそ朱里とべったりと言って良い程近しい関係、馬鹿みたいな表現になってしまうが、大親友であったのだ。
 その雛里が、友人として側に在って言葉で朱里を翻意させることをあきらめる程、朱里の態度は頑なであり、またその視野は偏狭であったのだ。
 そうでなければ、雛里が今此処に居るはずがないのだから。
 そんな状況にある朱里を、あの札だけで翻意させることが出来るとは到底思えなかった。

 雛里が望む形で朱里を救うには、もう一つくらい札が必要だろうと思う。
 そしてそれは、教経の器量次第であるだろう。
 雛里の用意した札で多少は揺らぐであろう朱里に、教経が何を見出して、そしてどう云った言葉を与えるのか。
 そこに全てが掛かっているのではないか、と、そう思うのだ。

 初めて教経に逢った時から、教経には驚かされたものだ。
 仇討ちの話から、偽名を使っていたことまで知られていた。少々気味が悪かったが、優秀な人間の情報はある程度知っていると言われて、悪い気はしなかった。
 その言動が軽薄であったり傲岸不遜であったりしたから、当初はその器量の程を見誤っていた。優秀には違いないが、人格的に問題があると見做していたのだ。だが、それも時が経つに連れて、その言葉や態度の裏に潜んでいる、真正の性質と云うものに気が付いた。

 教経は、珍しい人間だ。
 彼が傲岸不遜であるのは、彼の性格が真正そうであるからではなく、そうありたいからそれを演じているだけに過ぎない。
 兵達を家の子と呼び、家族のように思っていると云う割には、敵として刃を交え、多数の兵を殺した相手を幾人も受け入れている。その内の幾人かは、妻として迎え入れられてさえいる。
 在り様として一貫性が無いように思えるし、普通であれば人格が破綻するか、その人間性が耐えがたい腐臭を放つかする筈であるのに、何故だかそうはならず、『平教経とはそう云う人だ』と自然に受け止めさせるような何かを持っている。

 その教経であれば。
 いや、そう云った、他人に対して己の存在を納得せしむる『何か』を持つ教経だけが、朱里に対して何かしらの救いを与えることが出来るのではないか。

 確たる根拠はないが、吉里はそう感じている。

 その吉里の視線を感じたのか、教経が吉里に、

「おい、そろそろ接敵するぞ」

 と、声を掛けた。

「分かってるよ。御使い君はそこで黙って見ててくれれば良いワケ」
「ちょ、ちょっと吉里ちゃん……」
「いや、雛里。別に構わん。
 吉里はこう云う奴だし、今更丁寧に話しかけられたら気持ちが悪い。何より、そんなことされたら不安になるだろうが。
 普段通りの口の悪さで、却って安心できるってもんさ」
「口が減らないよね。
 まあいいよ。そこで僕の策を確り見ていると良いワケ」
「ああ、そうさせて貰おう」

 いつも通りの泰然とした様子で居る教経が、自分の傍に控えている。
 これからこの戦の山場を迎えると云うその時に在って、此れだけ自然体で居る教経が、そしてその傍らで教経と同様自然体で居る自分自身が、不思議で仕方がなかった。










──来た。

 敵本陣に迫っている自軍に対して、平家の戦象隊がひたひたと寄せて来るのを視界に収めた朱里が、最初にその心中で呟いのはその一言であった。
 その表情は、戦象隊に対するに講じた己の策が上手く行くかどうか、その成否を思って緊張している者のそれではなく、垂らした釣糸に獲物が掛かったことに興奮し、興を覚えている策士のそれであった。

 朱里が戦象隊と対するに講じた策。
 それが成功すれば、一騎に敵本陣に迫る事が可能になる。
 そして朱里は、己の策が成功するであろうことを確信していた。

 もし相手が一度も戦象隊を使うことなく、朱里が象を輸送用の動物であるとしか認識をしていなかった場合、壊滅的な被害を蒙って此処で戦が終了していたに違いない。

──でも雛里ちゃんは選択を間違えた。

 恐らく吉里辺りが強硬に主張したのであろうが、初手に戦象隊を突っ込ませたのは朱里相手には悪手であったと言わざるを得ない。何故なら、そのおかげで朱里はこうして対策を講じることが出来たのだから。

「全軍に通達を。予め伝えていた通り、隊列を再編するように」

 その朱里の指示を受けた伝令が、一斉に駈け出した。

 伝令も、ここが自軍にとって切所である事は分かっている。
 この指示の伝達が遅延することが、致命的な敗北を齎しかねないと云う事を朱里から散々言い含められていた彼らは、その駆ける様は慌ただしく、それ故に見苦しい様でこけたりして、見るものが見れば滑稽に映るものであったが、本人たちは至って真面目に、全力で奔った。

「旗の用意を」
「ハッ!用意できております!」

 旗の用意を命じた朱里に、準備が出来ている旨を即答する近従。
 その近従に一つ頷いて、朱里は前方を見る。

──余り早く対応すると、先方も対処してきかねない。

 それ故に、時機と云うものが肝要だ。

 戦象隊が寄せて来る様は圧巻であった。
 視覚的な威圧感は抜群である。
 大地に立って先を見るに、大きな壁が立ちはだかっているようなものだ。
 しかもその壁は大きく、大地に直立している自分達は壁を只見上げるより他にない程に高い。
 そしてその壁は、自分達の方へ寄せて来ているのだ。
 その質量を容易に想像できる、濛々とした土煙を上げながら。
 当然、ぶつかればただでは済まない事は言うまでもない。

