夏も既にその盛りを過ぎ、漸く過ごし易い季節の影が見え隠れし始めた頃。
晩夏と云うよりは初秋の穏やかな天候の中、その穏やかさとは程遠い、物々しく武装した一団が街道を進んでいる。
その数、およそ十万。
掲げるは、揚羽蝶の旗と唯赤く染め抜かれただけの旗。
最早中華に知らぬものは無い、平家と、その棟梁の旗であった。
街道脇では、先触れを受けて道を譲った者や近隣に居を構える者が、ある者は物珍しそうに、またある者は眉を顰めて、眼前を通過する軍勢を眺めていた。
眉を顰めている者はその殆どが近隣に居を構えている者であり、戦で田畑が荒廃しないかを心配しているのであろう。
冬に何度も掘り返して土を作り、春に種を蒔き、夏の間中作柄を気にしながら水をやって、漸く刈入れと云う時期に、これ程の軍勢がやって来れば不安にも成ろうと云うものであった。
その一方、物珍しそうに軍勢を眺めている者達は、これまで目にしたこともない『とあるモノ』に目を惹かれていた。
それを見た者達は皆驚き、その珍しさに興味津々といった態(てい)であった。
その珍しい『とあるモノ』とは、象である。
南蛮が平家に従う際に条件として提示した象兵が、今回の戦に間に合ったのだ。
但し、兵としてそれを用いる事を悟らせぬ為に、大きな荷車を態々作って引かせ、輜重部隊であるかのように偽装している。
補給の効率を上げる為に様々に道具を発明したと言われる諸葛亮であるから、一度に大量に荷を運搬している現状を知れば、補給用に新しい手法を考案した、と云う捉え方をしてくれるのではないかと期待しての事である。
ともあれ、目にしたこともない巨体を揺らして歩く象をよく見ようと、人だかりが出来ていたのだった。
それらの、沿道で平家軍を眺める民達の中に、今回教経に従って洛陽に向かっている将達が其々(それぞれ)に放った細作が紛れ込んでいる。
群衆と一緒になって平家軍に臨みながら、特定の意思を以て一点に集中している人間が居ないかどうかを確認しているのだ。
特定の意思を以て一点に集中している者──即ち、暗殺者。
教経は、諸葛亮がこの時点での暗殺を企むはずがないと皆に言っていたが、その事で却って皆が心配した為に、其々信頼できる者を使って警戒させていた。
教経の予測が正しかったのか、将又(はたまた)警戒していることを看取られたのか、暗殺者の影さえ見えなかったが。
ただ、暗殺者は居なかったが、当然袁家の斥候は居る。それら斥候については、見つけ次第排除していた。
その全てを排除できる訳もないが、集まる情報が少なくなれば少なくなる程戦は有利に進めることが出来る。
この戦自体がそうであるが、行く手を阻む障害となり得るものは、排除しておくに越したことはない。
とまれ、平家軍は街道を東へ進んでいる。
斥候に依れば、袁紹軍は当初教経達が野天で決戦するなら此処であろうと想定していた新安よりも函谷関に近い、ベン池に陣を構築し、此方を待ち構えているとのことだった。
此方の騎馬の数を考慮し、それを十全に生かすことが出来ぬよう、陣には柵を巡らせているとの報告が挙がっている。
「ベン池、ね」
報告を受けた教経は、そう一言だけ口にした。
「……何?」
その教経に、偶々その場に居合わせた百合が声を掛ける。
教経の言葉に微細に含まれる嘲笑めいたものを感じ取ったのか、怪訝そうに首を傾げながら。
その百合の姿に、思わず飛び掛かりそうになった教経ではあるが、行軍中であり、また馬上の人であった事を思い出して自重した。
「いや何、周章と章邯(しょうかん)の事を思い出してなぁ」
