兵達が喊声(かんせい)を上げて敵陣へ掛かって行く。
向かう先には、見るからに強固な陣。
柵を張り、空堀を巡らせたその威容は、その攻略の難しさを容易に想像させた。
その敵陣に向かう平家軍は、しかし意気上がる様子であった。
それはこの戦が持つ意味──天下を決定付ける為の戦である──を理解している為でもあるが、それ以上に自分達と共に進む巨大な生き物の傍に在って、多少の安心感を得られている為であろう。
敵陣がどよめいているのを確認して、教経は薄く笑った。
それはそうだろう。
誰もが、これまでの人生で目にしたこともない、巨大な獣。
その獣が、その巨体を揺らして自分たち目掛けて突っ込んでくるのだ。
列を為して、勢いよく。
こうして後ろから眺めている教経ですら、その迫力を感じているのだ。
突っ込んでくる象の群れの進路上に居る者達が感じる迫力、この場合は圧力と言った方が良いのかも知れないが、それは想像を絶するものがあるだろう。
──さて、どうなるかね。
突っ込んでいく戦象隊と、その先にある敵陣とを交互に見ながら様子を窺う。
敵陣と戦象隊との間には木柵と空堀があるのみである。
空堀は、向かうのが騎馬隊であれば効果はあったであろうが、しかし象の進攻を妨げる程深いものではなかった。
それよりも、寧(むし)ろ問題となりそうなのは木柵の方だろう。
それなりの太さの木が用いられており、綺麗に形を整えられては居ないが、それが却って無骨な印象を与えている。
木柵の軸となっている、家屋で言う処の大黒柱に該当する柱は、他の木材よりもう少し太く、そしてより深く地中に突き刺されていることは容易に想像が付く。
象が体当たりをして突き崩すことが出来なかった場合、其処を拠り所として守備をしやすくなる。
象があの疾さでぶつかる事を想定しているはずもないが、問題はどこまで想定外の事態を考えてあの木柵を構築したかだ。
諸葛亮が備えた、想定外の事態。
その想定外の事態が齎すはずの木柵への破壊力を、象の突進力が越えていた場合、あの木柵は壊れることなくそこに在り続ける事になる。
最初の激突が、この戦がどう云った様相を見せるかの試金石になるのだ。
教経としても、冷静ではあるが平静に見ていられなかった。
教経がどうなることかと経過を見つめている中、遂に戦象隊の先頭が木柵と接触した。
木が割ける音が甲高く辺りに響き渡り、木柵の内側に居た兵達が悲鳴を上げる。
蜘蛛の子を散らすと云う言葉そのままに、戦象が突っ込んだ其処此処で敵兵が慌てふためき、算を乱して逃げだす者が多く居る様だった。
「行けそうだな」
敵軍の様子を見て半ば独り言として発せられた、無自覚なその一言に、雛里が反応する。
「ですが混乱はしても立て直してくると思います」
「策がある、と?」
教経の言葉に、頷く雛里。
「勢いがなければ、脅威にはなり得ません」
「いやいや、あの体重は脅威だろう。
上に乗られただけで、人は簡単に死ねるぞ?