 この威圧を前にしてどれだけ耐えることが出来るか。
 それが今回の戦の勝敗を分けると言っても過言ではない。

──あと、少し。これで私が天下を獲る。

 その秋が、今や遅しと朱里の眼前で、その口を開けて待っていた。

 朱里の額に、汗が滲む。
 旗を振れ、と、未だそれが時期尚早であるにも拘らず、それを命じてしまいそうになる自分を叱咤する。
 孤独に耐え、漸くこの秋を迎えているのだ。
 今この、そして後ほんの僅かな時間を。
 その僅かな時間さえ耐えて見せれば、この手で天与の秋を掴み獲る事が出来る。

 唇を噛み、じっと我慢する。
 前線に居る兵が動揺して隊伍を乱そうとしたのを見た刹那に、此処が限界かと思って旗を振る事を命じそうになる自分を、唇を噛み切って押さえつける。
 この戦に臨むに当たって、自分が講じることが出来る手立ては全て講じた。
 此処で前線が崩壊するのであれば、それはそう云うものであったのだと諦めれば良い。
 必要なのは、自分が『此処』だと、確信を持って断じることが出来る時機に、命を下す事だ。

 事態が此処まで来れば、事は朱里の采配次第である。
 もう何も、そして誰も、朱里の采配、その決断の瞬間に、無粋な横槍を入れることも、不純な圧力をかけることもは出来はしない。

 全ては、朱里の、朱里の器量次第であった。

 そしてその時機は、朱里が一日千秋の思いで待ち続けてきたその秋は、遂にやって来たのだ。

「……今です!旗を振りなさい!」

 朱里の命を受け、近従達が赤い旗を激しく振り上げた。
 まるで炎が大地に立ったかのように、旗が空へ向かって一直線に舞い上がる。
 それを合図に、今まで横に広く列を連ねていた兵達が、一斉に動き出した。

 列が、列に飲み込まれていく。

 今まで横長に為していた列は、それぞれの列を構成している兵達が左右に分かれて他の列に吸収されることで、その数を二分の一にまで減らした。

──象兵を、これで殺してみせる。

 心中確かな自信を持って、朱里はその様を眺める。
 但し、殺すと言っても命を奪うと云う意味ではなく、一時的に無力化する、と云う意味である。

 朱里の見る処に拠れば、象兵の特性は何よりもその突破力、敵集団を蹂躙する力にある。
 巨体を以て敵陣へ突進し、障害物を撥ね飛ばしながら快刀乱麻を断つ如く敵陣を切り裂くだけでなく、例え単騎であっても敵中に躍り込んで踏み潰し、周囲の兵を混乱させることが可能だ。

 真正面から真面にぶつかり合ってこれを止めることは容易ではないし、数部隊をぶつけて誘導し、主戦場から隔離しておこうとしても、此方の意図を察した時点で容易に押さえの部隊を突破して来るのは目に見えている。

 では、どうするか。

 朱里が出した答えは、象兵に自陣を『突破させる』と云うものであった。
 横列を再編し列の数を少なくすることで、列と列との間に象の巨体が通過可能な空間を、謂わば道を創り出し、そこを突破させることで部隊を混乱させること無く象兵をやり過ごす。
 急な方向転換や停止が利かない象兵は、ある程度先に進まざるを得ないだろう。
 そして、朱里と敵本陣との間に立ち塞がった敵兵が居なくなる、その一瞬の隙を衝いて、一気に敵本陣に殺到する。

 平教経の親衛隊を相手に、雛里が痛い目に遭ったことを朱里は知っている。
 その練度は恐らく中華一と言っても良いだろうし、隊としての強さも群を抜いたものである。
 だからこそ、朱里はトウ頓を使って敵本陣を強襲させたのだ。
 そして今、平教経のその身を護るべき親衛隊は、朱里の目論見通りにトウ頓の強襲を受けて後方へ引き付けられている状況だ。
 そのトウ頓の後方から張遼が戦場へ突進して来ている以上、いずれトウ頓は討ち取られることになるのであろう。
 だが、朱里にはその時間で十分だ。

 象兵が、朱里の狙い通り創り出された道を進み、朱里の脇を通り過ぎて行く。

「……突撃します!全軍、腕がもげようとも足が折れようとも、平教経を討ち取るのです!」

 声を、張り上げる。
 今までの人生で、出した事もないような、喉が破れるのではないかと思う程の大声を。
 いや、それは既に叫びと言った方が良いものかも知れない。

 朱里の魂が上げた、叫び。
 ある種の狂気に彩られた、絶叫。

 その朱里の叫びに応えるように、兵達もまた狂ったように喊声を上げ、一斉に敵陣目掛けて駆けだした。

 敵陣まで、朱里たちを遮るものは無い。
 いや、あるにはあるが、それは恐らく南方からやってくると考えていたのであろう、トウ頓達に対する備えとしての木柵だけであり、しかも朱里たちと敵本陣とを結ぶ直線上からは外れた、緩やかな丘陵地帯にある。
 もしそこに拠って交戦したとしても、完勝出来るだけの状況は整っている。
 あちらは1,500強、此方は8,000弱。
 彼我の戦力差は四倍程度はある状況である。