「……今回もその通りになる」
「あぁ、勿論俺もそう思ってるさ」
教経が口にしたのは、秦王朝末期の故事であった。
秦王朝末期、張楚の将であった周章は、数十万の士卒を従え函谷関を突破した。
しかし大赦によって解放された大量の罪人を兵として従えた秦の章邯に戯で大敗を喫し、函谷関も放棄して逃げ出した
途中敗残兵を糾合して会戦するも再び敗れた周章が、最後に宿営地に選んだのがベン池であり、此処で三度目の敗北を喫した彼は、最早生きる途は無しとて自刎して果てた。
そう云う歴史が紡がれた地で諸葛亮が手薬煉(てぐすね)を引いて待っていることで、教経は自分と諸葛亮が其々どちらの故人に擬(なぞら)えられることになるのか、それを想って面白味を感じていたのだ。
百合もその故事を知っていたが故に、教経の一言で全てを察し、歴史は繰り返す、即ち周章の如くベン池に陣を構える諸葛亮を、章邯の如く函谷関から打って出た教経が打ち破る、と云う意味で、その通りになると答えたのだ。
「が、あっちもあっちでそんなことは先刻承知だろう。
向こうでも同じようなことを考えているんじゃないか、と思う訳だ。
そう考えると、中々面白く感じてな」
言いながら、くつくつと嗤う教経に、百合は仕方がない人だと云わんばかりの顔をして首を振った。
「それはそうと、百合、あっちの手筈はどうなってる?」
「……ん、手配はした。
後は二人次第」
「そいつは重畳。
これで人事は尽くしたってぇ訳だな。
……まあ、諸葛亮のお手並み拝見と行こうじゃないか。
期待に応えるべく、色々と準備をして呉れているンだろうしなぁ?」
あ〜あ、と馬上で大きく伸びをしながら、のんびりと馬を進める。
為すべき準備、講じることが出来る手立ては尽くしたと言って良い状況にある以上、緊張しても仕方がない。
であれば、油断しなければ適当にやって構わないだろう。
──適当に、と言うと、吉里辺りにどやされるか。
教経はその可能性に思い当たり、そして恐らく間違いないであろうその予測に苦笑いを浮かべる。
──どうでも良いって意味じゃなく、適切に事に当たるって意味なんだがねぇ。言葉の意味は変遷するものであるとは言え、本源的な意味位知っていて貰いたいモンだが。
眼前に差し迫って居る対決を前に、比較的どうでも良い、極めて個人的な思索に耽る。
刻一刻と決戦の時が迫っているこの時に在ってさえ、教経は教経であった。
教経が函谷関を出て街道を進んでいる頃、朱里はベン池に在って斥候の報告を取り纏め、平家の動きの全象を捉えんと頭を働かせていた。
「ご苦労様でした」
「はっ」
その為の手足として働く斥候の一人を労(ねぎら)い、部屋から送り出す。
彼が齎(もたら)した情報で、平教経の軍の編成が明らかになった。
これによって、平家は朱里が思い描いていた通りの戦略に沿って動いていることが確実になったのだ。
平教経が率いる兵は十万。
軍師に、程c、ホウ統、徐庶。
武将に、趙雲、関羽、高順、太史慈、ケ艾、ケ忠。
知においても武においても、正しく一流と呼べる者ばかりである。
だが同時に、本来此処に参じて然るべき幾人かの名前が見えない。
馬騰を筆頭とする、馬家の面々も。
董卓を筆頭とする、旧董卓軍の中核も。
孫策を筆頭とする、揚州の俊英も。
公孫賛を筆頭とする、荊・益の逸材も。
曹操を筆頭とする、曹家の家人も。
それら全てが此処に含まれていないのだ。
此処に居ない彼らは、別の場所から麗に攻め寄せようとしている。
まさに絶体絶命の状況だ。
