「これは……信(まこと)でしょうか。信に、このような……」

 教経の眼前に控える袁紹からの使者が、その表情を凍てつかせ、口を戦慄(わなな)かせている。
 降伏を受け入れる条件。その書付を取る手も、震えている。
 その様を、教経は少々皮肉気に眺めていた。

 『信じられない』。
 全身でそれを表現するこの使者は、良い役者になるだろう。
 演じているのではなく、真実そう反応してしまって居る可能性もあるが、そうだとするなら使者の人選を誤ったと言わざるを得ない。
 この程度で動揺を示すようでは、交渉が務まるはずがない。
 そう、教経は断ずる。

「信であるとも。
 提示した条件を呑むなら、寡人(わたし)が抱えている、袁家に対する悪感情の全てを水に流すであろう。
 それだけでなく、婦や臣下の者達を納得させて見せよう」
「し、しかしこれではあまりに───!」
「条件が悪い、かね?
 しかし袁紹殿は寡人を并州から逐い、大恩ある董卓、今や寡人の婦でもある佳人を二度に亘って害さんとし、同じく婦たる曹操からエン州を奪い、寡人に仕える公孫賛から幽州とその家臣たちの命の殆どを奪っている」

 教経は落ち着いた雰囲気と表情でそこまで口にして一度目を瞑り、

「これら全てを、無かったことにするその対価が、安く済むとでも思っているのかね?」

 と、目を見開いて口にした。
 教経が身に纏っている雰囲気は、剣呑とは程遠い。だが、眼光はそうではなかった。
 その鋭い眼光に射竦められたかのように、使者が絶句する。

 降伏交渉により時間を稼ぎ出し、今の袁家に出来るだけの準備を行ったら、擬態をかなぐり捨てて決戦に臨む。
 それが袁家の基本方針である事を、長安に来る前に立ち寄った洛陽で、使者は郭図から聞かされていた。

 適当に相手が言う事を聞いて来れば良い。
 後は交渉が決裂しないぎりぎりの境界で、時間を掛けて、言を左右して態度を定めず、時に媚び諂(へつら)い、見苦しく取り乱し、慍怒し、泣訴する。
 それで時間は十分に稼げるであろう。

 そう聞かされて、この場にやって来たのだ。
 だが平家から提示される降伏の条件が、これほど厳しいものであるとは考えていなかった。
 その手中にある書付に、再び目を落とす。

 一つ、袁紹の命を保証する。
 一つ、袁家の存続を認める。
 一つ、袁家に仕える者達の命を保証する。
 一つ、袁家、及びそれに仕える者達の財産を保証する。但し、これは財貨に限る。
 一つ、袁家から蒙った被害について、これを報復しないものとする。
 一つ、袁家の所領については、独自の裁量を認めるものとする。

 此処までは良い。
 と云うより、袁家にとって望ましいことが記述してあることに、逆に驚いたものだ。
 これだけであれば、破格の条件と言っても良い。
 だが、問題はこの後にある。

 一つ、袁家の所領を全て召し上げた上、遼東に封ずるものとする。
 一つ、遼東は召の附庸としてのみ、その存在を認める。

 この条件は、敗戦した国に背負わされるべき、厳しい条件だ。
 先の戦で勝利を収めた袁家に対し、敗北した平家が提示すべき条件ではないのではないか。

 それに抑々、遼東には公孫康が威勢を張っている。
 領有してさえいない土地に封じるとはどう云う事か。
 真面に降伏を検討するつもりがあるのかと、疑わざるを得ない。

「も、勿論、対価が安く済むとは考えては居りません。ですが」

 これは些(いささか)か、厳しすぎはしないか。
 使者がそう言葉を継ぐ。
 降伏を望んでいるのが袁家である以上、譲るべきは袁家である。しかしそれにも限度と云うものがある。
 これほど厳しい条件では、降伏しようと云う意思そのものを挫けさせてしまいかねない。