牙で突かれてもやはり簡単に死ねるだろうし」
「そうかも知れませんが、移動をしない、若しくは移動してもそれが極端に遅いなら、その巨体故に攻撃を仕掛けて的を外すことはありません。
人と象とが向き合った際、重装して役に立たぬと云う事であれば、いっそ軽装で疾さに特化した隊を編成し、これを攪乱(かくらん)します。
攪乱により足を止めたら、私であれば、投石によってこれを壊滅せしめることを考えます」
「だ、そうだが?」
「分かってるよ。
木柵は確り作ってあるようだし残すと面倒なことになりそうだから、残っているものを一通り壊して、敵左翼を破ってそのまま撤収させるつもり。
防禦に徹して時間を稼ごうって云う朱里の目論見を潰すことが出来ればそれで良いワケ」
「木柵が無くとも防禦に徹して時間を稼ぐことは出来るだろう。
諸葛亮の目論見、完全に潰すことは出来ないんじゃないかね?」
「有ると無いとじゃ被害が段違いでしょ」
埋伏の兵がこの戦場のどこかに居るとして、それを投入するに相応しい時機と云うのは、やはり戦線が膠着する時以外にはあり得ない。
朱里が考える最高の時機に、最適な箇所を選んでそれを叩き付ける。
そう云う状況を創り出す為には、その時機を待つことが必要だ。
待つ、とは言うものの、此処は戦場であり、ただ漫然とそこに存在していれば、即座に命を奪われてしまう。
故に待つ為には力が必要になる。
この場合の力とは、平家軍に伏兵を叩き付けるその時まで、平家の兵を押さえておくだけの兵数だ。
「もし木柵があれば、それを中心にして兵の損耗を抑えることが出来るワケ。
なければ蒙る損害が劇的に増えるとは言わないけど、減る事は絶対に無くなる。
時間が進むに連れ、朱里の掌中の駒は少なくなっていくことになる」
「成程。
そうなれば俺を殺すのに必要な兵数が残っている内に仕掛けざるを得なくなる訳だ。
仕掛けるに相応しくない時機に仕掛けた必殺の策は、必殺足り得ない」
「そう云う事。
だから木柵は壊しておくに限るのよ」
「木柵を壊して後、戦象隊は即座に後退させる。
それは良いけど、その後戦象隊はどう使うの?吉里」
「夜中に移動させて敵を眠らせない、とか、陽動に。
戦線で、と云う話であれば、最終局面でもう一度投入するくらい。
それ以前に戦わせる事は考えてないよ。
相手が相手だし、接触する機会が増えれば増える程、より適切な対処法を編み出しそうで怖いから。
切り札は多いに越したことは無いワケ」
「うん、私もそれが良いと思う」
再び前線へと目を移した教経の目に、敵陣を破砕していく戦象隊の姿が映る。
今のところ、戦況は予想通りに順調であった。
「ぎゃあああああぁ!」
「うわああああぁぁ!」
「ひいいいいぃぃぃ!」
「落ち着けッ!隊伍を乱すなッ!」
「だ、駄目です!こっちへ突っ込んできます!」
「退避を!退避命令を!」
「糞ッ!」
前線が敵と接触した。
自分が思い描いていた戦端の開き方と遥かに異なる開き方をした様子を見ながら、朱里は自分の不明を省み、相手の聡明さに素直に感嘆していた。
平家軍が象と云う生き物を連れて来ていることは、斥候の報告にもあったことだ。
その巨体に相応しい力強さを発揮して大きな荷駄を運んでいたが、同時にその巨体に相応しい緩慢な動作で歩を進めていたと聞いている。
また、その世話役とみられる人間に良く懐いていたとも。
それらの情報から、朱里は象とは力強くはあるが動きが鈍く、温厚で臆病な動物なのであろうと想像していた。
──それがこの態(ざま)とは。
私の器量もたかが知れている、と思う。
だが、ただ感嘆している訳にも行かない。
対処が遅れれば遅れる程、この先の戦に支障をきたす事になる。
来るべき秋に勝利を手繰る、その力を残しておかなければならないのだから。
「ジ須さんに連絡を。
高句麗兵は敵右翼方向から軽装で接近。
一撃離脱を繰り返すように」
「ハッ!」
「張コウさんにはその場で留まって戦線を維持するのではなく、敵の優勢に対しては後退、敵の間隙に対しては前進、それを繰り返すことで結果として戦線を膠着させるように、と」
「畏まりました!」
前線が接触してから殆ど時間は経過していないにも拘らず、先を見越して即座に指示を出す。
朱里は、凡百の指揮官であれば戦線を一定の位置で膠着させる為に部隊を定点に留まらせて防戦させるであろう処を、部隊の位置に拘ることなく、攻めと守りとが入り乱れ、双方共にその意図する処が捗々しくないと云う状況を創り出すと云う方策を取った。