しかし一方で、この状況は平家を分断することに成功したとも言える状況である。
それを画策した訳ではないとは言え、状況を前向きに捉えればそう云う表現になるだろう。
対する朱里が率いる兵も十万。
構成は、袁家の兵五万に、烏丸兵二万、高句麗兵三万と云う混成である。
しかも急造の軍である為、其々が上手く連携して戦う事は中々に難しい状況であった。
但し、それは朱里にとって悪い事ばかり齎すものではなかった。
朱里は急造であるが故に抱える問題、特に部隊間でのいがみ合いから生じる小競り合いに対して、厳罰を下していた。
例えば、騒擾(そうじょう)の中心人物を釜の中に入れて煮殺すようなことを。
決戦を間近に控えている中、急造である混成部隊を引き締める為に、止むを得ない仕儀である。
そう云う佇(たたず)まいで厳罰を下すことで、漫然としていた兵達に、緊張感を齎すことが出来た。
朱里としては、それが余り褒められたやり方ではない事は重々承知している。
兵達は、本来であれば平家と向かい合うと云う点において、緊張感を持って戦場に臨まなければならない。
しかしそれを払拭することは到頭(とうとう)叶わなかった。
だからと言って相手を見縊(みくび)って居れば、戦端を開いた途端に一飲みにされる。
それであれば、その本来平家に対する警戒から齎されるべき緊張感を、陣中で下手な真似をすれば厳罰に処されると云う恐怖から齎してやることで、少なくとも戦に臨むに当たって心理的な隙は無くなるはずだ。
そう考えて、厳罰を下していたのだ。
そしてそれは成功し、軍紀は正されている。
後は、平家を撃破するだけである。
が、言葉にすればたった二文字の、その『撃破』を簡単に為すことは不可能だ。
「孔明殿、失礼致します」
「どうぞ」
それを成し遂げる為には、配下に己の意図する処を詳(つまび)らかにし、目的を共有しておく必要がある。
陣屋に入って来る面々を眺めつつ、物思いに耽る。
朱里、張コウ、トウ頓、ジ須。
その所属も地位も異なる四名は、恐らく異なる最終目的をその胸の内に抱いて此処に集まっている。
朱里は天下を、張コウは袁家の将来を、トウ頓は烏丸の安泰を、ジ須は高句麗王への足掛かりを。
四者四様の思いでその胸の内を彩りながら、この戦に臨んでいる。
そして四者とも、この戦に勝たねば目的を果たせぬどころか己の命が無くなるであろうことを承知している。
だから、合力出来る筈だ。
──少なくとも、戦が終わるまでは。
平家軍の現在位置とその編成、それに対する袁家側の備えについて説明をしつつ、朱里は心中でそう独りごちた。
平家軍の編成には特徴がある。
西涼や匈奴で駿馬を買い集めていることで、歩兵と騎馬との割合が五分五分とは言わぬまでも、六分四分程度になる編成となっている。
味方の方が数的に少ない状況で、四万もの騎馬を抱える平家軍を、何の用意もなく平地で迎え撃つのは自殺行為だ。
「故に陣を構築し、其処に平家を引き込みます」
そう胸の内を披歴した朱里に、
「宜しいか」
と、トウ頓が軽く挙手をして発言を求めた。
そのトウ頓は、朱里が頷いたのを確認して、話し始める。
「状況は圧倒的に御味方に不利だ。
此方が国中の兵を尽くして迎えているにも拘らず、まだ兵を尽くしている訳ではない召に、数の面で後れを取っている。
三方から寄せる召軍に対し、此方も兵を分割してこれに当たる事になっている以上、全ての戦線で劣勢に立たされるのも目に見えている」
淡々と、唯事実だけを述べて行くトウ頓。
「その不利な状況で、陣を構えるとは言え平地に出て決戦するのは何故だ?
