戦象を突っ込ませて戦端を開いてから十日目、遂に戦況が変化した。

 これまで平家軍が攻め、袁家軍が守ると云う形でずっと推移していたが、この日は朝から袁家軍が攻勢に出ていた。
 油断している心算は無かったのであろうが、やはり前日までと打って変って攻められる立場に置かれたことで、右翼左翼の両翼共に敵に押し込まれている状況であった。
 戦略的にも戦術的も、此方が攻める側であちらが守る側である。
 そう云う認識を皆持っていたし、実際にそれは事実であった。
 だが、それはこの眼前の戦場に限ったとしても、やはり戦端を開いてから勝利するまでの期間を押しなべて評価した際にそう言えるだけのことであって、瞬間瞬間を捉えれば、決して攻守が入れ替わらない訳ではない。
 今朝が、その攻守が入れ替わる瞬間であったと云うことだ。

 そして攻守が入れ替わったのには、やはり理由と云うものがあるだろう。

「いよいよ、と云う訳だ」

 そう教経が独りごちる。

 何が、とは改めて口にするまでもない。
 漸く、自分の首級を獲りに来た。
 そう云う事だろう。

 両翼に対して攻勢を掛けているにも拘らず、敵本陣は動きを見せていない。
 まだ本陣を動かす時機ではない、と云う事なのだろうが、この先の展開を諸葛亮がどう考えているのか、教経はそれに興味があった。

 これまでの戦で諸葛亮が守備に専念していたことから、どこかに伏兵がある事は間違いないと考えるようになっていた。
 防戦一辺倒では教経の首級は決して獲る事は出来ない。
 いや、正確に言うならば、防戦するにしても教経を戦場に引き出そうと云う工夫がなされて居なければならないはずだ。
 五丈原で司馬懿に女物の着物を送りつけ、決戦するよう挑発した故事を知っている教経としては、防戦する中で教経を討たんとするのであれば、当然そう云った工作が行われるはずだと考えていた。
 そう考えていたが故に、前線に出ることをしなかった。
 それにも拘らず、諸葛亮が何の工作も仕掛けてこないと云う事は、諸葛亮はまだその懐に刀を隠し持っており、それを突き立てる機会を待っていると云うことである。
 その懐に隠している刀とは、即ち伏兵であるだろう。

 問題は、その伏兵をどう使おうとしているのか、である。
 時機を見て本陣を動かし、それに対応すべく動くであろう予備兵力、つまり教経自身が率いる隊を戦場に引き摺り出した上で戦線を膠着させ、その上で伏兵にこれを叩かせるのか。
 それとも先に伏兵を叩き付け、それに予備兵力を割り当てて対処している処へ、諸葛亮自らが本陣の兵を率いて吶喊してくる心算なのか。

 教経自身としては、恐らく後者ではないかと考えている。
 何故なら、

──諸葛亮は、恐らく誰も信頼して居まい。

 と、思っているからだ。

 張コウやトウ頓など、名の知れた者がその下に付いているは居るが、信頼はしていないだろう。
 勿論、信用はしているはずだ。
 両名ともに、今の袁家の中で、上から数えて十指に入る才人である。
 その旗鼓の才について疑う余地は無い。

 だが、信用と信頼とは違う。
 教経に様々なことを仕込んできた祖父や師匠など、一族の老人たちは、皆口を極めてそれを刷り込んできたものだった。

 信用は、例えば、それが能うだけの契約をすれば、することが出来る。
 裏切らぬと云う契約の質として、その子を取って置く。
 或いは、事が成功した暁には報酬として何某かを呉れてやると云う公文書を発する。
 そう云った形で、目に見える対価によって成り立つもの。
 そして何かを成し遂げる為の才能に対して行うものであり、最も望ましい結果を導き出せる才能に対して行うもの。
 それが信用である。

 だが信頼はそうはいかぬ。
 信頼とは、詰まる所心の働きであって、何か明確な根拠となり得る物は無い。
 それを裏付けるものが、目に見える形で示されることはない。
 信頼とは、それを向ける相手に全てを預けること。
 想定される結果に依らず、唯“その人である”と云う、その一点のみに依って行うもの。

 雛里から聞いた諸葛亮の置かれた状況。
 その状況に在って、彼女が為そうとしている目的。
 それを想えば、諸葛亮は誰にも心を許すことなく、唯只管にその目的を遂げる為に邁進していることが分かる。
 つまり、誰一人信頼はしていない。
 無条件に信頼できるはずの主君に裏切られ、その精神に深い傷を負った諸葛亮は、人間と云う存在全てが信頼出来なくなっている。
 だから彼女が利用するに値するだけの才能があると云う形で信用はするが、決して信頼することはないだろう。
 そして己の全てを賭して臨んだこの戦の帰趨を、信頼できぬ者の手に委ねるなど論外であろう。
 だからこそ、自分の手で決着を付けんとするはずだ。

──しかも今日は”十”日目だしな。

 ”十”とは満数字、即ち物事が完成することを意味する数である。
 態々この日を選んで全面攻勢を掛けているに違いないのだ。

 但し、この戦場で十日目を迎えているのは、残念ながら諸葛亮だけではない。
 戦である以上、諸葛亮の相手が、即ち教経自身が存在する。
 そして二人は、互いの望みを成就させる為に此処で競い合っているのだ。