押し込まれるなら無理に跳ね返そうとせず、押しに出て来た事で出来た隙を逆に押し返す。
互いに互いの隙を衝こうとし、互いに互いの意図を阻まんとする。
その結果として、戦線は上下するものの、いつしかその上下動は緩やかなものになるだろう。
そして一旦止まろうものならそこから動き出すには決定的な何か、例えば伏兵が濫入してくるなどの大きな変化が必要とされることになる。
そして朱里には、その変化を起こす為の手札が用意してある。
たとえ木柵を破壊されようとも、相変わらずこの戦の主導権は朱里が握り続けることになるのだ。
しかしそれにしても、と朱里は思う。
木柵を一番に破壊しに来た、と云うことは、平家は朱里の目論見を十分に理解していると見るべきだろう。
かなり深く、柱となる木の三分の二が土中に埋まるほど深くに埋めて木柵を巡らせ、縄を引っ掛けて引き倒す事など出来ぬようにしていたが、それを遥かに超える破壊力を備えた攻撃を加えて来る辺りは流石である。
用意した策をこうまで見事に超えられたことで、やはり相手は雛里なのだろうと云う確信を得た。
そしてそれは同時に、朱里に安堵感を齎してくれる。
これが相手が郭嘉であるなら、安堵感ではなく、常に焦燥感に付き纏われることになっただろう。
朱里はその為人(ひととなり)も癖も好みも、身に染みて知っている訳ではない為、未知であるが故の恐怖が常に付き纏うからだ。
だが相手が雛里であるなら話は別だ。
その性格は熟知しているし、その思考も、そして嗜好もほぼ完璧に理解出来ている。
勿論、朱里には思いも寄らない突飛な策を思いつくことはあるだろうが、その可能性は限りなく低いものだと考えている。
雛里は、甘い。
かつて朱里がそうであったように、策を構築する上で人死にを前提としてその上に勝利を描くことが出来ない。
例えば、呉越戦争時に罪人を一列に並ばせ、それぞれの罪状を述べさせた上で自決して果てると云う事を敵前で繰り返させ、士気を最大限削いだ上で決戦するという范蠡の如き策を、思い付けたとしても実行に移すことが出来ないだろう。
また例えば、殺される可能性があるにも拘らず敢えて劉邦を囮とし、それに項籍が執着して追い回している間に、項籍の同盟者達を下して包囲網を作り上げた張良の如き戦略を、主君の命が失われる可能性が高い事を鑑みて、採る事が出来ないだろう。
それは全て、雛里が非情に徹することが出来ない事に由来する。
雛里がそう云う性質(たち)である事を知っている朱里は、『雛里が採用するに躊躇わない性質を持つ策』と云う範囲を絞った上で、雛里が採ることが出来る最上の策、意外性のある策を考え、それに対する策を建てておけば良い。
初手に関しては、相手が有する戦力を見誤っていた為に取られることになったが、それでも朱里が建てた策を破綻させるまでには至っていない。
もし最終局面で戦象隊を投入された場合、為す術が無かったであろうことは想像に難くない。
それを想えば、序盤で戦象隊を投入したのはあちらの誤謬(ごびゅう)であるとさえ言える。
どれ程の力を持つのか、そしてどういう特性を備えているのか。
──私は一度目にしただけで十分に『理解』したよ、雛里ちゃん。
一度でその本質を見抜けたことは、自分を大いに利することになる。
もし最終局面で戦象隊を投入してきた時。
その時が自分にとって最大の機会になるだろうという確かな予感があった。
夜、星は最前線を配下に任せ、本陣へやって来た。
状況と今後の確認をする為、一時的に将達が集められたのだ。
この戦で右翼を任されていた星は、敵中に突入する事無く部隊の指揮に専念していた。
その理由は、全体を観ることが出来なくなる為であった。
天下分け目の戦で、己の槍を振るいたいと云う個人的嗜好を優先させた結果として、敵への対処が遅れ、自分が預かる右翼から瓦解させられたとあっては顔向けが出来ない。
既に戦端を開いてから二日経過しているが、星の見るところに拠れば状況は先ず互角と言って良い様相を呈している。
無論、互角とは言え、平家が攻め、袁家が守ると云う基本的な形は変わらない。
──袁家軍には平家軍を攻めるだけの余力は無い。
星の目には、そう映っている。
攻め寄せる平家軍に対し、防禦に徹することで五分五分の状況を創り出していると云うだけの事であり、力が拮抗していると云う訳ではない。
「そちらの戦況はどうだ、星」