──私は、勝っ……

 『勝った』。
 一瞬、その言葉が思い浮かんだ朱里は、しかし頭を激しく振った。
 去来したその言葉を、自ら振り払うかのように。

 勝ったというその想いは、油断を生みかねない。
 まだ相手が死んでいない以上、何をしてくるか分からないのだ。
 止めを刺しきるその瞬間まで、平教経の首を捩(ね)じ切るその瞬間まで、決して油断することは許されないのだ。

 それを何度も己に言い聞かせ、朱里は弛みかけていた己自身を今一度引き締めた。

 ……己が、唇の端を釣り上げるようにして笑っているのに気付かぬままに。










「してやられたか」

 象兵隊が敵陣に突入するその前に、敵軍が再編されていく様を見ながら、教経はそう口に出していた。

 歩兵を密集させること無く、象兵の進む道を空けることで突進をやり過ごす。
 ザマの戦いでハンニバルと対峙したスキピオが採用したその策を、たった一度、それも数日前に邂逅したばかりでしかない諸葛亮が、ベン池で再現して見せたのだ。

「スキピオ並、いや、それ以上か」

 スキピオには、カンナエ会戦からザマの戦いまで、長い時間が与えられていた。
 その長い間に、敵将であるハンニバルから戦の本質と云うものを学び、盗み、自得した。
 無論スキピオの天才あっての事ではあるが、時間があればこそ考案できた戦術であったのは間違いない。スキピオがカンナエ会戦の後直ぐにハンニバルと対峙して、ザマの戦いと同様に完勝できたとは思えない。

──それを諸葛亮の奴は。

 驚きと共に、思わず笑いがこみあげてくる。
 その凄まじい才能に、素直に勝算の思いが湧いてきて、彼女の敵として向かい合っているにも拘らず、痛快な気持ちにさせられた為だった。

 演義の諸葛亮を数段階強化したかのような、将に傑物と云うべき才。
 それであれば、その政治の才能もまた、演義の諸葛亮を遥かに超えるものを有しているかも知れない。

──欲しい才能だ。

 敵として向かい合っているにも拘らず、そう考えてしまう。

 象兵が突っ込んでいく。
 しかし敵軍は混乱することなく象兵をやり過ごした後、喊声を上げてこちらに向かって殺到してきた。

 彼我の間に、遮るものはない。
 本陣に控えているのは、1,500弱の親衛隊だけだった。
 対する敵軍は6,000を下る事はあるまい、というのが教経の目算であった。

 絶対絶命とは、こう云う状況のことを言うのだろう。

 そう思い、自分の脇に立っている雛里と吉里に目をやると、二人とも驚いた表情も見せずにじっと戦況を見守っていた。
 まるで、諸葛亮がこう対処して来るのは当たり前だと言わんばかりの態度だった。

──こいつら、これを予測して居たってのか。

 その様子に、こっちもこっちで気違い染みて居やがる、と内心で評した教経は、ふと、風が居ない事に気が付いた。
 眼前の二人の泰然とした様子と、自身が奇計百出と評したこともある風の不在。

 それが何を意味しているのか、その程度のことが分からぬ程、器量が不足している教経ではなかった。





 象兵を突進させ、敵兵を混乱させると云う策は破られた。
 象兵を目にした、その経った一度きりの経験で、朱里は殆ど全てを見切ったのだろう。

 才能の差。

 それが明確に表れる形になったのだった。
 そう、朱里は、吉里の想像を超えて見せたのだ。

 吉里の想像通りに。

 女学院時代、雛里が考える策に対して、雛里の想定を超えた対応をして何度も雛里に勝って見せた朱里。
 その朱里が、吉里の考える策に対して、吉里の想定を超えた対応が出来ないはずがない。
 この戦を、自分と雛里とに任せる、と教経から言われて以来、全ての策はそれを織り込んだ上で構築していた。

 朱里は必ず、自分達の想定を超える対応をしてくる。
 その前提に立って策を考えた時、まず最初にぶつかったのは、自分達の想定を超えた対応をしてくるのがいつ、何に対してであるのかが分からないと云う壁であった。

 長安において盤上で模擬戦を繰り広げる中で、局面局面においては、吉里の閃きが大きな戦果を齎したこともあった。
 だが同時に、その閃きは大損害を齎すこともあった。

 それが特に顕著であったのは、雪蓮と華琳とを相手にしている場合であった。
 閃きと云うものは、結局のところ奇計である。
 この場合の奇計とは、妙算の事ではなく、文字通り奇を衒った計略の事だ。
 そして華琳は、吉里の奇計に対して、思いも寄らないような策を──それも、吉里の策を利用して大きな戦果を挙げる類の策を──講じてきた。
 そして、何度も煮え湯を飲まされることになった。

 それ以外にも、多くの、そして一流の将や策士たちと向かい合い、戦った結果として、吉里は一つの結論を出すに至ったのだ。
 奇計や妙算と云うものは、最後の最後まで取って置くべきものであり、都度ひけらかすようなものではない、と。