 果たして満願成就となるのは、諸葛亮か、はたまた教経か。
 その結論が出るのに、そう時間は掛からないだろう。





 平家軍左翼を任されている愛紗の眼前に押し寄せる敵兵。
 撃ち払っても撃ち払っても、次から次へと押し寄せてくる。
 それはまるで、呉で目にした、浜辺に押し寄せる波濤のようであった。
 決して油断していた訳ではないが、その勢いを前線で押し止めることが出来ず、とうとう愛紗自らが青竜偃月刀を振るわなければなら程に押し込まれていた。

 今もまた、眼前に飛び出してきた敵を斬り伏せながら、使い番に荒々しく声を掛ける。

「えぇい、戦況はどうなっている!?」
「我ら左翼だけでなく、右翼側へも敵兵が殺到している模様です!
 敵はその配下の殆どの兵を戦線に投入していると思われます!」
「敵を押し返せ!
 早々に圧力を跳ね返し、ある程度自由に動ける余力を創り出すのだ!」

 敵に押されっぱなしになるのは拙い。
 愛紗にはそれが良く分かる。
 敵の攻勢に押され続けていれば、本陣に敵伏兵が迫った際、救援に赴くことが出来ない。
 滅多なことは起こらないと信じているが、此処が戦場である以上何が起こるかは分からないではないか。

 故に敵を押し返せと先程から檄を飛ばしているのだ。
 が、敵も今日と云う日の為に英気を養い、また覚悟を定めてきたに違いない。
 そう簡単に押し返させては呉れなかった。

 使い番から報告を受けている形の愛紗に、敵もそれが左翼側の指揮官であることに気が付いたのであろう、数人が連れ立って奔って来、槍をつける。
 その目は充血し、その相貌はまるで獣の様であった。

 功名の絶好の機会。
 これを逃す訳には行かぬと勇んでいるのが、愛紗には手に取るように分かった。

「名のある将とお見受けする!」

 そう声を掛けてきた兵は、しかし次の瞬間には言葉を発する暇すら与えられず、その頭が体に永遠の別れを告げていた。

「ひ、ひぃ!?」
「ぐぇ」
「ガッ」

 一閃。
 二閃。
 三閃。

 愛紗がその腕を翻す度、血の花が大地に咲く。

──口など利かずに突き掛かって来ればまだ可能性があったものを。

 まあそれもごく僅かなものでしかないがな、と口にして、偃月刀で勢いよく空を切る。
 その刀身に絡み付いた血が地面に飛び、其処にも小さく、しかし鮮やかな赤い花を複数咲かせた。

「しかし、此処まで兵が紛れ込んでくる程に押されるとはな」

 そう口にする愛紗の表情は、苦々しいものであった。

 昨日までの袁家軍の様子からは、今日のこの攻勢は予測できなかった。
 そこを不意討たれて動顛し、多少押し込まれる程度は致し方のない事だろう。
 だがそれにしても、少し不甲斐なさすぎるのではないか。
 もしこれが親衛隊ほどに鍛えられていれば、軽々と敵の攻勢を撥ねつける、とは行かぬであろうが、此処まで押し込まれるようなことは無かったはずである。
 愛紗としては日頃からかなり厳しい調練を行い、何処に出しても恥ずかしくない兵達に育て上げたと思っていたが、どうやらそれは少々身内贔屓が過ぎたらしい。

 そう思わされたが故の、苦々しい表情であった。

「これからは、もう少し厳しい調練を課すとしよう。
 だが……」

 再び視界に映った敵を屠るべく、歩を進めて偃月刀を振り上げる。

「ギャッ!」
「それもこれも、全て戦に勝ってからだッ!」

 一振りで敵を屠りながら、周囲の兵に檄を飛ばす。

「征くぞ!教経様の前で無様を晒すなッ!
 ここから一気に押し返すのだ!」

 檄に応じて、兵達が喊声を上げて敵に突進していく。

 戦況は、諸葛亮が図った通り、一進一退を繰り返し始めていた。










「敵襲ッ!敵襲だッ!」

 周囲を警戒していた兵達が声を上げる。
 その声に視線を左右させ、教経の双眸が漸く敵を映し出した。

 南方ではなく、北方に上がる土煙。
 自分達が進んできた方面からの強襲に、教経の周辺がざわめいている。
 想定外の事態に、皆驚いているのだ。

 そしてそれは、教経もまた同様であった。

「おいおい、そっちから来るのかよ」

 一言で言うと、北から来ることは予測して居なかった。
 それが正直なところである。

「伏兵が先に仕掛けてきたことには驚かないんだ?」
「それに関してはそうだろうと考えていたからな」
「そっか。
 ま、どちらから来ても、やる事は変わらないしね」

 やや浮足立った感のある本陣の中で、落ち着き払っている吉里が教経に声を掛ける。

 相手がどう出ようと、此方がすることは変わらない。
 相手の意図を挫くこと。
 即ち、本陣への突入と、それによって齎される混乱の中、教経の首級を奪われることを禦ぐこと。

 敵が南方から来ていたとしても、それは変わらない。
 しかし備えと云う意味では、南側には木柵を用意してあるのに対し、北側には大した準備はしていなかった為、明確な違いがある。
 一歩、後手に回った感があるが──