「見ての通りです、主。
一進一退、その一言に尽きます。
ただまあ、このままなら先は知れていますが」
そう言った星に、教経が頷いて同意を示す。
「そうだ。
いくら五分五分の状況を創り出そうと、それは善戦していると云うだけの事。
何れ力の差が出始めることだろう。
故に力の差がはっきりと見え始める前に、あちらとしては何かしら仕掛ける必要がある訳だ。
そうでなければ、俺の首は獲れん。
それでは、此処でこうして俺と向かい合っている意味が無いンだから」
問題は、それを何時(いつ)仕掛けて来るのか、だがね、と言葉を続け、教経は肩を竦めた。
「何時、だけが問題になる訳ではないのですよ、お兄さん。
何が。
どこから。
その二つが無ければならないと思うのです」
「そう言うがな、風。
その二つが分かれば苦労はすまい?」
「確かにそうですが、何が、と云うのは比較的簡単に分かるのですよ」
星が周囲を見ると、雛里と吉里は頷き、質問を発した教経は勿論のこと、自分を含めたそれ以外は怪訝そうな顔をしている。
どうやら、頭が良い人間には分かって当然のことであるらしいが、教経が怪訝そうな顔をしている処を見ると、自分の頭の具合については然程心配しなくても良いらしい。
「聞こうか」
「簡単な話なのですよ」
諸葛亮は平家軍を迎えるに当たり、かなりしっかりと陣を構築していた。
それは、地中深くに打ち込まれた木柵を見れば歴然としている。
あの木柵を以て騎馬に対応しようと考えていたのであれば、もう一つ、打てるはずの手があるのだ。
「風、それは何だ?」
「今風達が布陣している此処は、どこですか?」
「どこ……?敵陣が見える比較的小高い丘だ」
「では此処と敵陣との間にあるのは何ですか?」
「平地だな」
「ただの平地ではないのです。
騎馬が自由に行動できる、何もない平地なのです」
風の発したその言葉に、その場にいた者達が分かりかけたような表情を浮かべる。
「穴を穿つなりして、とても騎馬を運用できないようにしておく、と云う事か」
風と気心が知れている愛紗が、頷きながら言葉を発する。
それに対して風は、
「風であれば、この丘含めてそれをやりますが〜」
と糸目で飴を咥えながら、さらりと口にした。
「まあ兎も角、そうしておいた方が時間は稼げるのです。
単純に移動の面だけで考えても、馬を全力で走らせる訳には行かず、徒歩に等しくなる訳ですから〜。
それをしなかった理由を考えれば、あちらも騎馬を運用するつもりがあるからに違いなのですよ。
眼前に広がる敵陣に、騎馬が居る様子は見受けられないのです。
故に、敵は騎馬を以て強襲することを考えていると言えるのですよ」
「成程」
「どこから、と云うのが分かりませんが、警戒しているのとそうでないのとでは対処の早さが雲泥でしょう。
騎馬がいつかやってくる前提で、此方も備えをしておくべきでしょうね〜」
風はそう言い終わると、言うべきことは言ったとばかりに傍観者へ回った。
その雰囲気を察したのであろう、教経が、
「備え、か。
誰か良い案があれば言ってくれ」
と、皆の意見を聞こうと話を振る。
「お屋形様、烏丸の騎兵は鉄騎ではない、と云う事で宜しいでしょうか」
「ああ、事前に調べた限りではそうだ」
「……弓、手槍」
「そうだな。
攻撃の手段としてはそれらが主力になるだろう。
鉄騎と違い、槍を構えて備えている処へ突進してくるようなことは無い。
無論こちらに対して勝算が立っているなら話は別だろうが、勝算もないのに敵中で乗馬を喪って孤立する危険を冒す馬鹿は居ないだろう」
「僕としては、南方から騎馬がやってくる可能性が高いと思ってる。
だから、大きな穴でも掘っておくつもりだよ」
「狙いが主の首にある以上、突進するなら本陣に対してであろう。
本陣に控える兵には、盾を持たせておくことにしてはどうだ。
それで十分損害は減るだろう」
「そりゃそう思うけどな、姐さん。
盾なんて持って来てたか?」
「そんなこともあろうかと、なのです」
「流石は風、其処に痺れるッ!憧れるぅ〜ッ!」
敵への対処に取り敢えずの目途が立ったことで、陣屋内の雰囲気が柔らかいものへと変わった。
とは言え、皆決して油断している訳ではないだろう。
星にしても、敵を軽く見ている心算は無い。
ただ、騎馬で強襲された際にはこうしようと云う方針は決まったのだ。
それが当たろうと当たるまいと、後はその事態に直面した時に然るべき対処をするだけだ。