洛陽は王城だけあって、固い城壁をもつ邑(まち)だ。
騎馬の運用に長けた我ら烏丸としては貴女の選択は望ましいものであるが、中華的発想からすれば籠城こそ相応しい対抗策ではないのか?」
その口から語られる言葉とは裏腹に、その目には寸毫(すんごう)の動揺も浮かんでいない。
トウ頓としては、この場は主将たる諸葛亮が何の意図あって場外に軍を展開したのか、それを確認する為の、謂わば儀式のようなものだと思っている。
諸葛亮は切れ者であると言われているし、これまでの事績を見る限りそれは正しい。
その諸葛亮が主将として断を下した以上、成算あっての事であろう。
トウ頓はそう思っているからこそ、この段階で諸葛亮の策について、口出しするつもりはなかった。
ただ、この回答によって、現単于である楼班が下した判断の吉凶が占えると考えていたが。
いずれにせよ、トウ頓にとってこの質問は余興のようなものであった。
「簡単なことです」
トウ頓の心中を知ってか知らずか、朱里が何の感情も感じさせない、温度のない声で応える。
「勝つためです。
平家、いえ、平教経に。
そも籠城策とは、その時その場で敵をやり過ごせば問題が無い場合か、確実な援軍が見込める場合に行うべきものです。
国境に程近い城を匈奴に襲われる、と云うのであれば一先ず籠城して時を稼ぐのが無難な選択でしょうが、この場合はそうはいきません。
籠城した私達が外に出られぬようにするに必要とされる兵を残し、後は本拠を衝く為に進軍されたのでは困りますし、そうならずに全軍を相手に戦うことになった場合でも、援軍が見込めない以上結果は見えています」
「援軍は無い?」
「そうです」
「何故そう言い切れる?」
「その様に策を練ったからです。
私達が平教経を殺して他を救う為に奔走することはあっても、他が直面する平家軍を破って私達を救わんと奔走することはありません」
朱里の発言を聞いたトウ頓は、身震いする思いがした。
──この少女は、平教経を殺す為に、籠城ではなく野天で決戦することを選んだのか。
最初の答えで『勝つため』と答えた朱里。
トウ頓は、それは来る戦で平家を撃ち払い、再侵攻出来ぬように痛手を与えると云う事であろうと勝手に画を思い描いていた。
だがそれは間違っていたのだ。
その目は、強い決意を感じさせる。
漢化したとはいえ、未だ弱肉強食の文化が遺(のこ)っている烏丸の中で育ったトウ頓でさえ、ギョッとさせられるような、底冷えのする酷く冷たい目をしている。
「故に、籠城はしない。
それだけのことですが、異論がありますか?」
集まった三人の顔の上を、朱里の鋭い視線が滑って行く。
三人ともに、声を発しない。
いや、発し得ない。
朱里がこの決戦に身命を賭していることを肌で感じ取り、気圧されてしまっていた。
そんな三人の様子に、朱里は異論はないと見て、自分が思い描いている策の詳細を説明する。
それは、正面に敵を引き付けた上で行う、騎馬による大規模な迂回遊撃作戦。
陸続きである迂回しやすい南方からではなく、敢えて河水を二度渡渉して後背からの急襲を行う。
平教経自らが索敵しつつ進んで来た道でもあり、通常であれば有り得ないと断じてもおかしくない方角からの強襲。
陣を構えているベン池のみを戦場と捉えるのではなく、近隣含めて一つの巨大な戦場であると捉えているからこそ考えられる作戦であり、ベン池で戦う事しか考えていなかった三人は正に頬を張られたような心持ちがしていた。
「これが成功すれば、平教経の首級(しるし)を挙げることが出来るでしょう」
気付かれぬように迂回後二度渡渉をする等確かに容易ではないが、やり遂(おお)せれば首級を挙げることが出来るかも知れない。
その言葉を耳にした三人共に、そう感じる。
無論目論見通りに成功すれば、である。
そして、目論見通りに行かせる為には、幾つかの課題を解決しなければならない。
抑々平家に勘付かれること無く迂回を行うことが出来るのか。
それが出来たとして、果たして迂回遊撃隊が強襲するまで、正面で平家を引き付ける隊が戦線を維持出来るのか。