「どう対処するつもりだ、吉里、雛里」
「近衛を投入してあれを禦ぐより他に途はありません」

 教経の問いに、雛里がそう答える。
 教経にも、それは分かっていた。
 今直ぐにあの騎馬隊にぶつけることが出来る兵となると、ダンクーガや琴しか居ないだろう。

 だが、教経には一つ心配事があった。

「大丈夫かね?
 敵の本隊はまだ動き出していない。
 間違いなく、動き出す時機を待っているのだと思うが?」

 そう。
 敵本陣がまだ動きを見せていないのだ。
 此方が近衛を割いて対応するのを見て、一気に寄せて来られると拙いことになる。
 それに対して、何か備えがあるのか。

「備えていないと拙いと思うがね。
 戦況をひっくり返されかねん」
「取って置いた札を此処で切るよ」
「成程、象兵か」
「うん。
 敵本陣を覆滅させることは出来ないけど、十分痛手を与えられると思う」

 そうは言うがなぁ、と口に出しかけて、吉里と雛里、二人の顔を交互に見る。
 教経の視線を受けた二人は、肚を据えた貌をしていた。

──こいつら、何かをやろうって肚だな。

 吉里がその言葉通りの事しか考えていないのであれば、裏を掛かれた場合死ぬことになるだろうと教経は思う。
 相手は諸葛亮だ。
 象兵を投入したからと言って、全ての兵を足止めできる訳ではないし、象兵に蹴散らされたと見せかけて、事前に分けておいた少数の兵で仕掛けて来ることすら考えられる。

 だがどうやら、此方の軍師にも何か考えがあるらしい。
 自分が思い当たること程度なら、この二人は考え付いているだろう。
 当然、危険が伴う事など見通しているはずだ。
 それでも、そうするとこの二人は言っているのだ。

「どうしたんだい、御使い君?」
「……一つだけ訊かせろ。
 この状況は、二人の想定通りか?それとも、想定外か?
 どちらだ?」
「想定通り、ではありません。
 ですが、想定外ではなく、想定内です。
 こうなる可能性を考慮して、二人で策を考えました」
「当然、この後どうなるかも考えて策を建ててあるよ」

 二人と目が合い、自然と見つめ合う形になる。
 その目は激情など浮かんではいない。
 だがその目の奥には静かに、そして確かに、燃えるような何かを宿していた。

 雛里の目に宿るのは、諸葛亮の目を醒まさせる為に敢えて彼女を叩き伏せんとする情愛だろうか。
 そして吉里の目に宿るのは、己の前に立ちはだかる巨大な壁である、競い合うことを何時からか諦めていた相手でもある諸葛亮を、越えてやろうと云う情熱であろうか。

「……分かった。お前たちに俺の命を預ける。
 好きにするが良い」

 教経の言葉に、二人が頭を下げる。

 戦が始まる前から、教経は二人に好きにしろと言い続けてきた。
 そして今此処でまた、改めて二人に好きにしろと言った。
 それは自分の命を含めた全てを二人に任せることを、自分自身に再度言い聞かせる為に口にした言葉であったかも知れない。

 『全てを任せる』。
 口にすることは簡単だが、それを徹底させることの何と難しい事か。
 己が上位者であり、相手が家臣であれば尚更説明をさせ、作戦に口を出したくなる。
 何より、自分が全容を把握していない状況で自分の生命を他人に預けるのは、例えそれが信頼に値する相手であっても切所においては難しい。
 二人の策に自分の意見を差し挟みたくなるのが人情と云うものである。

 だが、教経はそれをせず、二人に全てを任せた。
 それは兵書にそう書いてあるのも当然その理由の一つではあったが、それよりも、教経の脳裏を過(よ)ぎった、これまで自らが歩んできた中で起こった様々な事柄を思い返して、自分はそうしなければならないと強く感じたからであった。

 太原防衛戦。
 并州統治。
 黄巾賊討伐。
 反董卓連合。
 益州・荊州平定。
 揚州討伐。

 その全てが、自分一人だけではどうにもならなかっただろう。
 勿論、自分の力や名声、器量と云うものに自信はあるし、己自身の力量と云うものが、事態を決したこととてあるだろう。
 だがそれでも、自分一人の力量でどうにかなった訳がない。

 星、風、稟。
 最初から自分を支えてくれた三人。
 その三人だけでなく、多くの者が家臣として自分を支えてくれた。
 それら平家の家臣団があればこそ、今自分はこの天下争覇の戦に臨むことが出来ている。

 その、皆の力が結実した、その結果としてのこの戦で、家臣達を、皆を信頼出来ないなど、有り得ないではないか。
 他は知らず、教経が作り上げた、この『平家』とは、家臣あっての家である。
 平家隆盛の基となった家臣たちを信頼せずして家が立つはずがないではないか。

 だからこそ、何も言わずにただ信頼することにしたのだ。
 信頼した結果死んだとしたら、それは恐らく最初からそう決まっていたに違いないと、そう思えば良いじゃないか。
 それに、家臣達を信頼せずに生き残ったとして、今後何を頼りに国を治めると云うのか。
 皇帝としての地位?金?名声?
 そんなものを振りかざして国を治めるなんてのは願い下げだ。
 そんな糞虫に、平家の頭領が勤まるはずがないじゃあないか。