 此方がひけらかせばひけらかす程、相手は警戒するし、逆にそれを利用することを考える。
 それを考えさせて、更にそれを利用して打ち破ると云う事も出来るとは思うが、それは相手が自分より確実に才に劣っている場合だけだ。
 自分より優れた才を有する人間を相手にすると、相手が考え付いた、自分の策を利用する策が、自分が対処できる範囲をはるかに凌駕するものである事が多い。

 では、才に劣った者は己より才に優れたる者に勝つ手立てはないのかと言えば、決してそんなことは無い。

 戦においては、定石と云うものが存在する。
 簡単な例え話ではあるが、相手が殴り掛かって来たとして、近寄らせたくないと云う場合、手に長物があればそれで相手の胴を突くのが常道である。
 つまり、ある行動に対するに、目的を達するに適した対応と云うものが存在する。
 それを利用すれば、勝つことは不可能ではない。
 無論、言う程に簡単ではないことであるが。

 今回吉里が考えたのは、この最終局面において、切り札である象兵の突進を、全くの無傷で無効化されてしまった場合の事であった。
 事前に教経から象兵について話を聞かされていた雛里と吉里は、教経が史上で五指に入る戦術家であると評する人物が採用した象兵対策を耳にして、朱里がそれと同じ対策を考え付くだろうと予測して策を建てるべきだと考えたからだ。
 もし策を講じずに会戦した場合、決定的な場面で取り返しのつかない事態を迎えかねない。

 だから、用意をした。
 自分達が切り札足り得ると考えた、その切り札が完全に無効化されても。
 それでも、朱里を打ちのめすことが出来るだけの、本当の切り札を。

「朱里。多分だけど、アンタ今自分が勝てるって思ってるんでしょうね」

 寄せて来る大喊声を前に、吉里はそう呟く。

──でもね、朱里。

「僕は、まだ死んでない。御使い君も、殺させはしないよ」

 吉里が、旗を振るように指示を出す。
 その指示に従って振られた旗は、奇しくも朱里が勝利を確信して振らせたのと同じ、赤い旗であった。





 本陣で赤旗が振られる様を穿った穴から視認した風は、目を糸のように細めながら遂にその機会がやって来た事を知った。
 後は自分達次第、と云う事になる。

「そう云う訳で、風達がお兄さんの命運を握っている、という訳ですね〜」

 丘陵地帯に穿たれた穴の中から、直ぐ近くに居る副将に声を掛けた。

「あら。では、頑張らないといけませんね」
「勿論なのです。伏兵と言えば風。それを思い知らせてやらなければならないのです」
「それは?」
「何となく言っておかないといけない気がしただけなので、気にしなくても良いのですよ」
「あらあら」

 普段通り、快調に電波を受信する風に、コロコロと笑いかける副将。

「期待しているのですよ、紫苑。
 弓兵の指揮では、貴女が一番巧みなのです」
「期待には応えないと駄目ねえ」
「ではまあ、そろそろやってやるのですよ」
「そうね。行きましょうか、風ちゃん」

 兵に合図を送り、穿った穴から一斉に立ち上がる。
 その数、2,000。
 雛里と吉里、そして風とが考えた、正真正銘最後の切り札が、この伏兵であった。

 馬防柵の前に孔を穿つことで、騎馬に対して有利に戦う。
 そう説明して、木柵の前に孔を穿った。
 そして烏丸兵が北側後方からやって来た際に、風は雛里旗下の紫苑を伴い、この孔の中へ埋伏した。
 諸葛亮が己が手で決着を付けようとするなら、本陣を彼女自身が衝いてくるはずである。

 その際に、決定的な一撃を与えるのが風達の役割であった。
 そして今正しく、その状況を迎えている。

「全軍、弓と弩を用意!」

 孔から這い出した風達に気付いた敵の一部が、流石に無視できずにこちらに向かって来ていた。
 その数は、およそ5,000程であろうか。

「今なのです、紫苑」
「射よ!」

 旗下の2,000名が、一斉に矢を放つ。
 それなりの数の敵が矢に斃れたが、しかし敵は足を緩めることなく、接近して来る。

「第二射、用意!
 ……てッ!」

 二射目が、雨のように降り注いだ。
 馬防柵の後ろへ本陣が移動したからか、全ての敵が此方へ向かって来ていた。

──やはり生半可な覚悟ではないのです。

 第二射を受けて猶、敵は怯むことなく突き進んで来る。
 左右にいた筈の戦友たちが矢箭に斃れているにも拘らず、一心不乱に本陣を目指していた。
 その敵は、未だ7,000弱を数えている。
 あの勢いを保っている敵と正面から真面にぶつかったのでは、一当てされただけで蹴散らされてしまう恐れがある。
 敵を禦ぐ為には、何とかその勢いを殺いでやる必要があった。

 しかし、弓を射ることが出来ても、あと一射程度だろう。
 その程度まで、敵は接近してきている。

「……では弩を用意するのですよ、紫苑」
「ええ……弩を構えなさい!」

 一射程度では、あの勢いを殺ぐほどの損害を与えることは出来ない。
 それは間違いのない事実であり、風自身もそう思っていた。





 南方からの騎馬に備えていたであろう木柵の手前に穿たれていたのであろう孔から、埋伏の兵が湧きだしたのを確認した朱里は、当初そちらへ5,000の兵を回し、朱里が率いる本隊は敵本陣を衝くべく直進するつもりであった。
 しかし、その朱里の動きに応じて、平家軍の本陣は木柵の向こう側へ移動した。