実は兵力分散の愚を犯しているだけで、各個撃破の餌食となってしまうのではないか。
一々挙げて行けばきりがないが、そう云った課題や不安を、どう払拭するのか。
それもまた三人共に感じているところであった。
「勿論、それは簡単なことではありません。
それ故にこそ、少なくとも此処に居る四名は唯一つの目的の為に動かねばなりません」
ただ一つの目的。
それは平教経を殺す事。
袁家の存続でも烏丸の将来でも高句麗王の王権強化でもなく、朱里が望む平教経の首級を挙げることのみに力を注ぐべきである。
そう、朱里は思う。
何故なら、それらは覇権を握った後に付随させることが出来る物であるからだ。
「それぞれが胸に秘めていることは一先ず措(お)いて、私が建てた策通りに動いて貰います。
異存があれば今言って下さい。
戦端が開かれて後、異志を抱いて独自に行動されたのでは困るのです。
独自に動いた結果、喪うはずのなかった兵を喪って策が潰えれば、結局皆で全てを失うことになるのです」
「私に異存はありません、孔明殿」
張コウの応えに、他の二人も同調するように首肯した。
「……良いでしょう。
では、陣立てと策を披露したいと思います」
陣屋の中、四人は膝を交えて策を詰める。
それぞれが、この戦の先に、それぞれの望む未来を描きながら。
斥候からの情報通り、袁家軍はベン池にて陣を構築していた。
柵を張り巡らせた上に空堀を掘ってあり、此方の侵攻をここで食い止めようと云うのであろう。
木柵を挟んで向かい合う、眼前に広がる敵陣を前にして、吉里は身震いを一つした。
これから諸葛亮、自分が盤上での模擬戦で何度も煮え湯を飲まされた朱里と、実際に軍を率いて遣り合うのだ。
「どうした、ビビったのか、吉里」
「どこに目を付けてるのかな。そんなことないワケ」
「体を震わせていたじゃないか」
「……コレは武者震いなワケ」
「そうか。小便ちびってるのかと思ったんだが、どうやら余計な世話だったらしい」
「馬鹿なこと言わないで貰いたいな。
ボクがそんな真似するはずが無いワケ」
顔を合わせると憎まれ口を叩くのが既に習慣と化している二人が、いつも通り挨拶代わりとばかりに悪態を吐く。
「で、どうなンだよ、実際」
「結構堅牢な陣を構築しているように見えるワケ。
朱里の目的は間違いなく御使い君の首級を挙げることだと思うけど、ああも防備を固めていたらそれは難しいと思うんだよね」
「……擬態だと?」
「ううん、そうとも言い切れないワケ。
とりあえず一旦受け止めることで戦線を膠着させて、其処から何か手を打とうと云う策かも知れないし」
「要するにどう云う事だ」
「……御免、はっきりとは分からない」
「らしくねぇから御免だなんて口にするな。
寒気がするだろうが」
「ちょっと何!?
僕が下手に出ているからって好き勝手言って!」
食って掛かった吉里の眼前で、教経は人差し指でその貌を指差しながら、
「そうだよ、その調子だ。
らしくなってきたじゃないか」
と、言った。
その態度と物言いに毒気を抜かれたのか、吉里は溜息を吐いた。
「はぁ……真面目に対応した僕が馬鹿だった」
「それで?」
「何?」
「俺達はどう動くんだね?
攻め寄せている以上、此方が先手を取るべきだと思うが」
「そうだね……」
朱里が率いている兵の数は、吉里と雛里が想定していたよりも少ない。
袁家の動員可能兵数と他の戦場を膠着させる為に必要となるであろう兵数から、この戦場に投入が許される上限である十万弱の兵を率いて来るだろうと思っていたが、実際には七万〜八万の間でしかなかった。
その差分が何によって齎されたのか、が、この場合問題となる。
他の戦場に投入し、そちらで勝利した上でベン池の支援に駆け付けさせることを考えているのか。
それとも、差分となる約二万弱の兵を埋伏させ、機を見て教経の首級を挙げることを考えているのか。
そのどちらかであろう。
そして恐らく、後者に違いない。
もし未だ雛里があちら側に居たのであれば話は別だろう。
その能力については疑いようが無いし、気心も知れている。