 だから、信じていれば良いのだ。
 家臣達を。
 愛する人達を。





 敵本陣が、北側へ大きくその旗下の兵を振り向けた。

 それは、待ちに待った一報。
 平家の攻勢を耐えに耐え、凌ぎに凌いで待っていたその一報を受け、朱里の周囲が騒々しくなる。

 朱里はこの戦に臨むに当たり、本陣を構成する兵には、一平卒に至るまで戦の展望を聞かせてあった。
 それは、予測が悉(ことごと)く当たるのを目の当たりにさせ、士気を上げる為である。
 最初の一撃は兎も角、それ以外は全て朱里の言う通りに戦は推移してきた。
 戦の展望など予測する事すら叶わない者からすれば、それはまるで、朱里が未来を知っているかの様であっただろう。
 そして今また一つ、朱里の予言が正しいことが証明された。

 それなら。
 朱里の予言が正しいのであるならば。

 兵達は口に出さない。
 出さないがお互いの顔を見て、その顔色の明るさに、誰しも同じ思いで居ることを確認する。

──勝てるのではないか。

 それも朱里が言う通りに、平教経の首級を挙げると云う、この上ない形で。

 朱里の率いる本陣に控えている兵達は、静かに、しかしこれ以上ない程に意気上がる様子であった。
 誰もが、頬を紅潮させ、目を輝かせている。
 此処に至って、袁家軍本陣の士気は最高潮を迎えたのであった。

 これで、先に広がっているのが勝利の栄光であると信じることが出来るだけの前提が整ったことになる。
 突撃を命じれば、熱狂と共に体力が続く限り猛進することが出来るだろう。

 そしてその様子を眺めている朱里もまた、確かな手応えを感じていた。

 此処までの展開は、概(おおむ)ね予測通りである。
 象兵と云う未知の、新たな兵種の登場によって、当初この局面を迎えた場合に10,000程度は本陣に兵を残しておける計算であったものが、8,000程度しか残らなかったが、此れだけでも十分に平教経の首級を挙げることが出来る。
 何故なら、朱里は象兵によって計算を狂わされたが、その一度の邂逅によって全てを理解出来たと考えているからだ。

 例えば、象兵はその巨体の割に移動速度が速く、俊敏である事を学習したが、また同時に、早く動けるのを確認出来ているのは直線的な動作、しかも前進する際のみであり、逃げ惑う兵達が左右に分かれた際、どちらかに舵を急に切ってこれを追いかけることが出来なかった事を理解出来た。
 また、木柵や空堀を破却する際の体当たりや地面のふみ締め具合から、かなりの力と重さである事を学習したが、また同時に後ろへ退がる際の動きの鈍重さや真横に対してはにじり寄って踏み付ける以外の効果的な攻撃を加えることが出来ない事を理解出来た。
 更に言えば、象の上に騎乗している弓兵が威力を発揮していたことを学習したが、また同時に騎乗する者の内に象に指示を出している者が居り、その者が偶々流れ矢で死んだ際には象兵は制御不能になることを理解出来た。

 そして象兵の特性を理解出来ていることが、平教経の首級を挙げることが出来ると云う根拠になる理由は、平家軍、いや雛里は、間違いなく象兵を切り札として投入してくるであろうからである。
 朱里はそれを、これまでの戦の推移から、間違いが無い物として考えていた。

 敵は初回の激突時に投入して以来、象兵を一度もこの戦場に投入して来なかった。
 それは取りも直さず、朱里が象兵と云う兵種を学習する機会を奪い、それが投入される際に対処出来ないと云う状況を創り出そうとしていると云うことだ。
 象兵は強力な兵種である。
 正面から騎馬隊を、それも鉄騎兵をぶつけたとしても、あっという間に駆逐されるだけの力を有している。
 その強力な札を、最初の一度だけしか使っていない。
 いや、使わずに我慢し続けていると言い換えても良いだろう。
 それは何故か。

 それは、対処して貰っては困るような、決定的な場面で象兵を投入することを考えているからに他ならない。

 では、その決定的な場面とは?

「……今この時を措いて他にはない。
 そうだよね?雛里ちゃん」

 袁家軍右翼将を務める張コウ、同左翼将・ジ須に、それぞれ伝令を奔らせる。

 これから一刻。
 それだけで良い。
 それだけの時間、平家の右翼と左翼の自由を奪う。
 いかなる損害を蒙(こうむ)ろうとも、今から一刻の間だけで良い、何としても、平家軍の翼を拘束して欲しい。

 それを伝える為に、伝令が奔り去った。

 待つこと暫く、右翼を注視していた朱里の目に、『張』の旗が前線へと動くのが見て取れた。
 左翼もまた同様に、更なる攻勢強化の為に前線へ寄せて行く。

 敵本陣は北側から攻め寄せている遊撃隊に引き付けられているが、それもあと僅か──そう、丁度一刻程度しか持たないだろう。
 その後ろに喰らい付かんとして猛進する集団に、一度弘農で袁家が苦杯を嘗めさせられた人物の旗が翻っているの見る限り、そう思わざるを得ない。