──時間を稼ごうとしても無駄だよ、雛里ちゃん。

 先に向かわせた5,000の後を、残りの兵を率いて追い駆ける。

 この一瞬においては、彼我の戦力差は圧倒的とは言わないものの、二倍弱はあるのだ。
 戦場全体を俯瞰すると朱里たちは周囲を敵に囲まれている形になっているが、この付近だけを見れば周囲から敵が殺到して来る形にはなっていない。
 まだ暫く、誰も邪魔に入ることができない。
 それを理解していればこそ、敵本陣は木柵の向こう側へ移動したのだろう。
 木柵を隔てて戦って、周囲からの救援を待つ為に。

 だが、朱里とて既にそこに木柵が立てられていることには気が付いていたのだ。
 木柵を手早く引き倒す為の道具類は揃えて来てあるし、然程時間を掛けずに木柵を突破することで相手の計算を狂わせて焦らせ、己の勝利をより一層確実なものにしようと目論んでいた。

 孔から出て来た敵兵は、健気にも矢箭を以て此方の進軍を止めようとしてきたが、それも無駄なことであった。
 この戦中に確りと刷り込みを行ってきた事によって、朱里の云う事を聞いていれば袁家は勝てると云う確信を兵達が持っていた。
 その兵達が、たかが矢箭を浴びせられた程度で、勝利への進軍を止める筈がないではないか。

 敵兵が、三射目を発射する。
 今までの弓なりの軌道とは異なり、直線的に飛来した矢箭が兵達を次々に傷つけていた。

「クッ」
「しょ、諸葛亮様!?」
「……大丈夫です。矢疵を受けたに過ぎません。
 毒が塗ってある訳でもないようですし、心配には及びません」

 第三射は、恐らく弩を使用したに違いない。
 頭上を意識していた兵達は、直線的に飛来した矢箭に反応が遅れ、かなりの数が傷ついていた。
 それは朱里自身も例外ではなく、矢疵を受けてしまった。

──でも、私は生きている。

 そう、朱里はまだ生きていた。
 生きて、そして平教経を殺さんと、兵を率いて進軍していた。

──そしてもう、これ以上矢箭は飛んで来ない。

 この距離では、弩であろうと弓であろうと、次射を行う時間的な余裕はあるまい。
 恐らく朱里を止める最後の機会であり、そしてそれを意識していたが故に第三射を弩で行ってきたにも拘らず、朱里たちに致命的な損害を与えることが出来なかったことで、戦の流れが完全に朱里の側に傾いていることを感じていた。

 敵兵の数は、本陣を含めても3,000程度。
 此方の数はまだ6,000を超えている。
 数の上では単純に2倍でしかないが、敵は2,000と1,000との集団に、間に木柵を挟んで分かれてしまって居るのだ。
 眼前にその身を曝け出している2,000の兵を蹴散らし、そのままの勢いで敵本陣を蹂躙することも難しくない。

 目の前の2,000を蹴散らした時点で、恐らく5,000程度の兵は手元に残すことが出来るだろう。
 敵本陣の1,000を構成しているのは親衛隊であることが予想されるが、5,000を超える兵に囲まれては流石に無事では居られまい。

──勝った。

「全軍、眼前の敵を蹴散らしてやりなさい!」

 自分の勝利を確信し、配下に命令を下す朱里の耳に、耳障りな音が飛び込んでくる。
 その音が何であるのか、朱里には最初分からなかった。

「……まさか、そんな、馬鹿なことが……」

 有り得ない。
 今耳にした音は、先程聞いた音に等しくはないか。
 一斉に、勢いよく放たれた矢箭が、朱里たちを害さんと風切って飛来してくる、風切音。
 それと、同じものではないか。

 馬上に在って先を見れば、其処に何か黒い塊があるのを認めることが出来た。

 それは、朱里の夢に畢(おわ)りを告げるもの。
 天下の権を求めた朱里が将に飛び立たんとしたその時に、これを絡め取り、そして押さえつける網であった。





 伏兵が戦場に現れた時、それを目にした吉里は長安で交わした教経との会話を思い出していた。

「連弩?」
「うん。御使い君が開発した、新兵装。
 仲達から聞いたんだけど?」
「あるにはあるが、まだ数がそれ程揃ってないぞ?」
「6,000、ううん、4,000丁で良い。それだけ、揃えて欲しいワケ」
「それくらいなら現状揃えるまでもなくあるが……どうするんだよ」
「紫苑の隊に持たせてみたいだけだよ。
 弓兵の運用なら、僕が見た限りじゃ紫苑が一番上手いの。
 新兵装の使い方、色々と考えてくれると思うし、試しをして貰うならやっぱりその道に長けた人間が良いでしょ?」
「まあそれはそうだが……」
「何よ。別に呉れたって良いでしょ?けち臭いなあ」
「けち臭い、とは聞き捨てならんな」
「なら良いでしょ?」
「チッ、まあ良いだろ」
「ありがと。恩に着るよ」