他の戦場で雛里が勝利を治め、余勢を駆ってベン池に雪崩れ込むことが出来るかも知れない。
そして朱里はその可能性に賭けて、ベン池でひたすらに耐え抜く戦をする画を描くことが出来るだろう。
天下争覇の行方を、雛里の才覚に賭けると云う事に悔いも不安を覚えることが無い故に。
それは、朱里が雛里の事を己に等しい才覚を持つものであると認めているからこそ下せる決断だ。
だが現状、朱里の傍に雛里は居ない。
そして雛里に代わる才能もなく、雛里ほど信頼できる人間は唯の一人もいない。
つまり、朱里は他ならぬ自分自身の手で勝利を掴み獲らなければならない状況に追い込まれている。
だからこそ、予測と比して不足している兵はこの戦場の何処かで、濫入(らんにゅう)する時機を謀っているに違いない。
「濫入する時機?」
「そう。
僕なら先ず戦線を膠着させる。
そう云った目で此処を見渡すと、ここは正しくその為に構えられた陣であるってことに気付くはずだよ」
「……成程。それで?」
「だから最初から切り札を使う」
「象兵でいきなり陣を蹂躙してやる訳か」
「うん。
近寄って来て初めて象の使い方に気が付くと思う。
御使い君の発想に現時点で気付いている人間が居たとしたら、それは本当の狂人なワケ。
僕が知る限り、朱里はこれ以上ないほどの切れ者だけど、狂人じゃない。
だから初手は必ず成功する。
最初から、朱里の想いを超えた戦を繰り広げることが出来るよ」
朱里の想像を超える。
それによって初手から、最後まで、ずっと主導権を握り続ける。
自分よりも優秀である朱里に打ち勝つためには、朱里がその才能を如何なく発揮して、自由に策を考案・実行するようなことが有ってはならない。
才能に劣る自分では、朱里の考え出す策に対応しきることは出来ないからだ。
その意図を読み違えたり、投入する兵数やその時機を読み違えたりして破綻が生じるに違いない。
それ故、常にこちらから仕掛け、それに対処させる形で戦を進める。
此方から意図を持った攻勢を仕掛ける以上、それに対してどう対処してくるかは容易に予測できる。
容易に、とは言っても、朱里が仕掛けてくる策を予測するのに比べれば、と云う話でしかないが。
しかし、敵からの仕掛けに受動的に動く場合は、必ず一定の対処に落ち着くだろう。
戦線を維持させる、と云う方向で動くことは間違いない。
その場合、能力が拮抗している朱里と雛里とが考えることに、其処までの差は出ない。
つまり、此方は朱里がどう対処するかを予め想定した上で策を構築することが出来るのだ。
それが、吉里が考える、朱里に勝利する方策であった。
「まぁ、そこはどうでも良いさ」
「どうでも良いって!どういう……ッ!」
「あぁ?
今回の戦は、お前さんと雛里に任せるって言ったろう。
模擬戦で稟や華琳を打ち負かした訳だしな」
教経は思う。
稟、風、碧、翠、霞、琴、雪蓮、華琳、百合。
あれだけの面子を相手に最後には連戦連勝したのだ、吉里と雛里で。
戦いにおいて、どうにもならない流れのような物が有る。
多対多の戦と云う規模でも、個人で敵と向かい合う規模でも、それは確かに存在する。
それを『勢い』と表現することが許されるのであれば、今平家の中で最も『勢い』があるのは、吉里と雛里の二人だろう。
「だからなぁ、吉里」
「何よ」
「俺はお前さんを信じている。
お前さんが思うが儘に、好きにすれば良いんだよ」
その方がきっと良い結果が出るだろうからな。
そう、思ったことをそのまま口にした。
「……急にそんな顔しちゃって……ズルいよ、御使い君は」
「あぁ?
何か言ったか?」
「別に何も言ってないよ」
「そうか?
何か言っていた気がしたんだが?」
「僕は何も言ってないよ」
「ん〜……何か言っていた気がしたんだがな……まぁ、良いか。
ンじゃ吉里、皆を召集。
軍議で策を説明してくれ」
「了解」
──確かに何か言っていたはずだねぇ。
その場を後にする吉里の背中を眺めながらそう呟く。
何を言っていたのか少々気になる教経ではあったが、流石に戦を前にして拘るようなことではないと思い直す。
これから、待ちに待った秋が始まるのだから。