 朱里が天下を掴む為に与えられる猶予は、一刻。

──でも、それだけあれば十分だ。

 今の時代は、歴史の転換期である。
 この戦場が、歴史の転換期の中心にある。

 そして今から幕を上げる一刻。
 長大な歴史から見れば刹那にしか過ぎないであろうその一刻が、歴史の転換期の、最も濃厚な一刻であるのだ。
 この一刻で、今後の歴史、その全てが決まる。

「これより本陣は、敵本陣に向けて吶喊します。
 象兵の突進に備えつつ、前進しなさい」

 朱里の伝達に、本陣の兵が喊声を上げて応え、隊伍を整えて前進を開始する。
 自らも馬に揺られながら、前線へと移動を開始する。

 進む先に、自分が望む世界が開けていると信じて。










 時は、烏丸の先の単于であるトウ頓が、その旗下の騎兵を率いて平家本陣の北側、それもやや後方からその姿を現した頃まで遡(さかのぼ)る。

 教経から、北側やや後方に寄せる騎兵を食い止めるように指示を受けた高順達近衛の兵約10,000は、押し寄せる騎馬隊の進路に立ちはだかり、彼らを食い止めるべく死闘を繰り広げていた。

「とっとと家に帰れってのッ!」
「そこを退け!」
「いい加減にしやがれってんだよッ!」
「ソイツを殺せぇぇぇ!」

 怒号と悲鳴、そして剣戟の音が入り乱れ、周囲の様子を音から判別することなど不可能な状況の中、高順とケ忠、太史慈とケ艾は、兎に角敵を禦ぐべく前線で剣を、槍を、弓を、その他全ての考えられる手段を用いて、眼前の敵を屠り続けている。
 死闘となっている理由は、皆の予測と異なり、騎兵が突進して来た為であった。
 乗馬を喪う事を覚悟の上で突進して来た相手に、ぶつかった瞬間一気に押し込まれてしまったのだ。
 その為、高順や太史慈など近衛兵の将達が前線に出て、自ら得物を振るうと云う状況になっている。

「おい、高順!どうするんだよ!」

 混戦の中、ケ忠が高順に声を掛けた。

「何がッ!?
 ……ッチ、其処ッ!ぼさっとしてんじゃねぇ!
 騎馬が突っ込んできてんだからさっさと足を刈れッ!」

 次から次へと寄せて来る敵兵を薙ぎ倒しながら、高順が呼びかけに応える。

「このままこうやってたんじゃ、敵将を討ち取れないぜ!?」

 これまた一人、槍で突き伏せながらケ忠はそう主張した。

 現状は、高順やケ忠だけでなく、太史慈もケ艾もこの場に在って敵を禦ぐことに専心している状況である。
 皆、寄せて来る敵を纏めている将を討ち取らんとして敵中に突出するような真似をしなかった。
 敵の数が多く、味方の数が少ない。
 その上で、敵が攻め、味方が守ると云う形勢。
 その状況で逆撃を仕掛ければ戦線の均衡が崩れ、教経を危険に晒すことに繋がりかねない。
 そう考えていたからだ。

 だがしかし、敵将を討ち取る為にある程度の危険を冒さなければならない事など珍しくもない。
 現に寄せ手のトウ頓は、周囲が敵だらけのこの場所に遮二無二突進を仕掛けて教経の首級を獲らんと危険を冒してやって来ている。
 この状況をひっくり返すのに最も手っ取り早いのはトウ頓を討ち取ることであり、トウ頓を討ち取るには此方もそれ相応の危険を冒すべきあると云うのがケ忠の主張であった。

 そのケ忠に高順は、

「何馬鹿なこと言ってやがる!
 大将に何て言われたか、もう忘れやがったのか!?」

 と言葉を返した。

『ダンクーガ、お前ちょっと行って騎兵を禦いで来い』。

 教経はそう言った。
 高順は、その言葉を”騎馬の攻勢を禦いで時間を稼いで来い”と言われていると理解した。
 自身が絶対の忠誠を誓う教経が、そうしろと言っているのだ。
 それ以外の事は考えなくても良いと云う事だろうと考えている。

「だから敵将を討ち取る必要なんてないんだよッ!」
「そうは言っても!」
「大将には大将の計算があるんだろうよ!
 此処でどうしても、近衛である俺達を投入してでも禦がなきゃならないってことはだ!
 今この時が大将にとっての切所だってことだろうがッ!
 大将がそうしろって言ってるんだッ!
 大将の身辺警護にゃオッサン達が残ってるんだし、俺達は黙って大将の言う事を聞いてりゃ良いんだよッ!」