「そこの辺りを、考慮して頂けないでしょうか」
「使者よ。降伏して欲しい、と寡人がいつ口にしたか」
「う……」
「寡人はそちらから、降伏の意を内々に伝えられたに過ぎぬ。
 袁家と、それが開いた麗王朝とを叩き壊さんとする意思の原因を、全て水に流すに必要な条件はこれ以下には成り得ない」
「しかし遼東については、未だ教経様がお治めになっておられぬ土地で御座いましょう」
「心配は要らぬ。袁家が遼東を攻め取る、その補翼として軍を遣わすであろう。ほんの10万程度だがな。
 いずれにせよ、方策は降伏が決まってからの話だ」
「は……」

 取りつく島もない厳しい言葉に、使者が答えようを無くす。

「……とは言え、使者殿が此処で返答をせねばならぬという訳でもない。
 まずは持ち帰り、検討するが良かろう」

 教経の言葉に力なく頷き、使者が謁見の間を後にする。

「降伏してくれるなら、それに越したことは無いがねぇ」

 教経は使者の後姿を見ながら、小さく、隣に居る高順でさえ何とか聞き取れるかどうかと云う位の声で、そう呟いた。





 あれから何度か使者が往復しているが、袁家側は言を左右に中々踏ん切りがつかないと云う様相を呈していた。
 その袁家の態度に、家中では様々な憶測が為されていた。

───本当に袁家は降伏しようとしている。
 此処は条件を少し緩めて、降伏への後押しをすべきである。

───袁家が迷っているように見せているのは擬態だ。
 旗幟を鮮明にさせるべく、期日を指定して返答させるべきである。

───抑々降伏などさせる必要は無い。
 全軍を以て侵攻し、中華から袁家を戮滅すべきである。

 これらの意見は、当然教経の耳にも入っていた。
 だが、それについて、教経は良いとも悪いとも言わなかった。
 自分の意思を明確にした場合、其処に議論が発生する余地はない。
 如何に教経の意思を実現するか、その方策について話し合われるだけであり、本当にそれで問題が無いか意見を戦わせることが出来なくなってしまう。

 第一、平家首脳と目されている者達の意見は一致を見ており、それが枉(ま)がることは無い。
 今後の事を考えても、今は家中の人間が自分の力で物事を考えることの方が大切だろう。
 こう云った事は、経験がものを言う。
 乱世が終熄しつつある今、積ませることが出来る経験は積ませておくべきだろう。
 若い、次代を担う才能には、特に経験が必要だ。

「……何か一気に自分が老けた気になるな、ンなことを考えたら」

 執務室で司馬懿から家中の話を聞きながら、教経がそう実感を口にする。
 執務室には、司馬懿と華琳とが詰めており、知的好奇心を満たす為に会話を楽しんでいる、と云う風景であった。

「大丈夫です、陛下。何故なら、陛下はもう既にオッサンで御座いますれば」
「テメェも変わらねぇだろうが、仲達」
「いえいえ、私はまだ若いですから」
「何言ってやがる、子持ちのオッサンが」
「ハッ、種無しが何やら吠えているようですな」
「「……フンッ!」」
「……はぁ。貴方達、仲が良いのは良いけれど、程々にしておきなさい」

 最早恒例となっている、司馬懿との息の合った漫才を華琳に見せつけた後、話を戻して会話を続ける。

「オッホン……それで、陛下。陛下はどう見ておられるのです、一連の返答を」

 司馬懿の問い掛けを受けて、教経は少し考える素振りを見せた。

 袁家からの返答は、これまで三度来ている。
 一度目は、家中の意見を取り纏めるのに時間が掛かっている為、もう少し待ってほしいと云うものであった。
 二度目は、此れほどに厳しい条件では降伏できないではないか、と良く分からぬ怒りを露わにした後で、降伏したいので何とか考えて貰いたいと泣き落としに走り。
 直近の三度目は、降伏の言質を与えぬままに、降伏条件の詳細な内容について調整したいと言ってきた。