──連弩を、切り札にする。

 それは、教経が新兵装として連弩を開発したことを知った時から、吉里が考えていたことだった。
 事前に紫苑の意見を聞き、一人が二丁携行することで、通常では在り得ぬ四連射を可能とする部隊を伏兵として伏せておく。
 吉里が着る切り札の基本線は、これになる。

 問題は、その詳細、細かな仕込の部分に在った。

 射手を伏せるなら、山など傾斜を有する場所で、上から矢を射掛けさせるのが最上。
 だがただ伏兵が湧いて出ただけでは、それを無視して本陣に突っ込むだろう。
 それでは困るのだ。
 吉里は、それを伏兵の側へ釣り出したい。
 ただ単に釣り出したいだけでなく、伏兵へ向かって一斉に行軍してくるように仕向けたい。

 何処に伏兵を伏せるか。
 そして吉里が思ったように事が上手く運ぶか否か。
 それはその時を迎えた吉里たちが、どう云う状況におかれているかに依存する事になるだろう。

 そう思っていた。

 そしてこの最期の最後の局面で、吉里の頭に閃いた策を、吉里は迷うことなく実行する事を選択したのだ。

 騎馬に備える為に丘陵へ構築した木柵。
 そしてその前に掘っておいた、人一人が身を隠すなど容易い深さの孔。

 この二つがあれば、朱里を釣り出すことが出来る。
 朱里が予想通りに自分の予測を超えた手法で象兵を軽く突破してきたならば、目の前にぶら下げられた教経という餌に無心に喰らい付くのは間違いない。

 木柵の前の孔に、紫苑と風とを埋伏させる。
 そして伏兵側へ一度に、そして一斉に敵が突き掛からぬように、最初から教経と敵軍との直線上に伏兵が出ない様に本陣を構えておく。
 伏兵と本陣とへそれぞれ兵を分けて進め始めたその時に、本陣を木柵の後ろ側へ移動させるのだ。
 それで、伏兵した2,000の兵で耐えられぬ程の圧力を、一度に受けることを避ける。

 木柵の前に2,000。
 そして木柵に分断される形で、その後ろに1,000。
 朱里はこれを、兵3,000で構成された一部隊とは観ず、それぞれ2,000と1,000の、二つの別々の部隊と観るに違いない。
 敵本陣の兵全てでこれに当たれば、3,000であればまだしも、2,000と1,000とであれば、勢いをつけてぶつかれば鎧袖一触に出来ると思うだろう。
 その為に、機会を得たと感じたその時に、全軍にただ盲目的に前へ進めと命じる事だろう。

 そして、そうなった。
 吉里にとっては勝利を、朱里にとっては敗北を告げる、矢箭が風切って翔ぶ音が、戦場で続けざまに四度響き渡る。
 騎上に居た人間が幾人も落馬し、紫苑たちへ寄せていた兵達が、近くに居たものから順に次々に地に伏せて行き、そしてその殆どが再び立ち上がる事が無かった。

「終わった、か」

 吉里は、横で教経がぼそりと口にした、終焉を意味する言葉を、

「ううん。まだ終わってないワケ」

 と一言で否定した。

「そうか?だが敵にはもう勢いがない。
 流石に連弩の四連射には耐え切れなかったようだが?」
「そうだね。でもそれでもまだ敵の方が数が多いよ?
 その歩みは鈍ったし、戦える兵も4,000を切る程度かも知れないけど、それでもまだ朱里は生きている。
 その証拠に、敵は前進する事を止めていない。
 朱里の心が折れていない以上、最後まで御使い君を殺す為にあがくに違いないワケ」
「成程。なら、止めを刺しに遣ろう。その心を圧し折りに、な。
 ……オッサン!」

 教経が、魏越に声を掛ける。

「700連れてぶっ叩いてこい。これで、仕舞いだ」
「ガハハハッ、腕が鳴りますのぅ」
「風達と合流したら、風の指示に従え。それと、連弩は置いて行け。
 仲達は300と一緒に此処に居ろ。もう必要は無いと思うが、一応連弩を用意しておけ。オッサン達の分の連弩も、即座に撃てるようにしておけよ?」
「ハッ」

 丘陵を、魏越が駆け下って行く。
 その率いる兵は、将に意気揚々と言った様子であった。

 ここまで、友軍や同僚たちが死闘を繰り広げている中で最後まで戦う事を許されなかった、戦うために生まれて来たと放言して已まない戦の鬼たちが、初めて戦場に投げ込まれることになる。

 吉里は魏越たちの背中を見送りながら、心中そっと独りごちる。

──出来れば、生きて逢いたいけど。

 でももし、その命が尽きるまで。
 旗下の兵達の命全てを散らし、最後の一人になって猶、それでも教経を殺すことを諦めないのなら。
 最悪の事態ではあるが、何としても朱里を殺さざるを得ない状況を迎えるしかないのであれば。

──僕はアンタを殺すことを迷わないからね、朱里。

 雛里にとって、朱里は欠くことが出来ない親友だ。
 けれど、僕は違う。
 僕にとって、朱里は強敵(とも)だから。

 だからもし、どうしても殺さなければならないのなら。

──雛里じゃなく、僕が殺してあげるワケ。

 雛里は親友を手に掛けて平然として居られる精神構造はしていない。
 むしろその逆で、親友を殺した己を攻め続け、自分を否定し続けることで、遂には精神的に死んでしまう事になるだろう。
 そして自分を手に掛ければ雛里が精神的に死んでしまう事を、朱里はその死の間際に理解してしまうだろう。