 長々と話をしながらも、高順が武器を振るう。
 右手には槍を。
 左手には剣を。
 器用に、そして状況に応じて其々を使い分け、前に立つ者を次々に屠って行く。

「ッたく!分かったよ!
 禦げば良いんでしょうが、禦げばッ!」

 半ばヤケクソのような声を上げて、ケ忠は自案を引っ込めた。
 傍目には、納得は行かないが説得されたと云う形に見える。
 その実、ケ忠は内心で、

──これで皆落ち着いてくれたら良いんだけどねえ。

 と、やや苦い思いで周囲を見渡していた。

 防戦一方で、敵将を討つべく突出しないという戦いを、実は親衛隊は、親衛隊と云う形を取って以来一度もしたことが無いらしい。
 益州での戦においても、公孫賛とホウ統を討ち取るべくその攻勢に耐えていたのであって、防戦する為に攻勢に耐えていた訳ではない。
 そのように、目的の為に守勢に回る事はあっても、ただ禦ぐ為だけに防戦した経験が無かった親衛隊員が、ここに来て初めてそれを経験することになった。
 その結果として、敵将を排除することを目的として反攻したいと云う欲求を、かなりの数の人間が持っているようにケ忠の目に映り込んでいたのだ。
 そのまま放っておけば、暴発する可能性が、わずかではあるが、確かにあった。
 親衛隊の副長としては、戦の展望を確かなものにする為にも、親衛隊員達の為にも、その可能性を見過ごす訳には行かなかった。
 どうにかして、暴発を抑える必要があったのだ。

 では、どうやってそれを抑えるか。
 一人一人を呼び出して言い聞かせる事など時間的にも状況的のも許されるものではなかったし、何より本人に直接言い聞かせたところで、納得はしても欲求が解消される訳ではないだろう。
 だが例えば、自分と同じ欲求を持ち、自分よりも立場が上位にある人間が、部隊最上位に位置する高順に対して、正しく自分達が望んでいることを遣らせて欲しいと進言し、そしてその結果窘(たしな)められて主張を引っ込めるのを見たとしたら。もしくは、同輩から聞いたとしたら。
 彼らの胸の内で膨らんでいたその欲求は、一時的なものかも知れないが、萎えるのではないだろうか。

 そう考え、敢えて高順に対して言わでものことを口にした。
 そしてその結果は、今周囲を見回した限りであれば、ある程度はあったように思われる。
 ケ忠の目には、敵と向かい合った際に、前へ前へと出ようとしていた者達が、その場に確りと腰を落ち着けて対処しているように見えていた。

 それがいつまで持つかは分からないが、暫くの間は問題なく戦線の維持は出来そうだ、とケ忠は思った。





「まだ突破出来んか」
「は、はい!
 ぶつかった当初は順調でしたが、ある地点から敵の抵抗が激しくなり、敵陣を切り裂くどころか押し込むことさえ出来ておりません!」
「……引き続き攻撃を続けよ。
 まだ、此方には余力がある。
 到着してない第三陣が到着次第、全軍を投入する」
「か、畏まりました!」

 敵の哨戒網に掛からずに敵本陣後方を視界に入れた時、トウ頓の頭に浮かんだのは『勝利』の二文字だった。
 諸葛亮の策が図に当たり、敵本陣15,000弱に対して20,000強の騎馬をぶつけると云う状況を創り出せたのだ。
 歩兵は、それのみでは騎馬に敵し得ない。
 それは兵法書においても、また実体験においても正しいとトウ頓は知っている。

 では、この現状はどう考えれば良いのだろうか。
 局地的な話ではあるが、兵数に勝り、そして兵種においても優位であるトウ頓が、劣勢であるはずの敵陣を突破出来ないと云うこの状況を。

 その原因となっているものは、戦場のほぼ中央で槍と剣を同時に振るっている一人の男と、同じく中央ではあるがその男よりやや後方に位置して、一矢一殺を為し続けている女であるだろう。
 他にも二人程、一般的な兵から比べ抜きん出て優れている者が居る様だが、異常を感じる程ではなかった。

──特にあの男は厄介だな。

 トウ頓は、戦士としてもそれなりに出来る方であると自負している。
 そしてその戦士の勘が、あの男には及ばないと告げている。
 実力で言えば、その後ろに居る女の方が高そうではあるが、そちらの方はまだ人であると認識できた。

 だが、あの男だけは違う。
 あそこにいるのは一種の修羅であり、真っ当にぶつかりに行っては死ぬしかない。
 そう思わせるだけの強さと、何より覚悟を感じさせる戦いぶりであった。

 彼の主である平教経を、『戦鬼の王』と呼ぶ者が居ると云う事をトウ頓は知っている。
 そして今、トウ頓の前に立ちはだかっている男の面魂は、正しく戦の鬼と呼ぶに相応しいものであった。

 ぶつかってすぐ、男が脅威であることを見抜いて騎馬を突っ込ませているにも拘らず、一歩たりとも後ろへ下がっていない。
 ぶつかった騎馬は、まるで壁にぶち当たったかのようにある地点で動きを止め、ある者は腕を、またある者は馬の脚を、さらにある者は馬の首ごとその胴を斬り飛ばされて行く。

 一歩たりとも退かぬ。
 一兵たりとも通しはせぬ。

 あの男はそれらの強い想いを体現して見せている。
 そしてそれらの強い想いを実現させる為に、己の命を賭している事は疑いようがない。
 賭けられているのがあの男自身の命である以上、それと相対する者には、それに釣り合うもの──即ち己の命を賭けなければならなくなるだろう。

──だが体力は無限に続くものではない。

 敵本陣に奇襲をかけるに当たって、トウ頓は旗下の兵を三つに分けていた。
 一つは、疾さを重視した隊。
 兎に角先行し、敵後方からいきなり一撃を見舞う事だけを考えた隊。
 二つは、その隊の後方から攻勢を支援する隊。
 攻勢の厚みを増し、敵兵の数と体力を奪うことに尽力する隊。