今この場で気を揉んでも仕方のない事である以上、これ以上考えても時間の無駄である。
戦場であり、かつ継戦中であるにも拘らず、暫く銘銘(めいめい)が好きなように教経とスキンシップを図った後、解散となった。
──相手には不幸なことだ。
右翼へ戻る道すがら、本陣を振り返りつつ星はそう思う。
皆、袁家軍は眼前に在るのが全てではないと考えている。
そして恐らく、それは正しいのだろう。
相手の諸葛亮とやらは、稟も風も、雛里も吉里も警戒心を露わにする程の人物だ。
そして、あの華琳を打ち破った相手でもある。
その才能の高さは疑うべくもない。
間違いなく、ここぞと云う時機に戦場に投入してくるに違いない。
だがしかし、目の前にある兵力が全てではないのは平家とて同じこと。
そして言葉通り、『取って置き』の戦力が控えているのだ。
夜道を歩く星の後ろから、風が吹き抜ける。
風は真っ直ぐ星の視線の先へ──諸葛亮が居る筈の敵陣へ──向かっていった。
風に乱された髪を右手で掻き上げながら、思う。
目の前にある現実を無視することは許されることではない。
だがもし、星の主たる教経がこの世に居なかったなら。
「──ひょっとすると、ひょっとしたのかも知れんな」
もしそんな世があったなら、自分は案外諸葛亮と轡を並べていたりするのかも知れない。
少なくとも、自分が認めた教経と覇を競いあう程の才を持っているのだ、諸葛亮は。
そんな愚にもつかない事をふと考えて、馬鹿馬鹿しくなって頭を振った。
「見えて来たな」
馬を走らせるトウ頓の視界に飛び込んできたのは、河水──所謂黄河であった。
「渡渉準備をさせろ。
渉り方は分かっているな?」
そのトウ頓の問いに、ハッ、と一声応えて、一目散に従者が駆けて行く。
既に一度渡渉し、これが二度目の渡渉となる。
渡渉自体は一度目で既に経験済みであった。
躰が大きく力が強い馬を上流側へ。
その内側、つまり下流側で、馬体が細かったり疲労の濃い馬を渡渉させる。
馬方は普段と変わらず馬の手綱を確りと曳き、馬を安心させてやる必要がある。
そう伝え、それを徹底するようにと言っていた筈が、いつの時代にも云う事を聞かぬ者とは居るもので、勝手をした挙句溺死した者が幾人か出た。
それは正しく、『無駄死に』であった。
何の意味もない、正真正銘、本物の、混じり気無しの『無駄死に』。
大戦を控える身でまさかと思っていたが、どうやら自分の認識が甘かったと云う事らしい。
──だがまあ、戦場で勝手をされるより遥かにマシか。
幾人かが言いつけを守らず死んだことを考えて、寧ろあそこで死んで呉れて良かったのかも知れぬと思い返す。
言いつけを守らず、勝手に戦端を開く。
または、敵に突進しない。
またあるいは、勝手に撤退する。
いずれも致命的な行動であり、決定的な場面でそれを為されれば敗れるより他に途は無いと云う状況に陥る可能性が高い。
奇襲が出来ず、痛手を与える能わず、全軍崩壊の引き金を引く。
そう云う事を意味しているのだから。
無駄に死んだと嘆くよりは、戦略を破綻させる恐れのある危険分子を早々に排除できたと喜ぶべきところだろう。
「各隊、準備整いました!」
どうやら思いのほか時間が経過していたらしい。
物思いに耽っていたトウ頓に、先程駆け去って行った従者が報告の声を上げた。
「先行させた偵騎はどうしている」
「既に渡渉を終え、その任に就いております」
「良し。
では本隊も渡渉を開始するぞ?
渡渉後、暫く馬を休養させたら直ぐに出立だ」
「ハッ」
再び従者が伝令に駆けて行く。
渡渉後の休養は必須だろう。
何せその後は止まることなく平家軍の後背を一気に突き崩そうと云うのだ。
人馬共に疲労を一度抜いておかねば、あと一歩という処で槍が届かぬ等と云う笑えぬ話になりかねない。
それでは駄目なのだ。
万全とは行かぬまでも、それに近付けるよう努力を重ね、後悔するようなことが無い様に準備をしておかなければならないのだ。
──烏丸の戦と云うものを見せつけて呉れよう。
トウ頓はそう決意している。
この戦において、後退の二文字は無い。
少なくとも、トウ頓はその心算であった。
勝つにせよ、負けるにせよ、烏丸の勁(つよ)さを中華に示すこと。
敵に回せば勝てるにしても相応の痛手を覚悟せねばならぬと思わせる。
勝って軽んじられず、負けて侮られず。
味方にとっても敵にとっても、烏丸の存在感を確固たるものとする為に。
トウ頓はその為に、喜んで礎になるつもりであった。