 教経とは異なるが、しかし正しいと信じている、朱里が自分の物であると思い込んでいる夢。
 その夢を実現させる為に、必要な戦いであり、自分にとって正しい筈のその戦い。
 それら全てを、雛里を精神的に殺すことになった自分自身を許すことが出来ず、自ら否定しなければならなくなってしまうだろう。
 それは、肉体的にも精神的にも、朱里と云う人間が否定されることだ。
 他でもない、朱里自身によって。

 敵味方に分かれて戦うのは、乱世なのだから仕方のないことだと思う。
 けれど、自分自身を否定して、自ら己を殺すような死に方を突き付けられねばならぬ程、二人は罪深い訳ではないだろう。

──それを避ける為に、僕が朱里を殺せば良い。

 雛里は悲しむだろうが、憎むことが出来る対象が、自分以外に出来ることになる。
 自己否定には繋がらず、精神的に死ぬようなことはないだろう。
 朱里は雛里を殺すことにならなかったことで、納得して自分の正しさを貫き通して、真っ直ぐに死んでいくことが出来るだろう。

──それが僕なりの、アンタたち二人に対する友情の示し方だと思うから。

 その為に、吉里は此処に居るのだから。










 躰が、痛かった。
 気付いた時には、朱里は地上にその身を投げ出されていた。

 弩の、四連射。
 予め矢を番えていた弩を持ち歩いていた、と云う事だろうか。
 しかし、四つも弩を持ち歩かせる等、邪魔になる割にはそれに見合った戦果は見込めないであろうに。

──でもこの場合は、例外だった、か。

 敵を鎧袖一触に出来ると思い、そしてそれを為すべく勢いよく敵に突っ込まんとした。
 それを待ち受けるだけで良いのだ。
 埋伏していた孔の中から這い出す程度の動きしかなく、移動することもないのであれば、最初から弩を四丁伏せておくことは出来る。
 誤射してしまった場合を考えると、矢箭を番えたまま、弩を引き絞ったままで放置しておくのは危険であるが、その危険を冒してそれが上手く行くと云う賭けに勝てば、現状を創り出すことは出来る。

 とても、雛里らしくない策。
 吉里辺りが好きそうな、上手く行かなかった場合に全軍崩壊の引き金になりかねない危険な賭けであるが、その賭けに勝って見せた相手に今更言うべきことでもない。

 今思えば、敵の動きの全てが、この四連射への伏線になっていたことに気付かされる。

 象兵が、切り札だと思っていた。
 それ自体が、誤っていたのだ。
 完璧に裏を掛かれた、と云うべきだろう。
 象兵の使い方から、それが切り札だと思っていたのだから。
 そう思わせるべく、用兵に気を遣っていたということだ。

 そして象兵を躱した後に湧き出してきた、埋伏の兵。
 時間稼ぎの兵だと思ったし、それが切り札であったとしても兵数が足りないと思っていた。
 此方が象兵によって損害を蒙る事を前提とした、切り札足り得ぬ切り札に成り下がった伏兵。
 そう思っていたのだ。

 だが現実はそうではなかった。
 切り札は、象兵でも埋伏の兵でもなく、弩の運用方法に在ったのだ。

 周囲を見れば、多くの兵が矢に斃れていた。
 生き残っている者達は、どうやら逃げ惑っているようであった。
 どれくらいの間失神していたのかは分からないが、まだ周囲を古参兵たちが確りと固めていること、そしてその他の袁家の兵がその辺りを右往左往していることから考えて、然程時間は経過していないのだろう。
 もし長い間失神していたとしたなら、袁家の兵達は既に散っているだろうし、古参兵たちは敵兵と激しく切り結んでいる状況であるに違いないのだから。

「諸葛亮様!御無事で!」
「ええ。生き残ってしまったようですね」

 『生き残ってしまった』。

 それが朱里の偽らざる実感だった。

 この切所で、馬上から射落とされ、僅かであったとしても失神してしまった。
 失神して居なければ、状況に適した指示を出し、此処まで崩される、いや、自ら崩れるようなことにはならなかったはずである。
 だが、そうはならなかった。
 朱里は失神し、部隊を立て直す機会も、再び士気を高揚させるべく檄を飛ばす機会も与えられることは無かった。
 そうならなかったと云う事は、即ちここが自分の限界であったと云う事だろう。

 天命は我には在らず、彼に在った。
 そういうことだ。

 天下の権柄をこの手に握ることは、終に叶わぬ夢へと成り果てた。

 その想いが、朱里にその言葉を吐かせたのだ。

「……心中お察し申し上げます」
「いえ、詮無きことを口にしました。
 忘れて下さい」
「ハッ」
「気落ちしてばかりでは居られません。
 全軍に伝令を」
「ハッ、して、如何様なものでしょうか」