 そして三つ。
 敢えて遅れて進むことで此方の兵力に対する相手の目算を狂わせつつ、到着後は決戦兵力となる隊。
 第一陣、第二陣と続いた攻勢によって疲弊させ、数を減じた敵を討ち果たす隊。

 既に戦闘を開始してから半刻は経過している。
 あと僅かで、第三陣が到着することだろう。

──かなりの犠牲を払わなければならないかも知れないが、突破出来ぬと云う事はあるまい。

 トウ頓はそう考えていた。
 そしてそうなると考えていたのだ。

 後方から、『それ』がやってくるまでは。





「どうやら追い付いたようですね」

 稟がそう口にする。
 その言葉通り、霞と稟の率いる騎兵20,000は、教経が居る本陣に向けて前方を進軍していた烏丸騎兵第三陣を蹴散らして、今漸く戦場へ到着した。

「そうみたいやな。
 敵も味方も全体的に動きが激しいっちゅうことは、要するに今が一番熱い時っちゅう訳や」

 急いで来た甲斐があったわ、と口にして、霞が不敵に嗤う。

 霞と稟は、教経に遅れること五日目にして長安を出立した。
 先の戦同様に自由裁量を与えられることになった霞は、教経達本隊とは別に、河水を渡ることなくそのまま東進し、新安で待ち構えているであろう諸葛亮の後背を衝く心算であった。
 ところが、稟が細作を放って情報を収集した結果、諸葛亮は新安ではなくベン池で待ち構えている事が判明した。

 当初の進軍経路では、敵斥候に発見されかねないと判断した稟と霞は、大きく迂回して敵後背へ出ることを選択したのだが、行軍する内に思いも寄らないものを発見したのだ。
 河水を渡ったと見られる、大量の蹄跡。
 恐らく、その数は20,000を下回る事はないだろうと予測できた。

 蹄跡を発見した地点からベン池の敵陣の後背へ移動して居ては、決戦に間に合わない可能性が高い。
 敵に発見されても構わないのであれば間に合うだろうが、それでは抑々後背へ向かう意味がない。
 そう判断した稟は、平家の後背を襲わんとしている敵騎兵を、さらにその後背から襲う事を視野に提案したのだった。
 その提案に霞が一も二もなく賛成したことで、結果として先行していた烏丸騎兵第三陣を後方から一撃で粉砕し、この状況を現出させることに成功した。

「この期に及んで私が何か口を差し挟む余地はありません。
 霞、全ては貴女の双肩にかかっていると言っても良いでしょう」
「ハッ、上等やないか。
 経ちゃんに拠れば、期待に応えるのが名優の条件らしいからなぁ」

 霞は言いながら、脇に抱えた偃月刀を、愉しくて堪らないと云った風情で何度も小さく、しかし鋭く振っている。
 その貌に張り付いているのは、笑貌。
 見た者を震え上がらせるに足る、気力の充溢した獣を想起させる笑貌であった。

 改めて前を向いた霞の眼前では、やって来たのが味方でないことに気が付いたのか、ちらほらと後ろを振り返って槍を構え出す敵兵が出始めていた。

「霞、暫く待機しておいて貰えますか」
「何でや?」
「いきなり突っ掛かったのでは、敵将まで届かないかも知れません。
 私の指揮で、貴女の為に道を切り開いて見せます」

 眼鏡を指で押し上げながら、稟が言い切る。
 稟もまた、自信と気力とに満ちた、不敵な雰囲気を醸し出していた。

 霞は知っている。
 稟は、教経が心から信頼している軍師である事を。
 稟に意見があれば、それを聞くこともせず何かを為す事など有り得ないと言い切っていることを。
 自分が愛している人からそれ程に信頼されている稟に、勿論妬心に似た感情が湧きあがらないと言えば嘘になる。
 だがそれ以上に、いや、寧ろそうであればこそ、稟に対する信頼は高いものがある。

 己が愛する人間が信頼している人間を、自分が信じることが出来ない。
 そんなことが、有る筈がないではないか。

「成程、舞台を調(ととの)えてくれるっちゅう訳や。
 ほなウチはアンタが行けっちゅうまで待機しとればええんやな?」
「ええ。
 これ以上ない舞台を設(しつら)えて見せますよ」

 稟は知っている。
 霞は、教経が心から信頼している武将である事を。
 教経の南征中、見事にその信頼に応えて見せ、『社稷の柱石』とまで言わさしめたことを。
 故に自分が舞台を調えさえすれば、霞は軽々と敵将を討ち取って来るに違いない。
 敵将の下にたどり着いた時、余力があれば敵将を生け捕ってさえ見せるかも知れない。

 伝令を呼び指示を出す稟と、その稟を前で腕を組み静かに佇む霞。

 二人とも、その心に期する処は同じであった。

 これまでどう戦が推移していたのかは知らない。
 それは、知る必要もないことなのだから。

──何故ならば──

「さあ」
「ほな」

──此れから二人で告げるからだ──

「始めましょうか」
「始めよか」

──終わりの、始まりを。





 後方からやって来るはずだった第三陣。
 しかし後方からやって来たのは、その第三陣を蹴散らしたと思しき敵軍であった。
 それは即ち、トウ頓の描いていた戦の破綻を意味する。