 前後左右に動き回り、何処にその真意があるのか掴ませない。
 その方針で交渉をしているのであろう、と云う事は良く分かる。

「だが、それが良くなかったな」

 教経のその言葉に、華琳が笑って頷く。
 その表情は、本当に嬉しそうである。
 そして何より、心から楽しそうであった。
 華琳が理解していることを、教経もまた理解していると云うその事実が、そしてその認識を二人ながらに共有できていることが、何とも喜ばしい。
 男女の事としてではなく、一人の人間として、覇者を志しそれを為す器量を持った人主として、拮抗する器量を持った他者がすぐ傍に居ると云うのは、非常に心地良いものであった。

 それに対し、司馬懿は難しい顔をして、

「陛下。私には良く分かりませぬ。
 袁家にしてみれば、今回の対処は当然の事ではありませんか。
 良くなかった、との仰せですが、事は良し悪しを論ずる以前の問題ではないでしょうか」

 と口にする。

 考えてみて欲しい、と司馬懿は続けた。

 平家からの提案を、受け入れられぬものであると公然と口にすれば、交渉は即座に決裂する。
 降伏条件をより良い物にするために、話を前後させ、言を左右にするのは無理からぬ処である。

 また、此方の見込み通り、戦の準備を整える為の時間を稼ぎ出すのが彼らの目的であるなら、様々に動きを見せて此方を牽制しておく必要がある。
 その場合にも、やはり話を前後させ、言を左右にするのは当然のことである。

「そうではありませんか」
「さて、俺はそうは思わんがね……華琳、お前さんだってそうだろう?」
「ええ、そうね。私が麗羽なら、もっと違う対処をするわ」
「む……後学の為に、御教示頂きたいものです」
「そうね……教経、一応確認しておくけど、貴方は『孫ピン兵法』を想起しているのかしら?」

 教経は華琳を見て、自分と同じことを考えているだろうと感じていたが、華琳が『孫ピン兵法』と口にした事で、それが間違いではない事を知った。

「あぁ、多分お前さんと同じことを言うと思うぜ?」
「そう……貴方と話をするのは、相変わらず愉しいわね」

 『四路五動』。

 華琳が口にしたのは、孫ピン兵法下篇『善者』にある有名な言葉である。

 四路、とは、前後左右に進む道だ。『前路』『退路』『左路』『右路』。
 進むにせよ退くにせよ、その四つの路が存在し、将はそれを適切に選ばなければならない。

 しかし、路が四つであるのに、動は五つある。それに思いを致さなければならない。
 動の内の四つは、路に等しい。
 『前進』『後退』『左行』『右行』。それはすぐに分かる。
 残りの一つは、『不動』。黙然として処(お)るもまた動なり、と孫ピンは言っている。
 動かぬと云う選択をすることも、立派な動であると云う考えだ。

 それで何が分かるのか。

「袁家(やつら)が降伏を本気で考えているのか、それとも平家首脳(おれたち)が考えているように佯(いつわ)りであるのか。
 それが明白になってしまった、という訳だな」

 と、教経は言った。

 和戦何れになるのか、それを判断するには、此処までの袁家の動きを流れとして把握しなければならない。

 先ず、袁家が統一された意思の下で動けていない、と云う前提が正しいと仮定する。
 そうなると、降伏交渉をしているのは、心底降伏したくて堪らない袁紹と云う事になる。
 これは、文面にも使者の口上にもあったことだ。
 その場合、袁紹は周囲の意見を考慮に入れず、独断で話を持ってきたと云う事になる。
 であれば、どんな形であれ、袁家と袁紹個人の命脈、そしてその後の生活が保障されれば、家臣たちがどうなろうと構わないと云う考えをしているはずだ。
 無論、全ての家臣を切り捨てる程薄情ではないのであろうが、近臣以外は必要ないと思い切ることが出来る程度に、『袁家』に縋り付いてくる家臣たちを倦厭(けんえん)しているに違いない。
 家の大事は、必ず老臣(おとな)達を交えて行うべきものである。
 それを行っていない以上、そう云う人間性を持って居なければ話の辻褄が合わない。

 降伏の意を伝える書状に書いてあったことを素直に受け入れるなら、そう云う事になる。

「その袁紹は、一度目の返答で何と言って寄越した?」
「家中の意見を取り纏めるのに時間が掛かっている、でしたな」
「そうだ。何故今更纏める必要がある。切り捨てると決めているはずだろうに」