 朱里の落ち着いた様子を見て安心したのか、兵達の顔が明るいものへと変化した。
 朱里が居れば、まだ勝てるかも知れない。
 そう考えているに違いなかった。

 だが朱里は、最早自分には天与の秋を掴み獲る事が叶わぬことを知っていた。

「全軍、戦場を離脱しなさい」

 その言葉を聞いた周囲の兵達は、何を言われたのかが理解出来なかったのであろう。
 表情を変えることなく言葉を聞き、それを己の内で咀嚼する内にその言葉が意味している事に理解が及んだのか、血相を変えて食いついてきた。

「な、何故です!?確かに我々は痛手を蒙り、現状負けつつあります!
 ですがまだ、負けた訳ではありますまい!
 それにたとえ負けるにしても、平教経に一矢報いてから負けとう御座います!」
「そして無駄に命を散らすのですか?
 袁家の事を思うなら、今はこの戦場から少しでも多くの兵をギョウへ返してやる事を想わねばなりません。
 兵は無限ではありません。徴兵しようにも、人が居なければ兵には取れません。
 この戦を経験し生き残った兵達は、貴重な決戦戦力として勘定に入れることが出来るものになっている筈です。
 此処で死ぬのは、単なる自己満足に過ぎないでしょう。
 それも、何の役にも立たない類の、です。
 真に忠義を尽くさんとするならば、生きて再び平家と戦場で見(まみ)える事を想うべきです」

 袁家に恩義を感じているであろう者達が、その言葉に俯いて顔を伏せる。

「それから、私に付いて来てくれた貴方達は、私の真意を知っている筈です。
 私と平教経とは、ここベン池で天下を賭けて争っていたのです。
 その戦いの帰趨は、既に定まりました。
 私が負け、彼が勝った。
 この状況から私が勝つことは万に一つもないでしょう。
 袁家と平家との争いは知らず、私と平教経との争いは既に終わったのです。
 彼は私に打ち勝った勝者として、天下を主宰する為に邁進して行くべきなのです。
 その彼の行く道を、この期に及んで私が妨げるとでも思っているのですか?」

 その場で話を聞いていた誰もが、言葉を失う。

 戦ったからこそ、相手の事を理解出来る。
 肩を並べ、そして乗り越えようとすればこそ、相手の事を理解する必要があるからだ。

 戦に負けた自分には、たとえ命を失う事になろうとも、平教経の進む道を妨げる資格はない。
 この戦いは、どちらが我意を貫き通すのか、それを決める為の戦いであったのだ。
 敗者は勝者を妨げることはしない。
 それは、朱里と、そして平教経との間に、暗黙のうちに交わされた約定のようなものだ。
 何の根拠もないが、もし立場が逆だったとしたら、平教経もきっとこうするであろうと云う確信が、朱里にはあった。

「もう一度命じます。全軍に、伝令を出してください。
 全軍、戦場を離脱する事。
 分かりましたか?」
「……ハッ」

 伝令を奔らせる為に、何人かがその場を離れた。

「諸葛亮様は……」

 その場に残っている兵の内の一人、それなりに齢を重ねている者が、朱里に声を掛けて来る。

「貴女様は、どうなされるのです。
 今のお言葉を伺った限り、平教経を暗殺するなど考えてはおられますまい。
 と言って、一人落ち延びることも考えておられぬようにお見受け致しますが?」
「……そうです。私は最期まで、此処に残ります。
 貴方達には、此処で私に付き合って貰いたいのです」
「何を為されるお積りです」
「けじめをつけるのです。
 私は、袁家に従う桃香様の家臣でありながら、袁家の方針など意に介すこともなく、我意に拠ってこの戦を引き起こすに至りました。
 私が負けたことで、袁家は苦境という表現が生温い程厳しい状況に置かれることになるでしょう。
 ですが、同じ苦境に立たされるにしても、今この戦場に居る兵達の多くがギョウに帰還できた場合とそうでない場合とでは、その程度に差が出て来るのは先に言った通りです。
 この戦場に私と云う総大将が留まり続ければ続ける程、他の人間が離脱しやすくなるのは自明の理です。
 この決戦を行うと云う、私の我意を貫き通すことを認めて同意を示してくれた、幾人かの人達の為に、来るべき彼らの決戦の時に、決戦戦力として当てにできるだけの戦力を残すことで、私は私の行いのけじめを付けなければならないのです」

 そしてそれは、一人ではできないことである。
 それを為す為には、此処まで付いて来てくれた兵達に、標的にされる為に残ってくれと頼む必要があった。

「これまで私に従ってくれた貴方達には感謝しています。
 ですが……」
「付き合って貰いたい、とは即ち、これまでと変わらずお供をさせて頂ける。
 そういうことですな?」
「……ええ。最後まで、私の我が儘に付き合って下さい」
「それこそ望むところでありましょう」

 穏やかな表情で頷く男の顔を見て、朱里は思う。

 自分と共に駆け、自分の勝利に賭けてくれた者達。
 切所にあって朱里を裏切ることなく、失神していた朱里を守るべく周囲を固めていた者達。
 死なせるには惜しい、愛すべき者達。
 それらを、否応なしに死地に向かわせなければならない。

 この虚しさは、何と云う事だろう。
 この切なさは、何と云う事だろう。

 そしてこの無力感は、何と云う事だろうか。

──これが、敗北、か。

 四方から攻め寄せて来る敵の喊声を前に、その喊声自体には何の感慨も抱かぬままに、朱里はずっとその無力感を噛み締めていた。