 教経の首級を諦めて後方の敵を相手にし、機を見て戦場を離脱するか。
 それとも初志を貫徹し、後方へ足止め程度の兵を差し向けて教経の首級を挙げることに専心するか。

 通常であれば、選択を迫られる場面である。
 そう、通常であれば。

 だがトウ頓は既に覚悟を決めている。
 この、天下争覇の戦に、袁家を援ける形で参戦することを楼班が決めた時点で、自分に果たせる役目を果たそうと決意していた。
 そのトウ頓がこの期に及んで迫られる選択など、存在しない。

 トウ頓が為すべきことは、烏丸の力を敵味方の記憶と、此の中華の地に刻み込むこと。
 それ以外は全て些事であり、例え後方から敵が追い縋ってこようと、それが変わる事はない。

「後方から来る敵は?」
「『張』の旗を掲げております」
「……ふむ」

 『張』の旗。恐らく、先の戦で武名を上げた張遼であろう。
 騎兵の扱いに長けた強敵である。
 だが、トウ頓にも、烏丸にも意地と云うものがある。

 大草原で生まれ育ち、騎兵を以て中華を脅かしてきた烏丸。
 その烏丸が最も長じている、騎兵の扱いで後れをとる訳には行かない。

「お前達、行けるな?」

 周囲を取り巻く従者たちにそう声を掛けたトウ頓に、皆一様に頷きを返す。
 皆、トウ頓に烏丸の将来を賭け、これまでの人生をトウ頓と共に駆けてきた選り抜きの兵(つわもの)達である。
 トウ頓が自分達に何を望んでいるのか、言葉として語られずとも分かっていた。

「では、行け」

 一人ずつ、トウ頓に頭を下げて後方へ向かって行った。
 それが今生の別れである事を理解した上で、穏やかな表情を浮かべ、恨み言を述べることもなく、ただ一つ頭を下げるだけの動作をして、後方へ向かって行った。

──先に逝っていろ。

 いつか自分もそこへ逝く。
 そう、心の中で一人一人に声を掛けていた。
 それがいつになるのかは、相手次第だ。
 そして恐らく、それはそう遠い日の事では無い筈であった。





 後方へ選り抜きの兵達を差し向けたトウ頓は、後方のことを振り返ることなく、唯只管に敵本陣へ濫入することだけを目的に戦いを挑み続けた。

 後方から張遼がやって来たと云うことは、最早退路は無いと云うことだ。
 つまり、馬を此処で使い潰そうが潰すまいが、退路が無いには違いが無い。
 では、馬をそのまま武器として敵にぶつけてしまっても、トウ頓達が置かれた立場に何ら変わりはないと云う事になる。

 そう考えて、駿馬を一纏めにして目の前の敵に思い切ってぶつけた。
 それでも、敵陣は割れることが無かった。
 まるでこう云った攻撃に、普段から晒され続けてきたかのように、流れるように騎馬の道を空け、すれ違いつつその足を斬りつけ、倒れ込んだ騎馬自体を防壁として後続の騎馬を堰き止め、ぶつからせて負傷させ、余力を持って逆撃に転じてきたのだ。

 それから暫くの間、徒歩になった兵達を纏めて敵陣に斬り込みを掛けたが、その全てが失敗していた。
 此方がぶつけた力を往なすのではなく、それ以上の力を以て跳ね返される。
 もうかれこれ一刻以上継戦しているにも拘らず、眼前の敵の抵抗は弱まる事が無い。
 それどころか、此方が攻勢を掛ければ掛ける程、抵抗がより強くなっているかのような錯覚さえ覚える程であった。

──どうやらこれが限界らしい。

 状況は完全に手詰まり。
 ここから何をどうしようと、手持ちの駒では玉には届きそうにない。

 そう思った時、後方から気合の乗った女の声が聞こえてきた。

「張文遠、押し通らせて貰うでッ!」

 遂に喰らい付かれた。
 声を耳にした時、トウ頓が最初に思った事はそれであった。

 後方へ遣った選り抜き達は、恐らく皆排除されてしまったのだろう。
 諦念にも似た思いを抱きながら、この戦が始まってから初めて、トウ頓は後方へ向身体ごと向き直った。

 其処には、トウ頓を守らんとして立ちはだかる兵たちを、いとも容易く掻き分けて突き進んで来る一つの影があった。
 此方に向かって単騎で駆けて来る様は、さながら鬼神の様であり。
 そしてその様を見て、トウ頓は卒然と理解させられる。

──嗚呼(ああ)、『アレ』がそうか。

 最初その言葉を耳にした時、何とも芸のないことだと思ったものだ。
 そのままではないか、と。
 もっと良き言葉を選んで言い表せば良いものを、何とも様にならぬことよ、と。
 そう思っていたのだ。

 だがこうして、『アレ』を目の前にして初めて、その思いが間違いであったことを思い知らされる。

 『アレ』を言い表すには、最早それだけで十分であったのだ。
 いや、寧ろそれ以外の言葉は、唯の装飾、いや装飾にすらなり得ない。
 どのような言葉で飾ろうとも、そのものを正しく表すことが能わぬ為に。
 それ故に世人はそう言わざるを得なかったのだと云う事を。



 遼来、遼来。