 もし袁家が話を前後させず、言を左右にせず、黙然としていたならば、降伏するつもりがあるのではないか、と考えたかも知れない。
 だが、策を弄しすぎた為に、却ってその目的とする処が明白になった。

「ただ黙っているだけの場合は、此方から様子を窺わせることになる。
 それに対し、強硬派に悟られぬ為、あまり派手に動きが取れないのです、と言われてみろ。
 納得してしまいそうになるだろうが」
「成程。彼らがそうしなかったことで、佯降であると判断されたのですか」
「それだけじゃない。
 抑々今回の降伏話には無理がある」

 教経が説明を続ける。

 降伏の意思を告げる書状。
 書状からは、以前から降伏を望んでいた袁紹と、それを阻止して決戦に臨もうとする一部強硬派と云う構図が読み取れる。
 その内容が正しいなら、説明が付かない事象がそれ以前に発生しているではないか。

 弘農攻略。
 それは、多方面における袁家軍が連動した結果として齎された勝利である。

 話を聞く限り、合肥に篭もった袁家軍は、必死に抵抗していた。
 その守将は、自分達が撒き餌、悪く言えば捨て駒であることを理解していた筈だ。
 にも拘(かかわ)らず、戦う事に拘(こだわ)った。
 黄祖の爺のように、死に場所を求めていたと云う事も考えられるが、これから反攻と云う時に進んで死にたいとは思わんだろう。
 であれば、彼らは喜び勇んで合肥で死しても構わないと考えていたと云う事になる。
 平家を攻めることに難色を示す主君の為に、喜び勇んで死ぬ人間がいるだろうか。

「まあ、合肥に居たのは全て強硬派だった、として見よう。
 そして一部だと思っていた強硬派が、実は袁家の九割を占めていたとしよう。
 だがそれでも、説明が付かないことが有る」

 袁家は、宛からの援軍を防ぐために、別働隊を南下させている。
 それを率いたのは劉備であるが、その軍中には顔良の姿が確認出来たそうだ。
 顔良は、袁紹の側近中の側近だ。
 側近中の側近を、自分の意に染まぬ遠征に派遣するだろうか。
 そして派遣したとしても、袁紹の本意を良く知るはずの顔良が、平家に接触できる位置に出張って来て何もしないと云う事があるだろうか。
 降伏が本意であるなら、その時顔良が使者に見えぬ使者を立てれば容易に接触できたはずである。
 戦に捕虜は付き物なのだから。
 それが何故、干戈を交え終えた後になって使者を寄越したのか。

「大いに怪しむべきだ、とは思わんかね」
「……そこまで見抜いておられるにも拘らず、降伏を待つ訳ですか」
「あぁ。心変わりするかも知れないだろ?
 だからこそ、真剣に降伏条件に付いては考えたつもりだ。
 あれを呑むなら、俺に否やは無い」
「はあ……」
「まぁ、あちらの出方待ちさ。
 どうなるかは、袁紹次第だろう」

 そう言った教経に、華琳がニヤリと嗤って口を開いた。

「それで、本当の処は?」
「どういう意味だ?」
「降伏して欲しいのではないかしら、貴方は」
「……まぁ、その方が楽が出来るからな」
「そう。貴方がそう言うのなら、そう云う事にしておいてあげるわ」

 一瞬だけ柔らかく笑った華琳を見て、教経は憮然とした表情を浮かべた。
 恐らく、華琳は自分が考えていることなど、御見通しなのだろう。
 それが面白くなかった。
 まあ、面白くないと言っても、見通されていることに対する恥ずかしさが、そう云う感情として発露しているに過ぎないのであるが。

「それが貴方の良いところでもあるのでしょうし、そう云った甘さがあればこそ、私を助けに来てくれたんでしょうしね?」

 本当に仕方がない人ね、と云った風情で、華琳が教経の方に頭を倒してくる。

───仕方がないだろうに。

 寄りかかって来た華琳の頭を軽く撫でながら、教経は思う。

───人死になんて、少ないに越したことはないのだから。